3月31日

 イエスの復活し給うた朝。それはすばらしい第二の創造の朝が明けたのでした。天地創造の時、「神は仰せられた。『光があれ。』すると光があった。」(創世記一・三)と記された朝に次いで、第二の創造であります。しかも第一の創造にまさる新しいいのちの創造であります。この生命は永遠のいのちです。主イエスが墓の中にあった足かけ三日の間に、世界の秩序は全然異なった新しい光を帯びたのです。死はイエスを殺すことによって逆に滅ぼされ、罪はイエスを殺すことによって殺されたといっていいのです。罪も死も主イエスを墓に押し込めておくことができませんでした。
 イエスが墓より復活し給うことによって、罪と死の力は全く惨敗を喫したのです。イエスの復活によって罪と死とは人を刺す刺()とげを抜かれ、人を滅ぼす力を奪われたのです。しかもその罪はイエスご自身のものではなく……彼には罪あることなし……私たちの罪です。イエスの復活を信じる者は、これによって私共の罪が無力化せられたことを信ずるのです。十字架と復活を信ずる以上、もう恐れること、悲しむことは止めましょう。あわてることもあせることもありません。全てを復活の主(使徒二・三二)の手にゆだねてひたすらこの方の生きておられること(ヘブル七・二五)、再臨の主(第二テサロニケ二・一)であることをのべ伝えましょう。

3月30日

 イエス・キリストの復活は、私たちの罪の赦しと義認に深く関係しています。
 キリストの復活がなければ十字架の贖罪は完成されず、従って私たちは神の恵みに与ることはできないのです。そしてキリストの復活は、ただ彼ご自身の復活だけでなく、彼を信じる者の復活でもあることを忘れてはなりません。
 しかし、これは終わりの日における体の甦えりですが、現在でもキリストを信じる時、全ての未信者は霊的に死んでいる状況の魂の復活、すなわち生命の復活が与えられるのであります。霊的に死んでいた者がキリストを受け入れ信じた瞬間に復活してエゼキエル時代の枯骨の異象事件のように、生き返ることができるのです(エゼキエル三七章)。
 こうして主を信じるキリスト者は、召天のその時まで生ける神のみ子キリストの生命に満たされて、聖化の道を歩み続けるのです。十字架と復活は、私たちの救いにとって表裏一体をなす大切な信仰の要点であります。終わりの日、わたしたちの体もよみがえる、というのがクリスチャンの信仰です(ヨハネ一一・二五)。中には半信半疑の方もあるかもしれませんが、私たちが信じる基礎、土台はどこまでもキリストのよみがえりの歴史上の事実にあるのです。イエス・キリストは人間の初穂として墓から復活されたのです(第一コリント一五・二〇)。

3月29日

 「この後、イエスは、すべてのことが完了したのを知って、聖書が成就するために、『わたしは渇く』と言われた。」(ヨハネ一九・二八)
 イエス・キリストは十字架上にあって、他の処刑者達と同じように激しい渇きの苦しみを味わわれました。わたしたち人間の罪を処分し、贖うためにイエスは燃えるような激しい渇きも体験されました。イエス・キリストの舌は本当に間違いなく苦痛を味わったのであって、決して架空なこと、だれかの作り話でないことは福音書記者ヨハネも証言しているところです。スコットは「キリストが渇きで苦しまれたのは、私たちが永遠のいのちの水を飲むことができ、もはや渇くことがないように、というためであった」と述べています。現実に主イエスは人間としてこの世に現れ、最後は人間として受難死、贖罪死されたことを強調し記録しています。
 ところが当時ヨハネがこの福音書を書いた紀元一〇〇年頃には、グノーシス思想がはびこっていて、イエスの人間性を否定していたのです。すなわち純粋な霊なる神は、ご自分に体をとるはずがない、体などもっていなかった、イエスは神の霊が人間の形になつた幻影であると主張していました。大いなる間違いです。幻影どころか痛みも、かわきも分かるこの世の人でありました。そして、何よりも「救い主」であったのです。

3月28日

 かつてのサウロは教会迫害者でした(使徒八・一~三)。しかしダマスコ途上、天からの光に打たれて彼は倒れ、三日間盲目にさせられ、そこで主イエスの御声を聞いたのち、「うろこのような物が落ちて、目が見えるようになった」のです。そしてバプテスマを受け一転クリスチャンとなりました(同上九・一~二〇)。
 これこそ聖霊によらずして誰の力でこのように変えられるのでしようか。信じたくても信じられない、クリスチャンになろうとしてもがいても仲々そうなれない、という方がもしおられたらぜひ主に祈って貰いたいと思います。祈ってご聖霊によって大いなる変化、新生の恵みに浴して下さい。転換後のサウロは「ただちに、諸会堂で、イエスは神の子であると宣べ伝え始めた」(同上九・二〇)のです。さらにパウロ(使徒一三・九)という別名になって第一次伝道旅行に出発していくのでした。
 主のご用のために用いられ、献身し苦闘していくパウロ、教会形成のためにうめき、苦心していくパウロの姿を新約聖書、使徒の働きを始めとして、ピレモン書に至るまでのパウロの記した十数通の手紙形式の文章から、彼の直接の証言、告白などを聞きながら様々神のみこころを汲みとって現代に生きる私たちクリスチャンの生きる指針としたいものです。彼の書いた手紙はパウロの内面生活を、また歴史書の分類に入る「使徒の働き」は彼の外的活動を伝えています。

