6月30日

 聖霊降臨祭(ペンテコステ)というのは、キリスト教にとって最も大切な祝祭日です。見方を変えれば、クリスマス、イースター以上に私達にとって重要な日なのです。なぜならこの日を出発としてキリスト教会は誕生、成立し、全世界に広がっていったからです。この日がなければ今日の私達も当然ない訳です。ですからこのペンテコステの日は大きな歴史的転換が与えられた日といってもいいのです。
 そして教会とは、宣教する教会の誕生ということで、この日を境として世界宣教の号砲が鳴り響いたのです。さらにこの宣教の使命、任務を負って出かけていくのはガリラヤの漁師たち「無学な、普通の人」(使徒四・一三)であったことに驚きます。
 いずれにしても丁度日本に明治維新(一八六七年)が、また第二次大戦終了日、一九四五年(昭二〇)八月一五日が、一つの大きな歴史的転換、変り目、節目(ふしめ)を迎えたように。私共の志村教会にとっては、牧師が交代したりネ会堂が建て直されたりした時も、また一つの新出発が与えられた時と言えましょう。
 一九九五年、開拓四一周年目、新会堂竣工一二周年記念日を迎える本日を、主の御霊による再出発の歴史的転換の日としてとらえ、思いを新たにしたいものです。主なる神が当教会に憐みのみ手を差し延べ、今後共さらに成長・発展させて下さることを信じ、益々御霊を崇めましょう。

6月29日

 ヨハネ福音書五・一九~二九は、ベテスダの池での癒しをめぐって、ユダヤ人との間に繰り広げられる論戦の中でなされる、イエスの説教が収められています。そして父と子との働きが一体であることを強調している言葉が私達の注目をひきます。み子イエスが父の全面的な委託を受けたさばき主であり、同時に救い主であられることをも見ることが出来ます。
 更にみ子の終末における権能がはっきりとした形で現在化して主張されております。二四節をお読み下さい。「死人が神の子の声を聞く時が来ます。今がその時です。そして、聞く者は生きるのです。」(同二五節)このように徹底して現在化された終末論の中に、疑いもなく私達の救いに係わる中心問題が示されています。実現されるべき私達への救いが、今ここに、この世界のただ中に起っていると述べられています。何というすばらしいことでしょうか。
 み父が遣わされたみ子イエスによって、彼を信じる者全ての者に与えられる救いであります。今やこの福音を聞く者に対して決断が促されているといってよいのです。み子イエスを信じて、これに従うのかあるいは拒絶するのか問いただされている現代です。イエスを信じ永遠の生命を得て参りましょう。

6月28日

 一九九九年二月、フランスシコ・ザビエル展が開催された折、「胸を開くザビエル」と題した絵が展示されました。彼が天を仰ぎながら胸元を聞き心臓に指をとめている姿が描かれていました。つまりザビエルが自らの心臓を取り出してまで、すなわち命をかけても伝えたかったのは何であったのかを問い掛けているような絵でした。
 一五四九年八月一五日、七週間の航海を経て彼は鹿児島に上陸しました。その折、領主・島津家の菩提寺(ぼだいじ)の住職と問答した時、「日本人の魂を救うため」というザビエルに、老僧は「一文の利益にもなりませんのに」と問い返したそうです。これに対し彼は「一人の魂を救うために、それだけの苦労と犠牲をしのぐ価値があります」と答えたといわれます。
 さらに山口で領主・大内義隆に高価な贈り物をもって会見しましたが、お返しにと出された金銀をすべて辞退しました。大内の「わが国の僧は金銀を欲しがるのに貴僧はなぜ辞退されるのか」の問いに、「私が願うのは金や銀ではなくて、ただ魂の救いだけでございます」と布教の許しを求めたということです。
 いずれにしても一人の魂の救いの為、命がけで異教国日本に上陸した、先人の救霊愛に見習いたいものです。

6月27日

 聖書の神は、私達を祝福して下さる神であります。パウロもエペソ書冒頭の挨拶文の中でこの点にふれています(エペソ一・三)。人類歴史は様々な視点でとらえる事ができますが、聖書で見る限りそれは、救いの歴史、神の祝福の歴史としてとらえねばなりません。創造者である神の人間に対する基本的態度は「愛」であり、その現れが祝福なのです。
 まず天地創造の時点において、「神は彼らを祝福された」(創世記一・二八)とあります。そして神は動物と人間とを祝福して、「生めよ。ふえよ。地を満たせ」(同上一・二八)と言われました。堕罪後、蛇や土は呪われていますが(同上三・一四~一九)人間は呪われていないのです。もちろん労働や出産の苦痛は伴いますが、命は次世代へと受け継がれてゆくのです。
 確かに人類史は、神への反逆とその結果自らに招く神のさばきのそれではありますが、しかし、主なる神はその後、アブラハムを立て、彼を「祝福の基」(口語訳)、「祝福の源」(新共同訳)(創世記一二・二)とし、「信仰による人々が、信仰の人アブラハムとともに、祝福を受ける」(ガラテヤ三・九)ように、また、アブラハムの祝福がイエスによって異邦人に及ぶようにして下さったのです。
 しかしその為に主イエス・キリストが木にかけられて死なねばなりませんでした(同上三・六~一四)。神からの祝福がこのような神の御子イエスの犠牲を伴っていることを覚え感謝しましょう。

