1月31日

 一八世紀の英国において自らの財力をもって多くの伝道者たちを支援し、その働きに献身的に協力したのが、セリナ・ハンティンドン伯爵夫人でありました。
 彼女は一七〇七年英国貴族の豊かな家庭に生まれ、育ちましたが、決して誇ることなく、心優しい娘として成長しました。一七二八年セオフィラス伯爵と結婚し、上流社会で貴婦人でもありました。
 けれども内に秘めた暖かい心と宗教的献身を失うことなく、いとこのマーガレットの純粋な福音的信仰に感化され、霊的な深みと信仰の喜びを体験していきました。さらにロンドンでのリバイバル運動の働きを始めていたウェスレー兄弟に、また特にチャールズ・ウェスレー夫人と彼女は親しい信仰の交わりを持ったのでした。けれどもセリナにも突然悲しみが訪れました。それは愛する二人の息子とやがて夫にも先立たれてしまう嘆きでありました。
 数年後彼女は新たな思いでキリスト教の活動にたずさわり、やがてその影響、感化は周りの人々に及んでいきました。彼女はとにかくその富と財を惜しみなくささげ、教会の牧師やリバイバル伝道者を支援してまいりました。その他にも英国各地に六〇余りの教会を建設していったのです。日本のプロテスタント教会からもこのような実業家、篤志家が輩出されんことを祈りたいと思います。

1月30日

 「絶えず祈りなさい。」(第一テサロ二ケ五・一七)
 アマレクが来てレフィディムでイスラエル軍のヨシュアが戦った時、アマレクに勝つためにモーセは立ち上がって神に祈りました。モーセの祈りの手が重くなったのでアロンとフルは彼の両手を支えました。その答えがアマレクへの輝かしい勝利でした(出エジプト一七・八~一三)。
 また火が天より下り、民が「主こそ神です」(第一列王記一八・三九)と確信したのは、エリヤが神と交わった時でした。
 さらにヨナにとって、ニネベの人に悔い改めを宣べ伝える準備の時となったのは、深い海の底の大きな魚の腹の中で彼が祈った時でした(ヨナニ・一~一〇)。
 ダニエルが獅子の穴の中で救われたのは、彼はひとり神との時をもっていたからでした(ダニエル六・一〇)。
 ペンテコステの日に、弟子たちが三千人に神の国を宣べ伝えることができるように備えたのは、あの屋上の部屋での祈りによる待ち望みでした(使徒の働き一・一三~一四)。
 パウロをして総督ペリクスを震え上がらせ(使徒二四・二五)、アグリッパ王をして「あなたは、わずかなことばで、私をキリスト者にしようとしている」(同二六・二八)と言わせたのは、彼が一人、神と過ごした祈りの時でした。
 スポルジョンをパウロ以後、最大の説教者にしたのも、また、今日ビリー・グラハム博士を大衆伝道者として最も用いられたのも、彼らが密室で神とじっくりと交わっておられたからだといえるでしょう。

1月29日

 ≪忍耐と希望をもって≫
 私達は神のみ前で王であり、祭司です。しかし、同時に畑の収穫を刈り入れる農夫でもあります。私達は奪い去られた王国を取り戻すための戦いに参加している王であり、収穫を待ち望んで働く農夫です。農夫に必要なのは忍耐です。「あなたがたが神のみこころを行って、約束のものを手に入れるために必要なのは忍耐です。」(ヘブル一〇・三六)
 日本伝道には特に耐え忍ぶ強健な意志力が要求されます。必ずや主なる神は、私ども祖国にも驚くようなクリスチャンの数を増やして、私達の心を喜ばせて下さる時が到来するであろうことを信じたいと思います。
 けれどもその時まで農夫は、日照りや害虫の被害に会ったりします。そのように、様々な問題で悩んだり、苦しんだりすることもあります。でも改めて自分は王様だ、また祭司として執り成してゆく者、魂の刈り取りのため働く農夫の役目を担っている光り輝くクリスチャンである事を再度自覚しながら、忍耐と希望をもって前進してゆきたいものです。
 日本の伝道はある意味で大変困難で一朝一夕に成功するような生易しいものでないことがわかります。そのために必要なものは「信仰と忍耐と希望」です。急がず休まずひたすら主を信じ忍耐と希望をもって、この光栄ある業に突き進みたいと思います。

1月28日

 人間は自分を愛してくれる人と個人的な特別な時間を過ごす必要があります。愛は相手に関心を持ち、相手のために時間を使い、個人的な関係を持とうとします。親子、夫婦、兄弟、嫁と姑、あるいは友人、知人、師弟、上司と部下、恋人同士など様々な人間関係が存在します。
 しかし人は誰かと話したい、交際したい、心を割って話したい、すなわち他の事に気をとられないでじっくりと交わりたいなどの欲求がある訳です。所が家に帰って夫はホッとしてくつろぎの姿勢を取りますと、妻がやってきて一日にあったことのあれこれを事細かに話そうとします。しかし夫はうわの空で聞いていたとしたらどうなるでしょう。妻は大変失望します。妻の必要は夫からの答えや助言を聞くことよりも、ただ聞いてもらえれば、もちろんまじめな態度でですが、それで満足することが多い訳です。即ち、自分のその時の感情気分をそのまま受け止めてくれる人があるだけで女性はホッとします。
 そうではないでしょうか。主イエスは私たちの言いたいだけの言葉をどれだけ述べたとしてもじっと我慢して聞いてくださる方です。多くの時間を割いて下さいます。私たちも伝道する以前に、まず相手方の言い分を充分聞くための時間と場を持つチャシスを作ろうではありませんか。伝道する相手の場にこちらがまず立つことに配慮していきたいと思います。「聞くことは愛することです」と、或る本で読みました。

