12月31日

 全て初めのあるものには、終わりがあります。一日に終わりがあり、一週に終わりがあり、一ヵ月に終わりがあり、一年に終わりがあります。また仕事に終わりがあれば、休みにも終わりがあります。それだけではなく、友情に、また共に白髪を誓った夫婦にすら終わりがあります。
 このように、やがて私たちの互いの生命、この地上の生涯にも終わりがくることを忘れてはなりません。その時には、肉体を離れた私たちの霊は、直ちに神のみ前に立って、どのように地上の生活を送ってきたか、人生の総決算をしなければなりません。その事を考えてまごまごしないように、普段から心がけておくべきでしょう。
 マタイの福音書二五章にあるイエス・キリストのタラントのたとえ話を頭に置いて、私たちの人生にも大晦日のあることを覚え、その時、悪い怠惰な僕が、神なき永遠の暗黒の世界に追い出されたような、そんなことにならないように今のうちに、良心に反して犯した罪を悔い改め、イエス・キリストを救い主として受け入れ、いつ人生の大晦日がきても慌てることのないように、準備をしておきたいものです。では今日一日、有意義な日を送り、よい新年をお迎え下さい。
 「わがたましいよ。主をほめたたえよ。主の良くしてくださったことを何一つ忘れるな。主は、あなたのすべての咎を赦し…」(詩篇一〇三・二、三a)

12月30日

 フランシスコ・ザビエルといえば、スペインの宣教師で、日本にも渡来して布教した人です。彼は一五五三年一二月三日、ゴアで病死したのですが、その彼が亡くなる八ヶ月前のことです。ゴアからジョアン三世に書き送った手紙の中に彼はこう書いています。
 「終わりにあたり、陛下の御ためになお一つのお願いがございます。それは陛下が私たちの主なる神のみ前に、やがて行われねばなりません厳しい計算のことをお想い出しになり、今まで以上に、ご自分の良心について特別のご注意とご心配とを、おささげ下さらんことであります。何となれば、生きている間に、この心配を心がけておられますならば、臨終に当たり非常に安心して、神に信頼を持つことができるからでございます。しかしその反対に、生きている間に神に提出すべき計算を怠けていますと、臨終の時には慌しく、計算を初めてやるかのように、まごまご致し、どうしてよいのか分からなくなるものでございます。」
 言うまでもなく、ザビエルはやがて神のみ前に人生の総決算のあることをマタイの福音書二五章にあるイエス・キリストのタラントのたとえ話を頭において語ったのです。私たちの人生にも総決算の時が到来することを覚え、ゆっくりの中にも真剣に主の栄光のため日々を生きたいものです。

12月29日

 多くの日本人は自分たちで勝手に死んだ人間を神様に祭りあげて、拝んでいます。
 たとえば天神(てんじん)さまには菅原道真…受験・進学の神様、明神さまには平将門が、八幡さまには源義家が、権現さまと日光東照宮には徳川家康が、明治神宮には明治天皇が、東郷神社には東郷平八郎が、豊国神社には豊臣秀吉が、湊川神社には楠木正成が、伊勢神宮にはアマテラスオオミカミが、靖国神社・護国神社には戦死した人々が、それぞれ祭られています。そして死者たちは死ぬと仏様、神様に成ると信じられています。
 そして神道では墓石に「命…みこと」、仏教では「居士…こじ」と書いて、手を合わせ礼拝します。人間だけではなく、大木も岩石も太陽も月も星も拝みます。又、きつね、狸、わに、へび、牛、ぞうなど動物も神様にして拝みます。
 これらを全て偶像礼拝といって天地万物の創造者なる真実の神ヤーウェのもっとも嫌われるものです。人間が造った神々は人間以下です。こうしたものをこれからも神とはせず、創造主である聖書の神様だけを神として、来る新しい年も真実の礼拝をして参りましょう。
 「万軍の主はこう仰せられる。わたしは初めであり、わたしは終わりである。わたしのほかに神はない。」(イザヤ四四・六)
 「偶像を造る者はみな、むなしい。彼らの慕うものは何の役にも立たない。」(同四四・九)

12月28日

 マリヤとヨセフは幼子イエスを抱いてエルサレムに宮詣でをし、旧約に定められたとおりの犠牲をささげました。それは神殿では日ごとに見なれた風景で、別に珍しい出来ではありませんでした。誰もこの幼子が自分の罪のために十字架を負う救い主とは思いませんでした。
 けれどもここに敬虚な信仰深いシメオンという老人がいました(ルカニ・二五)。彼は長年イスラエルの救いを待望し、祈り続けてきた人物です。またもう一人のアンナとよぶ八四歳になる女預言者もいました(ルカ二・三六~三八)。彼女も全ての人々に赤子イエスのことを語ったのです。
 さてシメオンは幼子を腕に抱き神を賛美してこう歌いました。「主よ。今こそあなたは、あなたのしもべを、みことばどおり、安らかに去らせてくださいます。私の目があなたの御救いを見たからです。」(ルカ二・二九~三〇)
 何という大きな確信でしょう。あの幼子が他でもない、私自身の救い主として、今ここにおられるのだ、その方が万民の前に備えられた光だと彼は受けとめ、主を崇めているわけです。現代の私たちもイエス様を自分の心の中にしっかりと信仰をもって受けとめ、再び来たりたもうお方として、彼らのように待望していきたいと思います。シメオンの賛歌を読みましょう。

12月27日

 詩篇一四五篇から一五〇篇までが、詩篇最後の部分ですが、これら全部が賛美の歌です。ダビデの賛美の歌とありますから、彼が心から信仰をもって主を誉め称えていることがよくわかります。本年最終の感謝礼拝を迎えるに当って、なにはともあれまずは主なる神に、私達も「主は大いなる方。大いに賛美されるべき方。その偉大さを測り知ることができません」(詩篇一四五・三)と告白しつつ、主を誉め称えなければなりません。
 一年のうちには辛いことも苦しいことも、嫌なことも涙することもあったかも知れません。でも確かに憐れみに満ちた神は、私共を滅ぼさず現在このように生かしていて下さるのです。この神の慈しみ、この恵みを、まずは感謝しようではありませんか。
 ダビデが詩篇一四五篇の中で神の「みわざ」について数多く言及しています。四節では「代は代へと、あなたのみわざをほめ歌い、あなたの大能のわざを告げ知らせるでしょう」と。また六節では「人々はあなたの恐ろしいみわざの力を語り、私はあなたの偉大さを述べるでしょう」とも。激動の一年間どのように主は働かれたかを個人的に、国家的に、全世界的に思い起こしながら更に限りなく主を賛美したく存じます。主よ、今年のご加護を心より感謝いたします。

12月26日

 創造主とはどういうお方?
 ◆地球をはじめ人間、動植物、鉱物などすべてをお造りになった全能なる神(創世記一・一、出エジプト二〇・一一、エレミヤ三二・一七、ルカ一・三七、使徒一七・二四)
 ◆人間をご自身と同じかたちに創造された神(創世記一・二七)
 ◆目に見えない霊なる神(出エジプト三三・二〇、ヨハネ四・二四、第一テモテ一・一七)
 ◆天の父(マタイ六・一、四、六、八、九、一四、一五、一八、二六、三二)
 ◆罪とは無関係な聖なる神(イザヤ六・三、詩篇九九・九)
 ◆不変、いつまでも同じ神(ヘブル一三・八、ヤコブ一・一七)
 ◆ただ一人の神(申命記六・四、ヨハネ一七・三)
 ◆すべてを知ることのできる神=全知性(出エジプト三・七、詩篇一三九・一~六、マタイ一〇・二九~三〇、第一ヨハネ三・二〇)
 ◆正しい神(エズラ九・一五、詩篇一一九・一三七)
 ◆超越、無限の神(遠くにいる神、第一列王記八・二七)であると同時に、内在の神(近くにいる神、使徒一七・二七~二八)
 ◆時間、空間に左右されない永遠の神(詩篇九〇・二、イザヤ四〇・二八)
 ◆比べることのできない神(申命記三・二四、詩篇八六・八)
 ◆信頼できる神(詩篇九一・二)
 ◆祝福に満ちた主権者である神(第一テモテ六・一五)
 ◆遍在の神(どこにでも、また同時的に誰の所にでも存在する方)(詩篇一三九・七~一二)
 ◆御子イエスを世に遣わしてご自身の愛を示された神(ヨハネ三・一六、第一ヨハネ四・七~一九)

12月25日

 「恐れることはありません。今、私はこの民全体のためのすばらしい喜びを知らせに来たのです。きょうダビデの町で、あなたがたのために、救い主がお生まれになりました。この方こそ主キリストです。あなたがたは、布にくるまって飼葉おけに寝ておられるみどりごを見つけます。これが、あなたがたのためのしるしです。」(ルカ二・一〇~一二)
 クリスマスは私たちに恐れる事はない、心配することはない、泣く事はないと神がみ子イエスを通して語って下さる時です。それはまず羊飼い達に語られました。天使から突然語られたと言うだけではありません。荒野で羊を飼う者たちの生活の心配と不安に対しても言われています。現代に生きる私たちでもやはり明日への不安がないといったら嘘になります。まして二千年前の時代です、素朴に生きる貧しい彼らの脳裏を横切るのは生活の種の事だったに違いありません。けれどもみ子イエスを受入れる者には人生への恐れはない、と言うのです。
 一九九五年は阪神大震災、地下鉄サリン事件など怖い事が発生しました。勿論、それらの被害者の方々は想像に絶する恐怖を体験されたのです。今後も同じようにさまざまな事で人間は、恐れと対面せねばなりません。けれどもクリスマスのイエスは、何処までも恐れるはないと断言してくださるのです。感謝な事であります。

12月24日

 クリスマスとは、神の本質が愛の故にその子イエス・キリストをこの世に遣わされたことを記念し祝う日でもあります。換言すれば神が人となって、ベツレヘムの飼い葉桶で生まれた日です。
 ある人たちは、人が神になるというのは分かるが、神が人になるというのは納得できないと申します。確かに日本やローマやエジプトでは、偉人や豪傑、あるいは皇帝などが神としてまつられたり拝まれたりしました。人の中のすぐれたものが神に昇格する、即ち成り上がるのであって、神が人に迄降下したり成り下がったりすることは考えられません。
 しかし、万物の創造主である父なる神は愛だからこそ、かけがえのないご自分の独り子イエス・キリストを人間の世界まで降下させ、人間と同じ立場に身を置き、貧しさ、憂い、生きる悩みをつぶさに体験させ、地上生涯最後は十字架に架けられて私たちの罪を赦し、清め、サタンからの解放、地獄からの救い、すなわち、永遠のいのちを与えるように計画、かつ成就して真実の意味で生きるようにして下さったのです。心から感謝をもってクリスマスを祝いましょう。

12月23日

 クリスマスは大きな喜びを喜ぶ時です。その理由の第一は、救い主がお生まれになったからです(ルカ二・一一)約二千年前、ベツレヘムの馬小屋に生まれた幼子は救い主だったのです。
 救い主とは、ヘブル語で「メシヤ」英語で「メサイヤ」ギリシャ語で「キリスト」、日本語で「救い主」と言います。クリスマスが来ますと「メサイヤ」が歌われるのは、そのためですが救い主と言ってもキリストは、ユダヤの国をローマから独立させる政治的な救い主ではありませんでした。また、病気や貧困から救うだけの救い主でもありませんでした。彼は「ご自分の民をその罪から救ってくださる方」(マタイ一・二一)としてお生まれになったのです。
 「罪」といえば「的をはずす」という意味を持っていますが、神によって造られ、神と交わるはずの人間が、その的をはずして自分のためだけに生きています。その断絶性とわがままの罪が人の心から平安を奪い、人の心を奴隷にし、死の恐怖に追いやるのです。イエス・キリストはこうした罪から人間を解放するためにお生まれになりました。これが、金銭にかえられない大きな喜びです。
 第二の理由は「きょうダビデの町で…お生まれになりました」(ルカ二・一一)と言われたところにあります。すなわちイエスの誕生は美しい作り話ではなく歴史上の事実で、しかも信じる者の心の中に今日イエスは生まれてくださるのです。

12月22日

 クリスマスこそ真の喜びと神との対話を回復する時です。
 とある英国人宣教師と結婚した日本人女性宣教師は、突然牧師である父上の召天によって愛する肉親を失われました。臨終間際の父親に会うため急遽イギリスより帰国しましたがその直後、妊娠九ヶ月の終りで無理がたたり破水入院、遂に胎児をも失うことになってしまいました。
 その折の心境を「主なる神様が私と共におられることを強く感じ、悲しみの涙もむしろ平安、喜びの涙へと変わってゆきました。そしてたとえ胎の子を失ったとしても主に信頼し続けようと思いました。悲しみの中で神様が私の力となって下さっていることは、今でも変わりはありません」と語っておられます。
 世の中には戦争、犯罪、事故、事件、天災、あらゆる人災などの被害に遭遇したり、又病気などのために簡単には喜べない状況にある方々も少なくありません。しかし、永遠のいのちを与えて下さる天の神様を信じる時、またクリスマスの主イエスを心に迎える時、悲しみをも乗り越えイエス・キリストにある真の喜びを体験することができるのです。イエスの母、マリヤは「わが霊は、わが救い主なる神を喜びたたえます」(ルカ一・四七)と言ったように、あなたもぜひ主を賛美してください。

12月21日

 ルカ一・四六~五五はマリヤの賛歌です。この歌は四六~四八節、四九~五〇節、五一~五三節、五四~五五節の四節に分けられ、その一つ一つがまた各四句から成っています。
 前半部はマリヤ自身に関するものであり、後半部は一般人に関するもの。マリヤは四六~五〇節までで主に感謝し、主を賛美しています。それは卑しい者(罪ある者)に神が目を留めて下さった、そして用いてくださった(イエスを出産する者として)からです。その他の理由は何も示してはいません。これらのことは、彼女にとってすなわち「大きなこと」(四九節)でした。その事実に対する強い信仰がありました。
 主なる神は卑しい者、無力な者、弱い者を高く引き上げ、メシヤ、キリストを生みだす者として用いていかれました。詩篇一一三・七~八には、「主は、弱い者をちりから起こし、貧しい人をあくたから引き上げ、彼らを、君主たちとともに、御民の君主たちとともに、王座に着かせられる」とあります。
 現代の私たちも祝福を他に求めず、むしろその御ひとり子主イエス様に目をとめて頂いたこと、罪の世界から、サタンの支配から救われたこの一点を感謝していきたいものです。
 「おめでとう、恵まれた方。主があなたとともにおられます」(ルカ一・二八)とみ使いはマリヤを祝福しています。エリサベツも「あなたは女の中の祝福された方」(同四二節)と宣言しています。クリスマスの喜び、祝福とはまさにこのイエスによる救いのことなのです。

12月20日

 クリスマスを迎えるに当って今一度学びたいのは「謙遜」という事です。主イエスを私達の心の中に迎えるには、やはりマリヤのごとく、「主はこの卑しいはしために目を留めてくださったからです」(ルカ一・四八)というべきではないでしょうか。
 マリヤは社会的には地位の低い女性でした。そんな名もない弱い無力な人間をもメシヤ、全世界の救い主の母として用いるべく選んで高くしておられる主なる神様です。決して彼女は特別偉い人間ではなかったのです。そのことをわきまえていたマリヤであればこそ冒頭の謙遜な言葉が出てきました。
 さらに東からきた博士たちのように「幼子を見、ひれ伏して拝んだ。そして…贈り物としてささげた」(マタイ二・一一)という態度がわたし達にも要求されるのではないでしょうか。主イエスを迎える態度はあくまでも「謙遜」第一であります。すなわち心貧しくへり下った心の状態です。
 私達の今朝の心はどうでしょうか。主を信じています、洗礼も受けています、聖霊の恵みにあずかっていますといいながら、私達の心の中には高ぶりの心は残っていないのか反省しなければなりません。キリスト御自身栄光に満ちた神の御子でありながら、馬小屋にまで低く降下くださいました。心貧しく謙遜な心をもって今年も私達個々人、自ら主イエスをわがうちに迎えたく願います。

12月19日

 キリスト降誕時の羊飼いたちは「さあ、ベツレヘムに行って、主が私たちに知らせてくださったこの出来事を見て来よう」(ルカニ・一五)と言って、急いで行って「赤ちゃんイエス」を探し当て、神のみどり子を見たのです。
 さて飼い葉桶の中に救い主イエスを見出す心とは、どういう心でしょうか。それはただ貧しい心、低い心であります。天使がこれらの無学な羊飼いたちに現れ、メシヤ誕生の良き知らせを告げたのも決して彼らが立派だ、偉人だ、英雄だからではありませんでした。ただただ低くへりくだる心、威張らない心、即ち、心の貧しい人たち(マタイ五・三)だったからです。
 謙遜は人間が神の前において取るべき基本的な態度、正しい心の持ち方です。イエスの教えの中にも、謙遜の必要を説いたものが数多く見られます。「だれでも自分を高くする者は低くされ、自分を低くする者は高くされるからです。」(ルカ一四・一一、一八・一四、マタイ二三・一二)神の判断と人の判断とはちょうど逆です。
 しかし、謙遜は卑屈な心とは違います。神の存在を認める心、神に従う心、主なるイエスを愛する心でもあります。羊飼い達は一人の赤子イエスの中に、神のご性質を認め、このみどり子との出会いを心から喜んだのです。そして人々にこの子供の誕生と出会いの出来事を語り伝えたのです。低き心をもってクリスマスを迎えましょう。

12月18日

 「この方(キリスト)はご自分のくにに(所に)来られたのに、ご自分の民は(彼を)受け入れなかった。」(ヨハネ一・一一)これがクリスマスの現実の一面です。勿論、東方の博士達、野に羊を飼う牧人達など一群の降誕にまつわる彼を受け入れた人々もいますが、今日の時代と同様、昔もやはり大多数の人間はキリストを拒否し、特にそのメシヤ性を認めなかったのです。パウロでも最初はイエスを拒否していた者です。しかし、主の御霊に捕えられ変えられました。
 イエス降誕時に受け入れなかった典型的な人物にへロデ大王がいます。彼に代表されるようにこの社会は、クリスマスという言葉は口にしてもキリストを知らないのです。無知は不信仰につながる。不信仰なればこそ遂に主イエスは十字架にまで追いやられました。
 当時の拒絶者はユダヤ人でありましたが、現今の日本人の九九%も又同じ状況にあります。残念な事です。真の霊的生みの親、育ての親を知らない日本人の荒廃せる心は、子供の世界にも及んで、遂にいじめの事件で中学校でも自殺者が出ています。その他ピストル事件、強盗事件も続発している危険な時代です。キリストを拒絶する事の当然の報いと言わねばなりません。こうした終末時代にこそむしろ救い主、イエスを受容する民の続出を願って祈りたいものです。

12月17日

 クリスマスは何といっても喜びの知らせを聞くときです。しかしその喜びの中身は世俗的、金銭・物質的、感覚的、肉的なものではなくて、どこ迄もイエス・キリスト様そのお方が私たち罪人の友となって下さると言うことなのです。キリスト以上の真のフレンドがどこにいるでしょうか。この方は決して裏切ることなく、永遠に弱きものの味方となり、力となって救い続けて下さる方なのです
 この救い主、メシヤである方を自分の心の中に迎えまつるときこそクリスマスであります。悲しい、暗い、気が重くなるような世相が続く中にあって、主イエス様が与えて下さる霊的、信仰的喜び、すなわち聖霊による喜び(ルカ一〇・二一)こそどのような状況にあっても不滅であり、真実の喜びといわねばなりません。
 喜びの内容を取り間違えないようにしたいものです。旧約の詩人は言います。「あなたは私の心に喜びを下さいました。それは穀物と新しいぶどう酒が豊かにあるときにもまさっています。平安のうちに私は身を横たえ、すぐ、眠りにつきます。主よ。あなただけが、私を安らかに住まわせてくださいます。」(詩篇四・七~八)使徒パウロは「いつも主にあって喜びなさい。もう一度言います。喜びなさい。」(ピリピ四・四)と言っています。人生における喜びの根源こそ私たちのため真実の友となって下さるイエス・キリストであります。

12月16日

 イエスの父ヨセフは「正しい人」(マタイ一・一九)でありましたが、人間ヨセフとして婚約中の間柄でありながら身重になったマリヤと「ひそかに縁を切ろうと決心した」(新共同訳)というのです。
 姦淫の罪は当時としては死刑に価しました。そのような重罪を犯した女性といつまでも関係をもっている訳にはいかないと、考えたのでしょうか。相手を信じていただけにどれ程のショックだったでしょうか。まさに震天動地の出来事に遭遇したヨセフでした。彼の苦悩、当惑はいかばかりであったでしょうか。
 けれどもその苦しみと戸惑いはヨセフだけでなく、マリヤにとっても同じか、いやそれ以上の大きな葛藤が生じたと十分想像できます。身に覚えの全くないこと。身振いするような非常事態にマリヤは深い悲しみに沈んでいったと思われます。
 だが両人の心の戦いは一掃されていきました。天の使いの告知です。妊娠は「聖霊による」(マタイ一・二〇)ものだと。急転直下、事件は恵み、歓喜へと変えられていきました。全ては主が預言者を通して云われた事が成就するためでありました(マタイ一・二二)。
 主に用いられていったマリヤとヨセフも彼らなりの十字架を負わねばならなかったのです。「だれでもわたしについて来たいと思うなら、自分を捨て、自分の十字架を負い、そしてわたしについて来なさい。」(マルコ八・三四)

12月15日

 クリスマスとはキリストの祭り(The mass of Christ)の意味で、キリストが天のみ国からこの世に送られたことを祝う祭りのことです。略してXmasとも書きますが、Xはギリシャ語 Xristos(キリスト)の頭文字をとったものです。
 クリスマスは、世界人口の二九%に当たる約九億のキリスト教徒(ローマ・カトリックが六億、ギリシャ正教が一億、プロテスタントが二億)が全世界に亘ってキリストの降誕を祝う世界的な祝賀であります。
 世紀はA.D.(ラテン語 Anno Domini=主の年の略)が示すようにキリストの降誕をもって紀元としました。これは五三五年、ローマの僧院長ディオニシウスが、復活節の表を作る際にキリスト降誕から起算したことに始まります。しかし、実際には六年の誤差があり、正確にはキリストの降誕は紀元前(BC)六年であったということになります。そして聖書にはキリスト降誕の年月日は記されていません。
 キリスト降誕の年を紀元元年とするのは、単なる便宜主義や偶然から来たのではありません。平成何年、昭和何年と言う呼び方は天皇の即位を基準とする発想から出たもので、日本国内だけのものです。「主の年」西暦を用いるのは、人間存在の中にキリスト来臨の事実こそが歴史の中心である事の信仰告白から来ています。この待降節の時期に救い主(メシヤ)イエスのご聖誕の意味を深く味わい恵まれましょう。

12月14日

 キリストはエゴー エイミ へ スウラ(I am the door)「わたしは門です」(ヨハネ一〇・九)と仰せられました。昔から弟子になることを入門すると言われていますが、クリスチャンになってイエスに従う者、弟子たらんと思うものは必ず、イエスという門をくぐらなければなりません。すなわち、この門を通って出入りする羊だけが救われることに重点が置かれている事に注目しましょう。換言すればイエスを信じなければ救われません、ということです。
 使徒の働き四・一二には「この方以外には、だれによっても救いはありません」とあります。主イエスという門から入り、これをくぐり、この方を経由しなければ絶対に地獄から、永遠の滅びからの救いはないという訳です。釈迦、日蓮、孔子、孟子ではない、キリストこそ天国に至る門、永遠のいのちに至る門なのです。
 この門は多くの人がくぐろうとしない小さく狭い(マタイ七・一三~一四)ものですが、主のご命令に従ってこの狭い門から入りましょう。ルカ一三・二三~二四には努力して狭い門から入りなさいとあります。この門はいつでも、誰でも入れる門です。この門を一歩入ると中は広く楽しく、自由と感謝と喜びで満ちており、天の神様はイエスを通してあなたを、行くにも帰るにも、今よりとこしえ迄も守って下さるのです(詩篇一二一・八)。

12月13日

 さわやかな人生を送りたい。これは全ての人の願いです。その願いを達成する為には、絶えず聖書信仰を働かせて物事を明るく、積極的に、可能的に、善意的に考える習慣を身につけなければなりません。
 旧約聖書、民数記の十三章と十四章には、ダメだという人たちと「必ず勝つ、できます」と主張したヨシュアとカレブの話が載っています。同じ物事をみても、神の人ヨシュアとカレブは、主なる神を仰いで信仰的に明るく前途を考えました。使徒パウロも「私は、私を強くしてくださる方によって、どんなことでもできるのです」(ピリピ四・一三)とまで、言い切りました。
 音楽家ベートーベンは三十歳の若さで、大事な耳が聞えなくなってしまいました。でも主を仰いで光を与えられて以来、ハンディをのりこえて数々の名曲を産み出しました。慎重さも大事ですが、あまり慎重し過ぎて消極的、悲観的、否定的、陰鬱的になっては、主の証人にふさわしくありません。主に変えられた者にふさわしく、清く、明るく、積極的かつ大胆に前進いたしましょう。困難な問題に直面しない人生というものはありえません。大事な事はその問題をいかに受け止めていくかと言う事でしょう。私たちは聖書的に、キリスト教的にまことの神を信頼して勝利ある日々を送りたいものです。

12月12日

 「平和のきずなで結ばれて御霊の一致を熱心に保ちなさい。からだは一つ、御霊は一つです。あなたがたが召されたとき、召しのもたらした望みが一つであったのと同じです。主は一つ、信仰は一つ、バプテスマは一つです。すべてのものの上にあり、すべてのものを貫き、すべてのもののうちにおられる、すべてのものの父なる神は一つです。」(エペソ四・三~六)
 人間みな当然ながら色々な面でそれぞれの違いがあります。その違いがともすると不一致を招きます。思い、考え、性格、育ち、仕事、環境、境遇、年齢、男女など様々の違いの集団です。イエスもパウロもこの違いある一人ひとりに対して、常に一致を保つように奨励し、心砕いていきました。
 パウロはここで一つになれる秘訣を教えています。それはクリスチャンになって平和の心で結び合わされていくこと。「バプテスマは一つ」と言っていますから主の聖名による同じ洗礼をうけること。からだは一つというのは「キリストのからだである教会」の一員となること。さらに他のキリスト者と同じ「御霊に満たされ」、一つの「望み」を目指して進みゆくこと。主なる神を礼拝してみな同じ一つ信仰をもっていくこと。一人である父なる神を礼拝していくならば必ず一致を保ちうる事、そのように生まれ変わっているのだから神の召しにふさわしく歩むようにと促しています。からだも、御霊も、望みも、主も、信仰も、洗礼も父なる神も、七つの点で一つとされている信者よ、一致せよ!