6月26日

 「イエスは、死の苦しみのゆえに、栄光と誉れの冠をお受けになりました。その死は、神の恵みによって、すべての人のために味わわれたものです。」(ヘブル二・九)
 イエスが死の苦しみを経験されたのは、他でもない私たちのためでした。ここには死の語が二回もでています。彼が受けた御苦しみは、肉体的、精神的両面のお苦しみでした。
 茨の冠をかぶせられ、つばきを吐きかけられ、なぐられ、槍をさされ、両手は太い釘で打たれ、おまけに、ののしられました。どれほどの苦痛だったでしょう。想像に絶するものがあります。
 またイエスはゲッセマネの園で、「わたしは悲しみのあまり死ぬほどです」(マルコ一四・三四)と言われましたが、その時のお気持ちもまた察するに余りある物凄く深いものだったでしょう。ところがその苦痛と最後の死は全部あなたの、わたしの罪のためであったことを知るとき、改めて愕然とするのです。
 「罪から来る報酬は死です」(ローマ六・二三)と、聖書は告げています。人が犯した不信仰の罪、そこから派生するところの様々な罪の結果が、永遠の死、滅びであるその状況から全人類を救わんとして、イエスは断末魔の苦しみを苦しみ、身代わりの死を遂げて最期の敵である恐るべき死を滅ぼしてくださったのです。ここに真の神の愛があります。

6月25日

 伝道者(コーヘレス)の書は、冒頭から「空の空。すべては空。日の下で、どんなに労苦しても、それが人に何の益になろう」(伝道一・二~三)と虚無感を告白するところから始まっています。この書の著者は栄華を極めたソロモンでありましょう。すべてが空しいことよ、の語句は、一・一四、ニ・一、一一、一五、一七、一九、二一、二三、二六、四・一六などにも繰り返されています。
 即ち、第二章を読んでもわかりますように彼は快楽を経験した人物。酒に女に、事業に宴会に、そして大邸宅を建て庭と園を造り、あらゆる種類の果樹迄植えました。さらに諸州から金、銀、宝も集めました。まさに人としてやりたいことをなし、分の全てを満たした男と言ってもいいでありましょう。しかも知恵、知識も豊かに事を運んで身を滅ぼしたこともない人生の成功者が言っているのです。
 最後はやはり神を恐れつつ主なる神の戒めを守って、この神と共に歩むことが人としての本分であり、幸せだと告白して(同一二・三)この書を終っています。しかも若い日にあなたの造り主を覚えなさい(同一二・一)と勧めています。
 この虚無に満ちた世において本当の幸せがどこにあるかを教える書といっていいでありましょう。また真の神なき人生がいかに空しいかを教えてくれる書でもあります。新約の時代に生きる私たちとしても、やはりイエス・キリスト以外に真実の幸せはないのです。

6月24日

 ヨハネ一七章の主イエスの祈りの主題はひとことで言えば「一つにならせて下さい」であります。イエスは人々の心が互いに競争し、分裂し、誰が偉いか偉くないか争うことを当然のこととしている世の中をよくご存知でありました。
 弟子たちが、またイエスを信じた信仰共同体がこうした世の風潮に巻き込まれて、分裂、分解しないよう父なる神に祈り、願われたのです。分裂と争いは、その中に巻き込まれる全ての人々を害します。それだけでなく、彼らが大切に思っているその家庭、団体、教会国家をも破滅に導いてしまいます。
 私たちのエゴイズムから出てくるこうしたサタン的影響を克服していくことは、人間の生来の力、意思力だけでは不可能です。分裂の力は悪魔的なパワーです。人にはこれを防ぐ力はありません。そのために、私たちがもし分裂の危機に遭遇した時はただ主を仰ぎ、イエスの祈られた祈りを想起し祈るのみです。こうして具体的に祈って一つになる方向に進む努力を積み重ねてゆくばかりであります。
 ではなぜ一つになってゆくのでしょうか。それは力を結集して主の教会を立派に建て上げていくためであります。ヨハネ一七・二二では、わたしたちが一つであるようにと言って、父なる神と、子なるイエスとの関係が一つのように、教会が一致するようにとイエスは祈られています。

6月23日

 私たちは時々大事なことをしなければならないと思いながら、ついつい先に延ばしてしまって失敗することがあります。
 祈祷会で一人の婦人が涙ながらに証をされました。彼女は自分の地域に伝道をしなければならないと思いながらも、様々なことで引き延ばしていました。ところがある時近所の知り合いの女性が訪ねてきました。「奥さん幸せですか。私は長い間苦しんでいました。でもある日のこと、一人の方が訪ねてきてくれて私の悩みを聞いて下さり、遂にその方の宗教に誘われて、今では私も毎日が楽しいのです。奥さんも一緒に行きませんか?」と言われてショックを受けました。「私はその奥さんのことも気になっている時がありました。でもやがてそのうちに訪ねればいいのだ、といって延ばしていました。それが悪かったのです」と姉妹は泣きながらそう証ししていました。注意しましょう。
 とにかく私たちはクリスチャンになつてからの嬉しさ、喜びのお証し、体験談をもって伝道していきましょう。あるいは、「教会へいらっしゃいませんか」、「日曜礼拝に一度出席してみませんか」の一言を未信者の方にかけていきましょう。その一言が相手の生涯を全く永遠に変えていくでしょう。「みことばを宣べ伝えなさい。時が良くても悪くてもしっかりやりなさい。」(第二テモテ四・二)。