3月27日

 イエスを「神の子」と告白することは、新約聖書の信仰告白のうちでも根本的なものです。神のみ子イエスは、神との究極的な一致においてそのわざをなす者を意味します。ですから、神の子という場合、父に対する服従ということが強調されています(マルコ一四・三六他)。
 マルコ福音書の中心主題は、神の子の顕現であると言われています。「神の子イエス・キリストの福音のはじめ」(同一・一)という書き出しで始まり、同書の結び近くにおいて、ローマ人の百人隊長が「この方はまことに神の子であった」(同一五・三九)と告白しています。マタイもルカもみなイエスが神の子であることを強調しています (マタイ二・一五、四・三、六、一四・三二、三三など、ルカ一・三二、三五、三・二二、四・三、九・四一、八・二八、九・三五、二ニ・七〇、ヨハネ一・三四、四九、五・二五、二八、一〇・三六、一一・四、二七、一九・七、二〇・三一)。
 パウロはローマ人ヘの手紙の冒頭に、ローマ教会も告白していた信仰告白を引用しています。「御子は…大能によって公に神の御子として示された方」(ローマ一・三~四)。またヘブル書にも主の御名が示されています(ヘブル一・五、三・六、四・一四、五・五、八、六・六、一〇・二九)。このように神の子は救済史において自らを啓示されているのです。わたしたちも天の神がお遣わしくださったイエス・キリストを同じように告白し、服従してまいりましょう。

3月26日

 私達キリスト者はしばしば批判の矢面に立たされます。例えば「偽善者だ、口先だけだ、上べだけつくろっている、聖書を聞くだけで実行が伴っていない、二重人格者だ、実際生活を見ているとつまずく、クリスチャンと言ったって大したことはない」などなどです。しかし、くじけてはなりません
 私達は完全人ではないのですが、完全を追い求めています。「だから、あなたがたは、天の父が完全なように、完全でありなさい。」(マタイ五・四八)全き善人ではありませんが、善を追求しているのです。聖書の要求している高い標準、水準を歩んでいないかもしれませんが、何とかそのスタンダード=標準に到達したいと、もがきつつ、精神的責めを感じながらも絶えず祈りつつ努力している者たちであります。即ち、我が身を打ち叩いて従わせ(第一コリント九・二七)ようと前向きなのです。
 所が、始めから人間は弱く、悪であり善人ぶる事はそれこそ偽善者だと称して、全く完全性を、また清さも善も追求しない諦めの世界に身を委ねている者とは全然違うのです。とかく悪しき風評を立てられる事は辛くあっても、パウロの様に「ただ捕らえようとして、追求している」(ピリピ三・一二)姿勢をくずさないように聖霊に満たされ、雄々しく前進しようではありませんか。

3月25日

 キリスト教会では灰の水曜日から受難週の土曜日まで、六つの日曜日を除く四〇日間をレント(四旬節、大斎)と呼んで、特に主の十字架の苦難をしのび、神の愛を思い、断食や、種々の欲望を絶って摂生するなど、聖別された季節として過ごす伝統があります。もちろん私たちキリスト者にとって、主の十字架のご苦難を思うことに期間のあるはずはありません。けれども年間を通じてこうした改めてイエスが受けられた、にがき杯、十字架上のお苦しみがどれ程のものであつたかを特に想起する時は大変重要かと考えます。
 ヨブ四二・六には、「私は自分をさげすみ、ちりと灰の中で悔いています」とあります。この表現は、古い時代から悔い改めや深い嘆きのしるしとして、ユダヤ人だけではなく他国の人々の習慣でもあったことは、旧約聖書の中にも見られます。
 燃え尽き炎も熱もなくなってしまった灰は、古くから宗教行事と密接な関連を持っていましたが、この灰のもつ深い意味を、ヨブはまことに適切な言葉を用いて表現しています。ここに信仰の真髄がしめされているといってよいでしょう。自己義を主張し続けたヨブはまったく打ち砕かれて「自分をさげすみ」灰をかぶり、真の悔い改めに到達したのでした。このような真の懺悔のあるところに神との出会いがあり、これが「灰の水曜日」の意味であります。

3月24日

 パウロは新生したクリスチャン達への奨励をコロサイ三・一二以下で行っています。キリストの言葉という表現は、キリストによって語られた言葉とも、キリストについて語られた言葉ともとれますが、いずれにしても啓示、霊感された「福音の言葉」を示している事に変わりはありません。この御言葉がコロサイのキリスト者の心の奥深くに定着する事が何よりも大切だと説いているのです。そして以上の勧めは個人的というよりコロサイの教会という共同体に向けられています。
 つまりパウロは信徒の群れの中に「キリストのことばを、あなたがたのうちに豊かに住まわせ」(コロサイ三・一六)と言っています。この事から初代教会においては、単に個人個人の生活ばかりでなく、教会の交わりの真只中でも、御言葉を互いに分かち合う生活が実践されていた事を知らされます。
 この世には言葉が氾濫しています。どの言葉に聞いていいか迷います。生活上聞かねばならない必然的な言葉、良いためになる言葉、その他あれこれ一杯耳にする言葉が存在します。しかし、キリストのことばが教会の中に満ち溢れるような美しい光景が私たちクリスチャンの中でも、もっともっと盛んになっていってほしいと願われます。「主のことばを聞くことのききん」(アモス八・一一)ではなく、主の言葉が豊かに聞ける時代にある以上、どん欲に御言葉に聞く姿勢を保持してゆきたいものです。