12月11日

 キリストは何の為に天から遣わされて、人の世界に生まれられたのでしょうか。人間を罪の呪いから解放して、神の子供とするためでありました。神の子にされるという事は父なる神の財産の相続者となるということでもあります。何という有難いことでしょうか。人間を神の子と称する思想は、パウロの手紙の中にも見られます。
 ローマ八・一六、一七では「私たちが神の子どもであることは、御霊ご自身が、私たちの霊とともに、あかししてくださいます。もし子どもであるなら、相続人でもあります」の中に、またガラテヤ三・二六では「あなたがたはみな、キリスト・イエスに対する信仰によって、神の子どもです」と記されています。さらに、信仰によって神の子の身分を与えられ、キリストと共同の相続者とされ、神の養子とされる「神の霊」を自らの内にもっており、かつ神のひとり子の姿を自分の中に再現するようにも「あらかじめ定めておられました」(エペソ一・五)ともいうのです。
 何というすばらしい事でしょうか。悔い改め、生まれ変わりを与えられて、神の子とされているのです。物やお金にのみ目や心を奪われている人間にとっては、神の子となる特権や身分や立場がどんなに重要かつその価値が重いかが分かっていません。キリスト降誕の意味内容を多くの人々に知らせたいものです。

12月10日

 私たちは生きていく中で、多くの困難や悲しみを通ります。信仰の先輩たちも通らされました。その苦しみの中で信仰を持ち続け、キリストの御足の後を歩み天に帰っていきました。
 聖書は「死に至るまで忠実でありなさい。そうすれば、わたしはあなたにいのちの冠を与えよう」(黙示録二・一〇)と約束しています。この約束をしっかり握って励んでいきましょう。キリストは、「わたしたちが罪に死に、義に生きるために、十字架にかかって、わたしたちの罪をご自分の身に負われた」(第一ペテロ二・二四、口語訳)と言われています。
 キリスト教会が初期の頃から、共通の信仰個条として世界的に信じ告白してきた使徒信条は、受洗の時になされた信仰告白から発生したものと考えられますが、その中に「我はその独り子、我らの主、イエス・キリストを信ず。主は聖霊によりてやどり、おとめマリヤより生まれ、ポンテオ・ピラ卜のもとに苦しみを受け、十字架につけられ、死にて葬られ、陰府にくだり…」とあります。この信条を告白し続け勝利していきましょう。イエスを告白することは、当然ながらイエスを信じる信仰の現れであります。わたしという人間はほかの誰でもない使徒信条を告白できる新生した自分であることを再確認しながら、帰天する人生最後のその日まで忠実に主に従いゆきたいと思います。

12月9日

 人間としては起こり得ないことが、神の全能の力によりマリヤの身に起こった時(聖霊による受胎、妊娠)、彼女は主をあがめ、賛美せずにはおれませんでした。「わが救い主なる神を喜びたたえます」(ルカ一・四七)と言っています。マリヤは、私の霊は、私のたましいは、私の救い主を喜ぶと、どこ迄も他人事ではなくて私のクリスマスとして主なる神をほめたたえています。詩人シレシウスは、「キリストベツレヘムに生れ給う事千度(たび)に及ぶとも、キリスト汝(な)が心のうちに生(あ)れ給わずば、汝(な)がたましいは、なお打ち捨てられてあり」とうたっています。
 愛の神、全知全能の神は卑しいはしためマリヤにも心を留め、彼女を選び召し、その胎を用いて全人類のメシヤを生まれさせ給いました。ナザレ(ルカ二・四)の一寒村に住むマリヤとヨセフを主は起用なさったのです。彼ら二人は王位にある者、又、高位、高官ではありませんでした。しかし神は心低き彼らの中にキリストを宿らせなさいました。主の憐れみの大きさにただ打ち震えるものです。
 日本のキリスト教会は比較的小さく、弱い教会が多いと思われます。数少ない信仰者によって教会は保たれています。でも大丈夫です。主はこれらの群れにご自分の目をしっかり留めて見守っていて下さるからです。そしてさらに用いていて下さるのです。

12月8日

 私たちは今がまず「眠りからさめるべき時刻」(ローマ一三・一一)であることを自覚したいと思います。すなわちイエス・キリストの再臨の時が近いことを知っているのですから、いよいよやみのわざを捨てて世の終わりが到来しないうちに福音伝道に励まねばなりません。いつまでもこのように自由に福音が語れるものとは考えにくいのです。いつキリスト様は再来なさるか誰にも分かりません。
 ですから信仰という油を入れた燈火皿をもって花婿なるイエス様を待ちたいと思います(マタイ二五・一~一三)。生活態度を変えて益々光の子らしく歩まねばなりません(エペソ五・八)。今というこの時にこそ主イエスを受け入れ、やみのわざを悔い改めて、主に帰らねばなりません。ローマ一三・一一では、私たちは「今がどのような時か知っているのですから、このように行いなさい」とありますから、生活態度の一新をはかって行きましょう。
 年末総決算の時がやって参りました。時の羽根をつけた軽装馬車が足早に過ぎ去って行きます。救いの完成点により一歩近づきつつあることも充分認めながら、終末的目覚めの中に真剣に聖化されて参りましょう。
 時を知るとは、いつ主イエスが再臨されるか、時代の動きを見定めること。神への決断が迫られている時ということ。時は縮まって入信の時より主の再臨の日は、一層近くなっていること。ゆえに愛を基調とした生活に励まねばならないということでありましょう。

12月7日

 「とこしえの光がさしこみ、この世に新しい輝きを与えて下さいます。」これはルターの言葉です。主イエス・キリストは、「わたしは、世の光です」(ヨハネ八・一二)と自己紹介をしておられます。ちなみに「光」という語は、ヨハネ福音書の中に二三回も用いられています。そして一二章までにそのすべてが出てきます。
 この光なるイエスは二千年前ユダヤの地に降誕された時から、今日迄この世の闇の中に光輝を放っておられます。「光はやみの中に輝いている。」(ヨハネ一・五)いつの時代も人間世界は問題が一杯であり、罪悪も世に満ち、悲しみ苦しみも私達を捉えて止みません。
 しかし、こうした状態が世界歴史の現状であってみれば、いつの時代にも「とこしえの光なる主イエス」を私達は必要とする訳です。光は当然ながら暗き中でその本質を発揮致します。人間一人ひとりの本性は暗闇です。その心の中に差し込んで下さるイエスの光に照らしだされて初めて人は、自らの暗黒を知って悔い改めに導かれます。
 現代世俗社会がどれ程暗きに包まれていましょうとも、私達は光なるイエスと共に歩んで、自らキリストの光を反映、反射する「光の子どもらしく」(エペソ五・八)ありたいと思います。光源をイエス様に求めましょう。そしてとても大事な事は、このイエスの光は現在、今もなお私たちの間で輝いているという事です。

12月6日

 父なる神はロゴス(ことば)なるイエスを通して全てを造られました(第一コリント八・六、コロサイ一・一六、ヘブル一・二)。この方を離れて、すなわちこの方によらないでは何も造られませんでした。ここに創造者と被造物とが明確に分けられます。宇宙創造の初めから在った(先在の)イエスによって、人間を含めたすべての物はこの世に生まれ出たのです(ヨハネ一・三、一〇)。
 人々が神々として祭り上げる岩石、木、太陽、月、星、など様々な無数の偶像の実体は実にいのち無き単なる芸術作品にすぎません縄 大多数の方々には真実の造物者なるイエスが分かりません縄 また 教えられ、 分かってもその人たちは信じょうとしません『 霊的盲目者である日本人は、 まことしやか にこれら非生命的な偶像に参拝して、 一年の罪滅ぼしをしようとします縄 しかしダメです縄 その行為 は単なる気安め、 自己満足にすぎないからです。 イエスによらないでは、 どのような罪
も消えず、 救 いもないのです。 「...天の下でこの御名のほかに、 私たちが救わ
れるべき名は人に与えられていないか らです」 (使徒四・ 一 二)。 日本の皆さん
目覚めてください縄 いつまでサタンに目つぶしをくらわされ ているのでしよう
か。 クリスマスのシーズンこそ、 まことの神を発見するまたとないチャンスで
す。 サンタクロースは私たちの救いには何の関係もないのです。

12月5日

 文明を問わず古代宗教の祭壇では香木や樹脂がたかれました。神と人の仲だちには香りの煙が必要とされました。願いや祈りは香りにのって神々に届くと考えられていました。香水の語源はper fumum(煙を通して)というラテン語で水とは関係ありません。古代国家でまつりごとを行うものは香煙によって荒ぶる人々の心を和らげ、平伏させたのです。
 香料は政治支配の小道具だったのでは、と考える人もいます。その芳香樹脂の代表が「乳香」で昔から貴重で高価なものでした。東から来た博士たちは「幼子を見、ひれ伏して拝んだ。そして、宝の箱をあけて、黄金、乳香、没薬を贈り物としてささげた」(マタイ二・一一)のです。
 乳香は現代でも北東アフリカ、ソマリアあたりで産出されます。乳白色の塊で、薫じると澄んだ甘さと松脂(まつやに)のような香りがします。軽いめまいを感じさせる香り、とでもいえましょうか。旧約時代には、儀式の素祭に添えました(レビ二・一、二、一五、一六、六・一五)。また一般の供え物ともされ(エレミヤ一七・二六、四一・五。イザヤ四三・二三、六六・三)、供えのパンの上に置き(レビ二四・七)、神殿にはこれを納める部屋がありました(第一歴代九・二九。ネへ一三・五、九)。
 黙示録でいうローマは当時のバビロンをさします。が、ここではぜいたくな輸入品の一つでありました(黙示一八・一三)。

12月4日

 光であるイエスの証言者ヨハネ。
 「神から遣わされたヨハネという人が現れた。この人はあかしのために来た。光についてあかしするためであり、すべての人が彼によって信じるためである。彼は光ではなかった。ただ光についてあかしするために来たのである。」(ヨハネ一・六~八)
 彼は、救い主イエス・キリストを紹介し、お証しする役目を担って登場しています。ヨハネは自らを預言者でもなく、キリスト(メシア=救い主)でもない(同一・二〇)と答え、三〇節ではイエスは私にまさる方であり、二七節では、私はその方の靴(なめし皮で作ったサンダル)の紐を解く値うちもありません、と謙遜に応答しています。
 また同三・三〇では、「あの方(キリスト)は盛んになり私は衰えなければなりません」とも言っています。彼はどこまでも、光であり、命であるイエス・キリストを大衆が信じるために、証言者として派遣されてユダヤの野にありました。
 彼は最後に殉教していくのですが、「あかし」する事こそヨハネの最大使命でありました。私たちも自らをひけらかすのでなく、キリストをどこ迄も世の人々に指し示すあかし人でありたいと願います。旧約聖書も証言しているキリスト、すなわち、「世の罪を取り除く神の小羊」であるイエス・キリストだけを語っていきましょう。

12月3日

 キリストの母マリヤは信仰篤き女性でありました。「ほんとうに、私は主のはしためです。どうぞ、あなたのおことばどおりこの身になりますように」(ルカ一・三八)と天使に答えました。ご聖霊によって妊娠した彼女は多くの誤解と世間の白眼視の中で、よく耐えて遂にメシヤたる主イエスを出産し、母となりました。
 けれどもシメオンが言ったように「剣があなたの心さえも刺し貫くでしょう」(ルカ二・三五)の言葉がそのまま十字架上で成就しました。出産直後にエジプトへ夫と共に逃亡しなければならなかった母マリヤ。公生涯三年半のわが子イエスを見守るマリヤは決して楽なものではありませんでした。常にイエスは、律法学者、パリサイ人達からつけ狙われて危険な立場に立っていたからです。
 けれども彼女はみ言葉を聞いて実行した女であり、さんびする母マリヤ(ルカ一・四六)であり、祈る母(使徒一・一四)でもありました。御子イエスを産むため用いられたマリヤは、反面若きわが子を十字架上で失わねばならない悲しみの母でもありました。でもやはり彼女は祝福された母(ルカ一・四二)であったことに間違いはありません。
 人類最初の母エバは(創世記三・二〇)神の命令に背いて罪を犯し死に至る存在となりました。その子孫であるイエスの母マリヤも、また救われねばならない罪人の一人であることを知りましょう。

12月2日

 バプテスマのヨハネの父、ザカリヤは主なる神を賛美しつつ今始まろうとしている新しい救い主イエスの時代の到来を告げようとしています。イスラエルの神は決して怒り、裁き、のろう神ではなく、ご自分の民を心から愛し、これに目を留め顧みて、贖い救い給う憐れみ深い神であることを彼はほめたたえております。
 贖う(あがなう)とは神のみ子主イエス・キリスト様が犠牲になって、私たち罪ある人間の罪が赦されることを意味します。赦罪されることは救われること、救われるとは敵なる悪魔から救い出されること、全て私たちを「憎む者の手からの救い」(詩篇一〇六・一〇、ルカ一・七一、七四、七五)解放されることです。「敵」からの解放は元来政治的意味合いをもっていたのでしょうが、すなわちローマ帝国からの救い、解放でしょうが、ルカは、「罪の赦しによる救い」(ルカ一・七七)がイエスの到来によって成就することを告白します。
 そしてこれらの約束は、アブラハム、ダビデにもすでに語られ、約束されたことの成就であって長年、神がご計画されていたことであります。誠にこれはわたしたちの神の深い憐れみによることを心より感謝しようではありませんか。そしてこの救いと解放とは現代において救われた私たちが「生涯のすべての日に、きよく、正しく、恐れなく、主の御前に仕える」(ルカ一・七四、七五)クリスチャン生活を送ることだというのです。

12月1日

 あなたは新約聖書マタイ福音書(ふくいんしょ)の第一頁を開いてカタカナの名前がズラリと並んでいるのを見て、面倒くさい、飛ばして読みましょう、と思ったことがおありだと思います。しかし、これはイエス・キリストが旧約聖書の預言通りアブラハムの子孫から生まれたことを示しているイエス様の系図で非常に大切なものです。即ち、キリストは人間としてもこのような系図をもっておられる方で木の又から生まれたのでなく、竹から生まれた日本の童話のかぐや姫のような者でもなく、桃から生まれた桃太郎のような作り話のような方でもないことを示しています。
 換言すれば歴史上確かにこの地上に存在した人の子イエスをこのマタイの系図は現しております。
 かつルカ福音書の系図(三・二三~三八)を見ても分かるように、ここにはアダムからイエスまで七七人の名前が記されています。アダムからアブラハムまで二一人、イサクからダビデまで一四人、ナタンからサラテルまで二一人、ゾロバベルからイエスまで二一人です。こうしてイエスが真実の神の御子、救い主、メシヤであることをも示しています。またイエス・キリストは偶然か、あるいは突然生まれたのではなく長い神のご計画の中で、人類を救済する神のご意志の中で、時が満ちた一番よい時にお生まれになったのです。ですからこの歴史的救済者イエスを固く信じていこうではありませんか。

11月30日

 イエスが「わたしは、天から下って来た生けるパンです」(ヨハネ六・五一)と言われたのでユダヤ人たちはつぶやいて言いました。「あれはヨセフの子で、われわれはその父も母も知っている、そのイエスではないか。どうしていま彼は『わたしは天から下って来た』と言うのか。」(同四二節)こうしてユダヤ人たちは互いにつぶやきキリストにつまずきました。
 それは、イエスが、救い主とか神の子とか言っても、何だ普通の人ではないか、と言うのです。イエス・キリストは、「わたしはいのちのパンです」と言いました(ヨハネ六・三五、四八)。それはパンの奇跡においてびっくりしている人々に、もっと大切なパンがあることを教えるためでした。あのサマリヤの女に井戸の水を通して、永遠に渇くことのない生命の水を教えたのと同じです。イエスは地上のものを通して、神の国の真理を教えようとなさいます。人々のつまずきはそのイエスが当たり前の人にすぎないと言うことにありました。
 現代の「エホバの証人」の多くある間違いの中で最も重大なのは、イエス・キリストの神であることを否定する教えです。すなわち、イエスは、エホバによって最初に造られた者、従って神ではない、神の代弁者であり神より低い地位にあると主張しています。もちろんこの教えは聖書にないものです。イエスこそ神(ヨハネ一・一)なのです。

11月29日

 聖書は全人類に対し、特にクリスチャンに対して「待ち受けている人たちのようでありなさい。…人の子は、思いがけない時に来るのですから」(ルカ一二・三六、四〇)と再臨の主イエスを待望する姿勢をとっておれ、警告しています。信仰者は、イエス・キリストの栄光の出現を待ち望んでいる者たちです(テトス二・一三、第一ぺテロ四・一三、マルコ一三・二六)。そして終わりの日に神は「私たちの卑しいからだを、ご自身の栄光のからだと同じ姿に変えてくださるのです。」(ピリピ三・二一)このような終末的待望の生活こそキリスト者の特徴ある生き方と言わねばなりません。
 わたしたち信仰者はいわば「待ち望む民」であります。主の再びのお出でを待ちこがれつつ、この世にあって真剣に主の証し人として進む者です。それがたとい苦難の中にあっても「今の時のいろいろの苦しみは、将来私たちに啓示されようとしている栄光に比べれば、取るに足りないもの」(ローマ八・一八)と告白しつつ、神のみ国においての栄光の保証を確信しながら、終末への期待を持ちつつ、とにかく今か今かと待ちながら天国にむかって行く旅人であります。これらの再臨の主への待望、永遠の生命への期待、聖霊の内住の祈願は、いずれもキリストの受肉の事実によって裏書きされているのです。目をさまして主のご命令に正しく従いつつ、主の再臨を待ちましょう。

11月28日

 世紀はA.D.(ラテン語 Anno Domini=主の年の略)が示すようにキリストの降誕をもって紀元としたのです。これは五三五年ローマの僧院長ディオニシウス・エレシグウス(A.D.五〇〇~五四四)が復活表を作る際にキリスト降誕から起算したものに始まります。しかし実際には六年の誤差があると言われます(新聖書大辞典、九三頁…キリスト新聞社)。
 聖書にはキリスト降誕の日付は記されていません。だからと言ってクリスマスを祝う風習は退けたくありません。その日が確定されなくてもイエスの誕生だけは忘れてはならないからです。降誕日を一二月二五日とする最古の記録は、アンテオケの主教テオフィマス(一七一~一八三)のものですが、これを偽作とする者も多いようです。初期キリスト教徒たちは信仰上の潔癖から、異教徒の狂そう的な祭りとキリスト教の神聖な祝いとが混同されるのを嫌って祝賀はしなかったようです。降誕の日付の確実な文献はドイツの史家、モムゼン(一八一七~一九〇三)によって初めて発表された三五四年のローマ教会の史家の筆になるものです。それまでは教会によってクリスマスはまちまちの日付で行われていました。グレゴリウス(A.D.三二九~三八九)は「クリスマスは俗悪でなくもっと謹厳な態度でお祝いすべきだ」と戒め、飲食、娯楽なども度を過さないようにと、さとしたと言われています。

11月27日

 ヨハネ福音書一・一~一八の序文は、特に神学的序文と名付けられ、もっとも短いイエス伝と呼ばれる九節から一二節を内に含みつつ、この福音書がイエス ・キリストの生涯を、どのような視点から描こうとしているかを、あらかじめ示す為に重要な序文であります。それは丁度交響曲の主題が主旋律を前奏部分で明らかにし、以下の楽章において多様な変奏(バリエーション)を加えて組み立ててゆくのに似ています。
 そしてその主題は、ことばは神であった(一節)、ことばは肉体となって、私たちの間に宿られた(一四節)、それが父の懐にいますひとり子である神イエスであり、このかたが神を示された(一八節)という三段論法によって明確にされています。
 つまり、ことば=神、ことば=イエス、よってイエス=神という三段論法なのです。イエスは地上生涯においては神のひとり子であると同時に、「神」そのものとしてのご性質をもって活動されました。復活のイエスに対し、トマスは「私の主、私の神」と言っています(同二〇・二八)。そして、「すべてのもの(万物)は、この方によって造られた(成った)」 (同一・三)と、著者ヨハネは告げています。すなわち万物は、イエス・キリストにおいて示されている神によって創造されたのです。すなわち、イエスが万物の創造にも父なる神と共に関わっているというのです。

11月26日

 マタイ一〇・一六には十二弟子派遣に際して、イエスの訓示が記されてあります。ガリラヤ湖畔の愚直な漁師たちを伝道に這わすことは、ちょうど羊を狼の中に送り出すようなものでした。正直一辺倒の彼ら、学問もなく、権力も、何の後楯も無い彼ら、特に無抵抗主義を教えられている彼ら、もちろん戦うなんらの武器もない彼ら、それは温順な羊そっくりでありました。しかし、これに反して世の人たち、殊に学者、パリサイ人たちの悪だくみ、権力、横暴さは正に狼でありました(ヨハネ一〇・一二、使徒二〇・二九)。
 羊である彼らはどのようにして、この狼のような連中と戦うのでしょうか。イエスは教えていわれました。「蛇のようにさとく、鳩のようにすなおでありなさい」(マタイ一〇・一六)と。この世は現代でも悪賢い、だまそうとするサタンのような心をもった者たちが少なくないのです。ですから、つまらない事でだまさ れないように賢く、利口に、よく注意して福音を説き、そしてなお愛の実践をなしてゆかねばなりません。
 キリストの福音は必ずしも人々に歓迎されるとは限りません。大衆の多くは「自分につごうの良いことを言ってもらうために、気ままな願いをもって、次々に教師たちを自分たちのために寄せ集め、真理から耳をそむけ、空想話にそれて行くような」(第二テモテ四・三~四)危険性があります。十分注意したいと思います。

11月25日

 旧約聖書のメルキゼデク(創世記一四・一八と詩篇一一〇・四)に等しい大祭司イエス・キリスト(へブル五・一〇)がどんなに優れて輝かしい方であるかを見てみます。
 一、始めがなく終わりがなく、永遠に続く方(同六・二〇、七・三、一七、二一、二四)。
 二、ご自分によって神に近づく人々を、完全に救うことがおできになる方(同七・二五)
 三、彼らのために、いつもとりなしをしておられる方(同二五節)
 四、きよく、悪も汚れもなく、罪人から離れ、また、天よりも高くされた方(同二六節)
 五、自分の罪のために(旧約の大祭司のように)いけにえをささげることの不要な方(同二七節)
 六、天の大能者の右に着座された方(同八・一)
 七、ご自分の血によってただ一度、まことの聖所にはいり、永遠の贖いを成し遂げられた方(同九・一二)
 八、私たちの良心をきよめて死んだ行いから離れさせ、生ける神に仕える者としてくださった方(同一四節)
 九、召された私たちが永遠の資産の約束を受ける事ができるようにしてくださった方(同一五節)
 一〇、今の世の終わりに、ご自身をいけにえとして(人間の)罪を取り除くために来られた方(同二六節)
 十一、多くの人の罪を負うためにご自身をささげられた方(同二八節)
 十二、キリストを待ち望んでいる人々の救いのために再臨される方(同二八節)

11月24日

 「義人は信仰によって生きる」(ローマ一・一七)。
 ここでの義人とは、イエスを信じて救われ正しいと認められたクリスチャンを指しています。新共同訳聖書では、「正しい者は信仰によって生きる」とあります。ローマ書は、人間はどのようにしたら救われるか、という大きな問題を取り扱っています。パウロははっきりと「信仰による義」ということを述べています。そこで彼は同書四章を通じてアブラハムの例をあげて、「アブラハムは神を信じた。それが、彼の義と認められた」(三節)と、説明しています。ただ信じただけなのです。何か律法にかなう良い行いをしたとかいうのではありません。「もし、彼が行いによって義とされたのであれば、誇ってもよいが、神の前ではそれはできません。」(二節)不信心な者を義とされる方を信じる人は、働きがなくても、その信仰が義と認められるのです(五節)。そしてさらに義とされるとは、単に正しい者と認められた(義認)というだけではなく、神との交わりが回復することも意味します。アダム・エバによって失われた神との関係が、イエス・キリストを信じることによって関係の回復が与えられる訳です。全く無関係だった者がすばらしい主なる神様とまた子なる救い主イエスと交流をもたせて頂けるとは何という特権でしょうか。ますます信仰 から信仰へと進んで参りましょう。

11月23日

 聖書では信者を羊、神または御子イエスを羊飼いに例えていることから、ルカ一二・三二の
小さな群れとは羊の群れのことで、信者をこれになぞらえたのです。「小さな群れよ。恐れることはない。あなたがたの父は、喜んであなたがたに御国をお与えになるからです。」この箇所では彼の微力な少数の弟子を指しています。ユダヤ人の中からイエスに帰依した少数の者たちが、周囲の者から迫害されるのを力付けた言葉です。
 「何をそんなに恐れているのか」というのです。この後半は、理由です。あなたたちの父上(神)は天のみ国をあなた達にあげようとされているのだから、確かにそう思っておられるのだから恐れることはないといわれます。
 イエスを信じる者たちが、たとえこの世でどんなに身分が低く小さい者であろうとも、神のみ国、天国をいただくことは定まっている事実で、ただそれを頂く時がいつかということだけが問題です。だから安心せよ、びくびくするな、恐れるなと励まして下さるのです。主なる神は弱小な者を選び、これを愛し、これを守り給うのです。「主があなたがたを恋い慕って、あなたがたを選ばれたのは、あなたがたがどの民よりも数が多かったからではない。」(申命記七・七)故に、大牧者である主イエスにすべてをまかせ、ゆだね、大いなる安心をもって主の弟子としての歩みに拍車をかけて参りましょう。

11月22日

 主イエスは弟子たちに仕え合う、愛し合うことに対し身をもって模範を示されました。栄光の王者が「夕食の席から立ち上がって、上着を脱ぎ、手ぬぐいを取って腰にまとわれた。それから、たらいに水を入れ、弟子たちの足を洗って、腰にまとっておられる手ぬぐいで、ふき始められた」(ヨハネ一三・四~五)のです。そして「わたしがあなたがたにしたとおりに、あなたがたもするように、わたしはあなたがたに模範を示したのです」(同一五節)と言い、さらに一七節で「それを行うときに、あなたがたは祝福されるのです」とも仰せられています。イエス・キリストはこの洗足の時だけではなく全生涯において、わたしたちに、神から来る本当の「生き方」とはどういうものかをお示しになりました。
 なかなか実行できにくい部分はありますがあきらめず、主のお手本通りの生活に徹する方向に進みたいと思います。「わたしのくびきは負いやすく、わたしの荷は軽い」とイエスは、マタイ一一・三〇で語られています。その為にまず祈りに祈って聖霊に満たされていかねばなりません。犠牲を惜しまないスピリット(精神)をたえずもち続けたいものです。人のためにというよりは、主イエス様の足を洗うつもりで、他者のために立ち上がり、手拭、水、たらいの如く、相手のための必要物かつ、必要事を考え捧げ仕えたいものです。主よ!実行させてください。

11月21日

 ヨシュア記は主なる神と人との関係について以下の三点で光を与えています。
 (イ)神の忠実。イスラエルは約束の地の入手を神から約束されていました。一時、この神の目的は彼らの不服従の罪の故に挫折したかのように見えました。しかし主のご計画はカナン征服において達成、成就したのです。その経過を物語っています。
 (ロ)神の聖。これが土着民、先住部族に対する神のさばきのうちに見られます。アモリ人の不義はその極に達したので、神はイスラエルを用いてこれを罰せられました。しかし神の聖は、他をさばく為に用いられる者もまた、清くなければならないという主張に明確に認められます。神はたびたびこれを聖戦であると言われています。
 (ハ)神の救い。ヨシュアという名は「主は救い」の意味をもち、すべての名にまさる名、「イエス」のへブル語読みです。従って、ヨシュアをイエスのひな型ととり、ヨシュア記は、キリストにある私たちの勝利の生活を描いていると見て何らさしつかえありません。またヨルダン渡河は、主が私たちを、祝福が充満せる生活に導き入れて下さることを象徴しているものともとれます。「こういうわけで、神の安息に入るための約束はまだ残っているのですから、あなたがたのうちのひとりでも、万が一にもこれに入れないようなことのないように、私たちは恐れる心を持とうではありませんか。」(ヘブル四・一)

11月20日

 「どんな貪欲にも注意して、よく警戒しなさい。」(ルカ一二・一五)さらに続く金持ちの例話(一六~二一節)は財の豊かさへの警告です。物の豊かさによって神を忘れないようにということです。むしろ「自分の宝は、天にたくわえなさい」(マタイ六・二〇)、そして自らの将来に備えなさい、ということでありましょう。
 人は誰でも豊かさを求めるのに懸命です。けれども物やお金の豊かさだけに安心し切って、永遠の天国への備えを忘れ、怠っているとしたらまことに大きな損をしたことになります。ともすると人は貧欲になります。地上に財を蓄えて安心立命を図ります。それももちろん必要なことです。しかしそれ以上に重要な事は、神を忘れず、神と共に歩み、永遠の命をわがものとすることではありませんか。死後の世界に備えることでしょう。
 ところが多くの人々は金持ち、豊作、もっと大きな倉を建てることに貧欲になって、一生を過ごそうとします。けれども「愚か者。おまえのたましいは、今夜おまえから取り去られる」(ルカ一二・二〇)と主は警告なさる。自分のことしか考えない者、自分の豊かさのみに心奪われている者に対しての警告です。「神の国とその義とをまず第一に求めなさい。」(マタイ六・三三)私たちクリスチャンはなおも、神の国、神の教会、神のためになる収穫をめざして、御霊に満たされ力強く前進してゆきたいものです。

11月19日

 宗教とは人間が神を求める工夫であり、工作であり、常に人間から神へという姿を示しています。しかし旧新約を通しての聖書の宗教は、逆に神が人を尋ね求める下降の図式を表しています。
 全聖書は、これ全て神が人を尋ね求めている姿を示しています。まず神側から罪の中にうめき悲しみ、絶えず争い、ねたみ、怒り、時には殺人に迄至る愚かな人間を、神は追い求め、これを救おうとしておられるのです。ルカ福音書一五章のいなくなった羊(三~七節)、失われた銀貨(八~十節)、いなくなった放蕩息子の 例え話にこの事が明らかにされています。
 ですからこの世の宗教が宗教なら聖書の宗教は宗教ではありません。それは宗教以外のものであり宗教以上のものです。聖書はこれを「福音=ふくいん」と呼んでいます。
 福音とは、もとは一般的によい知らせを意味する語で、子どもが生まれた知らせや戦いに勝った知らせなど、聞く者に喜びを与えるような知らせに関して、用いられました。
 聖書ではもっぱら新約において使われており、イエス・キリストによる神の愛を啓示しています。神の愛は罪人を助け、救おうとします。純粋な差別なき愛であり、無代価で与えられるものです。この愛によって救われたクリスチャンは、又自ら他者の為に祈り、他者の為にいのちさえも捨てる方向へと進んでいくようになるのです。