6月22日

・聖書の示す教会役員・奉仕者リーダーの資格
 主のための尊い仕事、役目に従事する訳ですから、求められる資格も当然その標準は高く厳しいものがあります。ですから、たえずご聖霊に整えられている必要があります。

・使徒の働き六章三節に見る資格
 (1)聖霊に満たされている人。
 (2)知恵に満たされている人。
 (3)評判の良い人

・第一テモテ三・一~ー三に見る資格
 (1)非難のない人。
 (2)一人の妻の夫である人。
 (3)自分を制しうる人(自己管理)。
 (4)慎み深い人。
 (5)品位がある人、礼儀正しい人(口語訳)。
 (6)よくおもてなしができる人(他者を助ける)。
 (7)教える能力のある人。
 (8)酒を好まず、酒飲みでない人。
 (9)暴力をふるわない人。
 (10)寛容、温和で人と争わない人。
 (11)金銭に淡泊、無欲の人。
 (12)自分の家庭をよく治め、十分な威厳をもって子供を従わせている人、従順な者に育てている人(口語訳)。
 (13)信者になって間もない者でない人。なぜなら高慢になって、悪魔と同じさばきを受けることにならないために。
 (14)教会外の人々にも評判の良い人。
 (15)謹厳(まじめ)な人で、二枚舌を使わない(うそをつかない)人。
 (16)大酒飲みでない人。
 (17)不正な利をむさぼらない人。
 (18)清い良心をもって信仰の奥義を保っている人。
 (19)悪口を言わない人。
 (20)すべてに忠実な人。

というわけです。

6月21日

 全人類の真の父は、旧約聖書に登場するイスラエルの神ヤハウェであります。この方の本質は全ての創造者、歴史の支配者、指導者、生きていて働く神、永遠にいまして完全無欠の神、絶対不変、唯一にして真実の神、聖にして義、全人格的愛と憐れみ(へセド)の神、歴史的救済の神、語り、啓示する神などの特性をあげることができるのです。
 そして新約聖書においての神は七〇人訳聖書からセオス(ヘブル語のエロヒム)と呼ばれ数多く用いられています。しかし、主イエスによって最も瀕繁に用いられているのは「父…パテル」であります。イエスが神を父と呼ぶ場合、それは人格的な愛と権威とを意味する名で、人類一般の父であるのとは別な独自の関係を言い表すものとして用いられています。
 ヨハネ福音書では父と子が一つであり(ヨハネ一〇・三〇)、父は子によって自らを現し、み心を行い(同上六・三八)、語り、さらには裁きをも子にゆだねる(同上五・二二)と述べられています。
 パウロはセオスとパテルを交互に用い、パウロはこの両者を結びつけて用いています。セオスは新約聖書では常に<唯一の神>を示す言葉として用いられますが(マタイ二三・九、ローマ三・三〇、第一コリント八・四、第一テモテ二・五)、これをある場合はキリストに対して用いている場合もあるのです(ヨハネ一・一、二〇・二八)。

6月20日

 人間の身体は実に精密にしかも美しくできています。体には何十兆個の細胞があり、大事な思考、感情など中枢の大脳皮質だけでも約一四〇億の細胞から成っており、脳の記憶量は最大一〇の一六乗(一京・兆の次の数字)ビットで、現在のコンピュータの最大容量の一万倍になると言われています。
 心臓は人間が眠っている時も動いており、電灯のようにスイッチをひねることもいりません。通常一分間に七二回打ち、一日平均四七三〇リットルの血液を体内に送り出し、血液は一三秒で体内を一巡、それは約千キロの旅ともいわれています。体内の血管は全部をつなぐと地球を二回り半し、その血液の中の赤血球は、骨髄で毎日二千億個も作られ、また、腎臓にはネフロンといわれる百万個のろ過装置があると、専門書でよみました。
 これらすべては聖書の神、創造主によって造られました。聖書の神は実に想像以上の、人知では計り知ることのできない神であられます。人は大建造物を建てることはできても、動く小さな虫一匹も造れない限界ある存在であります。創造者なるまことの神を信じ、さらにこの一人のお方に頼ってゆきたいものです。
 「ハレルヤ。神の聖所で、神をほめたたえよ。御力の大空で、神をほめたたえよ。その大能のみわざのゆえに、神をほめたたえよ。…」(詩篇一五〇・一~二)

