12月31日

 全て初めのあるものには、終わりがあります。一日に終わりがあり、一週に終わりがあり、一ヵ月に終わりがあり、一年に終わりがあります。また仕事に終わりがあれば、休みにも終わりがあります。それだけではなく、友情に、また共に白髪を誓った夫婦にすら終わりがあります。
 このように、やがて私たちの互いの生命、この地上の生涯にも終わりがくることを忘れてはなりません。その時には、肉体を離れた私たちの霊は、直ちに神のみ前に立って、どのように地上の生活を送ってきたか、人生の総決算をしなければなりません。その事を考えてまごまごしないように、普段から心がけておくべきでしょう。
 マタイの福音書二五章にあるイエス・キリストのタラントのたとえ話を頭に置いて、私たちの人生にも大晦日のあることを覚え、その時、悪い怠惰な僕が、神なき永遠の暗黒の世界に追い出されたような、そんなことにならないように今のうちに、良心に反して犯した罪を悔い改め、イエス・キリストを救い主として受け入れ、いつ人生の大晦日がきても慌てることのないように、準備をしておきたいものです。では今日一日、有意義な日を送り、よい新年をお迎え下さい。
 「わがたましいよ。主をほめたたえよ。主の良くしてくださったことを何一つ忘れるな。主は、あなたのすべての咎を赦し…」(詩篇一〇三・二、三a)

12月30日

 フランシスコ・ザビエルといえば、スペインの宣教師で、日本にも渡来して布教した人です。彼は一五五三年一二月三日、ゴアで病死したのですが、その彼が亡くなる八ヶ月前のことです。ゴアからジョアン三世に書き送った手紙の中に彼はこう書いています。
 「終わりにあたり、陛下の御ためになお一つのお願いがございます。それは陛下が私たちの主なる神のみ前に、やがて行われねばなりません厳しい計算のことをお想い出しになり、今まで以上に、ご自分の良心について特別のご注意とご心配とを、おささげ下さらんことであります。何となれば、生きている間に、この心配を心がけておられますならば、臨終に当たり非常に安心して、神に信頼を持つことができるからでございます。しかしその反対に、生きている間に神に提出すべき計算を怠けていますと、臨終の時には慌しく、計算を初めてやるかのように、まごまご致し、どうしてよいのか分からなくなるものでございます。」
 言うまでもなく、ザビエルはやがて神のみ前に人生の総決算のあることをマタイの福音書二五章にあるイエス・キリストのタラントのたとえ話を頭において語ったのです。私たちの人生にも総決算の時が到来することを覚え、ゆっくりの中にも真剣に主の栄光のため日々を生きたいものです。

12月29日

 多くの日本人は自分たちで勝手に死んだ人間を神様に祭りあげて、拝んでいます。
 たとえば天神(てんじん)さまには菅原道真…受験・進学の神様、明神さまには平将門が、八幡さまには源義家が、権現さまと日光東照宮には徳川家康が、明治神宮には明治天皇が、東郷神社には東郷平八郎が、豊国神社には豊臣秀吉が、湊川神社には楠木正成が、伊勢神宮にはアマテラスオオミカミが、靖国神社・護国神社には戦死した人々が、それぞれ祭られています。そして死者たちは死ぬと仏様、神様に成ると信じられています。
 そして神道では墓石に「命…みこと」、仏教では「居士…こじ」と書いて、手を合わせ礼拝します。人間だけではなく、大木も岩石も太陽も月も星も拝みます。又、きつね、狸、わに、へび、牛、ぞうなど動物も神様にして拝みます。
 これらを全て偶像礼拝といって天地万物の創造者なる真実の神ヤーウェのもっとも嫌われるものです。人間が造った神々は人間以下です。こうしたものをこれからも神とはせず、創造主である聖書の神様だけを神として、来る新しい年も真実の礼拝をして参りましょう。
 「万軍の主はこう仰せられる。わたしは初めであり、わたしは終わりである。わたしのほかに神はない。」(イザヤ四四・六)
 「偶像を造る者はみな、むなしい。彼らの慕うものは何の役にも立たない。」(同四四・九)

12月28日

 マリヤとヨセフは幼子イエスを抱いてエルサレムに宮詣でをし、旧約に定められたとおりの犠牲をささげました。それは神殿では日ごとに見なれた風景で、別に珍しい出来ではありませんでした。誰もこの幼子が自分の罪のために十字架を負う救い主とは思いませんでした。
 けれどもここに敬虚な信仰深いシメオンという老人がいました(ルカニ・二五)。彼は長年イスラエルの救いを待望し、祈り続けてきた人物です。またもう一人のアンナとよぶ八四歳になる女預言者もいました(ルカ二・三六~三八)。彼女も全ての人々に赤子イエスのことを語ったのです。
 さてシメオンは幼子を腕に抱き神を賛美してこう歌いました。「主よ。今こそあなたは、あなたのしもべを、みことばどおり、安らかに去らせてくださいます。私の目があなたの御救いを見たからです。」(ルカ二・二九~三〇)
 何という大きな確信でしょう。あの幼子が他でもない、私自身の救い主として、今ここにおられるのだ、その方が万民の前に備えられた光だと彼は受けとめ、主を崇めているわけです。現代の私たちもイエス様を自分の心の中にしっかりと信仰をもって受けとめ、再び来たりたもうお方として、彼らのように待望していきたいと思います。シメオンの賛歌を読みましょう。