11月18日

 祈りは信じて求めることです(マタイ二一・二二。ヤコブ一・六。ヘブル一一・六。ローマ四・二〇~二一)。祈りにおいて最も大切な、基本的なことは信仰をもって祈ることです。主はいちじくの木が枯れた出来事を通して、祈りにおいて、信じること、つまり信仰が大切であることを教えられました。
 「まことに、あなたがたに告げます。もし、あなたがたが、信仰を持ち、疑うことがなければ、いちじくの木になされたようなことができるだけでなく、たとい、この山に向かって、『動いて、海に入れ』と言っても、そのとおりになります。あなたがたが信じて祈り求めるものなら、何でも与えられます。」(マタイニ一・二一~二二)
 祈るとき信仰が必要です。マシュー・へンリーは「信仰がたましいで、祈りはからだです。ともにどの奉仕のためにも、完全な人を作り上げる」と述べ、信仰と祈りの密接な関係を説明しています。そして「信仰が正しければ、祈りを引き起こす。そしてもし祈りが信仰からほとばしらなければ、正しくない」とつけ加えています。
 信仰に基づく祈りを、神は拒まれることなく、必ず答えられるというのが主の約束です。信じて求めるものは、何でも与えられると確信いたしましょう。ただし、「神のみこころにかなう願い」(第一ヨハネ五・一四)であることは言うまでもありません。

11月17日

 「…セムとヤペテは着物を取って、自分たちふたりの肩に掛け、うしろ向きに歩いて行って、父の裸をおおった。彼らは顔をそむけて、父の裸を見なかった。」(創世記九・二三)
 現代はともすると人の欠点や短所、弱さ、失敗を覆うどころか暴(ばく)露し、それを責め立て、面白がり、はやし立てる傾向が強い時代ではないでしょうか。
 聖書の中にノアの三人の息子の物語がでてきます。ノアは立派な信仰者でした。その信仰のゆえに神のみ告げを受けて箱舟を造り、神のさばきを逃れた人です。しかし、どんな偉大な人物にも落度はあるものです。晩年のノアは、こともあろうにぶどう酒に酔っ払って裸で天幕のなかで寝てしまいました。いわばぶざまな格好をさらけだしてしまったのです。それを知ったセムとヤペテの二人の息子は、父親の醜態を見ないようにうしろ向きに進んで、毛布で覆ったのでした。すなわち、その父の失敗を補い、繕 (つくろ)うようにしていったのです。決してそのエラーをあげつらうような事をしませんでした。
 「(愛は)すべてをがまんし、」(新改訳)=「愛はおおよそ事包み」(文語訳、明治三八年発行)コリント人への手紙第一、一三・七の言葉のように対処したいものです。イエスはその血によるなだめの供え物としてご自分を公に捧げられました(ローマ三・二五)。この「なだめ」の意味は覆う(おおう)です。イエスも私たちの罪を覆い赦して下さるのです。

11月16日

 祝福を求めて、子供たちをイエスのもとへ連れて来た人々を、制止する弟子たちを戒めて、イエスは子供たちを抱き上げ祝福します。「子どもたちを、わたしのところに来させなさい。止めてはいけません。神の国は、このような者たちのものです。…そしてイエスは子どもたちを抱き、彼らの上に手を置いて祝福された。」(マルコ一〇・一三~一六)。ここに子供たちへのイエスの愛を示す姿があります。
 当時は婦人と共に子供は軽視されていました。マルコ九・三六にも、イエスは子供を腕に抱き寄せてお話しておられます。主イエスは弟子たちが親子を叱った時、それはキリストの活動の邪鹿になる理由からか、女、子供を蔑視したところからなのかは分りませんが、大変憤って言われました。  子供の接近を止めるな。神の国はこのような者たちのものだと。さらに言葉を続けて、子供のような純真さ、無心、無邪気さをもって神の国を受け入れる者でなければ、決してそこに入ることはできないと……。
 イエスは子供たちをも宣教活動の中心をなす終末論的救いの約束の中にいれておられます。 そして子供たちをモデル、模範として会衆に実物教育をしておられます。現代のわたしたちも子供の徹底した親への信頼性をもって主を受け入れていきたいものです。

11月15日

 祈りは一面においては真に孤独なものです。ただひとり神のみ前に立ってなす事が多いのです。祈ることによって、初めて私共は「ひとり神のみ前に立つ」ということを学ぶのです。しかし、他方祈りは一人祈る時にも、他者を思い起こさないわけには参りません。
 パウロの手紙の中にも(第一テサロ二ケ一・二~三、ローマ九・一以下)、また旧約聖書にもアブラハムが(創世記一八・二二~三三)、モーセが(出エジプト一七・八~一三)、ネヘミヤが(ネヘミヤ一・四~一一)、アモスが(アモス七・一~六)、その他全ての神の聖徒たちは他者の為に特に信仰の仲間たちのためにも祈っていきました。こうした他者のための祈りを「とりなしの祈り」と呼びます。教会がする祈りの中で最も大切にされてきたもののひとつです。もちろん主イエス様も、ヘブル書七・二五によれば「キリストはいつも生きていて、彼らのために、とりなしをしておられ」ますし、さらに 「御霊ご自身が、言いようもない深いうめきによって、私たちのためにとりなして」(ローマ八・二六)いてくださいます。この祈りが信者各位に熱心になされている限り必ずや、日本に、地域社会に、教会内に、各個々人にリバイバルが起き、熱き愛の思いがさらに湧き上がることでしよう。教会堂に大勢集まっている時だけの祈りではなく、わたし一人のとりなしの祈りが、どれ程に重要であるかを深く認識しましょう。

11月14日

 パウロはコロサイ書とエペソ書で、神の奥義が(コロサイニ・二)実現しつつあること、それは教会を通して救いをもたらす「キリストの奥義」(コロサイ四・一二、エペソ三・四)であることを示しています。この奥義は、世々隠されていた奥義(エペソ三・九、コロサイ一・二六)であり、「福音の奥義」(エペソ六・一九)とも呼ばれました。またこの奥義とは「神がみ子においてあらかじめお立てになったご計画」(エペソ一・九)のことで、「天にあるものも地にあるものも、いっさいのものが、キリストにあって一つに集められること」(エペソ一・一〇)でした。
 さらには、「この奥義とは、あなたがたの中におられるキリスト、栄光の望みのこと」(コロサイ一・二七)でもあります。「キリストは肉において現われ、霊において義と宣言され、御使いたちに見られ、諸国民の間に宣べ伝えられ、世界中で信じられ、栄光のうちに上げられた」(第一テモテ三・一六)方で、このことは偉大な「敬度の奥義」(同上)なのです。そしてこの奥義、ミュステーリオンはイエスによって啓示された「神の国」を指しているとも言えます。パウロはこの奥義を実現した神のご計画を知らせ、宣べ伝えるつとめに召されたのです。なお奥義、秘儀は、神に関係している事柄について用いられ、その特質は、この世の人には隠れていて知る事ができない事と、それを知る為には神の側からの啓示が必要であることです。

11月13日

 イエス様は、旧約の大祭司制度がなし得なかったことを成就されました。それは、わたしたちを主なる神に近づかせることでありました。ではどうしてそれを成就したのでありましょうか。逆にこの両者を近づかせない、さえぎる原因は何でありましょうか。それは二つあります。
 第一は恐怖心です。人が神を恐れている間は、神のもとでくつろぐことは出来ません。日本の諺にも「さわらぬ神にたたりなし」とあります。この言葉は、日本人の神観念の中にひそんでいる恐怖感を表しています。ところがイエスがこの世に誕生なさった目的は、父なる神の無限の愛を示すためでありました。その愛を知った時に人間の恐怖はとり去られます。神は私たちを罰するのでなく、両手を広げて迎え入れようとしておられます。そして私たちが神に帰ることこそが、神の唯一の願いなのです。
 第二は罪です。イエスは十字架の上で人間の罪をつぐなうためにご自分によって完全な犠牲をささげられました(ヘブル九・二六~二八)。ですから罪責感に怯えることなく今やそのことへの恐怖は消え去り、罪は克服され、神への道がすべての人に向かって開かれたのです。「(キリストは)ご自分によって神に近づく人々を、完全に救うことがおできになります。」(ヘブル七・二五)ハレルヤ。

11月12日

 イエス・キリストは、想像的空想、仮定の人物ではありません。又、単に人のように見えたのでもなく、彼は明確に人の子として聖霊によって処女マリヤから、へロデ王の時代にユダヤの地べツレへムで生まれられたのです(マタイ一・一八以下、二・一)。そして両親の下で成長し、強くなり、知恵に満ち、十二歳の時にはエルサレムの都に上られました(ルカ二・四〇~四二)。
 その後三十歳にして公生涯に入り、人々に教え、共に飲食し、時には空腹にもなられ(マルコ一一・一二)疲れて(ヨハネ四・六)眠り(ルカ八・二三)給うたのです。
 また祈り、病人の手を取り(マルコ一・三一)悪霊を追い出し(マルコ一・三四)エルサレムの都の為に泣き(ルカ一九・四一)ラザロのために涙を流し(ヨハネ一一・三五)ゲッセマネでは恐れもだえ、悲しみ苦闘されたのです。最期には遂に人類の贖罪の為、自らむち打たれ(マルコ一五・一五)いばらの冠をかぶせられ、わき腹をやりで突き刺され(ヨハネ一九・三四)死なれたのです。歴史と時間の中に人として生きられたイエスを否定する者ではなく、この方を神の御ひとり子、全人類の罪からの贖い主として受け入れるものとなりたいものです。なお、クリスチャンが十字架を教会や家に飾りつけるのは、自分に対する「神の愛」を覚え感謝するためで、決して拝む為ではありません。

11月11日

 ある精神科医の調査によりますと、人が思い煩うことの四〇%は絶対起こり得ないこと、三〇%はどうすることも出来ない過去の出来事、一二%は人から受けた批判(それも、ほとんど事実無根の話ばかり)、一〇%は自分の健康のこと(心配すればするほど健康状態が悪くなるのだが)、八%は実際 に直面する可能性のある問題だそうです。何というエネルギーの無駄づかいでしょうか。
 「だから、あすのための心配は無用です。あすのことはあすが心配します。労苦はその日その日に、十分あります。」(マタイ六・三四)
 ここで、主イエス・キリストは、あすのことを神に委ねて、その日その日を精一杯生きる生き方を教えておられます。あすは神のものであり、私たちはあす、起きるかもしれないことを心配してはなりません。あすの問題を今日に持
ち込んではなりません。あすの事は主なる神様がすべて支配しておられます。あすのことを心配するよりも私たちは今与えられている今日という日を精一杯生きるべきだと教えられます。
 あすは神のものです。ですから、あすの問題を今日に持ち込もうとする時、実際には神のものを盗もうとしていることになります。とにかくイエス・キリストを全く信頼して大船に乗った気持ちで今日の仕事に全力投入いたしましょう。

11月10日

 わたしたちが霊的に成長していくためには、どうしてもキリスト様がわたしたちの心に住んで下さらなければなりません。ところでイエスはいつ、どのようにして、わたしたちの内に住んで下さるのでしょうか。それは私たちが信仰によってイエスを心の中に受け入れた時です。そのために当然ながら人は自らの心の扉を開かねばなりません。この心のドアーを開くのが信仰なのです。「心」と訳されている言葉は、知、情、意の全人格の座としての心をあらわしております。ですからイエスが私たちのこころの王座を占めて下さるとき、その感情は清められ、知性は啓発され、意志は制御されます。ところが私たちが内住の御霊に頼ることなく、神を意識する事無くただ自分だけで何かをしようとすれば、必ず失敗します。それは生まれながらの古い人は神の栄光よりも自分の得になることを、優先させようとするからです。
 けれどもイエスの御霊が住んでくださり私たちの全人格を支配して、強め、かつ清めてくださればわたしたちは勝利であり、信仰的にも成長してまいります。
 「見よ。わたしは、戸の外に立ってたたく。だれでも、わたし(イエス・キリスト)の声を聞いて戸をあけるなら、わたしは、彼のところに入って、彼とともに食事をし、彼もわたしとともに食事をする。」(黙示録三・二〇)。

11日9日

(黙示録における七つの幸い)
 第一に、御言葉を朗読する人とこれに心を留める人々です(一・三)。この世には心に留めねばならないことは無数にあり、関心をもたねばならないことも多くあります。しかし神の啓示のお言葉を第一にして人生の真の幸せをつかみましょう。
 第二に、主イエス様を信じて天国に召される人たちです。すなわち、「主にあって死ぬ死者は幸いである。」(一四・一三)。この世ではどんなに不幸に見える人々も主を信じて召天後、神のみ国を相続する人こそ、真の幸せ者といわねばなりません。
 第三に、神様が裁きのために主イエスを再びこの世に遣わし給う大いなる日の為に霊的、信仰的備えをしている人は幸いだということです。即ち、裸で歩く恥を見られない人は幸いです(一六・一五)。
 第四は、小羊(キリスト)の婚宴に招かれた者は幸いです(一九・九)。
 第五は、第一の復活にあずかる者のことです(二〇・六)。彼らは祝福された者だけでなく聖徒という名にふさわしい人たちです。
 第六は、キリスト様の再臨が切迫しているのでこの書に記してある言葉を堅く守るものは幸いというのです(二二・七)。
 最後の七つ目は、天国の門を通って神の都に入れる者は幸い(二二・一四)というのです。

11月8日

 天の神様は私達が楽しい心と幸福な顔をもって人生に対処することを望んでおられます。まず幸福であることは私達自身の益となります。箴言の著者は一七章二二節でこう言っています。口語訳「心の楽しみは良い薬である、たましいの憂いは骨を枯らす。」・新改訳「陽気な心は健康を良くし、陰気な心は骨を枯らす。」・現代訳「心に喜びがあれば健やかになり、心に憂いがあれば病気になる」・新共同訳「喜びを抱く心はからだを養うが/霊が沈みこんでいると骨まで枯れる。」と……。
 人生ともすると深刻なことが多すぎて笑ってばかりおられませんが、それでも、ニコニコしている人に接すると心がなごみ、ホッとします。よく笑う人が長生きする事は医学上の常識です。心の底から笑うと肺が拡大されて、大変体にいいそうです。主イエス様によって幸福な顔で互いに挨拶を交わそうではありませんか。そのたびに私達は最高の良薬を服用していることになり、また、自分の寿命を延ばしているのです。
 ある本の中にアメリカの一新聞社の宣伝記事がのっていました。「いつまでも若々しくいたい方は教会の聖歌隊へどうぞ。歌う方の頬(ほお)はいつまでも輝かしく、しわもできにくいのです」と。さあ賛美し人生を主にあって楽しく生きてまいりましょう。「ハレルヤ。神の聖所で、神をほめたたえよ。御力の大空で、神をほめたたえよ。」(詩篇一五〇・一)。

11月7日

 二〇世紀初頭のお話。あるアメリカの有名な伝道者がヨーロッパ伝道旅行を大成功のうちに終えて、ニューヨークに帰りました。きっとたくさんのクリスチャン達が港まで迎えにきてくれていると期待してタラップを降りかけると、やはり大勢の人達が手を振ったり、大きな声で叫んだりしているではありませんか。ブラスバンドの奏楽も聞こえています。
 伝道者は予想以上の出迎え風景に感動しましたが、次第にこの人達が自分を迎えにきたのではないことに気づきました。それはたまたま同じ船にのつていたルーズベルト元大統領を迎える為のものだったのでした。では自分の町の信者達は駅前で出迎えてくれるだろうと思っていると、同じように大勢の人達がいましたがそれも大統領を迎える為と知った時、彼は一人淋しく自分の家に向いました。
 暗くなりかけた町の中を歩きながら「主よ、これは余りにも不公平ではありませんか、狩猟旅行者の大統領のためには盛大な出迎えがありますのに、神の御用のために遠くまで行った者には一人の出迎えの者もいないのはどうした事か」と泣きながら祈っていると、ご聖霊の声が心に響きました。「我が子よ、あなたはまだ自分の故郷に帰ってはいない」と。
 私たちの故郷は天国です。この世にあっては自らを誰も出迎えに出てくれなくとも、天の故郷に帰った時、主なる神様からのねぎらいの言葉が十分かけられる事を信じて戦い進み行きたい(ヘブル一一・一三~一六)ものです。

11月6日

 エゼキエルに主の言葉がありました。「人の子よ。わたしはあなたをイスラエルの家の見張り人とした。あなたは、わたしの口からことばを聞くとき、わたしに代わって彼らに警告を与えよ。」(エゼキエル三・一七)
 見張り人の役目は、町の城壁の上の見張り所に立って、いつも周囲に注意を払い、外敵の襲来があればいち早く町の住民に知らせる事です。主がエゼキエルを見張り人とされたということは、彼に霊的な意味でそのような役目を与えられたということです。
 つまり主が御言葉によって民の霊的危機を告げられたならば、主に代わって民に警告するという役目でありました。これこそ預言者の一番大事な任務であったのです。霊的見張り人である預言者の責任は重く大きいのです。それは民が生きるか死ぬかの運命がかかっているからです。ですから、見張り人即ち預言者がその役目を怠った場合には、その責任が追求されなければなりません。ですから預言者は神の命令されたとおりに言わなければなりません。その義務を果たさなければなりません。もし警告を与えなければその血の責任をあなたに問うと同書三章十八節で仰せられます。しかし見張り人が警告してもその人が聞かなければその本人が滅びることは致し方ないのです。彼らが聞かなければその罪のために死ぬが、あなたは救われる(同三・一九)と記されています。

11月5日

 聖書の証言するイエス・キリストは、真の人であって神、真の神であって人であります。この事が「言は肉体となった」という事の意味と内容です。所がキリストの人性に対して最初に異論を唱え、否定したものはグノーシス主義者たちでした。
 彼らは肉体を悪とし、霊魂を善とするギリシャ的二元論の下に立っていました。故に、肉体が悪である以上、キリストが肉体をとるはずがない。キリストの肉体は実体ではなく仮現であって、ただ人の目にそう見えたに過ぎないと彼らは主張しました。紀元一世紀後半から四世紀迄ふえ広がった異端思想です。これに反論して書かれたのがヨハネ福音書とヨハネ第一書です。
 二世紀半ばこのキリスト仮現説を唱えて活動した者にマルキオンという人物がいました。彼によれば、キリストは神によって造られた物で、キリストの肉体は本当の肉体でないと主張したのです。改革者カルビンは、綱要の中でこの異端者マルキオンの名を挙げ、大変厳しい言葉で彼に反撃を加えているのです。
 現代では、「エホバの証人」を名乗る団体がイエス・キリストの神性を否定しています。彼らは、「イエスは神の子であるにすぎず、神ではない。神と同等ではない」といいます。大いに警戒しなければなりません。

11月4日

 アダムはエデンの園で神とともにいるとき、彼の中に罪意識はありませんでした。しかし神から離れて、神のご命令「善悪の知識の木からは取って食べてはならない。それを取って食べるとき、あなたは必ず死ぬ」(創世記二・一七)に従わなかった時、彼の中に罪意識が生じました。神との係わり合いから離れたとき、人は肉にとどまり、その結果パウロが書き並べたように、「不品行、汚れ、好色、偶像礼拝、魔術、敵意、争い、そねみ、憤り、党派心、分裂、分派、ねたみ、酩酊、遊興」(ガラテヤ五・一九~二一)、その他私たちが通常罪といっているものが、心の問題として現れてきます。しかし、私たちが神との係わりの中にいるとき、それは、人との係わりの中で、「愛、喜び、平安、寛容、親切、善意、誠実、柔和、自制」などの結果(実)として現れてきます(同五・二二、二三)。
 神との係わり、人と人との係わりの源泉は愛です。愛は神からのすばらしいプレゼントです。また、自分が愛され、愛される存在であることを教えて下さったのは主イエス・キリストです。このことを実際に行なっていく人の集まりが教会ではないでしょうか。そこには基本的な信頼関係があって、人々が親密で、喜び、悲しみ、痛みなど人間の生の全領域の問題を互いに分かち合える場所とならねばなりません。その中にイエス・キリストが共にいて下さって皆を支えてくださるのです。何と言う恵みでありましょうか。

11月3日

 『神とゴッドはどう違うか』(鹿嶋春平太著)というタイトルの本が一九九七年二月に新潮選書から出版されました。その帯には「キリスト教を日本ほど誤解した国はありませんでした」と書かれています。著者は「西欧のゴッドをわれわれは『神』と訳してきました。けれども両者の意味は桁違いにずれていました。我々は科学の移入に忙しく、そのことにはほとんど意を注がずに今日まできました。けれどもその差は実に人間観、社会観、文化、風俗までにわたって、東西の驚くべきギャップの源となっています。それはまた、我が国の教会をやせ衰えさせ、あるいは国家を、国際社会の孤児にもしつつあります。本書でその実情を示しましたが、遅きに失したでしょうか。手遅れではないことを祈ります」と言っています。
 そして聖書の神を「創造主」と書くべきことを色々な角度から述べ、「創造主あり」の世界観を持たねばならないことの重要性を訴えています。
 日本人の考える神は汎神論の神、即ち太陽、月、星、大木、岩石、狐、狸、わに、象、山川草木など何でも神様にしてしまうのです。創造神ではないのです。祖先の死んだ人物も神様。これでは日本は救われません。大いに創造主なる聖書の神を広めていきたいのです。聖書こそ真実な神、創造者なる神を発見できる唯一の書です。但し、信じなければ発見不可能ではありますが……。

11月2日

 神の力のご性質を調べてみましょう。
 (一)神の力は天地創造において現されています(創世記一・一、エレミヤ五一・一五)
 (二)神の力はキリストの復活において働く力です(エペソ一・一九~二〇、使徒二・二四、三・一五)。
 (三)神の力は信じる者に救いを得させる力として働きます(ローマ一・一六)。
 (四)神の力は伝道において力があります(エペソ三・七、コロサイ一・二九、使徒一六・五)。そしてその力は測り知れません(第二コリント四・七)。
 (五)神の力は教会の中に働きます。教会は神の力によって建てられ、保たれます(エペソ四・一六)。
 (六)神の力は私たちの中に働きます(詩篇一八・三二、四六・一、ハバクク三・一九、エペソ三・二〇、ピリピ四・一三、使徒一・八)。そして神が物事を完成してくださいます(エペソ一・一一、三・二〇、ピリピ二・一三)
 (七)神の力は神の言葉を通して働きます(第一テサロニケ二・一三、ヘブル四・一二)
 (八)神の力はキリスト者の弱さの中に働きます(第二コリント一二・九)。
 (九)神の力は主を待ち望む者の中に働きます(イザヤ四〇・三一)

11月1日

 パウロの祈りは父なる神にささげられています。パウロが神を「父」と呼んでその父性について述べています。
 一、神はイエスの父です(エペソ一・三、一七、六・二三)。キリスト教の神観は、神がイエスと同様な神であり、イエスがそうであられたように寛大で愛情に満ち、憐れみに富んだお方だということです。父のイメージは何となく厳格さが先立ちますが、ただ厳しい、恐い、近づきがたい存在ではありません。
 二、神は私たちがほめたたえるべき父です。賛美される神です(同一・六、一二、一四)。
 三、神は栄光の父(同一・一二、一四)であり、力をもって信徒の内なる人(イエス・キリストへの信仰)を強くしてくださる方です(同三・一六)。
 四、父なる神に感謝しなさい(同五・二〇)とあるように、信者たちから感謝を受けられる神です。
 五、父なる神は私たちがみもとに近づくことのできる神です。(同二・一八、三・一二)。しかし昔ユダヤ人が神殿で礼拝をする際、至聖所は神の住まう所であり、大祭司だけが一年に一回、贖罪の日にのみ入ることが許される場所でありました。このようにいわば神に至る道は閉ざされていたのです。しかし今はイエスにあって大胆に確信をもって近づくことができるのです(同三・一二)。
 福音書では、天の父は公平な神、完全な神(マタイ五・四五、四八)です。

10月31日

 AD一五一七年一〇月三一日は宗教改革記念日として世界の人に知られています。ドイツのマルチン・ルターがまず改革ののろしを上げた日です。当時の口ーマ・カトリックは免罪符を売って聖ペテロ大聖堂の建築資金そして政治資金を含む必要経費を得ようとしました。その事は聖書には無いことといって九五ヶ条の抗議文をウィッテンベルクの城の教会の扉に貼るのですが、これが法王の怒りにふれ、修道僧ルターは破門状を手渡される結果となりました。
 けれどもルターは「私の良心は神の言葉、聖書にとらわれています。私の著書を取り消すことは出来ないし、取り消そうとも思わない」「われ聖書の真理に一人立つ。聖書のみ、信仰のみ」といって免罪符制度に反対して参りました。正に真理戦争に突入したのです。聖書の正しい教えが曲げられてはならないと、ドイツ皇帝と法王の弾圧の下、同志メランヒトンと共に詩篇四六・一を歌いつつ、互いに励まし合いながら進んで行きました。
 「私たちは、真理に逆らっては何をすることもできず、真理のためなら、何でもできるのです。」(第二コリント一三・八)ただ信じれば救われる(使徒一六・三一)という聖書真理にしっかり立って世の諸勢力を恐れず、福音を証して参りましょう。恐れることはありません。「神はわれらの避け所、また力。苦しむとき、そこにある助け」(詩篇四六・一)だからです。

10月30日

 《宗教改革》一五一七年にル夕ーによってドイツで始められ、ほぼ同時代スイスでツイングリー、さらにカルビンによってひきつがれました。ローマ・カトリック教会に対立する教会の画期的な改革運動。世界におけるキリスト教勢力はここから発生しました。
 改革という語は一四~一七世紀に教会の世俗化や権力の濫用に反対して教会改革を望む人々や団体によってしばしば用いられました。宗教改革の時代的背景として教会の世俗化の他にもルネッサンス(文芸復興)国民文化の興隆、民主主義思想の広がり。商工業都市の発生、貴族階級のぜいたく、農民への不当な課題、ききんによる不安等の社会的事情があげられます。  しかし、宗教改革の直接の原因はルターの心の内側に始まったと見るべきでありましょう。第一に罪が赦されるのはキリストへの信仰のみ、第二に聖書のみを主張しました。第三に救いに関してキリスト以外にどのような仲介者も必要でなく、全ての信者が福音を伝える責任があるとしました。万人祭司制の教義です。
 宗教改革の影響はスイス、ポーランド、スウェーデン、デンマーク、ノルウェー、フランス、オランダ、イタリヤ、イングランド、と広がっていったのです。
 「人が義と認められるのは、律法の行いによるのではなく、信仰によるというのが、私たちの考えです。」(ローマ三・二八)

10月29日

 宗教改革者マルチン・ルターは一五一一年から翌一二年にかけていわゆる「塔の体験」を持ちました。この名称は彼が後年、ヴィッテンベルグ大学の学生寮の一角にある塔の中で、他の説では、修道院の塔にある自室で新しい福音理解の光が主の塔の中で与えられたと語ったところに基づいています。
 その新しい福音理解とは何でしょうか。死の問題を契機として修道院に入って以来、この時期に至る八年間の精神生活においての最大問題は、自己の宗教生活が純粋なものであるか、という反省でありました。
 しかしながら自らの不純性こそ罪であることを認識せざるを得なくなった時、この罪を(キリストへの不徹底な愛しかもち得ない罪を)赦すものこそ、神の愛、キリストの愛であり、かつ彼が義とされるのは「信仰のみ」(ソラ・フイデ)、「聖書のみ」(ソラ・スクリプテュラ)であって他の方法によってではない、ということこそ新しい福音理解でした。そして又この主張こそ宗教改革が一五一七年一〇月三一日、ルターによって始まった原因でもありました。善行(免罪符購入)による救いではなく、ただ信仰による救いなのです。
 「福音は、ユダヤ人をはじめギリシヤ人にも、信じるすべての人にとって、救いを得させる神の力です。…『義人は信仰によって生きる』と書いてあるとおりです。」(ローマ一・一六~一七)

10月28日

 《カトリック》一般的にこの用語は口ーマ・カトリック教会のキリスト者に用いられます。「普遍的な」を意味するギリシャ語のカソリコスから派生したものです。カトリック主義とはローマ教皇を最高首長として仰ぐ天主公教会の宗教的思想的な立場を言います。
 カトリック・キリスト教は四世紀にローマ帝国に公認され、更に五~六世紀にローマ教会司教が西方世界に主権を握るに至ってから、世界的な公教会としての位置を獲得します。カトリック主義の理念はすでに原始教会時代に始まり、聖書中にそれを見出します。しかし、一六世紀に至ってローマ・カトリックは腐敗、堕落し、ルターなどによる宗教改革運動が発生したのです。
 このたびイタリア、ローマのバチカン市国に在る豪壮巨大なサン・ピエトロ寺院(大聖堂)を初めて訪れました。ローマ市内にはカトリック教会が約四〇〇あります。そのうちでも最大の建物です。AD三四九年にコンスタンチヌス皇帝の息子によって完成されたものですが、その後の諸法王や諸侯によって立派になっていきました。しかし創立後千年程してすっかり廃墟と化し、再び工事は一六〇七年に始まり、一六三三年に完成したと言われます。ここでは聖書の宗教は芸術化され、神の言葉は耳で聞かれると同様に目で見られています。