1月27日

 創造主なる神に対してイエスの御名で祈ることは、クリスチャンにとって当り前のことですが、しかしこの祈りが本当に一つの事柄にこだわって飽くことなく、ねばり強くしつつこく、どこ迄も失望することなく、気をおとさずに、また意気消沈することもなく、祈り続けられているかというと少々疑わしくなります。
 諸兄姉は家族、親戚、知人、友人のために的を絞って祈り続けておられるでしょうか。祈っても聞かれないとあきらめて途中で止めてしまいます。しかし、そこでも止めないで、あきらめないでうむことなく、あくことなく祈り続けよとイエスは一人のやもめの例を出して励まして下さいます(ルカ一八・一以下)。ここでは祈りを簡単にほうり出すなということです。いつでも、どこでもあきらめないで祈り続けなさい、といわれます。神は愛であり、義なる神です。悪い不義なる裁判官でも日夜叫び求めれば聞いたとすれば、真の神が聞いてくださらないはずはありません。
 ですから聞いてくださるという信仰を持ち続けましょう。「しかし、人の子が来たとき、はたして地上に信仰が見られるでしょうか」(同上一八・八)とも問うておられます。
 家族の救いのため、教会内各部活動のため、広くは各地域のリバイバルのためなどさらに失望しないで祈り続けましょう。祈りと信仰は不可分離の関係にあります。

1月26日

 過労死(カローシ)。この単語は外国にまで響いている言葉です。働きすぎて死んでしまう人が少なくないのです。もちろん私たちは怠けていてはなりません。働かざる者食うべからずです(第二テサロニケ三・一〇)。労働に耐える知力、体力があれば当然働くのが普通です。しかし過度に休息の時間も少なく過労に陥って、病気を得、遂に死んでしまっては何にもなりません。
 とにかく適度の労働と思っていても、様々な要因があって、やはり過労死に至る場合があります。注意したいと思います。キリスト様は「なくなる食物のためではなく、いつまでも保ち、永遠のいのちに至る食物のために働きなさい」と言われました(ヨハネ六・二七)。
 私たちは最大の価値を、単に労働だけではなくイエスがおっしゃる「永遠のいのち」に置こうではありませんか。この不滅のキリストのいのちをわが所有とするために、全てを賭けてゆくのです。人の子イエス・キリストが与えて下さるこの永遠のみ国に至る救いを獲得し続けるために、この方をまず信じること(同上六・二九、四〇、四七)。「食べる=信じる」こと(同上六・五一、五四、五八)。すなわち天から下ってきた生けるパンを食べる事はイエスを信じることだと言われますからまず十字架と復活のイエスを信じて懸命に働きましょう。世相がどのようにめまぐるしく変化し続けようとも、キリスト者は迷わずひたすら主イエスをめざして進みゆきます。ご聖霊に満たされて!

1月25日

 キリスト教の魅力は一体何でしょう。数多くあるでしょうが何といっても、信じ頼り、お願いしていくお相手の神様が生きておられるということです。人間が自分の手で作った非生命的な人形のような、芸術作品のような死んだ神様ではない。打てばひびくように答えて下さる主「イエス」の名前を持つ神様は、墓から三日目に復活して、今なお生き続けていて下さるお方なのです。全世界広しと言えどこのように自分の力でよみがえって皆の見ている前で天にお帰りになった方はどこにもいません。
 またこうしたことはキリスト様を外にして誰もできないのです。ですから、イエス様は自ら生前自己紹介をするのに「わたしは、よみがえりです。いのちです。わたしを信じる者は、死んでも生きるのです」(ヨハネ一一・二五)といわれました。けれども何のための復活かと言えば、結局、私たち罪人に永遠の生命を与えるためなのです。だれもが死んでも生命がありますようにと願うでしょう。しかしイエスだけが、天国に通じる永遠の生命を付与してくださるのです。
 私たち一人残らず全人類は罪を犯し、神の栄光を受けられないのです。この者たちに永遠のいのちを与えようとの目的をもってよみがえられたキリスト。この方にどこまでもお従いし、やがて神の御国に凱旋していきたいものです。

1月24日

 「荒野」口語訳、「へんぴな所」新改訳(マルコ八・四)という言葉が、少なからず聖書に出てきますが、(申命記一・一九、二・七、八・一五、詩篇一〇七・四~五)今回の聖地旅行に参加し(一九九三年三月)、その状況、風景に接して、その単語のもつ意味がどんなに厳しいものかを身をもって体験させられました。
 特にエジプトのカイロ市からイスラエルに向かって、一路百キロのスピードで涯しなく続く一本の道路を進んだのですが、行けども行けども草木などほとんど見当たりません。左右両側の景色と言えば、川原、砂地、砂利、赤茶けた土など様々な殺風景な地質が目に飛び込んでくるだけです。緑豊かな日本では到底考えられない光景です。エジプト市内をガイド下さった方は、日本国関西の甲南大学を卒業されたのですが、来日されてまず驚いたことは、樹木の多さとその緑が豊かということだったそうです。
 そうした荒野の光景が広大なシナイ半島全体だから驚きです。昔、同じ所を旅したイスラエルの大群衆を養われた神は真に人間の知恵では考えられない大いなる神であります。不毛な地にあってただ頼るは神が送り給う天から降ってくるマナだけでした(出エジプト一六・三一~三五、民数記一一・四~九)。つぶやきのイスラエルの民を四十年間もマナで養われた神は、また私たちの神でもあります。