12月27日

 詩篇一四五篇から一五〇篇までが、詩篇最後の部分ですが、これら全部が賛美の歌です。ダビデの賛美の歌とありますから、彼が心から信仰をもって主を誉め称えていることがよくわかります。本年最終の感謝礼拝を迎えるに当って、なにはともあれまずは主なる神に、私達も「主は大いなる方。大いに賛美されるべき方。その偉大さを測り知ることができません」(詩篇一四五・三)と告白しつつ、主を誉め称えなければなりません。
 一年のうちには辛いことも苦しいことも、嫌なことも涙することもあったかも知れません。でも確かに憐れみに満ちた神は、私共を滅ぼさず現在このように生かしていて下さるのです。この神の慈しみ、この恵みを、まずは感謝しようではありませんか。
 ダビデが詩篇一四五篇の中で神の「みわざ」について数多く言及しています。四節では「代は代へと、あなたのみわざをほめ歌い、あなたの大能のわざを告げ知らせるでしょう」と。また六節では「人々はあなたの恐ろしいみわざの力を語り、私はあなたの偉大さを述べるでしょう」とも。激動の一年間どのように主は働かれたかを個人的に、国家的に、全世界的に思い起こしながら更に限りなく主を賛美したく存じます。主よ、今年のご加護を心より感謝いたします。

12月26日

 創造主とはどういうお方?
 ◆地球をはじめ人間、動植物、鉱物などすべてをお造りになった全能なる神(創世記一・一、出エジプト二〇・一一、エレミヤ三二・一七、ルカ一・三七、使徒一七・二四)
 ◆人間をご自身と同じかたちに創造された神(創世記一・二七)
 ◆目に見えない霊なる神(出エジプト三三・二〇、ヨハネ四・二四、第一テモテ一・一七)
 ◆天の父(マタイ六・一、四、六、八、九、一四、一五、一八、二六、三二)
 ◆罪とは無関係な聖なる神(イザヤ六・三、詩篇九九・九)
 ◆不変、いつまでも同じ神(ヘブル一三・八、ヤコブ一・一七)
 ◆ただ一人の神(申命記六・四、ヨハネ一七・三)
 ◆すべてを知ることのできる神=全知性(出エジプト三・七、詩篇一三九・一~六、マタイ一〇・二九~三〇、第一ヨハネ三・二〇)
 ◆正しい神(エズラ九・一五、詩篇一一九・一三七)
 ◆超越、無限の神(遠くにいる神、第一列王記八・二七)であると同時に、内在の神(近くにいる神、使徒一七・二七~二八)
 ◆時間、空間に左右されない永遠の神(詩篇九〇・二、イザヤ四〇・二八)
 ◆比べることのできない神(申命記三・二四、詩篇八六・八)
 ◆信頼できる神(詩篇九一・二)
 ◆祝福に満ちた主権者である神(第一テモテ六・一五)
 ◆遍在の神(どこにでも、また同時的に誰の所にでも存在する方)(詩篇一三九・七~一二)
 ◆御子イエスを世に遣わしてご自身の愛を示された神(ヨハネ三・一六、第一ヨハネ四・七~一九)

12月25日

 「恐れることはありません。今、私はこの民全体のためのすばらしい喜びを知らせに来たのです。きょうダビデの町で、あなたがたのために、救い主がお生まれになりました。この方こそ主キリストです。あなたがたは、布にくるまって飼葉おけに寝ておられるみどりごを見つけます。これが、あなたがたのためのしるしです。」(ルカ二・一〇~一二)
 クリスマスは私たちに恐れる事はない、心配することはない、泣く事はないと神がみ子イエスを通して語って下さる時です。それはまず羊飼い達に語られました。天使から突然語られたと言うだけではありません。荒野で羊を飼う者たちの生活の心配と不安に対しても言われています。現代に生きる私たちでもやはり明日への不安がないといったら嘘になります。まして二千年前の時代です、素朴に生きる貧しい彼らの脳裏を横切るのは生活の種の事だったに違いありません。けれどもみ子イエスを受入れる者には人生への恐れはない、と言うのです。
 一九九五年は阪神大震災、地下鉄サリン事件など怖い事が発生しました。勿論、それらの被害者の方々は想像に絶する恐怖を体験されたのです。今後も同じようにさまざまな事で人間は、恐れと対面せねばなりません。けれどもクリスマスのイエスは、何処までも恐れるはないと断言してくださるのです。感謝な事であります。