10月27日

 昔、封建時代の武士たちは主君に対して忠誠を誓いました。主君に対して利害打算の私心、二心を持たぬこと、無私であること、さらには心から自発的、能動的に精一杯に主君に対し己れを尽くすこと。それがつまり忠誠を誓う事でありました。
 昔、戦時中の教科書に木口小平という兵士が、死んでも口からラッパを離しませんでしたと記され、いかに彼が自らの職務に忠実であったかを教えられました。
 幼い園児たちを引率して遠足にでかけた保母先生がいました。はしゃぐ園児たちの前方から自動車が疾走してきたとします。そしてあわやと思われた時、先生は園児を救っていました。だが先生の傷は重かった。私たちも主なる神に対して自ら深い忠誠(ロイヤリティ)を誓い、良い忠実な僕として従い続けていかねばなりません。
 マタイ二五章一四節以下に、自分の財産をしもべたちに預け、旅に出ていく人の話が載っています。その中に五タラント、ニタラント預けたしもべには、「よくやった。良い忠実なしもべだ。あなたは、わずかな物に忠実だったから、私はあなたにたくさんの物を任せよう。主人の喜びをともに喜んでくれ」と言っています。どんな小さいこと、僅かな事、簡単なことでも主のため、相手のために忠実さを果たしていきたいと思います。陰ひなたなく人が見ていない所、見ていない時こそ忠誠を発揮してまいりましよう。

10月26日

 「私たちはこのキリストにあり、キリストを信じる信仰によって大胆に確信をもって神に近づくことができるのです。」(エペソ三・一二)
 ユダヤ人だから、アメリカ人、西洋人だから天地万物の創造者なる神に近づけるわけではありません。人種、国境、性別、階級の区別をのりこえて、だれでも単純に主イエス・キリストを受け入れ、信じる者が、その信仰の故に神に近づき、神と出会いを持つことが出来るわけです。ですから真実の神様を発見し、この方にいよいよ接近したいのであれば、イエス・キリストの実在とこの方の生きておられることを固く信じなければならないのです。
 パウロは「大胆に確信をもって神に近づくことができる」と言っています。さわらぬ神にたたりなしの諺もありますが、理由、原因もなしにやたらに、たたりや罰や、怒り、さばきを与えるお方ではない聖書の神だということを知らなければなりません。私たちは今のありのままの姿で遠慮なしに主に近づき、益々お恵みを、力を、祝福を頂いて前進いたしましょう。イエス・キリストとはまことの神様に出会わせて下さるお方であります。ますます天の神様との距離を縮めていきましょう。
 「(キリストは)ご自分によって神に近づく人々を、完全に救うことがおできになります。」(へブル七・二五、参照:同四・一六、一〇・二二、一二・二二)

10月25日

 弟子たちの足を洗い給う主イエスの姿は誠に貴いものです。しかしこの行為を通じてキリストは彼らとの関係を一層深め、強めようとされました。未信者の人たちは、しばしば「関係ありませんからいりません」と手渡そうとするチラシを断られます。けれどもわたしたちは関係がないので、関係、つながり、係わり合いをもたせて頂こうとしてパンフレツトをお渡ししょうとするのですが、警戒されてしまいます。残念です。
 イエスは「もしわたしが(あなたの足を)洗わなければ、あなたはわたしと何の関係もありません」(ヨハネ一三・八)と言われて、断るペテロの足を洗っていかれました。昇天後の主はご聖霊を通して私たちと関係を保っていて下さいます。このような罪ある汚れた存在をお忘れにならず、常に係わりをもって下さる主イエス様に感謝してゆきたいものです。またこのようなお手本を、模範を残された主に見習って(ヨハネ一三・一二~一五)、私共も互いに益々仕え合っていきたいものです。
 互いに仕えあう精神の失われた現代に生じている現象は、国家間においても人々を飢えに追いやっているという事です。地球規模で考えても富める国と貧困に悩む国の大きな差を実感せざるを得ません。御霊に助けられつつ、まず私たち個々人から仕えあって、主の体なる教会を立派に建てあげていきましょう。

10月24日

 「あなたは、祈るときには自分の奥まった部屋に入りなさい。そして、戸をしめて、隠れた所におられるあなたの父に祈りなさい。」(マタイ六・六)
 祈りはどこまでも神と私との間の出来事です。その間には誰も入ることは許されません。ですから祈りはある一面隠れようとするものです。自分の部屋に入り、戸を閉じて神と対話しようと、また、相まみえようとします。人の目から隠れなければ神に会うことはできないからです。なぜなら神は、隠れたところにおられる神だからです。人から隠れるだけ、神は一層現れてくださると言ったらおかしいでしょうか。
 もちろん合同で複数の人たちと共に祈る場合もあります。けれども祈りの姿には、イエスが言われたように密室での自分だけの祈りがあります。むしろこちらの方が多いのではないかと思われます。
 祈りの相手はもちろん主なる神です。人ではありません。この方と対座し交わり。じっくりとこの方に聞いていただくことをして物事の解決を計っていくわけです。全能者との対面の場があるという事はなんという幸せ、また特権でしょうか。クリスチャンであることをしみじみと感謝いたします。信仰を持って主イエスの聖名で祈りましょう。形式的ではなく心のこもった熱心な祈りを、また真実な祈りをささげましょう。イエスも孤独になって祈られました。

10月23日

 「その町にひとりの罪深い女がいて」(ルカ七・三七)という一人の女性は、ベタニアに住むマルタの妹マリヤだという説もあります。
 彼女はルカ福音書一〇章三八~四二でも非常識と思われる振る舞いのため、姉の非難を受けますが、主イエスより「無くてはならぬ一つのもの」を選びとった者として評価されたように、ヨハネ福音書一二章一~八でも、非常に高価なかぐわしいヒマラヤ杉の根からとつた香料(それは男子三百日の労賃にあたる)を惜しむことなく、自分の髪の毛でイエスの足を拭ってキリストに称賛されたのです。ほとんど一年分の総収入に匹敵する高価な物でした。
 ユダを始めとしていつも計算ばかりしている者たちにとっては「もったいない…」という言葉しかありません。けれども、この行為は浪費ではありません。激情的とも言えるこの女の振る舞いを通して、私たちは主イエスを心から愛する、という事がどういう事かを学ばねばなりません。主イエスに罪赦された女は最高の物を手離しても何ら惜しくはなかったのです。それ程に女はイエスに感謝し、イエスを愛したのです。
 マリヤはイエスに全幅の信仰を、また心からの信仰告白をイエスに実際をもって表わしました。現代のクリスチャンもこのマリヤの愛と信仰的態度に見習いたいと思います。

10月22日

 「信仰は望んでいる事がらを保証し、目に見えないものを確信させるもの」だと、ヘブル一一・一に定義されています。では何をクリスチャンは望むのでしょうか。
 もちろん世俗の中に生きているのですから、商売繁盛、家内安全、無病息災、受験合格、立身出世、子宝一杯などあれやこれや願わない者は一人もいません。キリスト者もノンクリスチャンと同様に様々良き事、あれやこれや願望するでしょう。しかし、それだけが全てではありません。受洗者続出、教会成長とリバイバル、信徒倍増、枝教会の誕生、家族全員の救いの実現など、霊的、信仰的な事柄を特に希望します。
 けれどもさらに望むのは、神の国の到来、天国の望み、永遠の命の付与、聖化の完成、主イエスとの再会、神の御国での報償など、終末への望みを深く確信するものでなければなりません。そしてこれら特に終末への約束は神からのものだということです。心より感謝したいですね。
 ところでそのような死後の世界で与えられる様々な祝福も単なる「思いこみ」ではないか、という疑問があります。しかし、信仰、信心とは、客観的な事実、今、目の前に見る事実とは、無関係ということです。不可視であるからこそ信じていくのがクリスチャンです。聖書の約束だからこそ徹底して信じ、確信してまいります。

10月21日

 「この町には、わたしの民がたくさんいるから」(使徒一八・一〇)。
 これは、伝道上大きな励ましを与える言葉です。なぜなら、神は最も堕落した者、最も汚れた者、酒に身を持ちくずした者たちを救わねばならないため、選びの民であるあなたを用いたもうからです。神があなたを、それらの魂にいのちをもたらす使者と定められたがゆえに、あなたは彼らに御言葉を伝えるのです。そして、神があらかじめ定められたところに従って、彼らは御言葉を受け入れなければなりません。彼らは永遠の御座の前にはべる聖徒と同様、血潮によってあがなわれ、すでにキリストのものとされているのです。
 彼らはおそらく居酒屋を好み、清潔をうとんじていることでしょう。この人々は、まだ生まれ変わってはいないかもしれません。しかし、彼らは必ず生まれかわるように定められていると確信しましょう。このことは、いのちの御言葉をたずさえて彼らのもとに行く私たちの慰めとなるのではないでしようか。
 それだけではありません。キリストはこれらの不敬虚な者のために、御座の前で折りたもうのです。哀れな無知な魂は、この祈りについては何も知りません。しかしイエスは彼らのために祈られるのです。彼らの名前はイエスの胸当に書き記されています。未信者を尋ねましょう。あらかじめ連絡を取って祈りつつ訪問いたしましょう。

10月20日

 「主の山の上には備えがある」(創世記二二・一四)のこの一語は、昔から多くのキリスト者を励ましてきました。とりわけ伝道の第一線に出る開拓伝道者、何らの資金もなく、バックもなく、経歴も無い者が、ただ信仰だけで世に出る事は誠に冒険です。しかし、この一句をただ頼りとして出発するのです。そして実際に船出してみると風波は想像以上に激しく、いよいよダメかと思われる所までいったとき、アドナイ・イルエ、主の山に備えあり、の事実を体験して主の聖名を崇めるのです。
 けれども伝道者にかぎりません。信徒諸兄姉も神のほか誰をも恐れることなく、真面目に正しく生きようとするとき、様々な問題にぶつかり、この世は正論だけでは生きられないかのように感じます。けれども正義の神、備え給う神、全知全能の神を信じて、信仰の勇者達は正直の道を突き進むのです。たとえ損をしても、不利益をこうむっても主なる神を信じて行った正しい行為には、ヤハウエ(神)は必ず報いて下さいます。恐れずして主の証人たる道を歩み続けていただきたいと思います。
 「私の神は、キリスト・イエスにあるご自身の栄光の富をもって、あなたがたの必要をすべて満たしてくださいます。」(ピリピ四・一九)とにかくアブラハムは全ての打算をのりこえて、徹底して主に服従し続けました。

10月19日

 聖書は一冊の本ではなく、本来六六冊(旧約聖書三九冊、新約聖書二七冊)から成り立っているもです。そしてこれらはBC一四五〇年からAD一〇〇年頃の間に、神の霊感によって約四〇人の著者たちを通して書かれました。しかし真の著者はただ一人のお方、ご聖霊であり、主なる神だと言わねばなりません。そして一貫してさし示すお方は、十字架の主イエス・キリストです。
 聖書は全人類に対する神の語りかけです。神は聖書のみ言葉という言う手段・方法をもって私たちに語りかけておられるのです。ですからこれに聞いて、従ってゆけば生活が正しく良い方向へと一段と変化していくのです。
 また聖書を通して神はご自分を表わしておられます。即ち聖書は神の自己紹介の書、自己啓示の書といってもいいのです。さらに聖書を読むことによって神様が、愛であり清く正しく、全知全能、造物主で、唯一なるお方など、その性質を知ることが出来ます。聖書こそ人類にとって大いなる財産であるばかりか、真理の言葉であり。永遠の救いの書であります。
 ここで初めて聖書をお読みになる方に申しあげますが、分からない所は飛ばして読む。列車でいえば急行列車に乗ったように読む。そのうちに感動する箇所、分かる箇所で停車する時が必ず来ますからそれまで忍耐強く読み続けてください。

10月18日

《真の平和の土台、イエス・キリスト》
 使徒パウロはエペソ人への手紙二・一四~一八節でキリストにおける平和について深く掘り下げ、説き明かしています。パウロはここで「キリストこそ、私たちの平和である」と宣言し、この方こそ真の平和、永遠の平和をすべての人に与えることができると、また、真の平和を成立させる根源のお方であると主張しています。
 さてわたしたち人間相互の関係を分裂させ、さらには人間と神との関係をも分離させるものは、生来の人間の中に深く内在する「敵意」です。恨み、憎しみでもあります。これらを聖書ではひっくるめて「罪」と言います。かつてパウロ時代にユダヤ人と異邦人とが対立、反目し合っていました。両者をへだてていた中垣こそ「敵意、敵対意識」であったのです。ところがキリストはこの罪をご自分の身に負われて十字架上に犠牲の死をとげられ、その罪の償いを果して下さったことによって、敵意を全くとり去って下さったのです。
 現在なお、わたしたち個人の内にかもし出される敵意、憎しみの罪性を、まずイエスを信じまた祈ることによって、さらにはこれまで自分が持ったであろう敵意を悔い改め、取り除いて頂こうではありませんか。各自が平和人間としての歩みを益々力強く進めていきましよう。

10月17日

 一九一三年(大正二年)八月一一日、客船天津丸は一三日間の旅を終えて日本の横浜港に停泊しました。実はこの船こそ日本アッセンブリー教団草分けの宣教師、ドイツ系アメリカ人カール・フレデリック・ジュルゲンセン夫妻(五一才、四五才)とその子供マリヤ(一一才)、アグネス(八才)の四人家族が乗っていた船だったのです。
 来日前の同夫妻はアメリ力、オハイオ州クリーブランドで事業を営んでいましたが、聖霊のバプテスマを受け、日本宣教の召命を神より聞いて後、全財産処分の末、主なる神の御手に導かれて、全くの未知なる日本に上陸したのです。片言の日本語すら知らない同師がまず落着いた最初の場所は東京・本郷東大前付近でした。伝道館に改造した日本家屋で宣教活動が始まり、伝道圏は更に翌年小石川に、次の年には本郷上富士前にと広げられていきました。
 通訳も備えられましたが、時には父ジュルゲンセン師の英語の説教の通訳を当時まだ小学校六年生だったマリヤが(一九九一年一二月八日、八九才にてアメリカで召天す)引き受けた事も少なくありませんでした。このような教団発足の原点を忘れることなく、さらに伝道に邁進してゆきたいものです。
 「全世界に出て行き、すべての造られた者に、福音を宣べ伝えなさい。」(マルコ一六・一五)

10月16日

 かつてエゼキエルが神からの幻を見たのは、異郷の地バビロンのケバル川のほとりでした。自分も捕虜として連れて行かれ、寂しい思いをしている時でした。時はBC五九二年七月頃と言われます。しかしながらバビロンの捕囚のような大事件は世界の歴史におきましても滅多にない事であります。そのようなイスラエルの栄光は全く地に落ちてしまって、ぐうの音も出ない時であります。
 神殿は壊されてしまうし、主の宮は汚されるし、文字通り四面楚歌(しめんそか)の中で幻を見せられました。「私が見ていると、見よ、激しい風とともに、大きな雲と火が、ぐるぐるとひらめき渡りながら北から来た。その回りには輝きがあり、火の中央には青銅の輝きのようなものがあった。」(エゼキエル一・四)これらの表現は神の臨在を現わすものです。
 さらに「私が見ると…その方の回りにある輝きのさまは、雨の日の雲の間にある虹のようであり、それは主の栄光のように見えた」(同一・二七、二八)とありますが、これはまさに神の栄光を表す御言葉です。主の栄光は神の臨在の象徴でもあります。
 主のみ座の光景は不浄な輝きの中に現れています。神の栄光の輝きは、いつでもどこでも現されます。特に暗ければ暗いほどに、いよいよまさって光り輝きます。私たちも今日的な霊的、信仰的暗闇の中で、主の栄光を見、主の輝きをキャッチして希望を持って進みたいものです。

10月15日

 旧約の大祭司は「自分自身も弱さを身にまとっているので、無知な迷っている人々を思いやることができるのです」(ヘブル五・二)。ですから、私たちも牢につながれている人、また苦しめられている人たちを「思いやりなさい」と同書一三・三には記されております。思いやるとは、顧みる、同情して推し量る、自分の身に比べて人の身について思うことです。
 パウロは信仰の弱い人たちをつまずかせない思いやりから、偶像に捧げた食物を食べないとも申しました。力ある者は、弱者の弱さを担うべきだ、とも口ーマ一五・一で述べております。弱い者の為にはいつでも己を砕いて、右にも左にも舵とりができる融通をきかすことのできたパウロでした。ありとあらゆる境遇に処する秘訣を心得ていたパウ口でした(ピリピ四・一一~一三)。
 ひどい悩みに苦しんでいる人、困難と戦っている人、親、子ども、兄弟、親しい人などを亡くして悲しんでいる人、災難にあった人、良心の呵責にうめいている人、罪を悔いている人、病気、病弱の人など様々な人たちへの対応を適切にしていきたいものです。特に聖書の御言葉を引用して神のお力を頂くようにしましょう。私たちも教会、家庭、職場、近隣などで接触する様々な人々に対して「思いやり」のある行動をとって良き証しを立てて参りましょう。今自分にできる小さなことから始めましよう。

10月14日

 ヨハネ福音書五・一九~二九は、ベテスダの池での癒しをめぐって、ユダヤ人との間に繰り広げられる論戦の中でなされたイエスの説教が収められています。そして父と子との働きが一体であることを強調する言葉が私達の注目をひきます。御子イエスが父の全面的な委託を受けたさばき主であり、同時に救い主であられることも見ることが出来ます。更に御子の終末における権能がはっきりとした形で現在化され主張されております。
 二四節には「わたしのことばを聞いて、わたしを遣わした方を信じる者は、永遠のいのちを持ち、さばきに会うことがなく、死からいのちに移っているのです」とあり、また、「死人が神の子の声を聞く時が来ます。今がその時です。そして、聞く者は生きるのです」(二五節)とあります。このように徹底して現在化された終末論の中に、疑いもなく私達の救いに係わる中心問題が示されています。実現されるべき私達への救いが、今ここに、この世界のただ中に起っていると述べられています。何というすばらしいことでしょうか。
 み父が遣わされた御子イエスによって彼を信じる者全ての者に与えられる救いであります。今やこの福音を聞く者に対して決断が促されているのです。御子イエスを信じてこれに従うのか、あるいは拒絶するのか問いただされている現代です。イエスを信じ永遠の生命を得ましょう。

10月13日

 「アーメン」は、確固とした、しっかりした、信頼できる、という意味を持ったアーマンから出た語で、「まことに、真実に、本当に、しかあれかし」です。主イエスが「まことに(アーメン)、あなたに告げます」と言われたように、このアーメンを口にする時、人間は神の前に誠に人間として、正しい態度をとることができます。ですから今日まで単純な一句ではありますが、真に親しまれる言葉として代々のクリスチャンの祈りの最後に用いられてきました。
 しかも、人間がそのようになれるのは、主イエスの救いによる他はないのです。「神の約束はことごとく、この方において『しかり』となりました。それで私たちは、この方によって『アーメン』と言い、神に栄光を帰するのです。」(第二コリント一・二〇)と、記されている通りです。主イエスによって、アーメンと言うことが成就するのは、主イエスとその御業が、神の人間に対するアーメンだからです。
 黙示録三・一四にありますように、「アーメンである方、忠実で、真実な証人、神に造られたものの根源である」キリストによってのみ神に聞かれるのです。ルターは、神の御言葉と約束のみが、我々の祈りを生かすもので我々の敬度ではない、と言っています。いずれにしても今後もアーメンを力強く唱えていきたいものです。

10月12日

 「翌朝早く、アブラハムは、かつて主の前に立ったあの場所に行った。彼がソドムとゴモラのほう、それに低地の全地方を見おろすと、見よ、まるでかまどの煙のようにその地の煙が立ち上っていた。こうして、神が低地の町々を滅ぼされた…」(創世記一九・二七~二九)
 このたびパリ、ローマ観光旅行をゆるされた折、一日ローマ郊外ポンペイ市まで足を伸ばし廃墟となった跡を見てきました。ポンペイはAD七九年八月二四日におこったベスピオ火山の大爆発によって噴塵と溶岩による泥流にも埋められて、 隣のエルコラート市と共に完全に地上から姿を消したのです。その火山灰と火山礫(れき)は四メートルに達しました。噴火は三〇時間に及び噴塵は三立方キロメートルにのぼったのです。ベスピオの噴火の歴史でも最大級といわれています。
 しかし、これを単なる自然災害と考えたくないのです。まことの主なる神に反逆せるこの世への審判と、悔い改めを迫る見えざる愛の神の警告と受けとめねばなりません。謙虚に創造主のもとに立ち返ろうではありませんか。「あなたはあなたの神に立ち返り、誠実と公義とを守り、絶えずあなたの神を待ち望め。」(ホセア一二・六)

10月11日

 初代教会のパウロは自分のことを「キリスト・イエスの囚人」だ、また「あなたがた異邦人のために」このように捕われの身となったと自己紹介しながら大切なことを語ろうとしています(エペソ三・一以下)。それは旧約の時代には隠されていた「奥義」を知らせようという訳です。「その奥義とは、福音により、キリスト・イエスにあって、異邦人もまた共同の相続者となり、ともに一つのからだに連なり、ともに約束にあずかる者となるということです。」(同六節)この聖句でも分かるように、その内容は、永遠的、終末論的です。日本人も当然の事ながら異邦人の部類に属します。
 エペソ二・一以下で、キリストを知らない、信じない異邦人がどのように惨めな者かを色々と語ってきたパウロです。しかし、その異邦人が今やイエス・キリストによって大きな恵みにあずかっていることを自覚するよう促しています。このように聖霊によって啓示され、知らされ、明らかにされた奥義(エペソ三・三)ですから、イエス・キリストの救いの恵みにあずかり天国の相続人とならねばなりません。なお、福音書では、種まきの譬えとその解釈についてのイエスの言葉があるだけです(マルコ四・一一、マタイ一三・一一)。
 その恵みの原動力ともいうべき「福音に仕える者とされました」ともパウロは言っております(エペソ三・七)。

10月10日

 「聖霊によるのでなければ、だれも、『イエスは主です』と言うことはできません。」(第一コリント一二・三)ほかのことはともかくとして、「イエスは主です」と言う告白だけは、聖霊に導かれなければまことに口にすることができません。あのシモン・ペテロが「あなたは、生ける神の御子キリストです」と告白した時、主イエスは「あなたは幸いです。このことをあなたに明らかに示したのは人間ではなく、天にいますわたしの父です」(マタイ一六・一六~一七)と言われました。
 現代だけではなくこれまでの人間歴史において、主なる神が私たちに与えて下さる大いなる恵みというか奇跡は、神を神として認める、このような信仰告白が出来たという事でありましょう。特に偶像国日本において聖書の神、三位一体の神、すなわち父、子、聖霊なる神を神として認め、受け入れ、信じ、この唯一なる神に従ってゆく生活など、およそ未信者生活の時には考えられなかった事です。ここに神の選びと召しを覚えます(ローマ一・一)。
 九九%がノンクリスチャンの日本において、アーメン信者になるなど誰も予想しなかった事です。けれども真実なる神は、私共を泥沼地獄から救い出して下さって、ペテロと同じように主を告白するまでに導いて下さったのです。全ては「知恵と啓示の御霊」(エペソ一・一七)のお働きによるのです。益々主に従ってゆきたいものです。

10月9日

 エゼキエル書は象徴的表現が多い為、難しい、読みづらいということでなかなか読まれません。しかし神の啓示の書の一つですから何としてもこの書にも目を通し、多くの教訓を得て信仰生活の指針として頂きたいものです。注解書には「この一巻が読んでみると以外に面白い。一つ一つの象徴的表現に深い霊的示唆があります。非常に芸術的で、バラエティに富んでいます。絵本を読む様に一章一章が絵画的に心に残っていくという具合に、引き込まれる様な興味を覚えるのです」とあります。
 本書の中にも、人間の罪、神の裁き、救い主の到来、罪人の再生と清め、将来の栄光という具合に、救いのテーマが展開されています。いずれにしてもイスラエル民族のバビロン捕囚の最中で(BC六〇〇年頃)エゼキエル(神が強めて下さる、の意)は、神の言葉を伝えていったのです。現代に生きる私たちに対する神のメッセージとしてエゼキエル書を謙虚に受けとめてゆきたいものです。
 一章~三章は預言者の召命、四章~二四章はエルサレムについての運命、二五章~三五章は諸外国についての運命、三三~三九章はエルサレム陥落(BC五八七)以後の回復の希望、四〇章~四八章は、新しい神殿の幻が記述されています。なお、本書の特徴の一つに「主のことばがあった」(七・一他、四〇回)の句が記されていることに気づきます。神のことばの威力と権威に対する自覚が深かったことを示しています。

10月8日

 新約聖書マタイ一三・四四にこんなことが書いてあります。「天の御国は、畑に隠された宝のようなものです。人はその宝を見つけると、それを隠しておいて、大喜びで帰り、持ち物を全部売り払ってその畑を買います」と。
 教会の中に、聖書の中に、イエス様の中にそのようなすばらしい高価な宝があるなどとこの世の中の何人が知っているでしょうか。ほとんどの人が無知なためこの天国という宝を手に入れようとはしません。知らないこと、いや知ろうとしないことほど大損することはありません。けれどもクリスチャンたちはこの「天の御国」という財産をただで(マタイ一〇・八)、しかも信じるだけで手に入れたのですから、これほどの大儲けはどこにもありません。
 上記の小作人は全財産 を処分したあと、正式にその畑を買収し、ゆっくり掘り返して地中の宝を自分の所有としたのです。ただ、無料といえば福音もまったく無料です。福音の中心人物、イエス・キリストをわたしの救い主とするのもやはりお金は不要です。実在の神の御子を信じて得をしましょう。
 隠されている宝。それは私たち自身の中にも潜在能力として秘められているのです。火事場の馬鹿力と言いますが、いざとなると人間は今迄自分にもわからなかった力が発揮されるものです。これ迄できないと思っていたのにやってみたら案外できた、ということに気づかせられるものです。可能性を秘めた自己像の発見に努めましょう。

10月7日

《仮庵の祭り》
 へブル人三大祭の一つ。レビ記二三・三四~四三、申命記一六・一三~一七参照のこと。祭りはチスリ、第七の月(太陽暦では九月~一〇月)の一五日(秋分に近い満月)から一週間。これは、ヘブル人の年末、すなわち秋の収穫を終わり、新しい年に入ってから守るので「収穫祭」、「刈り入れの祭り」と呼ばれました(出エジプト記二三・一六、三四・二二)。
 ブドウ、イチジクなどの収穫祭であり、感謝をもって年を終わり、年を迎えるのです。田畑に樹枝で仮小屋を設け、その中に起居し、収穫の感謝の供え物をしました。これは元来農業的祝祭でしたが、歴史的意義が加わり、荒野放浪、さすらいの天幕生活と結びついて「仮庵の祭り」と呼ばれるようになりました。
 ネへミヤ八・一四~一七では仮庵の祭りの祝い方をのべています。またこの祭はイスラエルの民のエジプトからの脱出に関連し、荒野放浪と仮小屋での居住を記念する意味合いを持っていました(レビ二三・四三)。
 ヨハネ七・二に仮庵の祭りが記されていますが、この時には荒野で岩から湧き出した水をかたどり、シロアムの池の水を汲んで毎日、祭壇に注ぐ行事が行われました(ヨハネ七・三七、三八参照)。しかし、この行事はモーセ五書にはなく捕囚期以降に始まったと考えられます。また神殿の婦人の庭に四基の高い燭台を立て、点火して彼らを導いた火の柱を記念したのです。