6月19日

 一九〇一年一月一日に、神は、カンサス州トペカのベテル聖書学校に、一九〇六年にはロサンゼルスのアズサ通りの一信徒の家庭集会における祈祷会に、聖霊を激しく注がれました。さらに広い場所に移されて連日三回の集会が三年間も続くことになりました。この恵みはアメリカ国内にとどまることなく、ノルウェー、スウェーデン、イギリスなどにも飛火していきました。
 こうして聖霊のリバイバルがアメリカ全土にひろがり、ペンテコステ信仰とその体験に立つ多くの同士が出来てきた頃、一九一四年四月二日から一二日にわたってアーカンソー州ホットスプリングスで、約三〇〇名の会衆を集めた総会が開かれました。この影響を受けた人たちが一九〇七年大人一六人、少年、幼児五人を含む計二一人で横浜に上陸したのです。どこからのサポートも受けず、ただ信仰によって遠い異国に福音宣教の為、来日しました。アッセンブリーのC・F・ジュルゲンセン師一家初来日にさかのぼる六年前でした。
 東京都北区滝野川に最終的に居を構えられたジュルゲンセン師ご一行は、一九一三年米国オハイオ州から渡日したのです。前記カール・フレデリック・ジュルゲンセン(ドイツ系アメリカ人)師も、やはりアズサリバイバルの影響を受けて神の声に従い、遥かなる日本にまで、ただイエス・キリストをのベ伝えるためにやってこられたのでした。

6月18日

 クリスチャンが「聖く、傷のない者に」(エペソ一・四)なる目標を掲げて進む事はもう自明の事でありましょう。世の中が悪から悪に、罪から罪に汚れていけばいく程に、私達の戦いは激しさを増します。
 しかしキリスト者の純潔は「傷もなく汚れもない小羊のようなキリストの、尊い血によったのです」(第一ぺテロ一・一九)。そしてキリストの血は、「私たちの良心をきよめて死んだ行いから離れさせ、生ける神に仕える者」とさせて下さったのです(ヘブル九・一四)。主なる神は聖霊のお力を与えてこの戦いに充分備えさせて下さいます。私達を主は選んで、召してクリスチャンとして下さったのも、実はこうした「清さ」を意識し、清さを求めてクリスチャンらしく歩むためである事を、改めて再認識しようではありませんか。
 世の大多数の人達が、金銭、物質、地位、名誉、快楽その他様々な地上的なものを求めて歩む中で、一人クリスチャンは主なる神の完全性と清さを最優先にして生活の駒を押し進めてゆく訳です。この事をパウロはエペソ書冒頭の挨拶の中ではっきりとさせています。私共の人生目標の第一がこの点に絞られているのです。
 その為にまず霊の諸々の祝福をもって祝福しているのです。主に在って清くなれると信じて、あきらめず少しずつでも聖別されて前進いたしましょう。天国を目指して聖化の道を賛美しつつ歩みましょう。

6月17日

 「ああ、その日よ。主の日は近い。…その日が来る。」(ヨエル一・一五)
 主の日はイエス・キリストの再臨の日でもあります。クリスチャンにとって再臨はすばらしいことですが、未信者にとっては、ヨエル書にありますように「主の日は偉大で、非常に恐ろしい」日であり、「だれがこの日に耐えられよう」であります(ヨエル二・一一)。ヨエルの時代にはいなごの大軍がや ってきて、全てを食い尽くして南ユダに大飢謹をもたらしたのでした。そのことはバビロンの敵国が侵入してきて、イスラエルの南部をまったく滅ぼし尽くすことを意味していました。
 日本も将来どこか周辺国からの侵入が絶対ないとは誰もいいきれません。また同じいなごの被害が日本崩壊をもたらす、まさに終末的恐ろしい事態が起こらないとは断言できません。「今がどのような時か知っているのですから、このように行いなさい」(ローマ一三・一一)とパウロは、やみの業、不道徳の業を捨てて光の武具をつけ、主イエスを着た生活、すなわちキリスト者らしい生活をするように勧めています。
 主の日の到来、主の御手のさばきが来ないうちにしっかり主イエスを信じて、神のみ元に携え上げられるよう心備えをしていくと同時に、まず身内に福音を伝えておきましょう。また時には無理にでも主の身元にひっぱって参りましょう(ルカ一四・二三)。

6月16日

 主イエス・キリストが、弟子達を地上に残してこの世を去ってゆかれる前に、特に彼らの為に祈られた祈りがヨハネ一七・九~一九にのっています。イエスの大祭司としてのとりなしの祈りです。
 即ち、ここでは世の未信者のためというより、イエスが愛された弟子たちが全く一つとなって前進できるようにです。サタンはいつも教会を分裂に追いこもうとします。バラバラにして弱体化を図る。故に彼らが敵の手から守られ支えられ保たれるようにと、聖なる父に願われる(一一節)。一緒に彼らといた時はイエス自身の手で守ることができましたが、今父のみもとに行こう(一三節)とされる段階にあって改めて、一五節でも「悪い者から守ってくださるように」と願っておられます。しかも、主イエスに在る喜びが満ち溢れ、全うされるために(一三節)とも話しておられます。何という感謝でありましょうか。
 現代においても私たちの生活のことを心配しておられるのはキリストご自身です。主を愛する者たちにみ言葉を与え(一四節)、かつこの世で勝利していくように天のご加護を祈り、かつ聖別してこの世に派這することも祈っておられます。目に見えないが主の手厚い御守りがあることを固く信じて、あらゆるサタンの反対、攻撃、憎しみ(一四節)などを元気よくはね返して、主の証人としてこの世に出発していきたいものです。