1月23日

 キリスト者は日曜礼拝が終るとこの世に派遣されていきます。そして生活の場でキリストを伝え、キリストを証ししていきます。けれどもその宣教、伝道のエネルギーはどこで養われ補給されていくのでありましょうか。やはり「礼拝会」の中であります。その礼拝が参加した者にとって「我ここに居るは良し」といった程のいわゆる満足、充足したものであれば、よし出ていって主の為にやるぞと言った気持ちになるでありましょう。しかしその反対で何の力も、喜びも、感激、感動も覚えないマンネリ化した中での礼拝であれば、ロケットを噴射、発射させるあのエネルギーのようなものは失われているのです。
 ではどのようにして私たちの霊性は養われ、満足し、喜び、明日への力強いダイナミックなものとなっていくのかを問うてみますと、思うにペテロ、ヤコブ、ヨハネ達が祈る為に山へ登った時、栄光のイエスに出会った時の感激が、「先生。私たちがここにいることは、すばらしいことです」(マタイ一七・四)と言わしめた、 あのイエスの臨在経験ではなかろうかと思います。
 御聖霊の力に満たされ押し出されていく前に、まず礼拝の場での主イエスがここに、また我がうちに在すといった「主の臨在体験」に満たして頂こうではありませんか。そのためにしつかりと御言葉を傾聴し、祈らねばなりません。

1月22日

 先日信号待ちをしていますと、『犬を探しています。発見者には一〇万円を差し上げます』という張り紙が目につきました。しかし、その犬は耳が聞こえず、老犬だというのです。でも飼い主にとってそれは本当に愛すべき大事な犬だったのでしょう。だからこそそのような大金をかけてでも何とか探し出してもう一度自分の手元で可愛いがりたいと願っているのです。そのように天の父なる神様も、今日も今日とてキリスト様を信じていない迷える小羊のような人間一人びとりに深い愛着をもって、探し求めておられる訳です。
 その事情をたとえで説明したものに新約聖書ルカ福音書一五章があります。きよい神様から見れば汚れた罪人の人間などは、前記の老犬のように一見無価値にみえますが、しかし、無価値どころが最愛の対象として私たち各自を一〇万円どころか、計算、換算もできない程のイエス・キリストのいのちを犠牲にして、愛し探し求めておられるのです。さあ、改めて聖書の神様に帰って神の子となろうではありませんか。
 世俗の世界はいつの時代もどれだけ、何が出来るかでその人の価値が決められてしまいます。ですからハンディキャップを負っていて機能面で十分でない方などは、役立たない者として冷視されがちですが、主は差別することなくむしろこよなく愛して主にあって貴い価値あるものとしてくださるのです。ハレルヤ。「主はこう仰せられる…わたしの目には、あなたは高価で尊い。」(イザヤ四三・一~四)

1月21日

 ヨハネ一七・一における主イエスにとって「時が来ました」とは、弟子たちと別れる時すなわち十字架につく時が到来したことを表しています。換言すれば、地上のイエスと弟子たちとが直接的に親しく交わることのできる時は終って、今や「見ずに信じる」(同二〇・二九)信仰の時に移っていく時がきたことを云われているのです。これは同時に試みの時(同一二・二七)であり、またイエスを「ひとり残す時」(同一六・三二)独りぽっちにする時でもありました。それよりも何よりも「栄光を受けるその時」(同一二・二三)とは、上記のように十字架上で死すべき厳粛な時がやってきたというのです。さらには十字架による天への帰還の時であり、子なるイエスが栄光(ドクサ)を現すと同時に、父なる神の栄光も現される時でもありました(同一七・四)。
 栄光とは、もともと「重さ」を意味し、さらに実質、富、名誉、名声を意味していました(詩篇四九・一六、イザヤ六六・一一以下)。しかし一番重要な用法は、神の臨在の目に見える光輝という意味です(出エジプト一六・一〇、第二コリント三・一八、四・六)。主イエスの十字架上の死の様態だけを見て敗北だと断定する未信者のようであってはなりません。むしろ十字架は神の臨在の栄光を見る時だったのです。

1月20日

 「種を蒔く人が種蒔きに出かけた。蒔いているとき、道ばたに落ちた種があった。すると鳥が来て食べてしまった。また、別の種が土の薄い岩地に落ちた。土が深くなかったので、すぐに芽を出した。しかし、日が上ると、焼けて、根がないために枯れてしまった。また、別の種はいばらの中に落ちたが、いばらが伸びて、ふさいでしまった。別の種は良い地に落ちて、あるものは百倍、あるものは六十倍、あるものは三十倍の実を結んだ。」(マタイ一三・三~八)
 キリストは高尚深遠な奥義を誰にも分かるように、たとえをもって語られました。けれども聞く耳をもたない者には、或いは偏見に目をふさがれた者には、どのような真理もすべて隠されていて、彼らには猫に小判、豚に真珠といった所で、何の価値も値打もないのであります。
 さて、道のかたわらに落ちた種とは、頑固、冷淡、無頓着、無関心、鈍感な心のもち主で、彼らはみことばの真理を悟れないのです。第二の土の薄い岩地におちた種とは、迫害や困難が起こると信仰の芽を出さない人、第三の茨の中に蒔かれた種とは、世の思い煩いや世の誘惑があるとそちらに心をひかれて、これまたダメになってしまう人。所が良い地に蒔かれた種とは、み言葉を聞いて悟る人で百倍、六〇倍、三〇倍の実を結ぶ人だというのであります。みことばの種が育つにふさわしい謙遜な心の持ち主となりましょう。