3月23日

 主イエスの十字架上の七言。
(1)父よ。彼らをお赦しください。彼らは、何をしているのか自分でわからないのです。(ルカ二三・三四)
(2)まことに、あなたに告げます。あなたはきょう、わたしとともにパラダイスにいます。(ルカ二三・四三)
(3)女の方。そこに、あなたの息子がいます。そこに、あなたの母がいます。(ヨハネ一九・二六~二七)
(4)エリ、エリ、レマ、サバクタニ。(マタイ二七・四六)
(5)わたしは渇く。(ヨハネ一九・二八)
(6)父よ。わが霊を御手にゆだねます。(ルカ二三・四六)
(7)完了した。(ヨハネ一九・三〇)
 上記の内(1)の自分を十字架につける者の為の祈りと(2)の罪人への愛のことば、(6)の「わたしの霊をあなたにおあずけします」という言葉、また(3)のご自分の母のことを弟子に委託することば、(7)の済んだという最後のことばはいずれもさすが神の御独り子、神の子だと思わせられるものであります。全人類の罪を担って、かく主イエスは死んで下さったのです。人間の罪は神の御子が十字架上で血を流して清めねばならないほどに、深刻かつ大きなものであります。旧約時代のように動物の血では間に合わないのです。イエスは貴いお言葉を発して人類救済の使命を全うして下さいました。

3月22日

 主イエス様ま、旧約の大祭司制度がなし得なかったことを成就されました。それは、わたしたちを主なる神に近づかせることでありました。ではどうしてそれを成就したのでありましょうか。逆にこの両者を近づかせない、さえぎる原因は何でありましょうか。それには二つあります。
 第一は恐怖であります。人が神を恐れている間は、神のもとでくつろぐことは出来ません。日本の諺にも「さわらぬ神にたたりなし」とあります。この言葉は、日本人の神観念の中にひそんでいる恐怖感を現しています。ところがイエスがこの世に誕生なさった目的は、父なる神の無限の愛を示すためでありました。その愛を知った時に人間の恐怖はとり去られます。神は私たちを罰するのでなく、両手を広げて迎え入れようとしておられます。そして私たちが神に帰ることこそが、神の唯一の願いなのです。
 第二は罪であります。イエスは十字架の上で罪をつぐなうために完全な犠牲をささげられました。今や恐怖は消え去り、罪は克服され、神への道がすべての人に向かって開かれたのであります。「(キリストは)ご自分によって神に近づく人々を、完全に救うことがおできになります。」 (ヘブル七・二五)。目には見えませんが聖書の中に啓示され、記されている神の御子イエス・キリストを信じてキリスト者となってください。ハレルヤ。

3月21日

 新約聖書には二五ヶ所にわたって「奥義」(ムステーリオン)という語が使用されています。マタイ一三・一一、マルコ四・一一、ルカ八・一〇、ローマ一一・二五、一六・二五、二六、第一コリント二・七、四・一、一三・二、一四・二、一五・五一、エペソ一・九、三・三、四、九、五・三二、六・一九、コロサイ一・二六、二七、二・二、四・三、第一テモテ三・九、黙示録一・二〇「秘められた」、一〇・七、一七・五、七、です。
 それは「長い間隠されていた」ものです(ローマ一六・二五)。すなわち異邦人の救いに関するものでした。「これは、多くの世代にわたって隠されていて、いま神の聖徒たちに現された奥義なのです。」(コロサイ一・二六)。「その奥義とは、福音により、キリスト・イエスにあって、異邦人もまた共同の相続者となり…ともに約束にあずかる者となるということです。」(エペソ三・六)。
 私たち日本人は選民ユダヤ人ではないとすれば、異邦人であったものが、福音によって神の子となり信じる者として、キリスト様の降誕、受肉、十字架の贖いの死、復活、昇天、再臨、携挙など、いわゆる奥義の数々を私のものと受けとめる事が出来るようにされたということは大きな恵みであり、特権といわねばなりません。
 エペソ一・九の奥義とは、「神の救いの雄大な御計画」 (尾山訳) ということなのです。

3月20日

 私たちの生存の拠りどころは主なる神様にあります。主は言われます。「わたしは決してあなたを離れず、また、あなたを捨てない」と(ヘブル一三・五)。
 イスラエルの民は出エジプト後、荒野生活四〇年間、創造主に養われたのです。歴史が証明しています。聖書に記述されているこの本物の神様に信仰を持っても神第一の生活に徹する詩篇の作者と共に「主は私の味方。私は恐れない。人は、私に何ができよう」(詩篇一一八・六)と告白して信仰の戦いを勇敢に戦い、永遠の命を獲得したいものです。
 「主はあなたを見放さず、あなたを見捨てない。」(申命記三一・六、八)ですからヘブル書の記者は「金銭を愛する生活をしてはいけません。いま持っているもので満足しなさい」(ヘブル一三・五)と、むさぼりの罪をいましめています。パウロもテモテに対して「金銭を愛することが、あらゆる悪の根だからです。ある人たちは、金を追い求めたために、信仰から迷い出て、非常な苦痛をもって自分を刺し通しました」(第一テモテ六・一〇)と警告しています。
 この世ではもちろんお金は必要です。宣教活動にも教会運営にも個人の信仰生活にも金銭なくしては、事が進んでいきません。故に私達は主から与えられ、預けられたものの一部を献金して、主に栄光をお返ししている訳です。けれども決して金銭の奴隷にならず、今の状況をまず感謝して後は主に祈りゆだねていく者です。