6月15日

 信仰は信頼です。故に自分に対する不信頼でなければなりません。従って不信仰は自分に対する信頼です。不信仰に三つの型があります。そして不思議にも一二弟子の中にこの三種の型があります。
 シモン・ペテロは第一種です。彼の純粋な信頼深い性質は自分の力を過信して、たちまち不振に陥るのが常でした。彼が三度その主を否定したのはその著しい例です。しかし、自力に対する無邪気な信頼は厳しい現実の前にたちまち潰れて信仰に入りました。この主イエスへの不信はもっとも簡単です。
 第二種を代表する者はトマスです。自分の指をイエスが十字架上で釘打たれたその穴に差し込んでみなければ信じられない人です。しかし、自分の判断が誤っていたことを知る時、トマスは事実の前に頭を下げて信仰に入ることができた(ヨハネ二〇・二六以下)のです。
 最も度し難いのは自分の信仰に対する信頼です。イスカリオテのユダがこれを代表します。彼は欲に目がくらんで銀三〇枚がイエスの生命よりも大切になったのと同時に、イエスの語られた教説が自分と違うことを発見した時、これに失望し裏切り、敵に渡して殺してしまった(マタイ二六・四七~五〇、ルカ二二・三~六、四七、四八、ヨハネ一八・二~九)のです。注意せねばなりません。

6月14日

 「世界人類が平和でありますように」という小さな看板を時折、町の中でみかけます。このスローガンを掲げることはたやすいのですが、しかしこれの実行となるとなかなか困難であります。
 主イエスは「平和をつくる者は幸いです」(マタイ五・九)とおっしゃいました。即ち、ピースメーカーであれと。平和は自然発生的なものではなく、人工的なものであります。人はいかにして争わず仲良くしていけるのでしょうか。そもそもカインがアベルを殺すところから始まった人類歴史ですから、その血を引く人間が平和であることの方が不思議なくらいです。
 今尚、地球上のどこかで紛争が、戦いが起き、血が流されているのです。ついには空恐ろしい核兵器の実験がなされ、相手がやればこちらもやるぞ、と威嚇します。そのための核爆発実験がパキスタンでも行われたのです(一九九八年)。平和を作り出すどころか、平和を乱す反逆行為であります。
 けれども私たちキリスト者はあきらめず敵意という隔ての中垣(エペソ三・一四~一五)をとり除くため、十字架上で死んでくださったイエス・キリストをますます宣伝し、まず私どもの回りから小さな平和をつくり、生み出してゆく努力を重ねていきたいものですね。「さあ、あなたは神と和らぎ、平和を得よ。そうすればあなたに幸いが来よう」(ヨブ二二・二一)とあるように、まず自分自身が神との平和を得て、神の子とされてゆきましょう。

6月13日

 主イエス・キリストは、公生涯三年半の間に数々の奇跡を現されました。そのうちヨハネ福音書には七つのしるしがみられます。
 また、七つのうちの一つが五千人給食の記事であります。ではなぜイエスはそのような奇跡、しるしを人々に見せたのでしょうか。それは自らが神から派遣された神の子であり、そして神である性質を有しておられることを証明するためでもありました。「いまだかつて神を見た者はいない。父のふところにおられるひとり子の神が、神を説き明かされたのである。」(ヨハネ一・一八)
 当時、多くの人々特にユダヤ人たちはナザレ人イエスを単なるヨセフ、マリヤの子としてでしか認めていませんでした。まさかイエスが神そのお方のご性質をもって現れた真の救世主、メシヤとは信じ受け入れにくかったのです。
 そこで王イエスは、男の数だけでも五千の人たちをわずか五つのパンと二匹の魚でもって満腹させ、自らの神性を証明したのです(ヨハネ六章)。父なる神との一体の中で、神の主権をもつキリスト、このキリストはまた現代二一世紀における神の御子であり、栄光のキリスト、罪からの救い主、私どもに真の幸せを届けて下さるお方なのです。いよいよ栄光のイエスに祈りのうちに近づこうではありませんか。

6月12日

 エペソ書は教会を中心にして書かれたものと言われます。パウロの書いた手紙の中でも、ローマ書にも劣らないキリスト教の教理全般にふれられているとも言われます。しかもそれらは体系化、教理化を意味しているのでなく、「現実に生きておられるキリストの体なる教会」を現している手紙なのです。そしてパウロは教会を種々な言葉で表現しています。「キリストのからだ」(エペソ一・二二~二三)、「成長するからだ」(同四・一五~一六)、「建物としての教会」(同二・二〇~二二)、「キリストの妻としての教会」(同五・二二~三二)などです。これは本書が徹底してキリスト論的性格を持っことに起因しています。
 しかし、当時の教会は決して大きな教会ではありませんでした。そのもてる力は微々たるものでした。むしろ驚きはそうした弱小教会の現実の只中にあって、パウロが堂々たる教会論を展開していったことであります。
 内外の色々な悩みにおびやかされていたにもかかわらず、彼は将来の教会の発展を思い主の恵みを語り、教会のあるべき姿勢を霊の感動に打たれて執筆してゆきました。
 ですから今日もなお私達に語られているものとして、エペソの信者たちと共に、謙遜に聞くことが出来ます。そして、戦う教会、勝利の教会、また、主に聞き、主を礼拝し、主をあかしする教会として益々恵まれてゆきたいものです。