12月24日

 クリスマスとは、神の本質が愛の故にその子イエス・キリストをこの世に遣わされたことを記念し祝う日でもあります。換言すれば神が人となって、ベツレヘムの飼い葉桶で生まれた日です。
 ある人たちは、人が神になるというのは分かるが、神が人になるというのは納得できないと申します。確かに日本やローマやエジプトでは、偉人や豪傑、あるいは皇帝などが神としてまつられたり拝まれたりしました。人の中のすぐれたものが神に昇格する、即ち成り上がるのであって、神が人に迄降下したり成り下がったりすることは考えられません。
 しかし、万物の創造主である父なる神は愛だからこそ、かけがえのないご自分の独り子イエス・キリストを人間の世界まで降下させ、人間と同じ立場に身を置き、貧しさ、憂い、生きる悩みをつぶさに体験させ、地上生涯最後は十字架に架けられて私たちの罪を赦し、清め、サタンからの解放、地獄からの救い、すなわち、永遠のいのちを与えるように計画、かつ成就して真実の意味で生きるようにして下さったのです。心から感謝をもってクリスマスを祝いましょう。

12月23日

 クリスマスは大きな喜びを喜ぶ時です。その理由の第一は、救い主がお生まれになったからです(ルカ二・一一)約二千年前、ベツレヘムの馬小屋に生まれた幼子は救い主だったのです。
 救い主とは、ヘブル語で「メシヤ」英語で「メサイヤ」ギリシャ語で「キリスト」、日本語で「救い主」と言います。クリスマスが来ますと「メサイヤ」が歌われるのは、そのためですが救い主と言ってもキリストは、ユダヤの国をローマから独立させる政治的な救い主ではありませんでした。また、病気や貧困から救うだけの救い主でもありませんでした。彼は「ご自分の民をその罪から救ってくださる方」(マタイ一・二一)としてお生まれになったのです。
 「罪」といえば「的をはずす」という意味を持っていますが、神によって造られ、神と交わるはずの人間が、その的をはずして自分のためだけに生きています。その断絶性とわがままの罪が人の心から平安を奪い、人の心を奴隷にし、死の恐怖に追いやるのです。イエス・キリストはこうした罪から人間を解放するためにお生まれになりました。これが、金銭にかえられない大きな喜びです。
 第二の理由は「きょうダビデの町で…お生まれになりました」(ルカ二・一一)と言われたところにあります。すなわちイエスの誕生は美しい作り話ではなく歴史上の事実で、しかも信じる者の心の中に今日イエスは生まれてくださるのです。

12月22日

 クリスマスこそ真の喜びと神との対話を回復する時です。
 とある英国人宣教師と結婚した日本人女性宣教師は、突然牧師である父上の召天によって愛する肉親を失われました。臨終間際の父親に会うため急遽イギリスより帰国しましたがその直後、妊娠九ヶ月の終りで無理がたたり破水入院、遂に胎児をも失うことになってしまいました。
 その折の心境を「主なる神様が私と共におられることを強く感じ、悲しみの涙もむしろ平安、喜びの涙へと変わってゆきました。そしてたとえ胎の子を失ったとしても主に信頼し続けようと思いました。悲しみの中で神様が私の力となって下さっていることは、今でも変わりはありません」と語っておられます。
 世の中には戦争、犯罪、事故、事件、天災、あらゆる人災などの被害に遭遇したり、又病気などのために簡単には喜べない状況にある方々も少なくありません。しかし、永遠のいのちを与えて下さる天の神様を信じる時、またクリスマスの主イエスを心に迎える時、悲しみをも乗り越えイエス・キリストにある真の喜びを体験することができるのです。イエスの母、マリヤは「わが霊は、わが救い主なる神を喜びたたえます」(ルカ一・四七)と言ったように、あなたもぜひ主を賛美してください。

12月21日

 ルカ一・四六~五五はマリヤの賛歌です。この歌は四六~四八節、四九~五〇節、五一~五三節、五四~五五節の四節に分けられ、その一つ一つがまた各四句から成っています。
 前半部はマリヤ自身に関するものであり、後半部は一般人に関するもの。マリヤは四六~五〇節までで主に感謝し、主を賛美しています。それは卑しい者(罪ある者)に神が目を留めて下さった、そして用いてくださった(イエスを出産する者として)からです。その他の理由は何も示してはいません。これらのことは、彼女にとってすなわち「大きなこと」(四九節)でした。その事実に対する強い信仰がありました。
 主なる神は卑しい者、無力な者、弱い者を高く引き上げ、メシヤ、キリストを生みだす者として用いていかれました。詩篇一一三・七~八には、「主は、弱い者をちりから起こし、貧しい人をあくたから引き上げ、彼らを、君主たちとともに、御民の君主たちとともに、王座に着かせられる」とあります。
 現代の私たちも祝福を他に求めず、むしろその御ひとり子主イエス様に目をとめて頂いたこと、罪の世界から、サタンの支配から救われたこの一点を感謝していきたいものです。
 「おめでとう、恵まれた方。主があなたとともにおられます」(ルカ一・二八)とみ使いはマリヤを祝福しています。エリサベツも「あなたは女の中の祝福された方」(同四二節)と宣言しています。クリスマスの喜び、祝福とはまさにこのイエスによる救いのことなのです。