3月19日

 人間は生まれつきのままであってはなりません。すなわち、わがまま勝手、自分中心に生きるものであってはなりません。
 ペテロはキリスト様に出会った瞬間、大漁の奇跡を見せられビックリ仰天して、まず自分の罪を悔い改めました。「主よ。私のような者から離れてください。私は、罪深い人間ですから」(ルカ五・八)。それから彼はキリストのために働く男と変えられていきました。生涯の最後は伝説によれば殉教死を遂げたとさえ言われますが、ペテロをしてこれ程までに変えられてゆく神のみ霊の力は凄いですね。
 彼はイエスに出会う前は誇り高き者、傲慢だったに違いありません。村一番の漁師と内心考えていたでありましょう。それが不漁で一匹も魚がとれない朝、無駄だと思ったかもしれませんが、「でもおことばどおり、網をおろしてみましょう」とキリストの御言葉に従った時、加勢を頼まねばならない程に大漁の魚を見たのであります(同四~七節)。でもイエスにとり扱われたその時、彼の一切は変わりました。
 罪多き私たちもペテロのように全く主イエスの前に罪を悔い、御霊に変えられて益々成長していきたいと願います。そして思う存分このイエス・キリストのご用のために使って頂ける者として、一層自己変革されていこうではありませんか!主よ、私達を憐れみ給え。

3月18日

 「人がその友のためにいのちを捨てるという、これよりも大きな愛はだれも持っていません。」(ヨハネ一五・一三)
 一九五七(昭三二)年二月一〇日の夜、デンマーク船エレン・マークス号が季節風、荒れ狂う紀伊水道にさしかかった時、船の遥か前方に船火事をおこして沈みそうな機帆船を発見しました、そこですぐ様その船に近づき、やっと一人の日本人船員を助け出しました。
 しかし、その喜びも束の間、救命ボートからはしごで救助者を本船に移そうとした時、疲れきっていたその船員は綱梯子(はしご)の途中から、どっと海中におち込んでしまいました。その時、周りの船員を押しのけて激浪の海の中に飛び込んでいった一人の船員、ヨハネス・クヌッセン機関長がおりました。直ちに救命ブイは、そこに投げられました。けれども山のような大しけの彼はついに二人の姿をも消してしまったのです。
 二月という厳寒の海、大しけの波の中へ見ず知らずの日本人を助け出そうとしたこの三九歳の若き機関長の、国境を越えた愛を記念して胸像が立てられているということです。
 最近(二〇〇一年一月)の東京山の手線新大久保駅ホームから、線路内に転落した男を救いだそうとして犠牲となり亡くなった二人の勇気に溢れた方々のことが思い出されます。私達クリスチャンは神の愛、キリストの愛を知り、喜んでこの愛に押し出されて生活していこうではありませんか。

3月17日

 あなたは今まで色々な人に伝道してこられてどのような感想がありますか?
 「実際に伝道をやってみるまでは凄く戦いがあり、恥かしいなどの思いがありましたが、伝道は種まきですからこの段階ではまだ簡単でした。でも人を救いに導くということは、ご聖霊によらなければ本当に困難だと思わされました。でも主は全ての人を救おうとされている神のみ旨を覚えて、さらにこれからも続けていきたいと願っています。何でもそうですが伝道も実際にやってみないと相手の反応などがわからないのです。ですからさらにお祈りをしていく必要性を強く感じます。救いに導こうとする自らの祈りの手帳の中にある、即ち、母親の体内にある子供のような胎信者を愛することができなければ、伝道することは難しいということが分かりました。とにかく出て行く伝道をしたいと思います。」とある人は答えました。
 一世紀初代キリスト教会時代パウロは、コリントの人々に対し、「十字架のことばは、滅びに至る人々には愚かであっても、救いを受ける私たちには、神の力です」と、言い切りました(第一コリント一・一八)。コリント人には十字架の説教は、愚かなもの、ばかばかしいものにうつっていました。またイスラエル人には、つまずきの石でした。日本人にもそのように受けとられているのかもしれません。でも遠慮なしに伝道していきましょう。

3月16日

 なぜ私たちは主イエス・キリストを信じてクリスチャンになる必要があるのでしょうか。それは、キリストのいのちをわが所有とする為です。即ち、イエス様のみ教えをわがものとするだけでなく、彼の生命そのものを私の生命として永遠に生きる為なのです。誰でも死んだ後もできればいついつ迄も生きられたらと、不死の生命を願望するのですが、此の世の誰からも、どこからもこれだけは手にする訳には参りません。
 所が、ここにイエス・キリストという方だけが自ら墓から甦って、すなわち復活してこのいのちを保証して下さいました。毎年訪れる受難週に続くキリスト様のご復活を記念する嬉しいイースターの記念日は、クリスマスと同じようにたいせつにしたいと思います。ではなぜ嬉しいのでしょうか。この方のご復活を信じる各自が、「永遠の生命」を自分の物とすることが出来るからです。単なる教えではなく、イエス・キリストの脈打つ生命そのものと合体出来ることを確信して、いよいよ主イエス様の懐に飛び込んで参りましょう。
 「私があなたがたに最もたいせつなこととして伝えたのは、私も受けたことであって、次のことです。キリストは、聖書の示すとおりに、私たちの罪のために死なれたこと、また、葬られたこと、また、聖書の示すとおりに、三日目によみがえられたこと…」(第一コリント一五・三~四)