6月11日

 パウロとバルナバは初代教会時代の第一回伝道旅行中、ルステラ(現在のトルコ中北部)において神の全能の力を得て、生まれながら足のきかない男を癒したのです(使徒一四・八~二三)。
 その時パウロのしたことを見た群衆は声を張り上げ、彼らをギリシャ神話の最高神ゼウスとその末子ヘルメスの名を呼んで、二人を神様に祭り上げようとしました。するとゼウス神殿祭司は雄牛数頭と花飾りを携え来て、群衆と一緒に犠牲を捧げようともしました。
 この事を聞き知ったパウロたちは 駕き叫びながら彼らの中に駆け込み、「皆さん。どうしてこんなことをするのですか。私たちも皆さんと同じ人間です」(使徒一四・一五)と言って阻止したのです。ここがキリスト教伝道者の立派なところで、普通なら自分が「神の座」に座りたい、そして民衆からひざまずかれ、拝まれたいのです。
 我こそメシヤだ、世直しの救い主だという人間が昔も今も現れるのが常です。使徒一二・二〇以下のへロデ王は神に栄光を帰さなかつたので、虫にかまれて息が絶えたとあります。私たちも心したいと思います。どんな立派なことができても、私たちは神ではないのです。神にはなれないのです。「神は高ぶる者に敵対し、へりくだる者に恵みを与えられるからです。」(第一ぺテロ五・五)ヘロデは自己を神格化する民衆の声に陶酔した故に恐るべき神の裁きを招いて「虫にかまれて」死んだのです。

6月10日

 「天にいます私たちの父よ。」(マタイ六・九、神への呼びかけ)
 旧約聖書、申命記三二・六に「主はあなたを造った父ではないか。主はあなたを造り上げ、あなたを堅く建てるのではないか」とあります。
 その他、イザヤ六三・一六、詩篇八九・二六、マラキニ・一〇などにも同様の言葉がありますが、これはイスラエル民族と神との関係を親子関係で表している事は明白であります。現代に生きる私達も又同じであります。
 イエス・キリストも自分は神の愛する子、従って天の神はわが父です、という絶対的自覚をもっておられました。故にマタイ一〇・三二、一一・二五、二六・三九、四二などで「わが父」と神に呼び掛けられました。そこでイエスは弟子たちに「わたしたちの父よ」と呼ぶことを教えられました。
 この「父よ」という呼び掛けは最も身近で親しく信頼に満ちた折りの言葉です。この呼び掛けから神の恵みと憐れみとが私たちの全身全霊に満ち溢れるのです。創造者にして全知全能なる父なる神に更に祈り続けましょう。キリスト教の祈りは、まずこの呼びかけから始まることを知って、まだ祈ったことの無い方もぜひ「天の父なる神様」と言って、最後は「主イエスの御名によってお祈りします」と締めくくってください。

6月9日

 誰でもクリスチャンならできる「あかし伝道」。
 牧師先生から次のように言われたとしましょう。「Aさんが求道の心をもっています。どなたか個人伝道に行ってくれませんか」。そんな時、二つ返事で引き受けられる人は少ないと思います。ところが牧師先生がこう言ったとします。「Aさんが求道の気持ちをもっています。誰か自分がクリスチャンになった前後のあかし(証し)体験談を話してあげてくれませんか」と。「あかしでいいのですか。それならいってきます」と引き受けられるのではないでしょうか。
 さて個人伝道といわれるとダメでも、あかし伝道ならできますという方は多いと思います。あかし伝道こそ全クリスチャンの果すべき、実行すべき伝道ではないでしょうか。主イエス・キリストを信じて、罪から清められ、救われて神の子と造りかえられた喜びの体験談は皆語れるのではないでしょうか。
 教会の礼拝会などに参加し、牧師のメッセージに心打たれ、神のみ言を信じて生れ変り、クリスチャンとされたこの平安と喜び、キリストの十字架の恵みを大胆におあかしください。光のイエスをあかしするために現れたヨハネ(ヨハネ一・六)のように。「彼は光ではなかった。ただ光についてあかしするために来たのである。」(同一・八)