1月19日

 キリスト教信仰には、この世の中に対する伝道の希望があります。世の中を眺めれば混沌の中に崩れてしまうほかはない自滅的な狂気が一杯溢れています。これを救う唯一の方法は、全国民にクリスチャン魂を与える以外にありません。生けるキリストの救いがなくては世界は屍にすぎず、人々はいよいよ荒んで野獣になり下ります。しかし、人々が単純にキリストを我が心に受けいれ、信じるならばその瞬間から聖い心と変えられ、悪鹿は追い出され、希望が満ちてきます。
 キリスト教に絶望はありません。たとえヨブのように絶望的になってもその中から復活信仰をもって、なお神を求め叫ぶ力が不思議にわき出てくるのです(ヨブ一三・一五~一六、一九・二五~二七)。主なる神が私たちに与えて下さったのは現状をそのまま受け入れてしまう敗北主義ではありません。むしろ変革、変容させてゆくキリストにある希望と喜びであります。みなさん、汚れとサタン的思想に満ちたこの世に心と目を向けるのでなく、(そこには悲観と失望と恐れがあるのみ)むしろ希望の源である十字架と復活のキリストに目を注いでいこうではありませんか。キリスト信仰でこの世に勝利してまいりましょう。新約では、「望み」は信仰、愛と並べて重視されているのです(第一コリント一三・一三、コロサイ一・五)。

1月18日

 「すると彼らはイエスに言った。『私たちは、神のわざを行うために、何をすべきでしょうか。』イエスは答えて言われた。『あなたがたが、神が遣わした者を信じること、それが神のわざです。』」(ヨハネ六・二八~二九)信仰には二種類あります。即ち、信仰の結果を見ようとするものと、信仰と信仰そのものをもって満足する信仰です。そして多くの人の信仰が前者の信仰であることが多いように思います。それは、信仰の結果を見ようとしてあせる(焦心)結果が、見られないといって失望する信仰です。
 しかし後者の信仰は結果に目を注がないのです。信仰そのものの価値を認め、それのみを以て満足します。問題はわたしにキリストを信ずる信仰ありや否やです。そして信じていること、主なる神がこれを賜わったことを知って、その他を求めないのです。ただキリストを、天国を、永遠のいのちを信ずる信仰そのものに無上の価値と喜びを発見して満足する信仰です。
 信ずる、信ずる、信ずる、ただそれだけです。結果いかんによって信仰に動揺を来すような弱い信仰ではありません。ただ主を信ずる。これが「わざ」「行い」に通じるものです。信これ業であります。信のほかに業を求めない純粋な信仰をもち続けていきたいものです。創造主がイエス・キリストにおいて働いておられる事を信じるのです。

1月17日

 幸福と勝利に満ちた生活を送る秘訣は、すべてのことに感謝することです(第一テサロニケ五・一八)。まずあれこれ不平をいう前に、主なる神様に与えられている全ての恵みを数え上げようではありませんか。それらをノートに書き上げてみましょう。どんな小さなことでも思い出せる限りの全てです。田原米子姉はたった指が三本で何ができますかという不満から、まだ指が三本も残っているという感謝に変えられていったことを証しされていますが、私たちもそのようでありたいと思います。
 救いの歴史は、神が溢れるほどの恵み、賜物、祝福を無条件そして無代価で人間に与えようという事実を伝えています。聖書の神様との出会いは、特に真実の救いを発見し、このお方を信じ受け入れて感謝する人間へと一変させます。クリスチャンとは、どのような肉体に障害を背負っている前記の田原さんのような方と言え、またいじめにあって苦しんでいようとも讃美できる人間のことを言います(使徒一六・二五~二六)。さあ、渋面をしていないでこれまでに、主が良くしてくださったことを何一つ忘れず、喜んで感謝して、主に喜ばれようではありませんか。いま自分に与えられている物を感謝しましょう。
 何よりもわたしたちはクリスチャンとしてこの悪の世から救われ、選びだされ神の子としての祝福を受けていることを、心より感謝したいと思います。