10月6日

 聖書に登場している神は「ご自身を隠す神」です(イザヤ四五・一五)。神だ、イエス様だといっても今日私達の目の前に姿を現わしておられる方ではありません。ただ私達は唯一、「聖書」を通じて語られている、父、子、聖霊なる三位一体の神は偽りなく、わが側にいて下さる、我と共に居たもうと「信じて」いる信仰によるのです。
 ですからある人は自分の思い込みだ、一方通行的片惚れだ、相手は実在するかどうか不明だと疑うのです。そうです、疑いだせば際限がありません。そこでです。一度聖書の神は存在、実在する、生きておられる神だ、救い主だと信じて頼ってみるわけです。
 この時点では冒険をすること、一種の賭け、ギャンブルをすることになります。でもこの冒険、ギャンブルは絶対損をするものではありません。不可視的神に信頼して、祈ってみる。「父なる神よ。汝の生ける神たることを我に知らしめ給え。わが不信仰を許し、我に汝のみ子イエス・キリストの救い主たることを示し給え。我、汝に寄り頼まん。主イエス・キリストの聖名(みな)で祈ります。アーメン」と口にだしてみるのです。きっと神はあなたの願いを聞いて下さるでしょう。
 万物の創造者、真の神様を信じ、頼り、祈り、この方の実在を体験致しましよう。「ただし、少しも疑わずに、信じて願いなさい。」(ヤコブ一・六)信じることは素晴らしい事です。

10月5日

 ウイリアム・バークレーは「教会は神に出会い、また人に出会うところ」と言っています。教会は礼拝を通して神と交わり、その他の諸活動において人と交わるところでもあります。もちろん礼拝が中心ですが、神は人を通して仕事をされます。人との交わりが充分できないと教会生活は不充分です。
 心の満たしは主なる神との交わり(祈り)の中で与えられるのですが、もう一面では人との深い交わりの中でなされてゆくものです。もちろんその逆で交わりの中で反って傷つく場合もあるでしょう。が、それはそれでまた別の時に考えたいと思いますが、とにかく生きている教会になるためには、交わりの中で「聴くことの奉仕」に耳を献げるべきであります。
 わたしたちはすぐ語りたくなりますが、まず相手の声に耳を傾ける愛と忍耐と謙遜をもって交わってゆきたいものです。そして、「喜ぶ者といっしょに喜び、泣く者といっしょに泣き」(ローマ一ニ・一五)、互いに祈り励まし慰め合う必要があります。厳しい世の中においてこれからの教会が癒しの教会として成長するよう、まず神と人に良く傾聴できるようにと願います。
 「神よ。あなたは私の神。私はあなたを切に求めます。水のない、砂漠の衰え果てた地で、私のたましいは、あなたに渇き、私の身も、あなたを慕って気を失うばかりです。」(詩篇六三・一)

10月4日

 「平和」の言葉は一般的にはおおよそ戦争のない時期を表わしていますが、聖書のシャロームは、しばしば神の真実や契約などの言葉と共に用いられ、平和な時期というよりむしろ平和な「関係」を示す言葉です。
 エペソ書でも平和は、平安という語と共に二・一四、一五~一七、及び一・二~四・三、六・一五、二三、と大変多く使われています。神と人、人と人との関係を語っています。さらにこの手紙で、平和が人格化した形で宣言されています。「キリストこそ私たちの平和」(エペソ二・一四)とあります。平和とキリストとの同一視は、パウロの手紙ではこの箇所だけに見られます。
 キリストが私たちの平和であるとは、続く文章の三つの分詞によつて説明されています。すなわち、二つのものを一つにする、隔ての壁を打ち壊す、敵意を廃棄する、の三つです。第一は神的領域と人間の領域が一つにされること。第二は人間世界におけるあらゆる分け隔て、境の壁を打ち破ること、第三はそうした原因を作っている「敵意」を破り捨て、解消させる方こそ平和のキリストだというのです。
 彼は私たちを「新しいひとりの人に造り上げて、平和を実現するため」(同二・一五)に、敵意をご自分の肉によって廃棄された方、すなわち、敵意を十字架によって葬り去られた方なのです(同二・一六)。この方にいよいよ目を向けていきましょう。

10月3日

 新約のコロサイ人への手紙の執筆理由は、教会内に異端(正統でない、正しくない)のキリスト教々理、思想が勢力をふるいはじめ、教会の福音信仰をおびやかすようになったからです。そこで獄中のパウロは福音の真理を明らかにするため、また異端からコロサイ教会の信者を守るために筆をとったのです。
 その異端とは、この世の霊力(ストイケイア)についての教え(コロサイ二・八、二〇)でもあり、それは天使礼拝でもありました(同二・一八)。また、だましごとの哲学(同二・八)にも、とりことなるなと注意を呼びかけたのでした。
 今日も「ものみの塔」という異端がはびこっているので大いに注意、警戒しなければなりません。彼らはイエス・キリストの神性を絶対に認めようとはせず、イエスは最初に造られた天使と主張するのです。聖書を正しく読み、正しく解釈するならば、このような結論は出てこないのです。キリストの神性を認めたくない彼らは、自分たちの都合のよいように聖書を勝手に作り変えるのです。
 例えばコロサイ一・一五のイエスを「全創造物の初子」というふうに彼らの用いている新世界訳聖書で原文にない言葉をつけ加えて訳し、元来の文の意味をねじ曲げてイエスの先在性も創造性も神性も否定しようとしているのです、まず私たちは正しいキリスト観を身につけねばなりません。

10月2日

 エゼキエル三八章と三九章は、マゴグの王ゴグについての預言で、イスラエルの民が祖国に帰り平和に暮らしている頃、異邦人の征服者ゴグが大連合を率いてパレスチナに進入してきますが、神のみ怒りによってその同盟軍もろとも滅ぼされてしまうという預言です(エゼキエル三八・二~三、一四、一六、一八。三九・一、六、一一)。
 前章で主は回復後のイスラエルに、メシヤによって永遠の平和を確立することを約束されました。しかし、ゴグのような者たちがいる限り平和が確立したとは言ません。永遠の平和が確立するのは彼らを脅かすあらゆる敵が打ち破られた後です。そこで神はイスラエルに敵対するあらゆる諸国をゴグのもとに結集させ、戦いを挑ませ、一挙に粉砕されたのです。
 二一世紀においてもイスラエルに対する完全回復、即ち、メシヤ的な永遠の平和が実現するには、イスラエルに対する諸国民の大攻勢が起こらねばならないかもしれません。ゴグ、マゴグは、黙示録二〇章にも登場しますが、そこでも神の民に戦いを挑む諸国民のリーダーとして現れます。この人物が誰であるかは明確ではありませんが、しかしその連合軍は天からの火によって完全に滅びてゆくのです。悪魔は結局滅ぼされ、神の主権は確立するのです。

10月1日

 人生には様々な危機が訪れます。男女、年齢の差を超えて色々な形でその人なりの危機がやって参ります。新約聖書にも、ぶどう酒がなくなった、舟が大暴風で沈みそうになった、子供があるいはしゅうとめが病気になった、地震が起こった等の危い、恐ろしい困ったことなどが起きています。
 こうした時に人は最悪の場合、「自殺」を考えます。使徒の働き一六・二七の看守は責任を全うできない故に自殺志向でした。マタイ福音書のユダは遂にキリストを裏切って、また第二サムエル一七・二三のアヒトフェルはダビデにそむいて、それぞれ自ら首をくくり死んでいます。
 旧約聖書のヨブも第三章を読むと死を待ち望んでいます。ヨナ書のヨナは自分の思うように成らなかった時、不愉快になり怒って、ヨナ四・三で「主】よ。今、どうぞ、私のいのちを取ってください。私は生きているより死んだほうがましですから」と言います。伝道者の書の著者も同様です。伝道二・一七で「私は生きていることを憎んだ。日の下で行われるわざは、私にとってはわざわいだ。すべてはむなしく…」と。
 キリスト様もユダヤ人たちから、「あの人は…自殺するつもりなのか」(ヨハネ八・二二)と誤解された程に、人間は危機に弱い訳です。所が、ここに救い主、助け主、イエス・キリストが登場して手を差し伸べて下さるのです。「しっかりしなさい。わたしだ。恐れることはない」(マタイ一四・二七)と。

9月30日

 進化論は一九世紀の籠児であり、人間の無限の進歩を説く楽天思想は、なかなか魅力あるものであって、今なおこの思想を信じる者も少くありません。
 確かに人間の文化や生活様式などには多くの進化、進歩があったのかもしれません。けれども少なくとも人間の本質―道徳的本質―には少しの進歩も発展もなかったのです。この点においてはむしろ退歩であって、もし進化という言葉を許すならば、むしろ罪からの進化でなくて、罪への進化であります。これは戦争ひとつ取り七げても明白のように、時の経過と共に戦争は残忍なもの、悪魔的なものになって来ています。
 しかしそうは言っても人間の特に科学的知識の偉大な進歩はある意味で人間にこれまでに見なかった幸福を提供するに至っています。けれども反面において核兵器や、放射能のために、人類はいま滅亡の危機にさらされています。進化どころか、この面においては大いなる退歩ではないでしょうか。まさに野蛮人以上の野蛮人であります。
 ここにアダムとエバによってもたらされた人間の原罪の深刻さを思わしめられます。しかし、この原罪をゆるし、救うものこそ十字架と復活のイエスであります。「御子イエスの血はすべての罪から私たちをきよめます。」(ヨハネ第一の手紙一・七)「キリストは…ご自分の血によって…永遠の贖いを成し遂げられたのです」(ヘブル九・一一~一二)。

9月29日

 「ですから、私たちは勇気を失いません。たとい私たちの外なる人は衰えても、内なる人は日々新たにされています。」(第二コリント四・一六)。
 外なる人は衰えても、とは肉体・気力・根気などの衰えをさすのでしょう。パウロは同じ現実を違った表現でも述べています。土の器(第二コリント四・七)、死ぬべき肉体(同上一一節)、地上の幕屋(同上五・一)がこわれても、などです。この状況はクリスチャン、ノンクリスチャンの区別はないのです。平等に訪れる状況です。
 けれどもキリスト者はパウロと共に、聖書信仰、キリスト信仰に生きている故に、内なる人、内なる魂はいつも新鮮さを保持していけるというのです。この状態をパウロは更に「新しい人を着たのです。新しい人は、造り主のかたちに似せられてますます新しくされ、真の知識に至るのです」(コロサイ三・九~一〇)とも述べています。
 人は老いを避けることはできません。けれども、老いても年令に左右されず、いつも主の命令に従い、主の御霊によって新鮮さを保ち、新しい生命に生かされて老いとの戦いに勝利していくのです。旧約聖書にもアブラム七五才、モーセ八〇才、アロン八三才、カレブ八五才でみな新使命を帯びて再出発しています。壮年・熟年層のみなさん再び奮起してください。

9月28日

 神の国の用語はマルコ福音書に一四回、ルカ福音書に三二回出てきます。マタイ福音書では同じ意味ではありますが「天国」の語で三二回、神の国は四回用いられています。
 そのほかの呼び方でダビデの国、わが国、父の国、国などがあります。神の国は一切の人間的支配をこえた神自らの統治であって、人間文化からもり上がって達成される歴史的進歩の世界ではないのです。神よりの恵みとして与えられる彼岸的終末的世界でもあります。
 しかしながら、他面、神の国がキリスト再臨後に現われる終末性を帯びたものだけではなく、人間歴史の中にイエスを通じてすでに与えられている現在のものであることを、深く認識せねばなりません。ルカ一七・二〇~二一、マタイ一二・二八、一一・五、一二、一三・一六~一七などを見ると、イエスの到来においてサタンの力は砕かれ、「神の国」はすでに今ここに在ることが示されております。ですから、激しく攻め奪い取る程の熱意を示す者が、これを自分のものとしているのです(マタイ一一・一二)。
 真の神の御国は自然に与えられるものではなく、自ら懸命に求めていく情熱も大変必要であることが分かります。聖書を読むのも、お祈りするのも、教会の諸集会に参加するのも、みな何とかして神の国を獲得しようという欲求の現れにほかなりません。

9月27日

《主イエスはいやされる》
 「イエスは、さまざまの病気にかかっている多くの人をいやし、また多くの悪霊を追い出された。」(マルコ一・三四)。「こうして…その会堂に行って、福音を告げ知らせ、悪霊を追い出された。」(同上一・三九)。
 キリストは復活の主として現代も昔と変わらず生きて働いておられます。新約聖書には数多くの「いやし」の記事が記されています。そのような不思議なことが(イエスにとっては当り前の事ですが)今も私たちのうちに体験できることは有り難いことです。期待して祈り続けましょう。待ち望んでいきましょう。
 精神的に、肉体的に病んでいる人間の何と多いことでしょうか。その中には持病だと称してあきらめている人もいます。再度イエスに願って、健康にして頂こうではありませんか。健康も神の賜物、恵みです。主に不可能はない筈。主の憐れみを受けん為信仰を働かせ祈り、願っていきたいものです。主イエスは心と体のいやし主です。主に迫っていきましょう。
 家内ふさゑは、ニ〇代のまだクリスチャンになりたての頃に、東京・駒込の本部内で開かれた全国聖会の講師でアメリカからこられたマカリス夕ーという牧師さんに祈って頂いたところ、ただ一回のお祈りで「肝臓肥大」が全く癒され、主に感謝して出身の浜松教会(故、菊地隆之助師)に帰ってきたことが、忘れられない思い出として残っています。

9月26日

 テキコ(幸運の意味)。アジア人でパウロの忠実な弟子のひとり。パウロの第三回伝道旅行の際、トロピモと共にパウロに先立ってマケドニアからトロアスに向かい、使徒たち一行の到着を待っていた同労者(使徒二〇・四、コロサイ四・七)。
 彼はアジア地方の教会と不断の交わりを持つていた主の忠実な働き人で、コロサイ人への手紙の持参者オネシモと共に、ローマで獄につながれていたであろうパウロの動静について報告をもたらした人物です(コロサイ四・七)。エペソ六・二一~二二にもこれとほとんど同一の記事が見られます。しかし、ここにはテキコが単独でエペソ人への手紙の持参者であったことが示されています。パウロはまたクレテにいるテトスのもとにテキコを送ろうとしました(テトス三・一二)。けれども予定を変更してエペソに派遣した(第二テモテ四・一二)のです。
 いずれにしてもテキコは上記五ヶ所にしかその名前が登場していませんが、彼はパウロに対してと同時にキリストの教会に対しても「忠実な奉仕者」であったことが記されています(エペソ六・二一)。無名の隠れた奉仕者、働き人、谷間に咲く百合の花のような人物。こうした忠実な同労者、奉仕者があってパウロの伝道は押し進められていったのです。
 志村教会にも多くのこうした現代のテキコに相当する隠れた忠実な奉仕者たちが立てられていることを感謝します。

9月25日

 エゼキエル三八章と三九章にマゴグの地の「ゴグ」という人物の名前が登場しています。一体このゴグとは誰か。
 その人物像にたいして色々な説があるので紹介いたします。(1)BC四世紀のアレキサンダー大王説。(2)ローマ人という説。(3)北からのゴート族という説。(4)小アジア西部にあった国でリュディアの王ギゲス(BC七世紀)ガグとも呼ばれ、アマルナ土板ではガガイアとも呼ばれている説。(5)擬人化されたバビロン説。(6)黒海やコーカサス地方にいた蛮族の王(正確な名前は不明)。非常に恐れられていた軍隊。(7)ヘブル語辞書の著者ゲゼニウス(一七八六~一八四二)は、ゴグは(ヘブル語ではロシュ)はロシヤ、メセクはモスクワ、トバルはトボロスクだと解釈していますが、現代の神学者クレイギなどはこうした解釈が流行しているが、それらは預言者の真意を探り当てたものではなく、むしろ現代の心のゆがみを現すものとして危険視し、退けています。
 預言者の中心的使信は、神が人間歴史を支配しておられること、又、神はご自身の聖なることを顕示する方であることを伝えることにありました。ゴグはいずれにしても終末時における神に敵対する悪の勢力であることには間違いありません。なお、黙示録二〇・七~八の記事の母胎となっているものが、エゼキエル三八章、三九章です。

9月24日

 使徒の働き第四章に登場しているペテロとヨハネは聖霊に満たされて説教していました。ところが指導者層の長老、学者、大祭司たちは彼らが無学な普通の人であることを知って驚いた(同上一三節)のです。
 ペテロは御霊によって確信をもって語ったのです。「この方以外には、だれによっても救いはありません」(同上一二節)と。伝道の業は確かに正しい知識を持って語らねばなりませんが、必ずしもこの世の学問、学識がなければ語れない、といったものではありません。救われた確信と聖書に基づいた知識と知恵が与えられていれば〇Kなのです。
 福音宣教はどこ迄もイエスの救い、神の御独り子キリストにおける永遠の命であることを示せば良いのではありませんか。聖書から脱線して見当違いの事を語らなければ誰でもイエスの素晴らしさを伝えられるのです。とにかくイエス・キリストだけをもっと大胆に語ろうではありませんか。物事を恐れずして前向きにキリストを伝えていこうではありませんか。
 聖書全般についてあれこれ語るまえに、まずイエス・キリスト様について特にマタイ、マルコ、ルカ、ヨハネの四つの福音書からお話をして、個人伝道に打ち込みたいと思います。なお、少しむずかしく言えばイエスの神性、人の子性、贖罪性(メシヤ性)、無罪性、祭司性、王権性、永遠性などにも及んでいければ幸いと思います。

9月23日

 BC七六〇年頃、ナザレ北東約六キロの地、ガテ出身の預言者アミタイの子、ヨナという人物がいました(第二列王記一四・二五)。
 彼はある時、主の声を聞いていました。大きな町二ネベに行き神の言葉を語れと。けれども彼はどうしたことか、その町の民が救われることを嫌い神の命令に背き、逃げました。遠くスペイン、タルシシュの地まで。だが全てを知り給う神はその不従順の態度を悔い改めさせ、反省させんと暴風を起こされました。ヨナは恐怖の状況の原因が自らにあることを悟って、自分を海の中に投じるよう命じます。 嵐はやんだ。結果、船員の異邦人たちは主なる神を礼拝するに至りました(ヨナ書一章)。
 逃亡者ヨナは気がついてみれば大きな魚の腹の中。その暗闇の中で祈るヨナの姿をヨナ書二章にみます。一難去ってまた一難の哀れな男ですが、さすがヘブル人、主を礼拝していた人物だけに祈ることを知っていました。ここでの彼の祈りの特徴は、主は答えて下さった、聞いて下さった、引きあげて下さった、救いは主のものだと、告白して勝利を先取りしている点。  神に向かい神に祈ったヨナは第三章で神の命令に従う、神と共に歩むヨナと変えられているのです。そして遂に第四章でとうごま(ひょうたんの一種)の木の体験を通じて大いなる神の愛を察知したヨナです。彼の人生絵巻の中に創造者である神の本質を知ることができます。

9月22日

 主イエスが期待する働き人とは。
 一、主イエスと同じ心を持つ人。「群衆を見て、羊飼いのない羊のように弱り果てて倒れている彼らをかわいそうに思われた。」(マタイ九・三六)イエスのように、この憐れみの心は、伝道に従事する者が持たねばならない大切なスピリットです。憐れみとは、単なる同情のことではなく「腹わた」から出た言葉で、人々の苦しみ、悩みがイエスの内臓まで届いたという深い意味を表現している語です。よく断腸の思いという言葉も使いますが、まさに腹わたが断ち切られる程の思いで、イエスは群衆を憐れまれたのです。参照聖句、エレミヤ四・一九。
 二、主イエスと同じ幻に生きる人。「イエスはガリラヤ全土を巡って、会堂で教え、御国の福音を宣べ伝え…」(マタイ四・二三、九・三五)あるいは、あらゆるわずらいを直されました。あちこちに伝道して参りましょう。
 三、祈りの賜物を活用する人。ある教会は伝道熱心で有名でした。その秘訣を問うと、牧師は「うちの教会には特別なボイラー室があるのです。ですから熱く燃えるのです」と言って一つの部屋をそっと開けると、皆が聖霊に満たされて熱心に祈っていたのです。外に出かける前にまず心を合わせて祈ろうではありませんか。そしてあらゆる面で主のご期待にそえる働き人になりたいと思います。

9月21日

《リバイバルとは何か》
 「キリスト教用語としては、「宗教復興、信仰復興」の意味。神の恵みと力とが特に著しくあらわれ、信徒を鼓舞激励し、不信仰な人々が信仰に導き入れられ、回心の経験を与えられ、また信仰から離れていた者も、再び信仰に立ち帰らされるような状態を指す。」(キリスト教大事典、一一三五頁)
 「信仰が比較的沈滞している状態から、活力を増してくるのを見るなら、また、キリス卜者であると公言している者が義務に対して今まで以上に忠実になり、人々がこの世から出て新たに教会に加わりそれによって教会の力が増大するのを見るなら、その状態はためらうことなく信仰のリバイバルと呼んで良い状態である。」(ウィリアム・B・スプレーグ)
 「神への従順への新しい開始にほかならない。回心した罪人の場合のように最初の一歩は、深く悔い改め、心を砕かれ、へりくだりと罪の放棄とをもって神のみ前にちりのようになることである。」(チャールズ・G・フィニー)
 「厳密に言えば衰退した状態においてであるが、すでに生きているものを鼓舞することを意味する。それは主として、教会全般および個々人としてのキリスト者に関するものである。リバイバルは神の至高なる恩籠によるものである。」(ジョーゼフ・J・ケンプ)
 「神はリバイバルにおいてご自身の民をおとずれ、彼らを回復し鼓舞し開放し、ご自身の全き祝福に導かれる。結果として福音宣教をもたらす。」(スティーブン・オルフ)

9月20日

 キリストは教会のかしらであり、教会はその体です。キリストは「教会のためにご自身をささげられた」(エペソ五・二五)のです。即ち、キリスト教会が世の中の異教の教会と違うところは、神の御子イエスが教会の頭であり、土台であること、そして十字架の犠牲を払っていて下さる一点です。
 キリスト教会が愛の教会と呼ばれるのは、単に信者同志が互いに仲良くしているからそのように呼ぶのではなく、まずキリストが私たちをこよなく愛してくださる故に、すなわちカルバリの丘の十字架上で貴い血を流して下さったからなのです。
 換言すれば神の愛・十字架愛を基礎、土台としてその上に建てられているエクレーシア、教会がキリスト教会といえます。そしてこの教会から私たちは、生きる力、生きる目的、生きる原理原則を与えられて正しく前進できるのです。そしてこのキリストの教会において主を礼拝し、み言葉を聞き、共に生きる信者、求道者方と神を賛美し、交わり、奉仕してキリストに喜ばれる者となって参ります。
 新約聖書エペソ書は、教会論を展開しています。主の教会はどのようなものか、どうあるべきかなどを教えていてくれます。いずれにしてもキリストは万事を全面的に満たす、そして完成成就することができる方なのです。充満(プレローマ)させて下さるこの方に全てをゆだねて勝利して参りましよう。

9月19日

 米国のある刑務所に野獣と呼ばれていた囚人がいました。彼は自分が気に入らないと監守であろうと、同じ囚人であろうとすぐ殴ってしまう、暴れん坊でした。
 ところがある宣教師から「獄中からの賛美」という本をもらいました。彼はその当時独房に入れられ、やけになっていよいよ口汚く大声を挙げていました。しかし、この本を読んで変わり始めました。最初は「全てに感謝しろだって?バカバカしい。だが神様とやら、このコンクリートの壁にもこの暗闇にも感謝するぜ。ハハハ…そこのゴキプリも感謝だなぁ。ハハハ…」などと言っていました。
 ある日、「私はお前を愛しています」と言うイエス様の夢を見ました。そこから彼の態度は一変し、やがて獄中から出て来た時の彼の顔は別人のように輝いていたのです。彼は監守を抱きしめ、悔い改めて涙で主を証ししたのです。
 主への感謝と賛美は明日への前進の力です。主を崇め主を賛美しましょう。「ハレルヤ。主に新しい歌を歌え。聖徒の集まりで主への賛美を。」(詩篇一四九・一)。「いつも主にあって喜びなさい。もう一度言います。喜びなさい。」(ピリピ四・四)。
 「牢につながれている人々を、自分も牢にいる気持ちで思いやり、また、自分も肉体を持っているのですから、苦しめられている人々を思いやりなさい。」(ヘブル一三・三)。

9月18日

 聖書的キリスト教とは何か。それは主イエス・キリストを信じ、聖書全体が伝える神観、キリスト観をもつキリスト教です。 三位一体の教理なども、全く聖書から聞いて初めて与えられた神観なのです。哲学者プラトンやアリストテレスの教えが少しでも入ったならば三位一体の真理は得られませんでした。
 同じように、キリスト論についても、三二五年のニケア会議において「ホモウーシオス」か「ホモイウーシオス」か、ギリシャ語の文字イオタ(ι)一文字をめぐって厳密なミクロの戦いだったのです。それはどちらがより聖書的かの論争で「ホモウーシオス」に確定しました。即ち父なる神は、子であるイエスと同類でないが、しかしその本質において同質であると決定したのです。
 その後、五世紀に制定された「アタナシオス信条」の中で、次のようにまとめられています。「我らが一つなる神を三位において、三位を一体において礼拝することである。しかも位格を混同することなく、本質を分離することなく」と。
 三位一体を否定するユニテリアンというグループの影響を受けたかつての大正時代の日本作家、国木田独歩、北村透谷、島崎藤村なども一度は洗礼を受けながら、残念にも信仰を捨てるのです。正しい聖書観、神観、キリスト観等を身につけて現代の異端、ものみの塔、統一協会、モルモン教などに対決してゆかねばなりません。

9月17日

 かってパウロはアテネを去ってコリントで一年半伝道した折、アクラ、プリスキラという夫婦と出会いました。両者は天幕作りの同業者であったことが知り合うきっかけでした。そして一緒に住んで仕事をしていました(使徒一八・一~四、二六)。この夫妻とはパウロは終生変わらない信仰者、伝道者としての主にある交わりを持つようになりました(使徒一八・一八、二六、ローマ一六・三、第一コリント一六・一九、第二テモテ四・一九)。
 しかし、この出会いに主なる神様の不思議な摂理と厳かさを覚えます。私達の教会におけるお互いの出会いもまた本当に考えてみれば、偶然のようでありますが、神様の御手が互いの中にのべられて、教会の兄弟姉妹として連なっているのです。そしてこの教会に仕えること、すなわちその使命に生きること、その為に召されて信徒とされていることに深い神のご計画の実現を思います。
 アクラ夫妻は迫害のためイタリヤから逃れてきた天幕造りの職人で、前記のように彼らはパウロと同居して彼を助けました。のちにはパウロとエペソに一緒に旅立つ迄に信仰が成長して参りました。その秘訣はパウロから御言葉の真理を学び続けたからでした。コリントの宣教・伝道は結局このような神によって召し出だされた信仰に満ち溢れた夫婦との出会いから始まったのです。

9月16日

 先週初め(二〇〇一年九月一一日)、テロ事件としてはこれまでにない程の大規模な破壊がアメリカの二ューヨークとワシントンに同時発生しました。全世界の誰もが驚きました。すでに数千人の犠牲者がでています。平和が乱されたのです。二〇世紀は特に戦争の世紀だったとも言われていますが、二一世紀もこのような形で平和への挑戦行為が勃発しました。アメリカは報復攻撃を準備しています。また新たな戦争が開始されるのでしょうか。
 こうした危機的な時代にあって、わたしたちは例え小さな祈りであってもやはり主イエスの御名で「平和」を祈らねばなりません。主イエス・キリストの父なる神は平和の神です(ローマ一五・三三、一六・二〇、第二コリント一三・一一、ピリピ四・九)。
 米国が敵意、対立、憎しみ、仕返し、攻撃、復讐ではなく、キリストにある赦しと愛、平和と共存、共生の精神を持って進みいくように祈らねばなりません。米国クリスチャンたちの間からこの時にこそ、聖書の赦しのスピリットに立って、平和主義が叫ばれ、平和運動が推し進められなければならないと思います。剣を取る者は剣で滅びるからです(マタイ二六・五二)。
 私たちは、私たちの主イエス・キリストによって神との平和をもっている(ローマ五・一)のですから、個人間においても常に平和に役立つことと、お互いの霊的成長に役立つことを追い求めていきたいものです(ローマ一四・一七~一九)。

9月15日

 ヘブル書第三章一~六にはイエス・キリストがモーセに優る理由を記しています。まず、モーセは家の一部分として家に属しているのに対し、キリストは家の建築士であること。第二にモーセは家の中にいる僕ですがキリストは御子として家の上にあつて治める方であるということです。
 著者はまずこの世界を神の家、また神の家族と考えています。この「家」には、建物、また神の家族の人々という二重の意味があります。ギリシャ語のオイコスにこの二重の意味があって、世界は神の家であると同時に神の家族なのです。
 著者は四節で神が世界の創造主であると宣言し、そしてこの「家」すなわち世界を治めるのはキリストだと六節で語ります。ところがモーセは、神の家の一部に過ぎません。この家の「しもべ」(同上五節)なのです。治める者と、仕える者との差異は明らかです。モーセは神によって造られた人間、そして神によって創造された世界、その家の中で働く一家族、一要員にすぎません。けれどもイエスは神のひとり子として忠実に神の家を治められるのです。
 たしかに忠実さにおいてはモーセもイエス様も同じでした(同上二~六節)。けれども冒頭の二つの事柄でモーセとキリス卜を比較する時に、明らかにイエス・キリストの優越性がわかるのです。

9月14日

 ルカ一五章には、パリサイ人および律法学者たちの批判的つぶやきに対してなされたイエスによる三つの例え話が並置されています。三~七節の<失われた羊の回復>、八~一〇節の<失われた銀貨の発見>、一一~三二節の<失われた息子の帰還>です。主題は喪失と回復と言ってよいでしょう。ここには失われた者に対する神の愛が、すでに、今ここにある喜びといっしょに示されています。イエス・キリストによって失われた罪人が取り戻される喜び。まさに「楽しんで喜ぶのは当然」(三二節)である現実が二一世紀の今日にも存在しているのです。
 けれどもこれを認めることができない自称義人がいるわけです。皮肉をもって言えば、彼らは医師を必要としない健康な人ともいえます。しかし、主イエスが来られたのは、そのような人を招くためではなく、罪人である病人を招く為でした(ルカ五・三一、三二)。そのような人たちがイエスの話を聞こうとして集まってきました。その彼らに例え話でご自分の意図を伝えようとされました。すなわち、神の前に失われている悔い改めを必要としている罪人を探しだして救い、天に喜びを、また、み使いにも喜びをあたえようというものです。一人の人間が救われるということは、それほどに楽しい、うれしい、喜びの大祝宴を開いて祝う事柄なのです(ルカ一五・二四節)。

9月13日

 《日々生命(いのち)新しくされて》
 老年は一般的に言って冬の情景に似て、全体に暗いものがあります。旧約の伝道者の書一二・一では、「わざわいの日が来ないうちに、また『何の喜びもない』と言う年月が近づく前に」と老齢を描写しています。確かに体力は衰え、髪は白くなり、足腰は弱くなりという訳で、一日の夕暮を思わせる淋しい状況であります。
 けれどもクリスチャン老人は、「外なる人は衰えても、内なる人は日々新たにされています」(第二コリント四・一六)のでそんなことで弱音を吐いておれません。なぜなら使命、任務が与えられているからです。祈ります、伝道します、証しします、お世話されるだけではなく、お世話もします、賛美します、また出来る仕事は積極的にしますなど、すべきことは山程あるのです。
 もちろん聖書は老眼鏡をかけつつも、懸命に読み味わってゆかねばなりません。喜んで負うべき重荷と十字架とは、年老いたとは言え減量されていません。故に、若いねーと言われつつ美しくクリスチャンは年老いてゆくのです。重荷も使命も働きもなくなればもう人生の終着点を迎えるより他ありません。日々ご聖霊によって「いのち」新しくされ、活き活きと笑顔をもって歩み、老いの暗いイメージを吹き飛ばして明るく進んでいこうではありませんか。

9月12日

 アメリカ・ミズーリー州スミストンという人口わずか五〇〇人ばかりの小さな教会(定員一五〇席)に、一九九六年からご聖霊が顕著に働き始め、今やアメリカ国内のみならず、海外からもスミストンという本当に名も知れ渡っていなかった田舎の村の教会に、人々が押しかけているのです。
 リバイバル集会が始まる前から玄関先には列が作られており暑い炎天下信者さんたちが忍耐強く並んでいました。従来からの礼拝堂の講壇には大きなテレビが置かれ、隣接の増築した三〇〇人位入る第二チャーチも一杯でした。集会一時間前から冷房のよく効いている会堂の中に入ってすでに賛美したり、祈ったりしている姿が目につきました。こうしてアメリカとしては小さな教会にかれこれ四年になろうとしていますが、この無名のチャーチに人々が集まるようになったというのです。
 原因はというと特別考えられず、ただもうご聖霊の働きというより他ないようです。もちろん牧師夫妻はじめわずかな信者たちで一生懸命に、教会成長とリバイバルを「祈り続けていた」のですが、それがここにきて一度に爆発した感がある訳です。
 日本の教会のリバイバルも決して単なる夢、幻ではなく、実現するもの、祈りはかなえられると確信して進もうではありませんか。しかし、そこにはなお継続的な祈りが必要であることを覚えましょう。ハレルヤ!