6月8日

 家庭の幸福は創造者であるまことの神を信じ、礼拝してこれに仕え従っていく生活にあります。必ずしも富、地位、名誉、物質、健康、能力、門閥、学歴によりません。主なる神への信仰なくして何の幸せぞということです。特に一家全員が聖書信仰、唯一なるまことの神を拝んでいく家庭こそ幸福を生み出していく家庭であります。聖書の神をおそれ、敬度な心を持って旧約のヨブのように(ヨブ一・八)悪に遠ざかる生活に邁進できたらと願います。主の道を歩む者こそ幸いなのであります。
 けれども信仰はただ座して神の祝福を待つことではありません。「働かざる者、食うべからず」の言葉のように、幸いなる家庭を築く者とは「自分の手で勤労する者のこと」です(第二テサロニケ三・一〇、一二)。信仰と生活とは決して矛盾するものではありません。全てを主にゆだね無用の心配を捨て、懸命に自らのベストを尽して働き労する者が、幸福だというのです(詩篇一二八・二)。そういう者がその実を食べることができ、楽しむことがゆるされる訳です。
 クリスチャンの家庭生活の基礎土台は、どこまでも神に畏敬の念をもち、これを恐れつつ、このひとりの神に仕え、自らに与えられし職分を全うすることにあります。信仰と勤労は車の車輪のように互いに助け、支え合うことにより、始めて真に幸福な生活が営まれるのです。

6月7日

 パウロはコロサイの人々がまず古い自分を捨てることをすすめています。これを「脱ぎ捨てて」(コロサイ三・九)と表現しています。すなわち、不品行、汚れ、情欲、悪い欲、むさぼり、怒り、憤り、悪意、そしり、恥ずべきことば、偽りなどです(同五、八、九節)。古い人をその行いと一緒に脱ぎ捨ててしまったのがクリスチャンです。そして新しい人を着たのです(同一〇節)。そこには人種、国境、男女、身分の差もなく、すべてのキリスト者のあるべき姿と言うべきです(同一一節)。
 コロサイ三章一二~一七節から列挙してみますと、まず深い同情心(憐れみの心)、慈愛をもつことです。あらゆる動・植物に対して、もちろん人間に対してでもです。女性、子供、老人、病人、受刑者、身障者、ホームレスなどありとあらゆる人々に対してです。思いやりのある優しい親切な心で接していきたいものです。虐待行為などが本当はあってはならないことです。でも世界的に様々な形で残虐な殺し合いなどが展開されている事を恐れます。
 また謙遜、柔和、寛容、互いに忍耐し合う、赦し合う、愛し合う、キリストの平和をも身につけていくようにしましょう。
 かつ感謝の心をもつ人、キリストの言葉を豊かに住まわせ、互いに教え、戒め、感謝に溢れて心から神に向かって歌っていく美しいクリスチャン像を世の人々に証ししていきたいと思います。

6月6日

 主なる神の摂理によってこの地に志村教会が建てられて約五十年(一九九九年当時)。この間の担任牧師は山脇久治、堀川満也、松崎実也、長屋勇各師の四人です。主はこうした牧者を通してご自分の体なるエクレシアを養い、導き続けてこられました。霊的、信仰的リーダーは変わっても三位一体なる神は永遠不変です。この生きておられる神によって今後も志村教会は守られ、発展し続けていくことを信じます。
 私たちはこのイエスの犠牲の血によって贖い取られたキリストの教会によって生まれ、育ってきました。ですから今後も尚この所属するアッセンブリー志村教会のリバイバルのために寄与していかねばなりません。ご聖霊に満たされて前進しなければなりません。何としても一人が一人を主のもとにお導きする責任があります。具体的教会目標は五〇名礼拝の早期達成です。福音のためなら何でもします、といったパウロのように再度献身を新たにしていきましょう。「幻の無い民は滅びる」(箴言二九・一八、英国欽定訳からの翻訳)のです。
 主はイエスの名を使って祈り伝道していく民に今日も働いておられます。神第一主義、み言葉中心主義、礼拝その他集会出席、伝道、証し優先主義で人生の勝利を、クリスチャン生活の勝利を勝ち取って進みゆき、スクラム組んで初心者の方々の面倒をキリストの愛をもって見ながら、互いに主の教会を建て上げていく者となりましょう。

6月5日

 モーセは旧約を代表する人物でした。旧約聖書歴史中、出エジプトの偉業を為しとげた大指導者であり、モーセ五書、モーセ律法と言われるように、神の啓示のみ言葉を著した人、又これを語った人、即ち、律法受与者でもありました。イスラエルには彼のような預言者は他に起こりませんでした(申命記三四・一〇)。それ程の偉大な人物であります。
 また旧約の人物中、モーセは最も多く新約聖書に引用されています。へブル書の記者もやはり、モーセを引用し彼の忠実さを賞讃しています。
 しかし、わたしたちの救い主イエス・キリストは、この偉大なモーセ以上の方だ、と主張しているのがヘブル三・一~六の箇所です。主イエスは、(1)憐れみ深い忠実な大祭司、(2)試練を受けて苦しまれた、(3)大いなる光栄を受けるにふさわしい者とされた、(4)神の家全体を治めるのに忠実であられた、(5)悪魔を減ぼし(ヘブル二・一四)、(6)死の恐怖のために一生涯奴隷となっていた者たちを解放する(同二・一五)素晴らしい方なのです。
 さらに、ヘブル四・一五では、大祭司イエスは、「罪は犯されなかった」、すなわち、無罪性の方ですが、しかし私たちと同じように試練に会われた方ですから、私たちの弱さに十分同情出来る方とも記しています。このようなすばらしいお方を模範として、特に「忠実」な主の証人として進みたいものです。