12月20日

 クリスマスを迎えるに当って今一度学びたいのは「謙遜」という事です。主イエスを私達の心の中に迎えるには、やはりマリヤのごとく、「主はこの卑しいはしために目を留めてくださったからです」(ルカ一・四八)というべきではないでしょうか。
 マリヤは社会的には地位の低い女性でした。そんな名もない弱い無力な人間をもメシヤ、全世界の救い主の母として用いるべく選んで高くしておられる主なる神様です。決して彼女は特別偉い人間ではなかったのです。そのことをわきまえていたマリヤであればこそ冒頭の謙遜な言葉が出てきました。
 さらに東からきた博士たちのように「幼子を見、ひれ伏して拝んだ。そして…贈り物としてささげた」(マタイ二・一一)という態度がわたし達にも要求されるのではないでしょうか。主イエスを迎える態度はあくまでも「謙遜」第一であります。すなわち心貧しくへり下った心の状態です。
 私達の今朝の心はどうでしょうか。主を信じています、洗礼も受けています、聖霊の恵みにあずかっていますといいながら、私達の心の中には高ぶりの心は残っていないのか反省しなければなりません。キリスト御自身栄光に満ちた神の御子でありながら、馬小屋にまで低く降下くださいました。心貧しく謙遜な心をもって今年も私達個々人、自ら主イエスをわがうちに迎えたく願います。

12月19日

 キリスト降誕時の羊飼いたちは「さあ、ベツレヘムに行って、主が私たちに知らせてくださったこの出来事を見て来よう」(ルカニ・一五)と言って、急いで行って「赤ちゃんイエス」を探し当て、神のみどり子を見たのです。
 さて飼い葉桶の中に救い主イエスを見出す心とは、どういう心でしょうか。それはただ貧しい心、低い心であります。天使がこれらの無学な羊飼いたちに現れ、メシヤ誕生の良き知らせを告げたのも決して彼らが立派だ、偉人だ、英雄だからではありませんでした。ただただ低くへりくだる心、威張らない心、即ち、心の貧しい人たち(マタイ五・三)だったからです。
 謙遜は人間が神の前において取るべき基本的な態度、正しい心の持ち方です。イエスの教えの中にも、謙遜の必要を説いたものが数多く見られます。「だれでも自分を高くする者は低くされ、自分を低くする者は高くされるからです。」(ルカ一四・一一、一八・一四、マタイ二三・一二)神の判断と人の判断とはちょうど逆です。
 しかし、謙遜は卑屈な心とは違います。神の存在を認める心、神に従う心、主なるイエスを愛する心でもあります。羊飼い達は一人の赤子イエスの中に、神のご性質を認め、このみどり子との出会いを心から喜んだのです。そして人々にこの子供の誕生と出会いの出来事を語り伝えたのです。低き心をもってクリスマスを迎えましょう。

12月18日

 「この方(キリスト)はご自分のくにに(所に)来られたのに、ご自分の民は(彼を)受け入れなかった。」(ヨハネ一・一一)これがクリスマスの現実の一面です。勿論、東方の博士達、野に羊を飼う牧人達など一群の降誕にまつわる彼を受け入れた人々もいますが、今日の時代と同様、昔もやはり大多数の人間はキリストを拒否し、特にそのメシヤ性を認めなかったのです。パウロでも最初はイエスを拒否していた者です。しかし、主の御霊に捕えられ変えられました。
 イエス降誕時に受け入れなかった典型的な人物にへロデ大王がいます。彼に代表されるようにこの社会は、クリスマスという言葉は口にしてもキリストを知らないのです。無知は不信仰につながる。不信仰なればこそ遂に主イエスは十字架にまで追いやられました。
 当時の拒絶者はユダヤ人でありましたが、現今の日本人の九九%も又同じ状況にあります。残念な事です。真の霊的生みの親、育ての親を知らない日本人の荒廃せる心は、子供の世界にも及んで、遂にいじめの事件で中学校でも自殺者が出ています。その他ピストル事件、強盗事件も続発している危険な時代です。キリストを拒絶する事の当然の報いと言わねばなりません。こうした終末時代にこそむしろ救い主、イエスを受容する民の続出を願って祈りたいものです。