3月15日

 現今は聖霊が豊かに働いていて下さる時代です。今日、キリスト様のお姿は見えなくても、このキリストの霊(聖霊)は、助け主、弁護者、慰め主、真理の御霊として大いにご活躍下さっているのです。ですから何一つ心配することはありません。イエスも生前弟子たちに、ご自分がこの世から去っていく前に、「孤児にはしません」(ヨハネ一四・一八)、「わたしは、あなたがたに平安を残します。わたしは、あなたがたにわたしの平安を与えます」(同二七節)、「あなたがたは、世にあっては患難があります。しかし、勇敢でありなさい。わたしはすでに世に勝ったのです」(同一六・三三)と仰せられました。
 いつの世も混乱と暗闇に満ちていますが、しかし、特に私達クリスチャンには真実の助け主、ご聖霊が共におられ、私たちと共に住み、私たちのうちにおられる(同一四・一六~一七)ので感謝です。喜びです。平安です。ですから「立ちなさい。さあ、ここから行くのです」(同一四・三一)との主イエスのご命令に応えて、この世に出ていき、主の証人となるのです。
 イスカリオテのユダのように裏切らないよう気をつけましょう。助け主ご聖霊のお導きと教えを賜わりましょう。もし人生に対する恐怖、不安が襲ってきましたら、ご聖霊(パラクレートス)に委ね、真剣に祈りましょう。

3月14日

 盲人バルテマイ(マルコ一〇・四六~五二)は盲目の目を開けてもらうため必死でありました。このチャンスを逃してはならないと思いました。ナザレのイエスだと聞くと「ダビデの子のイエスさま。私をあわれんでください」と叫び始めました(同四七節)。しかし、無理解な人々は物ごいの出る幕ではないと言わんばかりに、黙らせようとし、阻止するのでした(同四八節)。何という憐れみのない態度でしょうか。これでは渡る世間は鬼ばかりといった状況であります。
 けれどもこの一人の男は黙ってはいませんでした。ますます叫び立てたのです。千載一遇のこの機会を失っては、もはや救いも癒しもないであろうと考え、彼は誰が何といっても聞きませんでした。いよいよ「ダビデの子よ。私をあわれんでください」と叫び願い続けたのです(同四八節)。
 現代のキリスト者の祈りもこのような、熱心、熱意の込められた叫び、祈りでありたいと思います。どれほどに拒否されようと、妨害されようと霊に燃え、望みを抱いて喜びつつ、絶えず祈りに励みたいものです(ローマ一二・一一~一二)。
 ことわざの、「念力、岩をも透す」、「石に立つ失」の語を思い出します。虎と見誤って必死に射た矢が石を貫いたという中国史記の李将軍伝のように、私たちクリ スチャンは全力を傾注して祈って事にあたればどんな難事も必ず解決するのではないでしょうか。

3月13日

 旧約聖書イスラエルの歴史は今日にも共通する人間像を反映しています。
 霊的信仰的、軍事的にもリーダーであったヨシュアが死んでのちのイスラエルは混乱を極めました。彼らは主なる神を忘れてバアルやアシェラなる偶像神に仕えたのです。これは天地創造主ヤーウェが最もいみ嫌う行為でありました。
 それ故に主の怒りが燃え上がり、敵の侵入で国は滅び八年間、クシャン・リシュアタイム王に仕える身となったのです(士師記三・七~八)。士師は「さばきつかさ」(同二・一六)と読み、カナン征服から王国成立までの期間におけるイスラエルの政治的、宗教的指導者を指します。
 とにかく士師時代のイスラエルは偶像礼拝の失敗に気づき、主に助けを叫び求め祈るのでした。すると憐れみ深き神は彼らの救助のためにオテニエル(同三・二)という人物をたてて、アラムの王リシュアタイムから助けだされました。実に背信・堕落→神の裁き・敵の圧迫→救助への叫び祈り→神の救い助け、といったくり返しの形(パターン)が以後続くのです。例え主の助けが期待されるとしても、あえて罪を犯すことのないよう注意したいものです。
 人は例え宗教的偶像でなくても、主なる神以上に大切なものがあればそれらは全て偶像となるのです。イエス・キリストを最高神として崇めこの方にのみ仕えていかねばなりません。