1月16日

 「あなたがたは心を騒がしてはなりません。神を信じ、またわたしを信じなさい。」(ヨハネ一四・一)
 私たち人間はどんなに偉そうな事を言っていても、いざとなれば慌てふためいてしまう弱さが隠れています。マルコ四・三六以下を読みますと、突然激しい突風が起こり、舟は波をかぶって一杯になり、舟は沈みそうになりました。その時、弟子たちは死にそうです、助けて下さいと、大声で寝ているイエス様を起こそうとしました。なんとキリストはそのような大嵐の中でも泰然自若眠っていることが出来るお方でした。所がイエスは立ち上って、驚いたことに大自然に向かって「黙れ、静まれ」と叱りつけられますと、風は止み、大凪(おおなぎ)になったという奇跡が記されています。このような凄い力をもっておられる、生ける主イエス・キリストに守られていることを固く信じて、この方に人生の方向蛇をゆだねていきましょう。イエスは言われます。「汝ら心を騒がせるな。神を信じ、また我を信ぜよ」(ヨハネ一四・一、文語訳)と。
 さらに、「わたしは、あなたがたに平安を残します。わたしは、あなたがたにわたしの平安を与えます。わたしがあなたがたに与えるのは、世が与えるのとは違います。あなたがたは心を騒がしてはなりません。恐れてはなりません」(ヨハネ一四・二七)と。神を信じれば矢でも鉄砲でも恐れることなしであります。

1月15日

 最近多くの人々が毎日ディボーションすなわち静思の時を持ち、自ら聖書を学ぶことによって、私たちの救い主イエス・キリストに対します。愛と知識において成長していくのを見るのは、牧師の私にとって大きな幸せです。ディボーションと個人的な聖書勉強がどのように違うのかと聞く人が有るかもしれません。確かにこの二つの間には共通の部分が多いのも事実です。両方とも聖書の勉強と祈りを含んでいるからです。しかし、簡単に申しますと、ディボーションとは日々における神様との交わりの時間を意味し、主なる神様と出会う時間です。
 個人的な聖書勉強とは、特別に聖書の研究を意味していると思います。ディボーションとは聖書のみことばを通して神様が語られる声に耳を傾け、祈りの中で神様に話すことです。毎日、朝と夕方に祈りの時間を持つことで十分だと思うかもしれませんが、詩篇八一・一三には主なる神様は御自身の民が御自身に耳を傾けることを願っておられると、記されています。神のみ言葉に対して黙想なしに、自分の祈りばかり一方的に捧げるというのは、神のみ心を知ることより自分の考えを押し付けるものであり、そういう場合主は私たちの祈りに答えられません。「何事でも神のみこころにかなう願いをするなら、神はその願いを聞いてくださるということ」(第一ヨハネ五・一四)です。注意したいものです。

1月14日

 「人はパンだけで生きるのではなく、神の口から出る一つ一つのことばによる」(申命記八・三。マタイ四・四)。今年も神のみ言葉、聖書を毎日読み続け、それをよく味わって感想をノートに書き続ける事を実行したいものです。
 詩篇一一九・一~二には、幸いな人とは誰かについてふれています。即ち、全き道をゆく人々、また、主のみおしえによって歩む人々、主のさとしを守る人々です。さらに、心を尽くして主を尋ね求める人々でもあります。そういう人々は、不正を行わず、自らの道を堅くし、恥じることなく、正直な心で神に感謝できるのです。テレビ、新聞を見る前に「聖書」を読みましょう。御言葉を味わいましょう。感想を日記に書き残したらいかがでしょう。
 主の律法、戒めは、神が命じられた人としての生き方が記されています。単に世の中の常識だけで生きるのでなく、永遠不滅にして生命が流れている神の御言葉に全てを賭けて生活をし、むしろ世人をリードするキリスト者でありたいものです。神のことばは、イエス・キリストのことば、使信、福音を意味します。神はイエス・キリストを通してこの世に対する支配と、人類に対する救済の意思を、具体的なことばにおいてお示しになりました。使徒たちはこの福音を大胆に宣べ伝えていったのです。

1月13日

 「我々の心はあなた(神)の中に憩うまでは、安らぎを得ない。」アウグスティヌス
 「幸福は我々の外にもないし、我々の内にもない。それは神のうちにある。我々の内にしてしかも外にもある。」パスカル
 「人間は誰でも生活の楽しみを得たいという自然の欲求をもっている。彼らからそれを強いて奪いとるならば、きっと彼らは…特に若い時代には…精神的に損われてしまう。だから適当な時期に彼らを正しい人生の楽しみに導いてやることが大切である。正しい楽しみとは、神との互いに愛に満ちた交わりまた凡ての被造物への友愛である。これは正しい道にある人の心を必ず充分満足させるものである。そういう人には、その他のどんな生活の楽しみも物足りない。真の楽しみを持たないなら、俗に退屈といっている不快感が入りこんでくる。」カール・ヒルティ
 わたしは名古屋市西区在住のおり、満二〇歳でキリスト教に入信いたしました。敗戦直後のまだテレビのない当時わたしは映画館にいって、一日のうちに三本も立て続けに映画をみるほどの映画狂でした。映画館から出てきた時の興奮した気分はいまでも忘れません。でもその一種の幸せ感は、現実の生活にはいったときには雨散霧消しているのです。長続きしないのです。でもキリストにある救いの幸福感はどんな時にも私を心から満足させる事を体験しています。