9月11日

 「何の為に生まれてきたのか」「なぜ生きて行かねばならないのか」人間はこうした問題に一度は思い悩むものです。聖書は明確に人生の意義、目標を示しているのです。
 けれども一高の秀才、藤村操が聖書を信じる事もなく一九〇三年(明治三六)六月、日光華厳の滝で「巌頭の感」を残し滝に飛びこんで自殺した時には世に大きな衝撃を与えました。その時の有名な辞世の句。「悠々たるかな天壊、凌々たるかな古今、われ五尺の小躯(しょうく)をもって、この大を計らんとす。ホレーショの哲学、何のオーソリティ(権威)に価するものぞ、万有の真相一言にして尽くす(悉す)、いわく〝不可解〟。われこの恨みを抱いて煩悶終に(遂に)死を決するに至る。既に巌頭に立つに及んで胸中何等の不安あるなし。始めて知る。大いなる悲観は、大いなる楽観に一致するを」と。
 最近の日本では年間三万人以上の自殺者が出ているのは、人生の行先に光が見えない、希望が持てない心の闇、虚無感に囚われているからだと思われます。イエス・キリストは「わたしは、世の光です。わたしに従う者は、決してやみの中を歩むことがなく、いのちの光を持つのです」(ヨハネ八・一二)と仰せられ、今日もキリストは光として私達の心の中に輝いて下さいます。まだ暑さは残っていますがこの初秋の良い季節にキリスト様を受け入れ信じ、希望を天国において力強く前進しようではありませんか。

9月10日

 詩篇七一篇は老いたる者の祈りです。作者は「神なる主よ。あなたは、私の若いころからの私の望み、私の信頼の的です」(五節)と告白しています。そして危機の中で「年老いた時も、私を見放さないでください。私の力の衰え果てたとき、私を見捨てないでください」(九節)とも叫んでいます。信仰を持って生涯を貫いた一老人の祈りです。
 信仰者は危機の中にあって、まず一節から三節で「助けてください」「救ってください」と祈っています。年齢に関係なくヤーウェなる神を信じるものでも人生には様々な形で「危機」は訪れます。ましてや老いたるものにとって年齢を重ねてゆくことは、体力の減退を意味します。また気力も徐々に失せてゆくなど、社会生活に夕暮れ時を実感ぜざるを得ません。そんな中に将来への希望も失い、生き甲斐ももてずして、心に動揺を覚えて自らの手で生命を絶とうという誘惑にかられることも無いとはいえないでありましょう。一七節から二十節では、若い頃から受けた神の恵みが、未来への希望の根拠となる言葉を吐いています。「私を再び生き返らせ、地の深みから、再び私を引き上げてくださいます」(二〇節)と。
 旧約の詩人は幸いに創造者なるまことの神を信じていました。故に彼は「私の口には一日中、あなたの賛美と、あなたの光栄が満ちています」(八節)と勝利しています。このような真実の信仰を持って人生の危機を何度も乗り越えてゆきたいものです。

9月9日

 パウロ、シルワノ、テモテ達は激しい苦闘の中で(第一テサロニケ二・二)、力と聖霊と強い確信とによって(同一・五)、大胆に神の福音を語ることが出来ました。ピリピでは迫害を受け投獄せられ肉体的、精神的にも多くの苦痛を味わいました。さらに、はずかしめさえも受けました(同二・二)。それでもへこたれることなくテサロニケの教会を生み出すまで、懸命に福音を宣べ伝えました(同二・九)。
 またテサロニケの信者は信者で、多くの苦しみの中で聖霊による喜びを持ってパウロ達の語るみ言葉を神の言葉として受け入れ、使徒たちと主イエス様に見習う者となりました(同一・六、二・一三)。それだけではなく信仰の働き、愛の労苦、主イエス・キリストへの望みの忍耐に輝いて、すべての信者の模範にまでなっていきました(同一・三、七)。
 これら全ての誉れある姿勢こそイエスの福音、神のみ言葉の影響力であります。み言葉を語る者も受け入れ信じ、実生活にとり入れていく信者たちも、ともに神のみ言葉、福音の力によって全く変えられ、どのような苦しみ、戦いにも充分耐えていくことができました。私たちもますます主により頼み、神のみ言に力づけられて影響力あるクリスチャンになっていこうではありませんか。
 主イエスを信じること、福音を信じ受け入れることは本当にすばらしいことです。新しい方々も恐れず迷わず喜んで我が心にイエス様を迎え入れてください。

9月8日

 主の祈りの第五は過去に犯した罪の赦しに関するもので(マタイ六・一二)、続く第六の祈りは再び新しい罪を犯すことのないように、試みに合わせないで下さいと祈る必要性を教えています(同一三節)。
 私たちキリスト者といえども弱い存在。原語「パイラスモス」は試みとか誘惑という二つの意味をもつ語。キリスト様と違って人間はありとあらゆる誘惑に負けやすい者達。金銭に弱い、性欲に弱い、様々な苦しみに弱い。すぐに悲鳴を上げ、果ては死にたくなる。
 サタンは試みる者(マタイ四・三)として姿、形を変えて私たちに迫ってきます。誘惑者として接近してきます。何とかしてキリストから引き離そうとします。甘い声をもって、恐ろしい声をもって。時には油断させ、気づいた時には教会からも聖書からも、一切キリスト教的なものに無縁になっていたということさえ起きます。
 しかしながら人が誘惑にあった時、神によって誘惑されたと言ってはいけません(ヤコブ一・一三)。神は人を誘惑されたり、人を倒れさせようとしてつまずきの石をその前に置かれることは決してありません。誘惑するのは悪魔です。また自分の欲に引かれて誘惑されるのです。いずれにしてもパイラスモス(試み、誘惑)に無力なだけ、真剣に祈って主に全面的にお頼りしてゆきたいものです。ただ時折、主である神は愛するわが子を訓練、鍛錬するために試練に合わせなさる事は皆無ではありません(ヤコブ一・二)。

9月7日

 キリストは目印として光っていて下さいます。灯台が岬の突端で光っているように。また、高層ビルの屋上であるいは大煙突の頂点で、ライトがよく点滅しているように。飛行場の滑走路両側でやはり光が等間隔で灯っているように。全て衝突の危険を知らせ、対象物の存在位置を認識させるものとして必要な光であります。
 キリストはご自分の所に人々が来て救われるようにと、自ら目印たらんとしてこの世に現れて光り続けて下さっています。隠れておいでになるのではありません。ヨハネ一・五では、「光はやみの中に輝いている」としるされています。この光は当然ながらイエス・キリストであります。ところがこの世の「暗闇は光を理解しなかった」(五節、新共同訳)のです。この状況は二一世紀の現在も厳然と続いているのです。
 しかし選ばれてクリスチャンとされた私たちはこの光のキリストに従っていく時、私たちは決して闇の中、罪人の道を、また、永遠への滅びの道程を歩むことがなく、むしろ命の源、光の源であるキリスト御自身をもつことができるのです。人生不可解ではありません。何のために生まれ、何のために生きているのか、その目的は光であるキリストに従う時、明白になります。クリスチャンは世において、主イエスを紹介します。目印として生きる者でもあります。

9月6日

 「神の全能の力の働きによって私たち信じる者に働く神のすぐれた力がどのように偉大なものであるかを、あなたがたが知ることができますように」(エペソ一・一九)とパウロは祈っています。私たちも日常生活の中でその全能なる神の素晴らしさを少しでも体験させて頂き、主を証しするものでありたいものです。
 主イエス・キリストが神の全能に対していかに強い深い信頼をその生涯を通じて持っておられたかということは、福音書のどの断片をとっても証しする事ができます。たとえばマタイ六・二五以下で「何を食べるか、何を飲むか、何を着るか、などと言って心配するのはやめなさい。こういうものはみな、異邦人が切に求めているものなのです。しかし、あなたがたの天の父は、それがみなあなたがたに必要であることを知っておられます。…だから、あすのための心配は無用です」と語られています。
 繰り返しますが、神の全能の力を旧・新約聖書全体、とりわけキリストの真理の光において見ていく必要があります。教会最古の信条たる使徒信条において、「天地の創造者」は「全能の父」であるとありますが、「子」なるキリストに対して「父」であると同時に、私たち人間にとっても父なる神なのです。わたしたちの父が全能であられるということは何という頼もしいことでありましょうか。益々力強く信頼していきたいものです。

9月5日

 このたび六名の方々が水の洗礼を受け(一九九三年)、新生活へのスタートを切られました。おめでとうございます。どこの誰よりも天の主なる神が喜んで居られます。
 しかし今後の信仰生活の過程で様々な誘惑や困難に出会うでしょう。その時、自分が受洗の恵みにあずかっている事をいつも想起して、その非常時を乗り越えていって頂きたいと思います。自分の力だけで気張り、踏ん張って進むのでなく、いつも単純に主の前に祈りかつ主を信じ頼って、また感謝しつつ前進致しましょう。私共の生活はご聖霊が保証下さって居ます。救いの福音を聞き、キリストを信じた結果、約束された聖霊の証印を押されているクリスチャンは、神の国を継ぐ者達です。
 「私たちは御国を受け継ぐ者ともなりました。みこころによりご計画のままをみな行う方の目的に従って、私たちはあらかじめこのように定められていたのです。」(エペソ一・一一)
 この御国の相続の保証として、聖霊を各自に賜わっている訳です。ですから、少しの不安、心配もなく、神の子の自覚を益々深めて、備えられ、与えられた信仰生活は、必ず主の御霊によって守られ、持続されてゆく事を確信してください。聖徒達よ、約束の聖霊のバプテスマを次段階に受けて頂きたいと願います。

9月4日

 イスラエルの王、ヨアシュは三回矢を射て止めてしまったので、エリシャは、五回、六回と射るべきであったと怒りました(第二列王記一三・一九)。私たちは祈りの矢を主に向かって放ち続け、リバイバルを勝ちとっていきたいと願います。何度祈っても答えられないと、つい祈ることをストップしてしまいがちです。主は必ずこの異教国日本をも霊的に作り変えて、多くの人々をクリスチャンにして下さいます。信じて疑わずとにかく祈り続けましょう。
 貧しい中米グァテマラにあるモロンガでは、人口一万八千人の九〇パートセントが生まれ変わったクリスチャンとなり、地の産物までが普通の三倍、しかもおいしいものが収穫されているそうです。ネパールでは一九九一年から福音の門が開かれ、わずか八年で二〇万人のクリスチャンが生まれました。タイのバンコク希望教会はこの一七年間に、全国三八六市に七〇〇の教会を誕生させています。驚くべき数字です。さらに二〇一〇年までに八万七千のすべての町々に教会を作っていこうとビジョンに輝いています。
 主の降誕二千年の来年までに、今世紀最後の年AD二〇〇〇年にはぜひ当教会も会堂が満杯になるよう期待と信仰をもって人々をお連れしたいものです。まず何回も祈り続けましょう。

9月3日

 <牧師夫人を尊敬し、愛し、祈ってください>
 牧師と結婚し、夫と子供に仕え、それ以上に信徒一同に仕えている牧師夫人を決して噂の種にして、悪く言いふらさないようにしていただきたいのです。悪口をいう時、サタンの思う壺にはまっていることになります。彼女も牧師と共に神によって召され、油注がれている存在。神の権威を認めるのなら当然聖霊の油注がれた夫人伝道者の立場をも認め、むしろ祈り尊ばねばなりません。
 サタンはいつの時代も内部混乱、同士打ちを計画します。そうではありません。未信者はもちろん、信者すなわち小羊たちの為に心血注いで祈り、心配し、身が細る程に労している者の為に、欠点をあばき、落ち度を指摘して自己満足しておられましようか。
 家内はある時、二時間に亘ってある方の悩みを電話でお聞きしたことがありました。聞くという事も中々大変なことです。神と人に仕える者として当然の重荷かもしれませんが、主のお助けと信徒方の祈りの応援があって出来る務めでもあります。教会の母として、霊的、信仰的母として忍耐の限りを尽くしてなお前進している牧師夫人のために、もっと祈り、愛し、尊び、仕えて頂きたいと願います。それがひいてはあなた自身の祝福に連なり又、教会リバイバル・日本リバイバルに大きく影響していくことを実験、体験して頂きたいと思います。
 「私のためにも祈ってください。」(エペソ六・一九)

9月2日

 パウロは非キリスト者がクリスチャンになったことを、「新しく造られた者」といっています(第二コリント五・一七~一八)。これはイエスを信じて救われたもの、 罪を赦された者、新生した者を指しています。キリスト様を抜きにして自分の努力によって新しくなったものではありません。どんな人間もキリストを謙遜に受けいれるなら、キリストと強いきずなで結び合わされ、色々な祝福にあずかることができるのです(ローマ五・一~五)。
 キリストにある者が、どうして〈新しく造られた者〉と、言うのでしょうか。生来のままですと、私たちはキリスト様とはなんのつながりもない訳です。これでは創造主の恵みは頂けません。しかし、ただ信じたというだけで、その人は新創造されたのです。ここにはどこまでもイエスの十字架上での犠牲が基礎、土台となっているのです。
 キリスト者といえども、外見はノン・クリスチャンの人たちと何も変わりません。けれども中身が変わったのです。いや変えて頂いたのです。キリスト様がわがうちに住んで下さるようになったのです。逆に言えば、私たちがキリストのうちにあるように造り変えられたのです。今やイエス・ キリストとは不可分離の関係が生じたのです。なんと言う素晴らしいことでしょう。とにもかくにも、ここにはキリストによる新創造が、神による一新が賜物として与えられました。宝の民とされたのです。

9月1日

 ヘブル書四・一には神の安息に入れないような事のないように注意しようと、記されています。そのために神をおそれる心を持とうではありませんか、とも勧められています。しかし、クリスチャンのもつ恐れは、仕事から逃避させるものではなく、また活動を停止させる麻痺状態をつくり出すものでもありません。この恐れはクリスチャンの持つあらゆる力を結集し、真に価値あるものを得ようとの努力を生み出すものです(バークレー)。
 現代の私たちにもやがて訪れる永遠の神の安息の地、天国に入る約束が与えられているのですから、不信仰を起こして入り損なうことのない様にしたいものです。万が一にもこれに入れない様なことのないようにと、一節で注意をよびかけています。
 さて、言葉というものは、どんなに尊く価値があっても、それを聞く人が信仰によって受けいれなければ何の役にもたちません。「その聞いたみことばも、彼らには益になりませんでした。」(ヘブル四・二)聞き方にもいろいろあります。無関心、批判的、懐疑的、軽蔑的、興味のない聞き方などです。大切なのは熱心に信仰的態度を示して聞く事です。神の安息の約束の言葉は、人間がそれに命をかけ、それによって全生活が支配されるべきものであります。今日神のみ声を聞いたら、(聖書の言葉を通して)心をかたくなにせず、従順に信じて神の安息に入りたいものです(同上三・一五)。

8月31日

 アブラハムの生涯については、創世記一一章二六節以下、一二章さらに二五章一〇節迄に記されていますのでぜひ繰り返しお読み頂きたいと思います。
 最初はアブラムといって、ウルの住人で異教徒でした。サライと結婚し、カナンに移住し神の召しを受け信仰によって主に従い(へブル一一・八)、行く先を知らないで出立します。が、遂にカナンを約束の地と示され(創世記一二・七)そこに入国します。その後ききんのためエジプトに移住しますが、裕福になって約束の地カナンへ帰国します。また甥のロトと別れねばなりませんが、捕虜となったロトを助けるアブラハムでした。メルキゼデクの祝福を受け、主より契約更新、息子の誕生の約束を頂いて、信じた結果、義と認められました。
 ソドムのためにとりなしの祈りをしますが、ソドムの滅びるのを見たのです。そして信仰によってロトを救い出します。その後一人子イサクを祭壇にささげよとの大きな試練を受けますが、主の山に備えあり、と信じてささげきった時に最後の勝利が体験できた人でもあります。彼の一生は一七五年でした。彼の特徴は、祈りの人、信仰の人、服従の人、裕福の中にも(創世記一三・一一)行き届いた配慮をする人でありました(同上二五・五~六)。

8月30日

 聖書の神のご性質は「全能」性ということであります。聖書冒頭にまずそれが示されています。「初めに、神が天と地を創造した」(創世記一・一)と。さらにアブラハムに対して「わたしは全能の神である」(同上一七・一)と、仰せられました。
 その後、イサク誕生を預言した「主に不可能なことがあろうか」(創世記一八・一四)にも表されています。イスラエル歴史四千年の記録である旧約聖書は、神の全能性を証しするものです。「万軍の主、イスラエルの全能者」(イザヤ一・二四)ともあります。
 新約時代に入り、イエスを産んだマリヤは男を知らずして、すなわち処女にてご聖霊によって身重になり、出産にこぎつけるお話。それは正に「神にとって不可能なことは一つもありません」(ルカ一・三七)を証明する奇跡の実記録です。そして神はさらにイエス・キリストを通して数々の奇跡、しるしをもって自らの大いなることを示されました。
 ヨハネ福音書には、七つの奇跡がしるされています。さらに十字架後、アリマタヤのヨセフの墓から見事にイエスは復活されています。この事はイエスを墓から甦らしめた創造主の全能性を記しているのです。
 パウロはエペソ書を通しその事実を告白しています。「神は、その全能の力をキリストのうちに働かせて、キリストを死者の中からよみがえらせ…」(エペソ一・二〇)と。想像を絶する偉大な神であります。

8月29日

 イエス・キリストはルカ一三章三節で、「そうではない。わたしはあなたがたに言います」と強意の否定語をまっさきに出し、ピラトの弾圧による犠牲者も、シロアムの塔の崩壊で死んだ人たちも、今ここにいる者たちと比べて罪が重かったなどという事は決してないと告げます(ルカ一三・一~五)。これがイエスの確信でありました。
 ある人たちはこれら二つの事件で死んだ者達は何か悪い事を行なったので、その報いとして死んだという因果応報的な考えをもっていたので、イエスはそうではない!と強く否定されたのです。むしろ、他人が蒙った災難を見て自分たちを彼らよりもましだと考えたり、あるいは彼らを気の毒がるような、その心こそ、実は神の裁きの対象となるのです。なぜならそこには自分は大丈夫だという自己保全を喜ぶ思いがあるからです。
 「あなたがたも悔い改めないなら、みな同じように滅びます。」(同五節)この言葉は、「あなたがたも彼らと同じ罪の状況にあります。だから悔い改めなさい」という、犠牲者たちといま生きている人々とを同じように考えての呼び掛けというより、原文から受ける印象はもっと強いものがあります。「むしろ、お前たちの悔い改めがなければ、全部同じように滅びるのです!」であります。主イエスは犠牲になった人たちが、一般の人間より罪が深かったとも、そうでないとも言っていません。彼はこの事件を他人ごとのように見ていません。

8月28日

 聖書の神、主なる神とはどのような神でしょうか。私たち人間が勝手気ままにその手で作った芸術作品のような、死んだ非人格的、非生命的存在ではありません。生きた生命脈打つ、人格ならぬ神格をもち給う全能者です。
 故に詩人ダビデはこの神をわが前において、叫び祈るのです。「私が呼ぶとき、答えてください」(詩篇四・一)と。そして彼は「私が呼ぶとき、主は聞いてくださる」(同三節)と告白し、この主によって始めて真実の喜びと平安が到来することを、証ししています。特にその喜びは「穀物と新しいぶどう酒が豊かにあるときにもまさっています」と表明しています(同七、八節)。
 人はどれ程に豊かなこの世の富を所有しようとも、それだけでは決して喜び得ないように、その人間性は本質的に、神によって造られていますから、この造物者、創造者なる聖書の神との出会いがなければ決して平安も真の喜びも沸き上がってこないのです。
 また創造主の中にのみ真の平静さが秘められているのです!ですから確信をもって、主に拠り頼んでいこうではありませんか(詩篇四・五)。詩人は八節で「平安のうちに私は身を横たえ、すぐ、眠りにつきます。主よ。あなただけが、私を安らかに住まわせてくださいます」と、どのような状態に在ったとしても、心配や恐れによって妨げられることのない眠りは、創造主によって与えられるものであることを告白しています。

8月27日

 すでにクリスチャンの方たちは探し、見いだし、ご自分のところに迎えいれて下さった愛の神に、心から感謝したいと思います。
 反対にまだ父であられる神に距離をおいておられる方たちは、ご自分が主イエスを通して救われねばならない者であることを認め、この物語にある弟息子のように「お父さん。私は天に対して罪を犯し…ました」(ルカ一五・一八)と悔い改めて、謙遜に主なる神のまえに頭を垂れてください。その時にこそ、天の父は大いに喜ばれ、またあなたも主に在ることの喜びを体験できるのです。失われた者に対する神の愛が、すでに、また今ここにイエスと共にあるのです。イエス・キリストによって失われた罪びとが取り戻される喜び。まさに「楽しんで喜ぶのは当然ではないか」(同一五・三二)の現実が、神の前に悔い改めるあなたの現実となるのです。
 けれどもこれを認めず喜びに対して嫉妬と怒りをもつてする兄息子のようないわゆる「正しい人」がいます。かれは悔い改めを必要と感じていない者です。けれどもイエスの関心は弟息子のような父のもとに謝って帰ろうという人にあるのです。父なる神に近寄るのか無関心をもって遠くに離れて立つのか。この父であられる神の前で燃え上がるような聖なる喜びを体験しようではありませんか。

8月26日

 詩篇八四篇には、「純粋な巡礼の歌」(キッテル)が記されています。詩人は遠い異国よりはるばると、神の都エルサレムを慕って巡礼者の群れに加わり、この歌を歌っています。万軍の神、主を求め、主の大庭を恋いしたっている心情は、四二篇あるいは四三篇の詩と一味相通じるものがあります。
 ここには「なんと幸いなことでしょう」の語句が、四、五、一二節の三ヶ所に記されています。すなわち、幸いな人とは神の家にすむ人のこと、換言すれば主なる神と交わる生活、主に祈る生活を持続している人、また、主を朝に夕に賛美する人を指しています。決してこの世の金銭、物質に左右されない信仰的、霊的幸せを示しています。
 第二に巡礼者には神の力、全能の主の力、今日的に言えば聖霊のお力が注がれているので、涙の谷、枯れた水なき谷を歩むような辛い日々を送るようなことがあっても、そこを主の力ではねのけて力から力へと進みゆく、泉の湧く場と変えられていく幸せが体験できるというのです。
 第三に主に信頼する人の幸せです。万軍の神が盾となって守ってくださる幸福です。一〇節以下には礼拝者の幸いが描写されています。本編は巡礼者の歌ですが、私たちもみな天国を目指して旅する巡礼者です。日夜キリストを目標としてひたすら求道の一路を進んでまいりましょう。

8月25日

 「私たちの国籍は天にあります」(ピリピ三・二〇)。わが志村教会の信仰の勇者、○○○○姉が天寿を全うして、静かに主のみもとに召されました。彼女が当教会に導かれ入信受洗したのは一九五四年(昭和二九)一一月下旬。以後四八年間の長き月日、主なる神、また教会と人々に仕え、本当によく伝道した姉妹でした。
 今からさかのぼる約二〇年間は老人ホームでの生活でしたが、院内で誰にでも気軽に声をかけて教会に人を誘う文字通り主の証人でした。老人ホーム伝道のきっかけを作ったのは○○姉でした。最初は三名からスタートし、多い時期には十数名が礼拝に出席されていました。牧師五〇代の頃でした。
 彼女は関東大震災、また第二次世界大戦中における東京大空襲の被害者の一人でもあり、さらに戦死でご子息二人を亡くされ、ご長男は終戦と共に外地から帰国しても栄養失調で入院、結核を併発して病死されるという数々の痛手も体験されました。しかし長年連れ添ったご主人を主に導き、クリスチャンとして天国にお送りできたことは幸いでした。
 「これらの人々はみな、信仰の人々として死にました。約束のものを手に入れることはありませんでしたが、はるかにそれを見て喜び迎え…ていたのです。」(ヘブル一一・一三)