3月12日

 聖書を読む時は、単に知識を求めて読むのではなく、新しく変えられてゆく自身の素晴らしい姿を想像しながら読みましょう。聖書を読むことで、立派な、さらに充実した創造主に用いられる人間像をイメージしたいものです。アブラムはアブラハムに変えられていき(創世記一七・一~二五・七)、旧約のヨセフは苦しみを経て遂に大臣に迄起用されるに至りました。少年ダビデはイスラエル第二代目の王様にまでなっていき、漁師ペテロは、初代教会時代の伝道者として、キリストの福音宣教者として豊かに用いられていきました。
 私たちはどのようなクリスチャンとして進んでゆくのでしょうか。常に祈り、すべてのことに感謝していく、そして聖霊に満たされたクリスチャンとしての豊かな姿を映像化してゆきましょう。聖書を読み学んで、理屈屋になるのではなく、むしろその中に登場している勝利ある神の器たちのように、ぜひ私もなりたいという願望をもって聖書に接してゆきたいものです。
 分からない箇所があっても毎日続けて読む。やがて分かる時が必ず来ます。不明な点は調べるか、尋ねること。祈り心をもって実行する気で読む。傍に聖書辞典、聖書語句辞典(コンコルダンス)を揃えて置く。とにかくコツコツと神の言葉、聖書を読み続けましょう。「…非常に熱心にみことばを聞き、はたしてそのとおりかどうかと毎日聖書を調べた。」(使徒一七・一一)

3月11日

 御霊の一致を熱心に保てとすすめたパウロは、その理由、あるいは実質といったものを七つの点において確かめています(エペソ四・四~六)。
 まず<からだは一つ>ですが、この体はキリストの体としての教会であり、キリストに属する宇宙的教会のことです(ローマ一二・五、第一コリント一〇・一七、コロサイ一・二四)。
 次は<御霊は一つ>ですが、この一言には第一コリント一二・一三の「私たちはみな、ユダヤ人もギリシヤ人も、奴隷も自由人も、一つのからだとなるように…一つの御霊を飲む者とされた」に集約されています。
 第三番目に<召しのもたらした一つの望み>は、終末的天国への望みでありましょう。
 第四に信仰の対象である<主は一つ>とは、キリストが絶対的主権者であられ、唯一の救い主、贖罪者であるということ。
 第五に<信仰は一つ>は神のみ子イエスに対する信仰、この方を証しする信仰を指します。
 第六に<バプテスマは一つ>は、この洗礼の儀式(一回性のもの)によって信者はイエスと一つとされる、キリストにつく者とされる(ガラテヤ三・二七)。
 最後に<父なる神は一つ>です(エペソ四・六)。
 こうして、体、聖霊、望み、主、信仰、バプテスマ、父なる神に対し七つの「一つ」が述べられるのは、教会の一致がいかに重要であるかを示すために他ならなかったのです。

3月10日

 み言葉の静聴には二つの種類があります。一つは聖書をまず読んでから他の人が記したメッセージや本等を併読して祈る方法、第二は参考書(注解書)等を用いないで自ら聖書を読んだのち黙想してご聖霊の導きに従い、神の御心を悟る、又神のみ声をそのみ言葉から正しく聞く方法であります。
 多くの信仰の大先輩達が書き残された、ディボーションの際に参考にしたら良い書物はたくさん出版されています。けれども、それらをまず参考にするのではなく、直接自分自身がみ言葉から神のみ声を聞くようになり、更に正しく神のみ旨、み心を悟る訓練をする必要があります。
 その為にまず聖書本文をよく観察し、今日のみ言葉の中で神様とはどのようなお方と示されているか。次に悔い改めるべき私の罪は示されていないか。第三に神の約束、慰めの箇所はないのか。第四に避けるべき行動、直すべき習慣、神の警告はないのか。第五に私に対し、従うよう勧めておられる主の命令とは何か。最後に模範、その方法は示されているかなどをよく観察してゆきたいものです。
 とにかく万巻の書物が世に氾濫している中で、私たちは聖書一書の人と言っていい位に神の霊感の書にとりこにされてゆきたいものです。

3月9日

 神はなぜ創世記第四章のアベルの供え物に目を留め、カインのそれを顧みられなかったのでしょうか。それはカインが神のみ旨にそった正しい供え物、捧げ物をしなかったからであります。何でも神の前にもってくればよかったのではありませんでした。人間の罪が動物の「血を流す」事なしに赦されなかった旧約聖書時代の事を思う時、カインの捧げた地の産物を目に留められなかった意味がよく分ります。弟アベルは羊の初子、それも最良の物をもってきたのです。
 この第四章冒頭の記事の中に人類最初の殺人事件を見ます。兄カインは主の御心を伺わず勝手に捧げて、目に留めてもらえないと嫉妬し、怒り、憎しみ、アベルを殺してしまいました。ここにアダム、エバの血筋を引いた人間の悲しい姿を発見いたします。兄カインはむしろ弟の件で共に喜ぶべきでありました。そして自らの捧げ物がなぜ主なる神に気にいって貰えなかったかを問い、反省、悔い改めるべ きでありました。そして戸口で待ち伏せしている罪(サタン)を征服すべきでありました(創世記四・七)。
 今の時代は主イエス・キリストご自身がすでに十字架上で血を流して贖罪をなしとげていてくださるありがたい時代であります。それゆえに動物犠牲は一切不必要な、すばらしい恵みの時代に生かされている事を感謝しましょう。