1月12日

 今日私たちが生きている時代は、非常に厳しい一面をもつ時代であります。或る哲学者は、今日の精神的状況を「夜の時代」「無思考の時代」又、「意味喪失の時代」とも定義づけます。これらは近代に入っての合理主義、人間中心主義、自己中心主義の終末的現象とも言えます。こうした時代はまた虚無主義(ニヒリズム)が横行する時代でもあります。
 即ち、一個人の力ではいかんともしがたいサタン的力の前に、人はともすると投げやり的な気分になりかねません。何をどう考えても無駄だ、どうもなりやしないのさ、自分一 人とにかく何とか生きて行ければそれでいいのさ。人生の意味など考えても仕方がないといった、言わば捨てゼリフを聞く時代でもあります。
 ここにキリスト教の福音の出る幕があります。イエス・キリストの福音こそ人々に真実の明日に生きる希望を与え、本来の人間の生き方を正しく教え、導く光であり、かつ沈んでいる者の浮動力でもあると確信いたします。心に闇を覚えねばならない時代にこそ益々生けるキリストにふれて二ヒリズムを克服し、むしろ神のみ栄えのために積極的に前進してゆきたいものです。キリストは自ら死人の中からの復活によって人間に生きる最大希望を与え、一大変化と転換を遂行なさったのです。「もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きておられるのです。」(ガラテヤ二・二〇)

1月11日

 ローマ書八・一四節以下を見ますと神のみ霊によって導かれ、救われた者は皆神の子であって、み霊によって天の神様を「アバ、父」と呼ぶことができます。そしてキリストと共に神のみ国の相続人でもあります。何と言う特権を与えられていることでしようか。感謝したいものです。こうした身分、立場、すばらしさの故にたとい一八節のように、「今の時のいろいろの苦しみ」があっても勝利していくことができるのです。
 かつてナチ・ヒトラーの政権下にあって弾圧、拘留され殉教した一人の牧師にパウル・シュナイダー師がおります。彼は一九三七年一月のある葬式の告別の辞がもとで、ワイマール市(ベルリンの南東)の強制収容所に拘留されることになりました。しかし彼はこの収容所の中で他の収容者に対し、いつもキリスト教的希望と慰めと励ましの言葉とを語りつづけていったのです。収容所内にはいつもナチスの親衛隊旗がかかげられ、その側を通る者は脱帽の礼をとることになっていました。しかしP・シュナイダーだけはこれを偶像礼拝的敬礼として拒んだのです。その結果、光の透らない石炭部屋に監禁され、両腕を背中に廻してしばりつけられ、身体を窓の十字の桟にぶらさげられて半死半生の拷問を受けました。けれども彼は益々主なる神に身をゆだね、祈ることによって聖書のことばを語ることを止めませんでした。

1月10日

 「どんなときにも御霊によって祈りなさい。」(エペソ六・一八)祈りは呼吸を意味します。息をするのと同じです。人は呼吸しなければ生きてゆけないのと同様に、キリスト者は主であり創造者である神の前に、絶えず祈り、願い、叫び、訴え、或いは感謝して生きているものです。祈らなければクリスチャン生活は持続できないのです。
 大変残念なことですが時折、せっかく洗礼の恵みにあずかりながら、その信仰生活が継続されない場合が生じますが、原因は色々あるとしても、根本原因は、やはり心からの祈りの欠如に在ることを認めなければなりません。
 どんな時にも絶えず主の約束の言葉を握って、信じて祈りつつ進みゆくならその行く手を遮るものは何もないと確信いたします。旧約聖書のダニエルは一日三度も、いつも実行していたように祈って勝利して参りました(ダニエル六章)。祈った故に恐ろしい獅子の穴の中からも助け出されました。祈るところから全ては始まり、祈ってあらゆることは成就してゆくのです。
 モーセはヨシュアに言いました。「出て行ってアマレクと戦いなさい。あす私は神の杖を手に持って、丘の頂に立ちます。」(出エジプト一七・九)そしてモーセは手を上げて日が沈むまで祈りました。遂にヨシュアは敵アマレクを打ち破りました(同一七・一三)。

1月9日

 昔の諺に「すまじきものは宮仕え」という言葉があります。即ち、宮中に職をもつことは気苦労が多く、俗世間から隔離されて自由を束縛されるので奉公したくない、という意です。さてクリスチャンたちが、主なる神様とその体なる教会に仕える事とは一体どのような事でありましょうか。
 諸兄姉は皆それぞれ何らかの形で実はすでに主に仕えておられるのです。
 例えば教会では日曜学校、教会学校の教師として、ピアニストなどその他の楽器奏楽者として、礼拝その他の諸集会の司会者、奨励者として、週報、月報などのパソコン打ち、部外者へのトラクト配布、会堂清掃、送迎自動車運転、料理を作る、配膳・後片付け、講壇の花を整える、お手洗いの掃除、教会堂などの座布団・カーテンの整備、書・文字を書く人、ご老人・障がい者の方のお世話、新来会者への個人伝道などなどですが、それ以上に忘れてはならない奉仕は礼拝を守る、諸集会に参加して主を崇めるという仕え方であります。そこには未信者の人々が想像するような束縛・不自由さ・気苦労などはなく、むしろ自由・喜び・感謝・解放感が存在しているのです。
 「兄弟たち。あなたがたは、自由を与えられるために召されたのです。ただ、その自由を肉の働く機会としないで、愛をもって互いに仕えなさい。」(ガラテヤ五・一三)