6月4日

 使徒の働き一二章は「嵐の中の教会」「政治権力による弾圧」「地上の王権対キリストの王権」「初代教会の熱心な祈りと神の応答」「神の主権の発動による使徒ペテロの救出の奇跡」「歴史における教会の命運」「神のみ言葉の進展、前進」などが記されています。
 ペンテコステのあと、めざましい進展を見せたキリストの教会、弟子団の宣教はその進展ぶりに即応して影響と波紋を広げ、一面では好感と受容、他面では嫌悪と拒絶の中に包まれていきました。
 ステパノの殉教以後、ユダヤ指導者層のいわば「邪宗門禁止」の意志は「新しき事は常に謀反」の考えからきたものでありました。時の為政者たちによる弾圧の暗闇の中で、教会では熱烈な聖徒達による祈りの犠牲が払われていました。
 その時、無力かに見える祈りは、実に大奇跡を生み出すに至ったのです。神が呼応なさったのです。時の嵐の現実の中でキリスト者の祈りこそが最強の武器でありました。祈りを馬鹿にしてはいけません。祈りこそ人間的絶望状況における希望と勇気と力の源泉なのです。どのようなマイナス要因をもプラスの現実に変えていく神の力です。ペテロはこのようにして、ペンテコステの日に注がれた御霊の力による力強い教会の熱心な祈りによって救出されたのです。

6月3日

 五旬節(ペンテコステ)という語は<第五〇>という意味で、それが過ぎ越しの安息日の後、五〇日目に当たるからそう呼ばれました(レビ二三・一五~一六)。五旬節は、それが過ぎ越しのときから七週目に当たることから七週の祭ともいわれました(出エジプト三四・二二、申命記一六・九、一〇)。新約聖書では、使徒二・一、二〇・一六、第一コリント一六・八の三ヶ所で五旬節の語に言及しています。
 過ぎ越しの祭は四月の中旬でしたから、五旬節は六月の初めだったことになります。これはユダヤ人の義務的で強制的な三大祭の一つでもありました。そして六月の初めは四月よりも旅行するのに好ましい気候でしたので、過ぎ越しの祭のときよりも多くのユダヤ人が遠くから五旬節の祭にやってきました。それで様々な国や地方の名が多く列記されているのです(使徒二・九~一一)。
 全てのユダヤの祭のように、五旬節も<農業上の>意義をもっていました。それは小麦の収穫の始まりで、その大きな劇的な儀式の一つは、新麦の粉でできた二個のパンをささげることでした(レビ二三・一六~一七)。過ぎ越しのパンと違って、これらのパンは普通のパン種をいれて焼いたものでした。これは宮でささげられるもので種をいれた唯一の犠牲でした。疑いもなく、その儀式は普通の日ごとのパンに対する神への感謝でありました。

6月2日

 「主よ…祈りを教えてください」(ルカ一一・一)という弟子たちの願いは、今日のクリスチャンの願いでもあります。ルカ福音書ではマルタとマリヤの姉妹の話に続いて主の祈りが書いてあります(ルカ一〇・三八~一一・四)。人間にとって無くてならぬ只一つのものは何か、という事を問い、それはひたすらに、主のみことばに聞き入ることが示されています。
 それに続いて、祈る事を教えて頂きたいといっていることは大変大切なことです。なぜなら主のみことばに聞きいることと、祈ることとは深い関係があるからです。即ち、クリスチャンにとって主のみことばなしに祈ることはできませんし、逆に祈りなしに主のみことばを受けいれることもできないからです。祈りとみことば、この両者は不可分離の関係で、私たちを異教から、異端からも守ってくれるのであります。
 現代人はマルタのように、多くのことに心を配り思いわずらい、忙しくて、ともすると心とりみだした生活を送っています。ほんとうに無くてならない物が何であるかを見失っているのかもしれません。前記のマリヤはイエスの足元に座ってみことばに聞き入ったので、「マリヤはその良いほうを選んだのです」(ルカ一〇・四二)とイエスはいわれました。聖書を通じて私たちもますますイエスに問いて、イエスに祈っていきたいものです。

6月1日

 言い古されています代表的な人々ではありますが、ヘレン・ケラー(一八八〇~一九六八)、八木重吉(一八九八~一九二七)、星野富弘氏など各位は身体的障害の中にあるその現実は何一つ変わらないけれども、変えられたのはその心、その内側でありました。これらの方々はクリスチャンになられました。自らがキリスト者と変革されていきました。これが現代の奇跡です。聖書による内側の大変化が与えられて自らの足でしっかりと勇気と希望をもって、明日に向かって前進できることが肉体の癒しにも優るとも劣らない、実は大いなる奇跡と考えたいのです。
 一時は自殺まで考えた人たちも主イエス・キリストを信じて全く変えられていったその時に、忍耐心が与えられ、救われた喜びが同じ障害で悩み、苦しむ人たちにすばらしい勇気と希望を提供していきました。

  人がわたしを褒めてくれる、それが何だろう
  泉のように湧いてくる楽しみのほうがよい
  イエスを信じること、それを一番の楽しみにしたい
  ひとりでに力が出てくる位たのしみたい
  (八木重吉「ノートA」一九二六年三月十一日)