12月17日

 クリスマスは何といっても喜びの知らせを聞くときです。しかしその喜びの中身は世俗的、金銭・物質的、感覚的、肉的なものではなくて、どこ迄もイエス・キリスト様そのお方が私たち罪人の友となって下さると言うことなのです。キリスト以上の真のフレンドがどこにいるでしょうか。この方は決して裏切ることなく、永遠に弱きものの味方となり、力となって救い続けて下さる方なのです
 この救い主、メシヤである方を自分の心の中に迎えまつるときこそクリスマスであります。悲しい、暗い、気が重くなるような世相が続く中にあって、主イエス様が与えて下さる霊的、信仰的喜び、すなわち聖霊による喜び(ルカ一〇・二一)こそどのような状況にあっても不滅であり、真実の喜びといわねばなりません。
 喜びの内容を取り間違えないようにしたいものです。旧約の詩人は言います。「あなたは私の心に喜びを下さいました。それは穀物と新しいぶどう酒が豊かにあるときにもまさっています。平安のうちに私は身を横たえ、すぐ、眠りにつきます。主よ。あなただけが、私を安らかに住まわせてくださいます。」(詩篇四・七~八)使徒パウロは「いつも主にあって喜びなさい。もう一度言います。喜びなさい。」(ピリピ四・四)と言っています。人生における喜びの根源こそ私たちのため真実の友となって下さるイエス・キリストであります。

12月16日

 イエスの父ヨセフは「正しい人」(マタイ一・一九)でありましたが、人間ヨセフとして婚約中の間柄でありながら身重になったマリヤと「ひそかに縁を切ろうと決心した」(新共同訳)というのです。
 姦淫の罪は当時としては死刑に価しました。そのような重罪を犯した女性といつまでも関係をもっている訳にはいかないと、考えたのでしょうか。相手を信じていただけにどれ程のショックだったでしょうか。まさに震天動地の出来事に遭遇したヨセフでした。彼の苦悩、当惑はいかばかりであったでしょうか。
 けれどもその苦しみと戸惑いはヨセフだけでなく、マリヤにとっても同じか、いやそれ以上の大きな葛藤が生じたと十分想像できます。身に覚えの全くないこと。身振いするような非常事態にマリヤは深い悲しみに沈んでいったと思われます。
 だが両人の心の戦いは一掃されていきました。天の使いの告知です。妊娠は「聖霊による」(マタイ一・二〇)ものだと。急転直下、事件は恵み、歓喜へと変えられていきました。全ては主が預言者を通して云われた事が成就するためでありました(マタイ一・二二)。
 主に用いられていったマリヤとヨセフも彼らなりの十字架を負わねばならなかったのです。「だれでもわたしについて来たいと思うなら、自分を捨て、自分の十字架を負い、そしてわたしについて来なさい。」(マルコ八・三四)

12月15日

 クリスマスとはキリストの祭り(The mass of Christ)の意味で、キリストが天のみ国からこの世に送られたことを祝う祭りのことです。略してXmasとも書きますが、Xはギリシャ語 Xristos(キリスト)の頭文字をとったものです。
 クリスマスは、世界人口の二九%に当たる約九億のキリスト教徒(ローマ・カトリックが六億、ギリシャ正教が一億、プロテスタントが二億)が全世界に亘ってキリストの降誕を祝う世界的な祝賀であります。
 世紀はA.D.(ラテン語 Anno Domini=主の年の略)が示すようにキリストの降誕をもって紀元としました。これは五三五年、ローマの僧院長ディオニシウスが、復活節の表を作る際にキリスト降誕から起算したことに始まります。しかし、実際には六年の誤差があり、正確にはキリストの降誕は紀元前(BC)六年であったということになります。そして聖書にはキリスト降誕の年月日は記されていません。
 キリスト降誕の年を紀元元年とするのは、単なる便宜主義や偶然から来たのではありません。平成何年、昭和何年と言う呼び方は天皇の即位を基準とする発想から出たもので、日本国内だけのものです。「主の年」西暦を用いるのは、人間存在の中にキリスト来臨の事実こそが歴史の中心である事の信仰告白から来ています。この待降節の時期に救い主(メシヤ)イエスのご聖誕の意味を深く味わい恵まれましょう。

12月14日

 キリストはエゴー エイミ へ スウラ(I am the door)「わたしは門です」(ヨハネ一〇・九)と仰せられました。昔から弟子になることを入門すると言われていますが、クリスチャンになってイエスに従う者、弟子たらんと思うものは必ず、イエスという門をくぐらなければなりません。すなわち、この門を通って出入りする羊だけが救われることに重点が置かれている事に注目しましょう。換言すればイエスを信じなければ救われません、ということです。
 使徒の働き四・一二には「この方以外には、だれによっても救いはありません」とあります。主イエスという門から入り、これをくぐり、この方を経由しなければ絶対に地獄から、永遠の滅びからの救いはないという訳です。釈迦、日蓮、孔子、孟子ではない、キリストこそ天国に至る門、永遠のいのちに至る門なのです。
 この門は多くの人がくぐろうとしない小さく狭い(マタイ七・一三~一四)ものですが、主のご命令に従ってこの狭い門から入りましょう。ルカ一三・二三~二四には努力して狭い門から入りなさいとあります。この門はいつでも、誰でも入れる門です。この門を一歩入ると中は広く楽しく、自由と感謝と喜びで満ちており、天の神様はイエスを通してあなたを、行くにも帰るにも、今よりとこしえ迄も守って下さるのです(詩篇一二一・八)。