1月8日

 「日の下には新しいものは一つもない」と伝道者の書一章九節にあります。この告白は、人生は終わりのない無意味な繰り返しに過ぎず、人の苦労は何一つとして永久に残るものは無く、大地だけがいつまでも変わらない。そして自然現象が単調な意味のない繰り返しにしか過ぎないのと同じように、人生も又目的のない退屈な代物にしかすぎない。自然だけでなく、人間界で行われていることも、新発明、新発見なども含めて、すぐに古くなり虚しい人生だと言いきる旧約時代の著者の発言にも一理あります。
 ワルター・ツィメリー著「伝道の書」(ATD注解書)には、口も目も耳も全体を把握できないので、人間の新しいものへ の欲望は絶えず新しいものに向かう。けれども、この人の経験から、新しいものは必ず古くなるということに結びつく、とあります。
 わたしたちは、主イエス・キリストによって虚しい人生に意味が与えられました。神の前に罪人である私たちは新生・新創造され、新しい霊の息吹が与えられて霊的に復活できました。こうしてイエスによって新しい時代、恵みの時代が到来し、新しい生命に生き、新しい歩みが出来ることを心より感謝したいと思います。「外なる人は衰えても、内なる人は日々新たにされています。」(第二コリント四・一六)ハレルヤ。さあ元気をだして日々聖霊によって主を待ち望み「新しく力を得」(イザヤ四〇・三一)て進みましょう。

1月7日

 わたし共の所属する日本アッセンブリーズ・オブ・ゴッド教団は今さら言うまでもなく、ペンテコステ派を標榜します。すなわち聖霊を強調する聖霊教団と言ってもいい訳です。もちろん神観においては三位一体の聖書の神を信じ、救済論においては十字架と復活の主イエスの前に悔い改め、信じることによって罪から贖われ、サタンの支配より解放されて神の子とされ、 終末の世界では永遠のいのちの付与と神のみ国の相続を確信している点では、他教団と何ら違わない教理を持っているのです。
 けれども強調点は、異言の伴う聖霊のバプテスマを受けよう、このバプテスマの力で伝道、宣教し主の弟子となろうという所にあります。単に人間の智恵、技巧(テクニック)によるのではなく、もちろんそれらは必要ですが、最優先、最重要視されるのは「聖霊の能力(パワー)」ということです。弟子化訓練もセルによる教会形成も教会成長を目指しての諸方法論も全て、まずみ霊(たま)の助けと導き、お働きを願わねぱなりません。まさに「権勢によらず、能力によらず、わが霊によるなり」(ゼカリヤ四・六、文語訳)です。今年もご聖霊のお力に押し出されて信仰生活、クリスチャン生活のあらゆる行動に拍車をかけて参りましょう。特に、キリストの愛に根ざした接触伝道、証し伝道に邁進して参りましょう。教団標語のように「力を受けてさらに前進」であります。

1月6日

 「初めに、神が天と地を創造した。」(創世記一・一)
 日本語では創世記と訳されていますが、その英語名のGenesis(ジェネシス)の意味は「起源」ということです。創世記は天体、地球とその上にある生命など万物の起源を説明している信頼できる書物です。万物の起源は様々な人々によって色々と説明されてきました。その中に進化論を含む自然発生説があります。何らかの形で存在していた永久不変の物質やエネルギーから始まって、他の物体が何らかの過程を経て、徐々に導きだされたと考えているのです。しかし聖書は、神が万物を創造したと断言するのです。地球、太陽、月、そして惑星やすべての天体は創世記にある通り、創造者によって存在するようにされたのです。地球には他の惑星とは違って大量の液体の水と表面を薄く覆っている酸素と窒素の混合気体があります。両者とも生命には不可欠なものですが、これらは他の惑星には決して発生しないものです。
 その他人間、動植物の機能、仕組みを考えると誠に創造者なる聖書の神は偉大な方、全能者といわねぱなりません。進化論ではなく、聖書の創造論にしっかり立った揺るぎなき正しい信仰を告白したいと思います。現在は特に進化論中心で教育されている状況の日本です。神による創造などと言う事は受け入れられない時代状況です。キリスト者として祈らねばなりません。

1月5日

 現代日本は約六〇年前の第二次世界大戦終了直後から比較すれば、その生活レベルは大いに向上しました。以前(一九九六年一二月)南米ペルーで発生した人質事件も結局は生活の貧困から生じたものでありました。現在色々不満はあるにしても最低の生活保障可能の日本は庶民にとっては有難い国家であります。まず創造主に感謝したいものです。
 けれども、いつの時代も変わりませんが、いまだに犯罪は無くなりません。衣食足りて礼節を知るとはありますが、果たしてそうでしょうか。学校内、企業内でのいじめの問題、中・高生にまで低年齢化しているセックスモラルの混乱、或いは不法、不潔、不道徳、ポルノ、同性愛など様々な情況は誠に創造主の御心を痛めています。
 衣・食・住の問題がまあまあ解決すれば人は良くなるのか、そうではありません。なぜなら人の心が変わっていないからです。ますます倫理、道徳は低下の一途をたどるばかりです。聖書が示す創造主、父なる神を信じない限り人の心は良くなり得ない、救われない、潔められないのです。清いまことの神の前の生活を持たないかぎり、人はいよいよ悪くなるばかりです。主イエスの血できよめられた、「全き信仰をもって、真心から神に近づこうではありませんか。」(ヘブル一〇・二二)