3月8日

 世紀末を歴史に見ると、一六世紀末は下克上、群雄割拠の戦国時代、信長、秀吉の死、一七世紀末は徳川幕府キリシタン禁制令発布、家康の死、国外ではヨーロッパ先進国がインド及びインドネシアその他、北アメリカへと植民地を求めていき、一八世紀末はイギリスの産業革命による世界大変革の幕開けで、自然の生活から技術が主役となる社会が生まれ、庶民の生活は一変せられていきました。
 一九世紀末は世界中で戦争があり、日本も日清戦争に突入していき、二〇世紀に入って間もなく日露戦争を始めとしてこの世紀もまた戦争が繰り返されてまいりました。
 今日二一世紀に入り日本はバブルがはじけて世の中は先の見えない混迷、不透明、不確実、崩壊の様相を示しています。最近の新聞でも中小企業五〇歳代の社長が経営にゆき詰まり、三人一緒にホテルで首吊り自殺を遂げています。
 政治、経済、教育、倫理、道徳など様々な面で危機が叫ばれています。遂には中学生が、友人や先生を殺す時代でもあります。また、電脳情報時代、コンピュータ時代、インターネット通信時代に突入しています。けれども、神のみ言葉、聖書の言葉は幾世紀を越えて永遠に変わらず、全人類の救いの書となっています(第一ぺテロ一・二五)。そしてこの聖書の神すなわち、キリストをよみがえらせて彼に栄光をお与えになった神によって真の明日に生きる信仰と希望が与えられているのです(第一ペテロ一・二一)。

3月7日

 私たちには天使の存在を信ずべき多くの理由があります。第一に、天使の存在と働きとは聖書の中で実にたくさん教えられているからです。主イエスも天使について多く語っておられます。天使の起源、性質、堕落、分類などについても説明しなければなりませんが、それはまた別の機会とさせていただきます。しかし、ここで全ての天使は大別して良い天使と悪い天使に分類できるということです。
 良い天使の四種類は、第一は、「使者」を意味している(ルカ七・二四)いわゆる「天使」。第二は、ケルビム(創世記一二・二四、第二列王記一九・一五、エゼキエル一〇・一~二〇など)。第三は、セラフィム(イザヤ六・二、六)。第四は、天使長(第一テサロニケ四・一六、ユダ九)。以上それぞれに神に用いられ、働いているわけです。そしてこれら天使は、「救いの相続者となる人々に仕えるため遣わされた」(ヘブル一・一四)存在であります。すなわち、クリスチャンである私たちの為にある時には仕え、守り、導き、支えていてくれる者たちであることは感謝であります。
 けれども旧、新約を通じてどれ程天使たちが活躍していましょうとも、天使は天使であって神ではありません。ましてやキリストではありません。そしてキリストは全天使にまさって「すぐれた方」であることをへブル書の記者は証言しています。とりわけ贖罪の業の貫徹こそはキリストにのみなし得たことでありました。

3月6日

 教会が執り行う聖餐式は単なる儀式(セレモニー)ではありません。そこで私たちは生ける主イエスに出会うのです。そこで私たちは、主キリストの真実にふれるのです。そして私たちは主イエスに会って、この一人のお方の死を記念します。
 パンとぶどう酒において、固くお互い同志結び合わされている事を確認します。更にどこの共同体よりも、聖餐式にあずかる信仰共同体の一員である私たち一人一人の絆(きずな)は、非常に強いものであることを再確認するのです。さて神は、主イエス・キリストがそのご自分の肉を裂き、血を流したことを現しているところのパンとぶどう酒という見えるものを通して、見ることのできない「救いの恵み」の真理へと導いて下さいます。
 多くの教会では毎月一回第一週日曜礼拝で、この聖礼典を執り行っていますが、十字架の主イエスを信じているクリスチャンが、この恵みにあずかっております。まだの方もキリストを心に受け入れ、なるべく早い時期に洗礼を受け聖餐の恵みにあずかってください。
 「私は主から受けたことを、あなたがたに伝えたのです。すなわち、主イエスは、渡される夜、パンを取り、感謝をささげて後、それを裂き、こう言われました。『これはあなたがたのための、わたしのからだです。わたしを覚えて、これを行いなさい。』」(第一コリント一一・二三~二四)

3月5日

 私たちの戦い、格闘は悪霊、悪魔に対するものであることを、エペソ六章一二節で教えられます。旧約聖書時代は実際に剣を持って戦争しました。しかし現今においてクリスチャンは、目に見えない暗闇の支配者即ち悪しき敵対者と霊の格闘をなしていかねばなりません。サタンは何とかして私たちと主なる神との間を引き裂いて、自分たちの支配化に置こうといたします。悪霊は時に、口をきけなくしたり、耳を聞こえなくしたりします(マルコ九・一七、二五)。また目も見えなくします(マタイ一二・二二)。さらに一八年間腰が曲がり、全然伸ばせなくなった女性(ルカ一三・一一)のこともあります。
 悪しき誘惑者こそ悪魔なのです。そして私たちの生活を破壊しようとする者です。けれどもキリスト様はすでにご自分の十字架と復活によって彼らの武装解除をなして勝利をとっておられる方です。
 キリストは勝利者として「すべての支配、権威、権力、主権の上に」(エペソ一・二一)置かれ、戦いの勝利宣言をなさったのです。ですからこの勝利者を見つめ、見上げ、信じて私たちも雄々しく戦い進みゆこうではありませんか。霊の戦いは主の戦いでもあります。全てを主に委ね、任せつつも、人間側としてベストを尽くして祝福を得て参りましょう。主イエスの聖名によって祈り勝利しましょう(使徒一六・一八)。