12月13日

 さわやかな人生を送りたい。これは全ての人の願いです。その願いを達成する為には、絶えず聖書信仰を働かせて物事を明るく、積極的に、可能的に、善意的に考える習慣を身につけなければなりません。
 旧約聖書、民数記の十三章と十四章には、ダメだという人たちと「必ず勝つ、できます」と主張したヨシュアとカレブの話が載っています。同じ物事をみても、神の人ヨシュアとカレブは、主なる神を仰いで信仰的に明るく前途を考えました。使徒パウロも「私は、私を強くしてくださる方によって、どんなことでもできるのです」(ピリピ四・一三)とまで、言い切りました。
 音楽家ベートーベンは三十歳の若さで、大事な耳が聞えなくなってしまいました。でも主を仰いで光を与えられて以来、ハンディをのりこえて数々の名曲を産み出しました。慎重さも大事ですが、あまり慎重し過ぎて消極的、悲観的、否定的、陰鬱的になっては、主の証人にふさわしくありません。主に変えられた者にふさわしく、清く、明るく、積極的かつ大胆に前進いたしましょう。困難な問題に直面しない人生というものはありえません。大事な事はその問題をいかに受け止めていくかと言う事でしょう。私たちは聖書的に、キリスト教的にまことの神を信頼して勝利ある日々を送りたいものです。

12月12日

 「平和のきずなで結ばれて御霊の一致を熱心に保ちなさい。からだは一つ、御霊は一つです。あなたがたが召されたとき、召しのもたらした望みが一つであったのと同じです。主は一つ、信仰は一つ、バプテスマは一つです。すべてのものの上にあり、すべてのものを貫き、すべてのもののうちにおられる、すべてのものの父なる神は一つです。」(エペソ四・三~六)
 人間みな当然ながら色々な面でそれぞれの違いがあります。その違いがともすると不一致を招きます。思い、考え、性格、育ち、仕事、環境、境遇、年齢、男女など様々の違いの集団です。イエスもパウロもこの違いある一人ひとりに対して、常に一致を保つように奨励し、心砕いていきました。
 パウロはここで一つになれる秘訣を教えています。それはクリスチャンになって平和の心で結び合わされていくこと。「バプテスマは一つ」と言っていますから主の聖名による同じ洗礼をうけること。からだは一つというのは「キリストのからだである教会」の一員となること。さらに他のキリスト者と同じ「御霊に満たされ」、一つの「望み」を目指して進みゆくこと。主なる神を礼拝してみな同じ一つ信仰をもっていくこと。一人である父なる神を礼拝していくならば必ず一致を保ちうる事、そのように生まれ変わっているのだから神の召しにふさわしく歩むようにと促しています。からだも、御霊も、望みも、主も、信仰も、洗礼も父なる神も、七つの点で一つとされている信者よ、一致せよ!

12月11日

 キリストは何の為に天から遣わされて、人の世界に生まれられたのでしょうか。人間を罪の呪いから解放して、神の子供とするためでありました。神の子にされるという事は父なる神の財産の相続者となるということでもあります。何という有難いことでしょうか。人間を神の子と称する思想は、パウロの手紙の中にも見られます。
 ローマ八・一六、一七では「私たちが神の子どもであることは、御霊ご自身が、私たちの霊とともに、あかししてくださいます。もし子どもであるなら、相続人でもあります」の中に、またガラテヤ三・二六では「あなたがたはみな、キリスト・イエスに対する信仰によって、神の子どもです」と記されています。さらに、信仰によって神の子の身分を与えられ、キリストと共同の相続者とされ、神の養子とされる「神の霊」を自らの内にもっており、かつ神のひとり子の姿を自分の中に再現するようにも「あらかじめ定めておられました」(エペソ一・五)ともいうのです。
 何というすばらしい事でしょうか。悔い改め、生まれ変わりを与えられて、神の子とされているのです。物やお金にのみ目や心を奪われている人間にとっては、神の子となる特権や身分や立場がどんなに重要かつその価値が重いかが分かっていません。キリスト降誕の意味内容を多くの人々に知らせたいものです。