8月24日

 天の神は、車を二台もっている人間を、全く車をもたない人間よりも、持っているという理由で高く見給うということは、絶対ありません。また逆にその人間がさらに普通の学位とか博士号を持っているからといって、とくに彼を愛し給うことはないと確信いたします。換言すれば、キリスト教の本質は、人間自身が作ったあらゆる差別というものを打ち壊して、等しく見ていきましょうということなのです。
 今回(一九九六年)のアトランタオリンピック会場には、黒人の人たちの住む町の近くにありながら、殆ど彼らの姿が見えないのはどういう事かと、新聞記者が疑問をなげかけていました。こうした現象は白人が黒人を差別していなければいいのですが、人間はすぐ他者より優位に立とうとして差別し排斥し、平等に扱おうとしない、またその視点に立てない弱さ、罪深さがあります。しかし人間世界には、いくら機会を均等にしても権利を平等にしてもまた、たとえ差別を撤廃したとしても各人の能力の違い、境遇における違いなどはどうすることもできません。
 けれどもこの違いを互いに認め合い、相違を越えて愛し合う力をイエスから吸収していかねばなりません。福音伝達の第一は、キリストが「へだてのない心で人間を見、救おうとしていて下さる」事を伝えるにあります。その気持ちで私達もまず人に対応していきましょう(ヤコブ二・一~九)。

8月23日

 「一日一五分の祈りがその人を変える」すなわち、五分聖書を読み、五分祈り、五分黙想します。必ず不思議なことにあなたの生活に変化が起こります。
 まだの方は実行してみて下さい。一日の一五分を惜しむ人は霊的、信仰的にも大損を致します。どんなに忙しくてもまず神の前に静まる一五分を惜しんではなりません。この良き習慣がつくまで頑張りましょう。いわゆるディボーション(礼拝・黙想)の時をもつ信者に敗北の信者はいません。
 以下は瀬尾要造という牧師の言葉です。「力は孤独の内に伸びて参ります。そしてみ言葉と祈りと黙想を通して出来上がっていく品性は、どのような賜物よりも重要です。そして、それは永続的な感化、影響をもたらせます」と。
 「ここの(ベレヤ)ユダヤ人は、テサロニケにいる者たちよりも良い人たちで、非常に熱心にみことばを聞き、はたしてそのとおりかどうかと毎日聖書を調べた。」(使徒の働き一七・一一)「主のことばは、とこしえに変わることがない」(第一ぺテロ一・二五)「聖書はすべて、神の霊感によるもので、教えと戒めと矯正と義の訓練とのために有益です。」(第二テモテ三・一六)「救いのかぶとをかぶり、また御霊の与える剣である、神のことばを受け取りなさい。」(エペソ六・一七)

8月22日

 今日は礼拝出席に当っての心がけについて三点だけ記したいと思います。
 第一に、礼拝に遅れないように。遅れる事が平気で、しかも習慣にならないよう気をつけたいものです。けれども、遅れた事で失望しないように。
 第二に、新来会者への配慮ということ。席までの案内、聖書、聖歌、週報、伝道用印刷物などの手渡し、さしつかえない限りでお名前、住所など書き残して頂く。なるべく同性同志で並んで着席し、聖書など開いてあげる親切配慮。
 また、主に在る愛の心と笑顔で応接してほしいのです。なお、礼拝後の会話は主の恵みと祝福を証しします。お相手のプライバシーに立ち入って色々質問しない事は常識。もし悩みなど打ち明けられた場合は、牧師に連絡します。また、自分なりに聖書を開いて慰め、励まし、祈りなどしてほしいと思います。議論しない、雑談に流れない、みことばによる個人伝道。
 第三に、礼拝参加の際の服装は、止むをえない場合を除いて普段着ではなく、できれば持てる物の最高のものの着用。とにかく一枚着替えて、かといって華美にならず、見栄をはらず清潔なものの着用。なぜなら、最高の主なる神の前にでるのですから。主に対してあまりなれなれしい態度ではなく、一種の畏怖の念をもつて礼拝を受けることは、大変重要であります。

8月21日

 本年は(一九九五年)敗戦記念日より数えて五〇年目の節目の年でもあります。空襲による大火災によって多くの大都市は焼け野原と化しました。以来営々と日本人は働き、努力し今日の繁栄を築きあげました。しかし、そこにおごり、高ぶりはなかったのか。自己過信はどうでしたか。神など無くとも、いや例え存在するとしてもこれに頼らなくとも自分の手で大丈夫一人立ってゆけるという錯覚、思い違いはありませんでしたか。
 主なる神は関西・阪神・淡路地方を揺さぶって、日本民族、日本国家よ、汝ら自らのごう慢を悔い改めて我に帰れ、と叫んでおられます。この度の大阪府、兵庫県を含む阪神淡路地震による被災者、犠牲者の方々に対するご冥福とまた一日も早い日常生活への復帰を祈ると同時に、今回の火災を伴う大災害が、単に天災、人災の結果だと簡単に片づけてはなりません。明確に聖書の神の「あなたがたも悔い改めないなら、みな同じように滅びます」(ルカ一三・三、五)という警告の声として受けとめねばなりません。
 もちろん六千人を上廻る死者の方々の全てが滅びたなどと失礼にも断言はできませんが、残された 私たちはみ言葉に従って主のみ前に悔い改めあるのみです。「人は神を恐れなければならない」(伝道者の書三・一四)と記されています。宇宙の創造者、まことの神の前に畏れおののいて悔い改めるならば、再び立ち上がらせて下さるでありましょう。

8月20日

 霊的教訓として、エゼキエルがみた幻は、一切の生物の生息を許さない塩分濃厚の死海に、神殿から流れる水が注ぎ込まれると、その水は良くなつてこの川が流れゆく所はどこででもそこに群がるあらゆる生物は生き、非常に多くの魚がいるようになる。さらにすべてのものが生きる(エゼキエル四七・八~九)という賢くべき奇跡的な記事が記されています。
 しかしこれは非現実的なことではなくて、今の時代にも起こりうる神の御霊による大変化であります。死んでいると同様の人間が神の生ける水の川によって、真に霊的に生きるようになる現実が存在いたします。人は創造者なる生ける神と主なるイエス・キリストと直結する迄は生きているとは名のみで、真実は死んでいると同様の者であります。けれども御霊の水を飲む者は神と共に永遠に生きる者とされるのです。主イエスは「わたしが与える水を飲む者はだれでも、決して渇くことがありません。わたしが与える水は、その人のうちで泉となり、永遠のいのちへの水がわき出ます」(ヨハネ四・一四)と言われました。
 エゼキエルは前に枯れた骨を復活させるという預言をしましたが(エゼキエル三七章)、それと匹敵する預言です。創世記二・一〇のエデンの園から流れ出る川、黙示録二二章の川の描写も又、地を潤し、癒すすばらしい記事です。主の御霊による霊的変化という主の約束を信じて進みたいものです。

8月19日

 「弟子たちの間に、自分たちの中で、だれが一番偉いかという議論が持ち上がった。」(ルカ九・四六)キリスト者の交わりも、ともすると、いつでも必ずと言ってよいほど、互いに観察し、批判し、品定めをし始めることが多いのではないでしょうか。「偉い」「大きい」「立派」「成功している」か、そうでないかなど互いが比較して、優越感か劣等感かあるいは、あきらめの境地に入るかのいずれかでありましょう。  比較することによって『議論が始まった』のです。これは交わりを破壊するのに十分であります。ですから、初めからこのような危険な敵に注意して、これを拒絶することが、いずれのキリスト者の交わりにとっても、ある意味でそれは生死をかけた重要なこととなるのです。そこのところでぐずぐずしていてはいけません。なぜなら、他人と出会う最初の瞬間から、人間は他人に対して自分が優位に立とうとするからです。
 すなわち比較しあうことが自然発生的に生じているということです。ということは、人間がイエス以外に目を向けている間は、どこまでいつても優越感や劣等感から完全に解放されることはないからです。ですから、相違は比較し相競うべきものではなくて、認め合い、尊重し、徳を高め合うべきもの(ローマ一五・二)というレベルで、交わりの破壊要素を取り除いていきたいものです。

8月18日

 初代原始キリスト教時代、ペテロとヨハネが午後三時の祈りの時間に宮に上っていった時のお話(使徒三・一)。ペテロは生まれつき足のきかない男に対して「ナザレのイエス・キリストの名によって、歩きなさい」と言って奇跡を起こしています(使徒三・六~八)。
 現代においてもそのような奇跡は確かにあちこちで起きています。わたし長屋も若い頃ひどい蓄膿症がただ一回の牧師先生のお祈りで癒された経験を持っています。このように不可能と思えることが現実となった時、私たちは奇跡と呼んでいます。けれどもこの肉体的な癒しは必ずしも一〇〇%起きる訳ではありません。ある人はいやされ、他方ではいやされないままで病苦を背負って生きて行かねばなりません。
 祈っても願っても癒されず、いわゆる身体障害者手帳を持参している人々は、 世に何万とおられる訳です。しかし、ここで 一番大切なことは、表面、外側の状況がどのようであれ、聖書の神をわが内に受容する時、また違った意味で奇跡が起きるのです。その人は罪赦され、新生する。即ち神の子とされるという奇跡が生じます。神を信じるということは、歩けなかった人が歩けるようになった事だけではなく、例え肉体的不自由が除去されなくとも、主イエスにあって力強く生きていくという積極性が与えられることも、また主にある大きな奇跡の恵みといわねばなりません(ピリピ四・一三)。

8月17日

 とある日の夕刊に掲載された亡命兵士のインタビューで、水害で食料の配給が中断された為、腹が減って我慢できず亡命を決意したと報じていました。人間誰しも日ごとの食物がなければ生きていけません。昔、主なる神はイスラエル民族を荒野で四〇年間も、生活の面倒を見られました(出エジプト一六章、ネヘミヤ九・二一~二五)。そのように天の神は、「私は、乏しいことがありません」(詩篇二三・一)と告白させて下さる方でもあります。
 けれども人間はこの愛と憐れみ深い神、全知全能の神が信じ切れないで不安・心配ばかりしています。故に明日のことを心配するのは止めなさいとも主イエスは仰せられました(マタイ六・三一)。そして、日毎の糧を今日も与え給え、と祈りなさいとも教えて下さっています(マタイ六・一一)。
 しかしながら単に食物のみならず、生活上の全ての必要性があれば、マタイ七・七では「求めなさい。そうすれば与えられます」とも約束下さっています。「祈る」手段がクリスチャンに与えられていることはなんと幸いなことでしょうか。神に、キリストに大胆に「ください」と祈ろうではありませんか。「ください」と言うことは乞食根性のようで嫌だという人もいるかもしれませんが、神はむしろわが子が何もねだらない事のほうを淋しく思い、遠慮ばかりしている子を心配なさるのです。二人の盲人のように「主よ。私たちをあわれんでください」と叫びましょう(マタイ二〇・二九~三四)。

8月16日

 平和という神の賜物は、信頼に満ちた祈りによって、また地上に平和を打ちたてようとする人間の努力を必要といたします。旧約聖書、士師記の時代は罪によって失われた平和を回復する為に、神が解放者を出現させた時代であります。預言者たちが待望していた平和は遂にイエス・キリストによって実現しました。人間の罪が敗北し、潔められ、平和の主イエスを信じる時、真の平和が到来するからです。
 とは言え、主が終わりの日に再臨するまでは真の平和は完全には実現せず、依然として未来に待つべきものでありましょう。今日の世界各地における国家内、部族間の紛争を見てもよくわかります。けれども私たちは平和をあきらめてはなりません。「義の実を結ばせる種は、平和をつくる人によって平和のうちに蒔かれ」るからです(ヤコブ三・一八)。
 ルカ二・一四はイエスの誕生に際して、天使が「地の上に、平和が、御心にかなう人々にあるように」と告げています。ヨハネ福音書一四・二七で、イエスはご自分の平安(エイレーネ=平和)を与えるとの約束の言葉を残しておられます。パウロはエペソ二・一四~一七、コロサイ一・二〇以下でキリストに在る平和を語っています。私たちも平和を実現する人となりましょう。そして平和はまず神との和解に根ざしていることを上記の聖句から学びましょう。

8月15日

 広島の原爆資料館には、そこを訪問した国内・国外の著名人の色紙が、最終コースの廊下に少なからず飾られています。その中にマザー・テレサのものがあります。彼女の書いたものに訳がつけられています。「広島に多大の苦痛をもたらした恐るべき罪悪が、二度と起こらないよう互いに祈り、愛と祈りの行為が平和の行為であることを忘れないようにしましょう。」昭和五九年一一月二三日 マザー・テレサ。
 一九八四年の西暦が元号に翻訳しなおしてあるのも日本的ですが、この訳は実は原文の前半部分が訳出されていないところも非キリスト教国らしいと、ある著名な牧師が指摘されています。すなわちマザー・テレサは「神が私たち一人一人を愛したように、私たちも互いに愛し合いましょう。そうすればここ広島に起こったような悲惨なことは起こりません。云々」という語が全く翻訳されていないと、同師は小さな怒りに燃えて著述されています。確かに肝心要めの聖書の言葉は省かれていく日本の精神風土です。
 国家間における真の平和も互いに愛するところから築かれていくのですから、キリストの人類愛に根ざさせねばなりません。神の愛、イエスをこの地上にまで賜った主の愛に立って特に政治家は行動を起こさねばなりません。テレサが「神がわれらを愛したように」と発言している所がカットされているのは残念でなりません。

8月14日

 昔は神経衰弱と言いましたが、この頃はノイローゼと言います。考え過ぎに原因があるように思います。考えなさ過ぎるのも困ったことですが、思うことも過ぎるとダメです。結局、考えなくてもいい時に、本当は日々の与えられた労働に打ち込まなくてはならない時に迄、余計な思いの虜(とりこ)になってしまう所にも原因があるのではないでしょうか。考えずにすむことなら、考えないでそのままにしておく、どうしても必要に迫られて考えざるを得ない時だけ考える、そのようにしたらいかがでしょう。
 将棋を指す時、「下手の考え、休むに似たり」という言葉を使います。人生途上いくら考えてもどうしょうもない時には主イエスに寄り頼むより外に手段はないのです。イエスは申されました。「だから、あすのための心配は無用です」と(マタイ六・三四)。主イエスは、私どもの天の父はわたしたち各自、何が必要であるかをご存じだというのです。主に知られている自分であることを覚えて、考え過ぎないよう、全てを聖書の神にゆだねて進みましょう。
 「きょうあっても、あすは炉に投げ込まれる野の草さえ、神はこれほどに装ってくださるのだから、ましてあなたがたに、よくしてくださらないわけがありましょうか。信仰の薄い人たち。そういうわけだから、何を食べるか、何を飲むか、何を着るか、などと言って心配するのはやめなさい。」(マタイ六・三〇~三一)

8月13日

 旧約聖書時代のイスラエルでは他の諸国家と同じように王制国家となった時、王やリーダーたちをチェックするものとして、預言者が立てられたことは実に注目すベきことでありました。預言者は、「あなたの口の代わりとなり」(出エジプト四・一六)とあるように、神に代わって語る者でした。
 イスラエル国家は当時の世界における二大勢力、つまり南西にエジプト、東方にはアッスリヤ、バビロン、ペルシャといった大国の谷間に位置していました。結果東西の大勢力の狭間にあって両方から狙われていました。
 こうした時にあってイスラエルの王たちには定見なく、全くの日和見主義的で一方の大国と結んで、他方の大国に対抗しようとしました。それ故に絶えず戦争に巻き込まれ、攻撃を受けることしばしばで、社会状況はいつも不安定でありました。こうした王たち、リーダーによる日和見主義的な政策が行われる中で、イスラエルの預言者は、神による絶対中立と平和とを強く訴えてゆきました。「正義は国を高め、罪は国民(くにたみ)をはずかしめる」(箴言一四・三四)と。
 私たちも歴史の主である神との正しい関係に生きること、神への全面的信頼と服従を真剣に訴えてゆきたいものだと思います。聖書の真理が政治の世界に適用されるようにも祈らねばなりません。

8月12日

 八月六日は広島に、八月九日は長崎に原爆が投下された日です。原子爆弾投下の結果は実に悲惨そのもの、地獄絵図でした。広島の平和記念公園の原爆死没者慰霊碑には、「安らかにおねむり下さい。あやまちは繰りかえしません」と石に刻まれています。再び絶対にこのような核兵器使用がゆるされることがあってはなりません。
 さてここで全人類が原爆以上に恐れなければならないのは「神の怒り」です。神は愛と憐れみの神ですからどんな悪いことをしても、そのまま「ああいいよ、許してあげるよ」とおっしゃらない。罪悪のうちでも特に主イエス様を信じない、不信仰の罪は大いに悔い改めねばなりません。
 主なる神も、イエス・キリストにも全く聞こうとしない、日本人九九%の人々に下る神の怒り、「御子を信じる者は永遠のいのちを持つが、御子に聞き従わない者は、いのちを見ることがなく、神の怒りがその上にとどまる」(ヨハネ三・三六)から、だれも逃れることはできません。神の真理をはばんでいる人々に対して「神の怒り」が天から啓示されている(ローマ一・一八)のですから、人々は主なる神に立ち返らねばなりません。人間の怒りは罪ゆえの怒りですが、神の怒りは聖なる怒りであり、その罪に向けられた神の怒りは、むしろ人間に対する激しい愛から出ているのです(申命記六・一五)。

8月11日

 イエスはナタナエルに言われました。「あなたは、それよりもさらに大きなことを見ることになります。…天が開けて、神の御使いたちが人の子の上を上り下りするのを…。」(ヨハネ一・五〇、五一)
 これは何を意味しているのでしょう?イエスはナタナエルがいちじくの木の下にいるのをすでに彼に出会う前から知り、見ておられたという、全知全能、予見性を持ったお方でした。けれどもそれ位で驚いてはなりません、もっと偉大なことをあなたは見ると言われた、「さらに大きなこと、偉大なこと」とは何でしょう。
 それは創世記二八・一〇~一九の物語のように、天使たちがイエスの上を上下する、すなわちキリスト様は天と地をつなぐ者、罪ある世と聖なる神のみ国を連結する役目をになう者ということを、旧約の故事を用いて言われたのです。わざわざ「まことに、まことに、アーメン、アーメン」と大切なことを語る時に使用することばで言われた内容のことです。
 イエスは地上においでになって、神に背く人間を天国に連れていく役目を担って行かれました。それをヤコブが見た夢のお話を背景として象徴的に語られました。イエス様を通して私たちは天国に行けるのです。イエス様がおられるところがベテル(神の家の意)なのです。旧約のヤコブがいったように「こここそ神の家にほかならない。ここは天の門だ」(創世記二八・一七)なのです。

8月10日

 常識(一般の人が共通して持っている知識、理解力、判断力)の通じない世界が我々の聖書の世界にはあります。常識では絶対に認められない考え、説明できない事件が聖書の中には数多くのせられています。ですから、ある人は非科学的と称して聖書を退ける者と、反対にそうした正に全能の神でなければできない不思議な奇蹟の記事故に、これを受容していく者と二通りの面があると思われます。
 悪霊問題も常識では考えられない問題ではあります。けれども悠長なことはいっておられません。世界的なオカルトの氾濫(はんらん)によって、子供も大人も多く影響を受けているからです。オカルト(超自然的な妖術、呪術、交霊術、占星、予言書などの総称)を通して働く悪霊の影響を受けたものは、聖書の言葉を拒否するようになります。その心の中に御言葉が根をおろさなくなります。こうした悪霊の働きによるオカルト的な行為は、キリスト者たるもの断固として拒絶し、追放していかねばなりません。
 悪霊は確かに存在します。それだけに聖霊のみ力で制圧していかねばなりません。イエスご在世の時代にガリラヤ湖畔のカペナウムで伝道しておられたある日の夕方、人々は病人や悪霊につかれたものをみなイエスのもとに連れてきました。ところが彼は多くの人をお癒しになり、また多くの悪霊を追い出されました(マルコ一・三二、三四)。

8月9日

 マルコ福音書九・三六~三七でイエスは子供を抱き上げて、「だれでも、このような幼子たちのひとりを、わたしの名のゆえに受け入れるならば、わたしを受け入れるのです。また、だれでも、わたしを受け入れるならば、わたしを受け入れるのではなく、わたしを遣わされた方を受け入れるのです」と言っています。
 祝福を求めて子供達をイエスの元に連れてきた人々を制止する弟子達を戒めて、イエスは同書一〇・一六では子供達を抱き上げ祝福しておられます。ここに子供達へのイエスの愛が示されています。一五節では子供を模範とすることを教えておられます。
 当時のユダヤでは幼児から一二歳までをパイディオン(子供)と言いました。古代世界では子供は軽んじられました。子供は律法に無知であったからという理由もありました。しかしイエスは弱い者、小さい者をこそかばい、助け、愛してゆかれました。
 子供は全く他者に依存しなければ生きてゆけません。人間もすべて同じで全能の神に守って頂かねば自分ひとりで生存できると考えるのは大きな誤解、錯覚です。中世ルネッサンス以後、科学主義優先の時代に突入して以来多数の人はまことの神を放棄してしまいました。けれども残された少数の人たちは、抱き上げ、祝福してくださるイエスのところへ近づいて、神の恵みにあずかっているのです。主に信頼して参りましよう。

8月8日

 「生きがい」を失って自殺する人の数が毎年日本では三万人前後と報道されています。生きがいとは、「生きているだけの値打ち、生きている幸せ、利益」と辞書にあります。ところがこれら一切を失った人たちは生存理由を新たに発見できない限り、自らを悲劇の主人公に追いやらねばなりません。阪神・淡路大震災においても、また二〇〇四年一〇月二三日に発生した新潟・中越大震災でも多くの方々が、生きがいでもあり、張り合いとしていた大切な数々のものを 一瞬にして失い、壊されて号泣、失望、時に絶望のなかに佇(たた)ずんでおられる方々の姿を見ました。
 震天動地の出来事にまさに言葉なしであります。前途はただ暗闇、世の中が真っ暗になった体験、深い谷底に突き落とされた思い、人生設計が完全に壊された中での当惑と混乱、先への不安と恐れのために、ヤケ酒、投げやりな気持ちに陥り、空虚感からついに自死、自殺さえもふと考えられた人もあったに違いありません。実際にそれを実行してしまった方々の数を幾ら数えても致し方ありません。
 けれども主イエス・キリストは「すべて、疲れた人、重荷を負っている人は、わたしのところに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます」(マタイ一一・二八)と言われています。ここに新たな生きがい、生きる張り合いを見出して再出発されん事を祈ります。

8月7日

 ルカ一六章一九節以下に死後の世界の一端が描写されています。この物語の意味するところは、神の審判が存在すること。その審判によってこの世の不平等は解決されること。故にこの人生の日々を真の神を信じて生きること。来世における神の報いを信じて、悔い改めつつ生きることなどが教えられています。
 私たちの回りにはラザロのような「全身おできの貧しい人」、金持ちの門前で寝ていて、犬もやってきて彼のおできをなめていた(同二〇~二一節)というような乞食同然の人もいないではありません。しかしこの貧乏人に象徴される不平等感を味わっている人たちは大勢いる訳です。けれども神様はやがて公平に裁いて、今泣いている人たちの涙を、必ずやさしく拭き取って下さる時がくることを信じて耐えてゆかねばなりません。全てをご存じの神はこの不公平、矛盾など一切の帳尻を合わせなさいます。終末の救いの完成を信じて信仰生活に拍車をかけて参りましょう。
 ここで方向を変えて冒頭引照聖句の物語の「ラザロと金持ち」の話は、実は金持ち、富める人たちに向けられているもので今、現在ここで神の御言葉に対して傾聴すべきことを訴えているのです。富める国のアルバート・シュヴァイツァーは、聖書に聴従し医師となって、貧しいアフリカを助けようと密林奥深く入っていきました。

8月6日

 今年も広島・長崎原爆投下記念日が訪れようとしています。この時、キリスト者としていよいよ平和を作り出してゆく努力をせねばなりません。
 平和を作る者は、第一に平和な性質の者でなければなりません。挑戦的、闘争的性質ではなく、温和、柔和、寛容的性質を養い、いよいよ熱心に「私は平和を──」(詩篇一二〇・七)と平和への意向を固めたいと願います。
 第二に平和な語らいを好む者でありたいと思います。物騒な破壊的なことを語るのでなく、できる限り平和の提言に耳を傾け、それを人々に知らせなければなりません。建設的、建徳的な平和を思う会話に同調し、むしろこの世の憎しみ、争い、分裂、仲たがいの「破れを繕(つくろ)う者」(イザヤ五八・一二)とならねばなりません。そのために神との和解がまず必要です(エペソニ・一六)。
 平和を作る人々が幸い(マタイ五・九)とされるのは、その人々は平和を築く事で喜びを分かち合い、また人々の目を平和へと向けさせるからです。また真の意味で人々に仕える満足を味わう事になるからであります。使徒パウロはエペソニ・一四~一八「キリストこそ私たちの平和であり、二つのものを一つにし…」と言って平和の基礎、土台がどこから、誰からくるかを述べています。人間のうちに潜んでいる恨み、憎しみ、敵意という根源的なものが砕かれない限り、真の平和は訪れません。

8月5日

 「無用の長物、夏の火鉢と冬の扇で間の抜けたものだ」という意味の、夏炉冬扇(かろとうせん)という語が、中国・王充の〈論衡〉にあるそうですが、私たちクリスチャンも、あっても役に立たない無用の長物とならないよう気をつけねばなりません。そのためには箴言二五・一三にあるように、夏の暑い日に冷たい雪をもたらすような気持ちの良さを主人たるイエス様に感じさせる、有益なクリスチャン(第二テモテ二・二一)になるよう努力したいものです。
 私たちは神からこの世につかわされていく使者、メッセンジャーです。ですから忠実であらねばなりません。忠実ということは遣わす主人のいうことをよく聞いてまじめに、正直に誠意をもってまごころから従い、使信すなわちメッセージを伝えていく者のことです。私たちは和解の福音を忠実に相手にもたらしていく使者です。
 このような信者たちを主イエス様は、心地よくちょうど暑い日に山からとってきた雪を混じえた水のように涼しさを感じる使者として、受けとめて下さるという訳です。同じく箴言六・八にあるように、「夏のうちに食物を確保し、刈り入れ時に食糧を集める」勤勉な聖徒として、元気なうちに、若いうちに、壮年のうちに懸命に働いて、老後に備えまた、主の再臨に備えて参りましょう。

8月4日

 私達は決して一人ではなく、神様がついていて下さるといいますが、しかし、この言い方は真実の半分だけをさしています。なぜなら、常に人もついているからです。しかし、神様は決して遠い、高い所におられるのではなく、今ここに、私達との関わり合いの中においでになる、つまり私共の人間関係の中にも存在なさるという事を思う時、いかに私達互いの交わりが大切かを思わされます。
 教会とは、神に出会いまた人にも出会う所、とある人がいいましたがその通りです。この両者との出会いを、大事にしてゆきたいものだと思います。クリスチャンは、決して人間嫌いになってはいけません。もし教会の中で人との交わりが不得手で充分なされていない方がありましたら、周囲の人たちはどのようにしたらその方とうまく関係、交渉、交わりがもてるかを、充分配慮して頂きたいと思います。
 ご老人たちばかりでなく、この世にありながらほっておかれている人達にもあなたを、私を通して主は近づこうとされている事を考えて、主に在る人間関係を大事にしてゆきたいものです。神はこの世にイエスを送り、人としてのイエスを通じて自らの存在をも明らかになさっておられ、そして何よりも人々と交わり、接触しようとキリストを送って下さったのです(ヨハネ四・七~一五)。

8月3日

 主イエス・キリストはルカ一二・一三以下で、財産のある者には貪欲に注意せよ、その人のいのちは財産にあるのではないからと、警告を促し、財産のない者には、心配するな、気をもむな(同二九節)とやはりさとしておられます。
 所でクリスチャンでも無闇に心配ばかりしている人がいるとしたら、その原因がどこにあるかを考えて欲しいと思います。やはりこの世の異邦人(不信仰者)達のようなキリストに対する信頼のなさからきているものではないでしょうか。二二節で主は「心配したりするのはやめなさい」と言っておられます。
 所が人は様々なことに思いをかけめぐらせて心配します。遂にノイローゼ、神経症にまで陥ります。主イエスは、「小さな群れよ。恐れることはない」(同三二節)と明言しておられます。烏(からす)を養い、ゆりの花を育てなさる神は、信者たちをどうして放っておかれることがありましょうか。「何はともあれ、あなたがたは、神の国を求めなさい」(同三一節)であります。
 続いて「そうすれば、これらの物は、それに加えて与えられます」というのが聖書の神の御約束であります。それにしてもこの世の心配で永遠を見失ってはなりません。神の御国を思い平安な日々を送りたいものです。思い悩んだからと言って、いのち=寿命=をわずかでも延ばす事は人間の力ではできないのですから(ルカ一二・二五)