3月4日

 「人生は出会いで決まる」といわれますが、私たちは生きていく中でいろいろな人に出会い、いろいろな影響を受けて歩んでいきます。私たちクリスチャンにとっての一番の出会いはイエス・キリストに出会ったことではないでしょうか。私たちは日々の歩みの中でイエス・キリストをもっと深く知りつつ歩むものであります。
 イエス・キリストは神の身分でありながら、人間の姿で現れて下さいました(ピリピニ・七)。この世の幸せは、地位や名誉で考えられます。しかし、主イエス・キリストの地上でのお姿はそれらのどれ一つも持っておられませんでした。しかも、罪は犯されませんでした(ヘブル四・一五)のに十字架で死なれ、おおよそ幸せとは程遠いお姿でした。しかし、その死を通して私たちの罪は「子よ。あなたの罪は赦されました」(マルコ二・五)のイエスの宣言のように赦され、永遠のいのち(ヨハネ三・一六)に生きるものとされたのです。もし、キリストがこの苦しみを避けたとしたならば、私たちの救いは永遠にありませんでした。一見失敗のようなキリストの十字架の死から人間の救いが始まったのです。そしてキリストは十字架の死に至るまで従順でした(ピリピ二・八)。このようなすばらしいお方と、信仰を持つことによって出会うことができました。なんという幸いなことでしょう。

3月3日

 明るい人生を送りたい、これは全ての人の願いでしょう。しかし、同じ物事を見ても、明るい面と暗い面を見るのとでは、大きな違いがでてきます。
 大音楽家ベートーベンは主なる神を仰いで光を得た人ですが、彼は三〇才の若さで、高熱の結果耳が聞こえなくなってしまいました。音楽家としての致命的な痛手です。でもこれでベートーベンの作曲家としての活動が終った訳ではないのです。心に主イエス・キリストを信じ、天の光と心の救いを得た彼は自身に言い聞かせました。「失ったのは耳だけではありませんか。お前には心の耳があります。心の耳は魂の音楽をもっと鮮やかに聞き取ることができるはずだ。」こう言い聞かせながら敢然と勝利していったのです。名高い「月光の曲」、その他数々の永遠に残る名曲の大部分は、耳を失ってから作られたものと言われます。
 また「いつくしみ深き、友なるイエス」(聖歌六〇七)の作詞家ジョセフ・スクライヴィンは、一度ならず、二度までも婚約者に先立たれるという悲しい体験をした男性です。最初の婚約者は、水におぼれて溺死し、二度目の方は恐ろしい結核に犯され一八六〇年八月帰らぬ人となってしまいました。そんな中から作られた平安と勝利に満ちた賛美歌をわたし達も歌い続けて、創造主にあって明るい積極的な人生を歩み続けましょう。ハレルヤ!
 「主を仰ぎ見て、光を得よ」(詩篇三四・五、口語訳)

3月2日

 主イエス・キリストの事柄は彼の人格とお働きの事柄であります。彼は誰ですか、そして何をしましたか。前者はキリストにおける人格の事柄であり、後者はお働きの事柄に関係します。
 イエスはピリポ・カイザリアの途上、「あなたがたは、わたしをだれだと言いますか」と弟子たちに問いかけられました。するとシモン・ペテロは、「あなたは、生ける神の御子キリストです」(マタイ一六・一五~一六)と告白しました。主イエスはこの時からメシヤのお働きについて弟子たちに教え始められました(マタイ一六・二一)。そのお働きとは彼が、「エルサレムに行って、長老、祭司長、律法学者たちから多くの苦しみを受け、殺され、そして三日目によみがえ」(マタイ一六・二一)ることでありました。
 キリストのなされる大事業は、人間の罪を取り除く(ヘブル九・二六)ために死ぬことでありました。ですから、イエス・キリストは何よりも贖罪者であられます。人間の罪をあがなうために十字架にかけられ、全人類の身代わりの為に死んで下さったお方であります。単なる良い方、道徳家、奇跡家、預言者、教師あるいは宗教家ではありません。主イエスはアブラハム以前からの永遠者にして(ヨハネ八・五八)、私たちの罪のためにご自身をお捨てになった方(ガラテヤ一・四)、文字通り救い主、贖い主であります。

3月1日

 キリスト教信者とは、聖書の神、全知全能の神によって、またイエス・キリストによって神の子という身分、地位、立場が与えられている者ということです。「神の御霊に導かれる人は、だれでも神の子どもです。」(ローマ八・一四)「神はご自分の御子を遣わし、この方を、女から生まれた者、また律法の下にある者となさいました。これは律法の下にある者を贖い出すためで、その結果、私たちが子としての身分を受けるようになるためです。」(ガラテヤ四・四~五)
 地獄の子、滅びの子、サタンの子として位置づけられるのか、逆に、神の子あるいはキリストに許婚(いいなづけ)された花嫁の立場に立つのが賢明なのかは、もはや言うに及びません。ヨハネ第一の手紙は特に、信徒が「神のこども」であることを強調しています(第一ヨハネ三・一~三、五・二)。
 主なる神の子ゆえに永遠の命が与えられ、神の国に属し、御子イエス・キリスト様との交流も赦されています。主にある平安、喜び感謝も神の子ならではの特権です。無きに等しい存在が、価値ある者と認められ、主に礼拝を捧げ、罪洗われた喜びを讃美できるこの恵み。そしてこの世のあらゆる苦難を克服しようとする不屈な負けじ魂。全ては神の子たる身分を授けられている所から来ています。今や私たちは選ばれた種族、聖なる国民、神の所有とされた民(第一ペテロ二・九)です。ハレルヤ!