12月10日

 私たちは生きていく中で、多くの困難や悲しみを通ります。信仰の先輩たちも通らされました。その苦しみの中で信仰を持ち続け、キリストの御足の後を歩み天に帰っていきました。
 聖書は「死に至るまで忠実でありなさい。そうすれば、わたしはあなたにいのちの冠を与えよう」(黙示録二・一〇)と約束しています。この約束をしっかり握って励んでいきましょう。キリストは、「わたしたちが罪に死に、義に生きるために、十字架にかかって、わたしたちの罪をご自分の身に負われた」(第一ペテロ二・二四、口語訳)と言われています。
 キリスト教会が初期の頃から、共通の信仰個条として世界的に信じ告白してきた使徒信条は、受洗の時になされた信仰告白から発生したものと考えられますが、その中に「我はその独り子、我らの主、イエス・キリストを信ず。主は聖霊によりてやどり、おとめマリヤより生まれ、ポンテオ・ピラ卜のもとに苦しみを受け、十字架につけられ、死にて葬られ、陰府にくだり…」とあります。この信条を告白し続け勝利していきましょう。イエスを告白することは、当然ながらイエスを信じる信仰の現れであります。わたしという人間はほかの誰でもない使徒信条を告白できる新生した自分であることを再確認しながら、帰天する人生最後のその日まで忠実に主に従いゆきたいと思います。

12月9日

 人間としては起こり得ないことが、神の全能の力によりマリヤの身に起こった時(聖霊による受胎、妊娠)、彼女は主をあがめ、賛美せずにはおれませんでした。「わが救い主なる神を喜びたたえます」(ルカ一・四七)と言っています。マリヤは、私の霊は、私のたましいは、私の救い主を喜ぶと、どこ迄も他人事ではなくて私のクリスマスとして主なる神をほめたたえています。詩人シレシウスは、「キリストベツレヘムに生れ給う事千度(たび)に及ぶとも、キリスト汝(な)が心のうちに生(あ)れ給わずば、汝(な)がたましいは、なお打ち捨てられてあり」とうたっています。
 愛の神、全知全能の神は卑しいはしためマリヤにも心を留め、彼女を選び召し、その胎を用いて全人類のメシヤを生まれさせ給いました。ナザレ(ルカ二・四)の一寒村に住むマリヤとヨセフを主は起用なさったのです。彼ら二人は王位にある者、又、高位、高官ではありませんでした。しかし神は心低き彼らの中にキリストを宿らせなさいました。主の憐れみの大きさにただ打ち震えるものです。
 日本のキリスト教会は比較的小さく、弱い教会が多いと思われます。数少ない信仰者によって教会は保たれています。でも大丈夫です。主はこれらの群れにご自分の目をしっかり留めて見守っていて下さるからです。そしてさらに用いていて下さるのです。

12月8日

 私たちは今がまず「眠りからさめるべき時刻」(ローマ一三・一一)であることを自覚したいと思います。すなわちイエス・キリストの再臨の時が近いことを知っているのですから、いよいよやみのわざを捨てて世の終わりが到来しないうちに福音伝道に励まねばなりません。いつまでもこのように自由に福音が語れるものとは考えにくいのです。いつキリスト様は再来なさるか誰にも分かりません。
 ですから信仰という油を入れた燈火皿をもって花婿なるイエス様を待ちたいと思います(マタイ二五・一~一三)。生活態度を変えて益々光の子らしく歩まねばなりません(エペソ五・八)。今というこの時にこそ主イエスを受け入れ、やみのわざを悔い改めて、主に帰らねばなりません。ローマ一三・一一では、私たちは「今がどのような時か知っているのですから、このように行いなさい」とありますから、生活態度の一新をはかって行きましょう。
 年末総決算の時がやって参りました。時の羽根をつけた軽装馬車が足早に過ぎ去って行きます。救いの完成点により一歩近づきつつあることも充分認めながら、終末的目覚めの中に真剣に聖化されて参りましょう。
 時を知るとは、いつ主イエスが再臨されるか、時代の動きを見定めること。神への決断が迫られている時ということ。時は縮まって入信の時より主の再臨の日は、一層近くなっていること。ゆえに愛を基調とした生活に励まねばならないということでありましょう。

12月7日

 「とこしえの光がさしこみ、この世に新しい輝きを与えて下さいます。」これはルターの言葉です。主イエス・キリストは、「わたしは、世の光です」(ヨハネ八・一二)と自己紹介をしておられます。ちなみに「光」という語は、ヨハネ福音書の中に二三回も用いられています。そして一二章までにそのすべてが出てきます。
 この光なるイエスは二千年前ユダヤの地に降誕された時から、今日迄この世の闇の中に光輝を放っておられます。「光はやみの中に輝いている。」(ヨハネ一・五)いつの時代も人間世界は問題が一杯であり、罪悪も世に満ち、悲しみ苦しみも私達を捉えて止みません。
 しかし、こうした状態が世界歴史の現状であってみれば、いつの時代にも「とこしえの光なる主イエス」を私達は必要とする訳です。光は当然ながら暗き中でその本質を発揮致します。人間一人ひとりの本性は暗闇です。その心の中に差し込んで下さるイエスの光に照らしだされて初めて人は、自らの暗黒を知って悔い改めに導かれます。
 現代世俗社会がどれ程暗きに包まれていましょうとも、私達は光なるイエスと共に歩んで、自らキリストの光を反映、反射する「光の子どもらしく」(エペソ五・八)ありたいと思います。光源をイエス様に求めましょう。そしてとても大事な事は、このイエスの光は現在、今もなお私たちの間で輝いているという事です。