8月2日

 この戦い多い世において主の平安を得、勇敢でよく勝利の前進をしたいと願うとすれば、ヨハネ一三章から一七章の主イエスの最後の訣別説教をよく読んで、信じ、従おうとする姿勢を取るべきであります。自分の力のみを過信してはなりません。すでに十字架と復活によって勝利をし、今は私たちのために執り成して下さるお方、イエス・キリストに全てを委ねて、この方の力をお借りする謙遜さがなければなりません。ヨハネ福音書の中だけでも七つのしるし(奇跡)をイエスは、生前行われました。そうしてご自分の栄光を現わし、父(パテル)の栄光も現しておられます。
 旧約のイザヤも神のメッセージを告げています。「恐れるな。わたしはあなたとともにいる。たじろぐな。わたしがあなたの神だから。わたしはあなたを強め、あなたを助け、わたしの義の右の手で、あなたを守る。」(イザヤ四一・一〇)虫けらのようなヤコブ、イスラエルもやはり全知全能の神に信頼しなければ、国家として成り立ってゆきませんでした。
 日本国家も今日の困難に立ち向かうのに政治家のみに全てをまかせるのでなく、日本国民の一人としてまず主なる神に国家の救いと平安を祈らねばなりません。主は全能の神です。祈る国民が存在する国家を決して早々と滅ぼすことはされないでしょう。私たちが愛する祖国を平安と祝福に充たしたまえ、とさらに祈っていきましょう。

8月1日

 信仰の勇者、故○○○○姉は、当志村教会で一九五四年(昭和二九年)受洗以来、二〇〇三年(平成五年)死去、召天されるまでの満四九年間、忠実に信徒としての責務を果たし、九八歳六ケ月の生涯を終えて眠るように、堂々と主の元に帰天されました。同姉は関東大震災にあい、また、第二次大戦中をはじめ戦後の食糧難の中、五人の子供さんを養うためにも、当時の方々は大体誰もが体験したことでもありますが大変なご苦労をされました。
 終戦後は二〇歳にも成長された素敵な娘さんと同時にご主人にも先立たれ、一時は悲嘆に暮れる毎日でした。そんな時期に聖書の福音にふれ、主イエス・キリストによって救われ、神の平安を得られました。同姉は信仰の人、祈りの人、忍耐の人、伝道の人でした。徹底して創造主また癒し主、イエスを信じて少々の病気では医者や薬に頼らない方で、生涯健康に恵まれた姉妹でした。
 家族の救いのために絶えず祈り、口から出る言葉は“主イエスを信じて救われましょう”、“志村教会の礼拝に出席してください”でした。結果、ご二男が奥様共々クリスチャンになられたことは幸いです。愚痴をこぼさず黙々とみ言葉に従っていかれた老姉妹は老人ホームでも、よく人を誘っておられました。故人の愛唱聖句は、ヨハネ三・一六、ローマ五・一~五でした。
 「白髪は老人の尊厳」(新共同訳)、「老人の美しさはそのしらがである」(口語訳)、「年寄りの飾りはそのしらが」(新改訳)箴言二〇・二九。

7月31日

 エペソ書一章一八節の「心の目」が御霊によって開かれると、神に召されてクリスチャンとなった私達は、第一に真実の希望がどんなものか、第二に受け継ぐ神の国がどのように栄光に富んだものであるか、第三に神の力強い活動によって働く力がいかに絶大なものか(同一九節)等について知ることができるというのです。
 まず希望(のぞみ)とはまだ現存しない良い事柄への、将来における実現への期待であります。世俗的には無数の望みがそれぞれにあります。しかしキリスト者の抱く望みとは、即ちキリストの再臨、神の国の到来、死人の甦り、永遠の命、神の義に与り、救いが完成される等、どこまでも天上的、彼岸的、信仰的、霊的世界に属することであります。
 そしてこうした種類の希望こそ真実の希望であつて、他は悲しいことに望みとは言っても一時的、はかない望みと言わねばなりません。私共はキリストご自身、「私たちの望み」(第一テモテ一・一)、「栄光の望み」(コロサイ一・二七)、「唯一、神と人との間の仲介者」(第一テモテ二・五)ですから、どのような困難、苦難にもめげず、希望を失わず明日にむかつて進みゆかねばなりません。希望の根拠はどこまでもわたし達人間側にあるのではなく、キリストそのお方にあり、「失望に終わることのない」(ローマ五・一~五)神側から提供されるものです。

7月30日

 本日まず天の神様に感謝したいことは、すべての罪、咎が赦されていることです。主の良くして下さった事の第一はこのことです。わたしたち罪深い者たちを「子よ。あなたの罪は赦されました」(マルコ二・五)と宣言してくださり、その上「神の子どもとされる特権」(ヨハネ一・一二)をも与えてくださったことに感謝いたしましょう。
 この事だけはクリスチャンであれば誰でもが感謝できる最大の項目です。この世で成功した人も、そうでない人も、勝ち組の人も負け組の人も、笑える人も悲しめる人も、老いも若きも、男も女も、主イエスの名を信じた人々には、「人の子(イエス・キリスト)にあって永遠のいのちを持つ」(ヨハネ三・一五)事が出来たのです。この一事が感謝の根拠であります。
 そうでなければ、「いつも喜んでいなさい。…すべての事に感謝しなさい」(第一テサロニケ五・一六、一八)と命令されても即座に受け入れがたいものがあります。けれどもキリスト者だけが所有する感謝の原理が、以上のように存在するのです。
 ですから、私たちはかつてのイスラエルの民のように過去に対する愚痴、現在に対しての不平不満(第一コリント一〇・一〇、ユダ一六節、ヤコブ五・九)、さらには、明日のための心配(マタイ六・三四)ではなく、「いつでも、すべてのことについて、私たちの主イエス・キリストの名によって父なる神に感謝しなさい」(エペソ五・二〇)であります。

7月29日

 クリスチャンの歓喜の源泉はどこにあるのでしょうか。言うまでもなく聖書の神、唯一の絶対者であって宇宙の創造主、愛と恵み、いつくしみに富み給う真の主なる神にあります。
 この神を信じたユダヤ四〇〇〇年の歴史の中で詩人たちはこのように歌いました。「私の神、王よ。私はあなたをあがめます。あなたの御名を世々限りなく、ほめたたえます。日ごとにあなたをほめたたえ、あなたの御名を世々限りなく賛美します」」(詩篇一四五・一~二)と。
 「全家族そろって神を信じたことを心から喜んだ」(使徒一六・三四)のは、パウロによって救われた一人の看守でした。真の信仰者の喜びはどこまでも信仰の喜び、回心の喜び、聖霊による喜び、キリストにある喜びです。
 一世紀初代キリスト教会は多くの弾圧と迫害を受けて、かえって成長して参りました。それは主イエスをかたく信じたキリスト者たちが、喜びと聖霊に満たされて生活し(使徒一三・五二、第一ぺテロ一・六~八)、伝道していったからでした。人生は喜びが無くては生きられません。でもその喜びの中身が大事です。すぐ消えてしまうようなこの世の宝だけでは、苦しみ、困難、戦いを乗り切ることが出来ません。
 さあ今朝も主イエス・キリストをしつかりと心の奥底で信じ受け入れ、この方から流れ出る永遠不滅の本当の喜びで勝利して参りましょう。

7月28日

 バプテスマ(洗礼者)のヨハネは、荒野に呼ばわる者の声としての役目を果たしていきました。「主の道をまっすぐにせよ」と預言者イザヤの言葉をそのまま取りついで民衆に叫んでいきました。彼は「声」に徹していこうと致します。誰が何と言おうと、ヨハネは、主の道を備えよ、まっすぐにせよ、主を迎える心準備をせよと、声を張り上げました(ヨハネ一・二三)。声は消えてもその言葉は残ります。
 最近日本語に訳されたドイツの女流詩人の詩に、「荒野の預言者」というのがあります。「引き返して来い!この道は破滅に続いている!お前たちが迷妄で、頑固であったとしても、このひとこと『人間』という言葉のために、聞く耳をもたぬはずはない。人間、その幸不幸は初めから、われわれの行為すべてに対しての、尺度であるはずではないか。引き返して来い!お前たちの人生は、お前たちが破壊し、そして破壊された者たちの加害者になる、そのためにあるのではなかった。引き返して来い!この道はすべての破滅に通じているのだ!」
 これが、荒野に呼ばわる者の声であります。声は消えても、その言葉は残り続けます。洗礼者ヨハネに人々は尋ねます。「あなたはどなたですか」と。「あなたはエリヤですか、あの預言者ですか」と。すると、「自分はキリストでも預言者でもなく、荒野で叫んでいる者の声です」と(ヨハネ一・一九~二三)。イエスのあかし人に徹しているのです。

7月27日

 キリスト教とは、イエス・キリストから出発し、彼の人格と教えとを根本基準とし、それら全てを信仰する諸形態全体を言います。
 主イエスは神ですが、人間の歴史の中にただ一回だけ、人の姿をとって生まれられ、自らを神の子として証ししていかれた方であります。イエスは受肉し人々の前に現れた時、信じる者と信じない者とが生じました。
 彼は自らが真実の神からつかわされた神の独り子であることを証明する為に、ヨハネ福音書では七つの奇跡を行なわれました。
 1、カナの婚宴にて(二・一~一一)。2、王室役人の息子の癒し(四・四六~五四)。3、ベテスダの池での男の癒し(五・一~九)。4、五千人給食のしるし(六・五~一四)。5、湖上歩行のイエス(六・一六~二一)。6、泥をもって盲人の目を癒す(九・一~一二)。7、死者ラザロの蘇り(一一・一~四六)。それでも一部のユダヤ人たちは不信仰な態度をとって、ついにはキリストを十字架にかけてしまったのです。何という人間の愚かさ、人間の無知、悲惨さでありましょうか。
 神の御独り子イエスにおいて始めて行うことのできた大いなる「しるし、奇跡」を見ながら、今日もなお大多数は不信の闇に閉じこめられています。私たちキリスト者一同、彼らの心の闇が取りのぞかれるよう熱心に祈り込まねばなりません。

7月26日

 中国の家の教会の牧師たちは夜に旅をし、昼間は説教や信者たちを教える働きをしていますが、彼らはキリスト教に敵対的な政府によって逮捕されることを覚悟の上で、教会を建て上げる為にいのちを捧げています。
 中国教会リサーチセンターによれば、同国には約七五〇〇万人の福音派クリスチャンが存在するといわれています。クリスチャンが家で集会を持つことは法律で禁じられています。それを実行した人達で捕らえられたリーダー、信徒たちは多くが拷問を受けています。中国の共産政府への忠誠を何としてでも告白させようと、煮えたぎった湯をかけられたりしています。多くの人々は刑務所に送られますが、そこでは食事も水も与えられず、電気ショックを受けることもあります。
 ところが、驚くべきことに、そのようなことがあっても人々は神の言葉を聞くために、あるいは他の信者との交わりに加わるために、家の集会にやってくるのです。こうして政治権力によって弾圧されようとも主の言葉はますます進展しているのです。無神論者たちは福音を嫌い拒絶し、挙句の果てが彼らを苛め抜くかもしれませんが、神の主権、キリストの王権は絶対に阻止できません。「牢につながれている人々を、自分も牢にいる気持ちで…思いやりなさい。」(ヘブル一三・三)。

7月25日

 キリストの教会をエクレーシアと呼び、新約聖書では一一二回引用されています(福音書ではマタイ一六・一八、一八・一七に引用されているだけで、使徒の働き以下の文書に多くあり)。ギリシャ語エクレーシアは、呼び出して集める=エカレオからきた語で、市民の公の目的で集まる集会をさし、「集会」(Assembly=アッセンブリー)と訳されています(使徒一九・三二、四一)。
 旧約聖書には「教会」の語は用いられていませんが、「集会」(申命記九・一〇)。「会衆」「集団」(第一列王記八・一四、六五、第二歴代誌一・五、七・八他)と訳されているヘブル語が、前記エクレーシアの同義語として用いられています。主としてイスラエルの宗教的会衆、集団をさしています。
 いずれにしても、かつてシモン・ペテロが、「あなたは、生ける神の御子キリストです」(マタイ一六・一六)と応答したときに、主イエスは、「わたしはこの岩の上にわたしの教会を建てます。ハデスの門もそれには打ち勝てません」(同一八節)と言われました。ペテロの発したこの信仰告白を所有する者たちによって、キリストを頭として成り立つているのが現代の教会です。こうしてイエスを信じる者たちがユダヤ教の中からも起こされ、五旬節の日(ペンテコステ)、エルサレム二階座敷でみなが一つ所に集まっていた時、あのすばらしい聖霊降臨があって初代教会は誕生し、今日に至っているのです(使徒一・四、二・一~四)。

7月24日

 平和とはふつう戦争の無い、無事泰平の社会状態を指します。しかし新約聖書ではマタイ一〇・三四、ルカ一四・三二、使徒二四・二、黙示録六・四などに限られ、他は旧約聖書のシャローム(平安)と同じ訳語でエイレーネ(平和)が用いられています。すなわちまず健康、無事を祈る日常の挨拶用語として扱われています。
 例えば主イエスが一二弟子派遣に際し、「その家に入るときには、平安を祈るあいさつをしなさい」(マタイ一〇・一二)と。また、イエス様は病人をいやした際に、「娘よ…安心して帰りなさい」(マルコ五・三四)と。そしてヨハネ一四・二七では、弟子達との最後の別れの時に、「わたしは、あなたがたに平安を残します。わたしは、あなたがたにわたしの平安を与えます」とも仰せられました。
 パウロも彼が諸教会に送ったすべての手紙の初めに、「恵みと平安があなたがたの上にありますように」と祈っています(ローマ一・七他)。けれどもこの平安はイエス・キリストのあがないの血によって与えられるものであります(ローマ五・一、エペソニ・一四~一七)。ですからキリスト者はキリストの平和に充たされ(コロサイ三・一五)、平和を追い求め(第一ぺテロ三・一一)、「地の上に、平和が、御心にかなう人々にあるように」(ルカ二・一四)と祈らねばなりません。

7月23日

 「七転び八起き」の言葉の意味は、何度失敗しても屈することなく立ち向かい、立ち上がれば必ず完遂できるという、励ましの言葉です。箴言二四・一六にも、「正しい者は七たび倒れても、また起き上がる」とあります。
 一八七一年シカゴの大火によって、多くの建物が灰に帰し、多くの人々が財産を失いました。そういう中でひるまない倉庫業者がいました。大火の翌朝、彼は焼け跡を掘り返して手頃な鉄と板切れを見つけ、それで看板を作り、「全てはなくなった。しかし、生命と希望があります。我々は明朝から仕事を始めます」と書きました。何という勇気のある発言でしょうか。
 アメリカのある病院に元アフリカ宣教師だった方が小児麻痺(ポリオ)にかかり帰国して、遂に車椅子の生活を送っていました。しかし、違うところは努力によって医者として大病院を車椅子で回診して廻るという点でした。人生の苦難、試練に直面しても、祈りと信仰と自らの努力で再び立ち上がつて前進することです。
 田原米子さんは、高校生時代に東京・新宿駅で飛び込み自殺を図って、両足と片手を完全に切断、残りの片手の指が三本のみとなってしまいました。しかし病室伝道によって救われ、クリスチャンとなった彼女の人生はイエスを喜ぶ人生へと一八〇度変えられました。御霊によるさらなる前進を!

7月22日

 「為ん方(せんかた)つくれども希望(のぞみ)を失はず」<文語訳>、「途方にくれていますが、行きづまることはありません」<新改訳>、「途方に暮れても失望せず」<新共同訳>(第二コリント四・八)。
 牧師として教育者として活躍されたミッションスクール桜美林学園創設者、清水安三先生(一九八八年、九八歳で召天す)は、日本人最初の宣教師として夫人と共に中国に渡り約三〇年、その間災害児童収容所や中国人女子教育のために、北京の朝陽門外に崇貞学園を創設しました(一九二一年)。さらに日本軍の戦火から北京城下を守って聖者と敬われたほどでした。
 戦後無一文で引き上げたものの教育への志篤く、現在地(東京都町田市)に桜美林学園をたてられたのでした。先生が行く先々祈りから幻へ、幻から主のみ業へと前進することができたのは、実に上記の聖句によったと言うことです。
 さてパウロは、自分自身恐ろしい窮地に追い込まれているなかで冒頭のことばを吐露しています。相次ぐ激しい戦いでちょうど兵士が、戦場に倒され、まさに瀕死の状態ですが、でも勇士は死なない、滅びない。むしろ希望を放棄することなく前進するのが、クリスチャンだと告白しています。どのような激しい試練、困難、戦いの中にあっても主なる神への望みを決して失うことなく、益々聖霊に満たされて進みましょう。

7月21日

 水のバプテスマとは何でしょうか。清めの儀式です。清めとは何ですか。罪から清められることです。罪から清められるとどうなるか。救われて神の子となるのです。ですから水のバプテスマは古い罪人の自分に別れを告げる葬りの儀式であり、かつイエスの子、神の子として新しく蘇った復活の儀式とも言えるのです。
 洗礼はキリストの時代、初代教会時代には全身を水に浸して行いました。その伝統を現在まで引き継いでいます。キリストもヨハネから洗礼を受けて、後に続く信者達に模範を示されました。
 「そのころ、イエスはガリラヤのナザレから来られ、ヨルダン川で、ヨハネからバプテスマをお受けになった。そして、水の中から上がられると、すぐそのとき、天が裂けて御霊が鳩のように自分の上に下られるのを、ご覧になった。」(マルコ一・九、一〇)イエスは水の中に入り、身を沈められたので、水の中から上がることが可能となりました。このように水の中に入って洗礼を受けるのを「浸礼」と言います(使徒八・三八、三九)。
 洗礼を受ける際に必要な事は、第一にキリストの贖罪と復活を信じることと、第二に自分自身がキリストと共に罪に死んで、義とせられ、清められ、霊的に復活したことを認めることであります。キリストの復活という歴史的客観的事実を信じると共に、彼と共に死し、彼と共に復活したことを主体的に実験することが水のバプテスマであります。

7月20日

 詩篇第一篇は詩篇全体の序言として、多分エズラが付け加えたものであろうと言われています。ここには神の律法を学ぶ正しい者の受ける祝福と、不敬度な者の不幸な運命とが記されています。
 最初の言葉は山上の説教の初めのように、「幸いなことよ」で始まっています。幸いであれとは、創造者である神が全人間に抱いておられる願いであります。しかしながらどのような人がこの詩にある幸福を満喫できるのでしょうか。それを示しているのが本篇です。すなわち、罪に遠ざかり神の言葉に聞き従い、その教えを喜びとする人だと言うのです。
 聖書の神は森羅万象をお造りになった御方、今も生きて居られる本当の神様、このかたは、わたしたちがヨハネの第三の手紙二節にあるように「たましいに幸いを得ているようにすべての点でも幸いを得、また健康であるように」と、願っておられます。
 だとすれば、いよいよ私たちは聖書に親しみ、御言葉の実行に励み、毎日これを黙想して恵みを味わいたいと願います。本篇にある悪者、罪人とは、真の神様を敬うことをしない不信仰者をさしており、彼らとキリスト者の生活はこの世で共にしていますが、しかし、彼らの風習に染まらず、非聖書的なことには断固反対して妥協せず、襲い来る世の勢力に巻き込まれることのないように、私たちは日夜主のみことばに親しんでいく者であります。

7月19日

 贖罪者イエス・キリストには「罪は別に何も見つかりません」(ルカ二三・一四)、「死罪にあたることは何一つしていません」「死に当たる罪は、何も見つかりません」(同一五、二二節)というのが本当です。ヘブル書の著者も四・一五で、「私たちの大祭司(イエス)は…罪は犯されませんでした」と明言しています。ペテロ第一の手紙三・一八では「正しい方が悪い人々の身代わりとなった」と記しています。
 無罪の主イエスは当時のユダヤ人の不信仰と嫉妬、誤解の故に死刑と宣告され、十字架につけられてしまいました。しかし、この十字架死こそ我々人間の罪を赦し、清めるための神がとり給うた一大手段であったのです。
 前記ペテロ書ははっきりと「罪のために死なれました」と言っています。自分の罪のためではない。他者つまり不信仰の人間の罪のためであります。ヘブル書も、「罪を取り除くために、来られた」(ヘブル九・二六)、「多くの人の罪を負うために」、「人々の救いのために来られるのです」(同二八節)と伝えています。
 無罪者イエスが、十字架に付けろとわめき叫ぶ民衆の声に押されて、赦されることもなく死んでゆかれました。「その声が勝った」(ルカ二三・二三)のです。けれども敗北に見えた主イエスの十字架は、実は神の栄光を現わされる勝利の事柄だったのです(ヨハネ一二・二三、一七・一、四他)。

7月18日

 ジョン・カルヴァン(中世宗教改革者、一五〇九~六四)は言いました。「キリスト教の重要徳目は第一にも第二にも第三にも『謙遜』です」と。人には誰しも系図自慢、自画自賛、うぬぼれ、肩で風を切る(得意絶頂で誇る様子を言う)所があります。ですから聖書は「謙遜でありなさい」(第一ぺテロ三・八)と教えます。パウロも自己放棄、支配欲の放棄を目指して祈り、努力しました。
 使徒二〇・一九ではミレトでのお別れの際に、「私は謙遜の限りを尽くし」と証ししています。モーセも民数記一二・三によれば謙遜な器でした。詩篇一三一篇によるダビデの告白にも教えられます。「主よ。私の心は誇らず、私の目は高ぶりません。…まことに私は、自分のたましいを和らげ、静めました。乳離れした子が母親の前にいるように、私のたましいは乳離れした子のように私の前におります」(一~二節)。
 所が、ウジヤ王は自分が勢力的に強くなると、彼の心は高ぶり、不信の罪を犯して、遂に身に滅びを招いたのです(第二歴代誌二六章一六節)。また、ヒゼキャ王も臨終の際、助けられて長命を許されるや、心高ぶらせ失敗しております(同上三二章二五節)。私たちも要注意。謙遜は、神への服従と自己の抑制、自制心から神と人に仕えようとさせます。わがまま勝手な気持ちではなかなか謙遜にはなれません。なお、高ぶりを砕かれていきたいものです。

7月17日

 信徒の皆さん、もしもあなたのなさることに主の栄光と祝福が現されるとしたら、神の御国の成長のために何をされようとしますか。エペソ三・二〇の御言葉には「私たちの願うところ、思うところのすべてを越えて豊かに施すことのできる方」が私たちの神様だと約束されております。何という素晴らしいことでしょう。
 故に、聖書には「この神様に願いなさい」というメッセージが、繰り返し記されています。要するに、私たちが願うところだけでなく、私たちの思い、考え、計画しているところにまで行き届いて、祝福し、応えて下さるというのです。諸兄姉の今年後半の短期ビジョンは何でしょうか。又、この二、三年の内に達成したい信仰的ビジョンは?或いは一〇年先迄の夢、幻はいかがでしょうか。
 神様はどの位までおできになるのだろうか、という事よりも、「私はどの位まで主に願い、期待しているのだろうか」という点を重要視したいと思います。人智を遥かに越えた神様に大胆に、しかも具体的に願い求めていきましょう。つまり教会という囲いの外にいる迷える羊を、囲いの中に何頭連れてこようかと言うビジョンです。イエスの宣教命令のように、外に出かけていくことに致しましょう。御霊に満たされ、喜び勇んで失われた魂と大いに接触して証し、伝道して栄光を主に帰し目標達成を喜びましょう。

7月16日

 人間は誰しも失敗します。失敗のない人間はいません。アブラハム、モーセ、サウル、ダビデ、ソロモン、ヨシヤ王など皆失敗し、神の警告、怒り、審判を招いています。
 アブラムはエジプトでパロにうそをついて失敗し(創世記一二・一〇~二〇)、モーセは岩に「命じて」水を出すよう神に言われましたが、うかつにも杖で岩を二度「打った」ので、遂に約束の地カナンに入れませんでした(民数記二〇・七~一二)。
 サウル王はアマレクとの戦いにおいて そのすべてのものを聖絶することを命ぜられながら、従いませんでした。その結果、王国の分裂の原因を作ったのです(第一サムエル一五・一~三五)。ヒゼキヤは心高ぶらせた故に神のみ怒りが彼の上に下りました(第二歴代誌三二・二五)。
 名君ヨシヤ王でも失敗しています。エジプト王ネコの声は神の御口から出た声であったので(第二歴代三五・二二)これに聞かねばなりませんでした。しかし、聞かないで戦いを押し進めたため傷を負い戦死したのです。新約のペテロは、イエスを知らないと言って自己防衛本能丸出しで失敗しています(マタイ二六・七四)。
 人間歴史はまさに神の前における失敗史であります。しかし、神は彼らを赦し、ある時は再び立ち上がらせ用い給うのです。私たちもキリストの血によって赦されて、めげず恐れず立ち上がり前進せねばなりません。再起しましょう。

7月15日

 イザヤ五五・一では、飢え渇いているすべての人に対して、「水を求めて出て来い。金のない者も」と、いわゆるただで恵みを受けよ、救いに与るようにと預言者は訴えています。新共同訳では、「渇きを覚えている者は皆、水のところに来るがよい。銀を持たない者も来るがよい」と訳されています。いずれにしても水の源は「主なる神」であり、この恵みの時代の主人公イエス・キリストであることはいうまでもありません。イエスは大声で言われました。「だれでも渇いているなら、わたしのもとに来て飲みなさい。わたしを信じる者は、聖書が言っているとおりに、その人の心の奥底から、生ける水の川が流れ出るようになる」(ヨハネ七・三七~三八)と。
 夏です。のどが渇いて水を飲みます。しかし、少したつとまた渇いてすぐに冷たい水を求めます。この連続の中で一日が過ぎていきます。人生において人々はお金だ、物だ、快楽だ、楽しみだなどといって様々なものに飢え、渇いて求め続けますが、本当の満足もなくいつも何かしら欲求不満の中で生活しているのが現状です。生けるイエス・キリストから、救いの泉を飲んでいるクリスチャンはなんと幸いでありましょうか。「わたしが与える水を飲む者はだれでも、決して渇くことがありません」(ヨハネ四・一四)。感謝してこの救い主にいよいよ従っていこうではありませんか。

7月14日

 志村キリスト教会は一九四九(昭二四)年六月に志村の地に伝道を開始しました。そして五年後の一九五四年(昭二九)六月、舟渡(ふなど)の現在地に第一回の献堂式をあげて以来、二〇〇四年六月で早や満五十年の歳月が流れました。その間一回の休みもなく礼拝会並びに祈祷会など毎週守り続けて来る事ができました。そして多くの信徒が生み出され、その信仰生活が養われてきましたし、又現在も主のご薫陶を受け、養われていることは感謝であります。
 しかしながら、教会は自己保存的でなく益々他者に向かって、当然の事ながら主の恵みを証しし伝達してゆかねばなりません。伝道・宣教こそ主の教会に課せられた、大いなる使命であり義務だからです。又特権でもあります。キリストも仰せられました。「どうしても神の国の福音を宣べ伝えなければなりません。わたしは、そのために遣わされたのですから」(ルカ四 ・四三)。
 そしてその伝道方法ですが、ある牧師先生から「心と心の伝道~ネームレス運動」(豊留真澄著)の本の紹介とその内容についてのご講義を伺いました。なるほどとうなずいた伝道法は、一)末信者のところへ出て行く。二)イエス・キリストのみを語る。三)明け渡しをうながすでありました。実践、実行しなければなりません。とにかく祖国救霊のためまず祈りからスタートです。

7月13日

 謙遜を身につけましょう。謙遜の反対は、高慢、高ぶり、思い上がりです。ですから自分の罪を自覚し、高ぶった思いを捨て、低きにつく心で進みたいものです。ヘロデ・アグリッパ一世は虫にかまれて死に(使徒一二・二三)、ネブカデネザル王は悲惨な生活を余儀なくされ(ダニエル四章)、明けの明星たる天使ルシファーは、神の王座を狙って天から追放されたのです(イザヤ一四・一二)。
 謙遜のモデルはもちろん主イエス・キリスト様です。十字架の生涯を全うされ、生前弟子たちの足を洗って、私たちに愛と謙遜をも教えられました(ヨハネ一三章)。聖書は謙遜を教えています(エペソ四・二、ピリピニ・三、ローマ一二・三、コロサイ三・一二、第一ぺテロ三・八)。
 旧約のモーセは謙遜な人でした(民数記一二・三)。ルカ一〇・三九のマリヤは謙遜に主のみ言葉に傾聴し、同一五・一三~二一の放蕩息子も謙遜になって父親の元に立ち返り祝福を得ました。箴言二二・四には「謙遜…の報いは、富と誉れといのちである」、とあります。また、ルカ一八・九~一四の取税人は目を天にあげようともせず神に謝罪し、そしてパリサイ人に勝って高くされています。第二列王記五・一一~一四のナアマン将軍は、一度は怒り国に帰ろうとしましたが、謙遜になって神の預言者の命令通りにしたところ、病はいやされました。
 自分は神に全く服従できない者だからこそ、神の憐れみを乞わねばならないという低い心で主に仕えましよう。「実るほど頭の下がる稲穂かな」。