1月4日

 平和とは普通戦争の無い無事泰平の社会状態を指します。しかし新約聖書においてはマタイ一〇・三四、ルカ一四・三二、使徒二四・二、黙示録六・四などに限られ、他は旧約聖書のシャローム(平安)と同じ訳語でエイレーネ(平和)が用いられています。すなわちまず健康、無事を祈る日常の挨拶用語として扱われています。
 例えば主イエスが一二弟子派遣に際し、「その家に入るときには、平安を祈るあいさつをしなさい」(マタイ一〇・一二)とも言われています。また、イエス様は病人をいやした際に「娘よ…安心して帰りなさい」(マルコ五・三四)とも云われました。そしてヨハネ一四・二七にありますように、弟子達との最後の別れの時に「わたしは、あなたがたに平安を残します。わたしは、あなたがたにわたしの平安を与えます。わたしがあなたがたに与えるのは、世が与えるのとは違います。あなたがたは心を騒がしてはなりません。恐れてはなりません」とも仰せられました。
 けれどもこの平安は平和の神からイエス・キリストのあがないの血によって与えられるものであります(ローマ五・一、エペソ二・一四~一七)。ですからキリスト者はキリストの平和に充たされ(コロサイ三・一五)、平和を追い求め(第一ペテロ三・一一)「地の上に、平和が、御心にかなう人々にあるように」(ルカ二・一四)と祈らねばなりません。

1月3日

 エゼキエルは、「人の子よ。立ち上がれ。わたしがあなたに語るから」(エゼキエル二・一)という言葉を聞きました。それは、「わたしがあなたに語る言葉を民に伝えよ」という預言者としての召命の言葉でありました。主は彼をご自分の預言者として立てようとしておられました。預言者という役職は自分から握る職業ではありません。主から召され、遣わされて初めて預言者になるのです。旧約時代の預言者たちは皆そのような召命を受けていました。モーセはホレブ山の上で「今、行け。わたしはあなたをパロのもとに遣わそう」(出エジプト三・一〇)という言葉を聞きました。イザヤは神殿で同様の声を聞いています(イザヤ六・八)。エレミヤしかり。アモスしかりであります。
 主のみ言葉を人々に伝える人となる為には主の召命を受ける事が必要であります。けれども召命ということは、牧師、伝道師、宣教師だけにかかわる事のように思われますがそうではありません。罪から救われ主の所有とされたキリスト者は、主からこの世に遣わされていく預言者なのです。ですから、仕事において家庭生活において、学校生活においても主によって召され、そこに遣わされているという自覚が非常に大切です。今年も神のみ言葉を預かっている者として、この世に勇気をもって遣わされてゆきたいものです。そして神のご召命に立派に答えていく者となりましょう。

1月2日

 神が私たちに求められるものはただ一つです。イスラエル四十年の旅路をもってはっきりと語られていること、神が自分の民に求めたもうものは、ただ信仰だということです。
 だからイスラエルはこの旅路において信仰を試みられなければなりませんでした。それがこの四十年の旅路の意味です。私たちの生涯にあってもそうです。さまざまな道を、さまざまな出来事を通って、すなわち失望落胆の谷底に落ちたりして、時には大変な遠回りをして私たちは信仰を試みられていく場合があります。でも「信仰がなくては、神に喜ばれることはできません。」(ヘブル一一・六)それは信仰者である神の民にとっては、この世が自分の国ではない、自分の世ではないからです。イスラエルにとって彼らの真に受け継ぐべき国は、約束のカナンです。これは神の民が受け継ぐべき神の国の予表、ひな型です。私たちが真に受け継ぐべき世界は天であり、神の国であります。この世ではありません。
 この世は単なる旅路です。神の国を受け継ぐのに必要なただ一つのことは信仰です。神の国は神の世界ですから、神を信じる信仰なしにどうしてその国を受け継ぐことができましょう。だからこの地上の歩みは信仰を試されるための歩み、信仰を全うさせられるための歩みであります。イスラエルの四十年はその四十年でした。本年も創造主を固く信じて前進致しましょう。

1月1日

 「しかし、聖霊があなたがたの上に臨まれるとき、あなたがたは力を受けます。」(使徒一・八)
 一九〇一年元旦、神はアメリカ、カンザス州トペカのベテル聖書学校に聖霊を注がれました。これを契機として、二〇世紀における聖霊の大傾注が始まりました。一九〇六年ロサンゼルスのアズサ街で神はさらに聖霊の新しい注ぎを与えられました。このようにして数え切れない程の人々が聖霊のバプテスマにあずかったのです。すなわち異言の伴う聖霊の洗礼にあずかった人々は、一九一四年(大正三年)四月二日アーカンソー州ホットスプリングスに集まり総会を開催し、アッセンプリーズ・オブ・ゴッド教団を結成しました。
 日本には大正初期から何人かの宣教師が来日し、そしてこの聖霊の恵みを伝えた一人の中に、C・F・ジュルゲンセン師並びにそのご家族がおられました。その後、第二次世界大戦開戦に際し彼らは自国に引き揚げねばならなくなりましたが、太平洋戦争終了後、ふたたび来日し全国のペンテコステ信仰に立つ同信仰の方々と交わりを回復していきました。アッセンブリー教団は一九四七年(昭和二二年)長後教会(神奈川)で初の聖会を開き、次いで四九年(昭二四)三月、東京都北区滝野川の神召教会で教団創立総会を開き、信仰綱要、教規を定め、四月二九日同教会において創立記念集会が行われ、日本アッセンブリーズ・オブ・ゴッド教団はこうして戦後一三教会で発足、スタートしたのです。