12月6日

 父なる神はロゴス(ことば)なるイエスを通して全てを造られました(第一コリント八・六、コロサイ一・一六、ヘブル一・二)。この方を離れて、すなわちこの方によらないでは何も造られませんでした。ここに創造者と被造物とが明確に分けられます。宇宙創造の初めから在った(先在の)イエスによって、人間を含めたすべての物はこの世に生まれ出たのです(ヨハネ一・三、一〇)。
 人々が神々として祭り上げる岩石、木、太陽、月、星、など様々な無数の偶像の実体は実にいのち無き単なる芸術作品にすぎません縄 大多数の方々には真実の造物者なるイエスが分かりません縄 また 教えられ、 分かってもその人たちは信じょうとしません『 霊的盲目者である日本人は、 まことしやか にこれら非生命的な偶像に参拝して、 一年の罪滅ぼしをしようとします縄 しかしダメです縄 その行為 は単なる気安め、 自己満足にすぎないからです。 イエスによらないでは、 どのような罪
も消えず、 救 いもないのです。 「...天の下でこの御名のほかに、 私たちが救わ
れるべき名は人に与えられていないか らです」 (使徒四・ 一 二)。 日本の皆さん
目覚めてください縄 いつまでサタンに目つぶしをくらわされ ているのでしよう
か。 クリスマスのシーズンこそ、 まことの神を発見するまたとないチャンスで
す。 サンタクロースは私たちの救いには何の関係もないのです。

12月5日

 文明を問わず古代宗教の祭壇では香木や樹脂がたかれました。神と人の仲だちには香りの煙が必要とされました。願いや祈りは香りにのって神々に届くと考えられていました。香水の語源はper fumum(煙を通して)というラテン語で水とは関係ありません。古代国家でまつりごとを行うものは香煙によって荒ぶる人々の心を和らげ、平伏させたのです。
 香料は政治支配の小道具だったのでは、と考える人もいます。その芳香樹脂の代表が「乳香」で昔から貴重で高価なものでした。東から来た博士たちは「幼子を見、ひれ伏して拝んだ。そして、宝の箱をあけて、黄金、乳香、没薬を贈り物としてささげた」(マタイ二・一一)のです。
 乳香は現代でも北東アフリカ、ソマリアあたりで産出されます。乳白色の塊で、薫じると澄んだ甘さと松脂(まつやに)のような香りがします。軽いめまいを感じさせる香り、とでもいえましょうか。旧約時代には、儀式の素祭に添えました(レビ二・一、二、一五、一六、六・一五)。また一般の供え物ともされ(エレミヤ一七・二六、四一・五。イザヤ四三・二三、六六・三)、供えのパンの上に置き(レビ二四・七)、神殿にはこれを納める部屋がありました(第一歴代九・二九。ネへ一三・五、九)。
 黙示録でいうローマは当時のバビロンをさします。が、ここではぜいたくな輸入品の一つでありました(黙示一八・一三)。

12月4日

 光であるイエスの証言者ヨハネ。
 「神から遣わされたヨハネという人が現れた。この人はあかしのために来た。光についてあかしするためであり、すべての人が彼によって信じるためである。彼は光ではなかった。ただ光についてあかしするために来たのである。」(ヨハネ一・六~八)
 彼は、救い主イエス・キリストを紹介し、お証しする役目を担って登場しています。ヨハネは自らを預言者でもなく、キリスト(メシア=救い主)でもない(同一・二〇)と答え、三〇節ではイエスは私にまさる方であり、二七節では、私はその方の靴(なめし皮で作ったサンダル)の紐を解く値うちもありません、と謙遜に応答しています。
 また同三・三〇では、「あの方(キリスト)は盛んになり私は衰えなければなりません」とも言っています。彼はどこまでも、光であり、命であるイエス・キリストを大衆が信じるために、証言者として派遣されてユダヤの野にありました。
 彼は最後に殉教していくのですが、「あかし」する事こそヨハネの最大使命でありました。私たちも自らをひけらかすのでなく、キリストをどこ迄も世の人々に指し示すあかし人でありたいと願います。旧約聖書も証言しているキリスト、すなわち、「世の罪を取り除く神の小羊」であるイエス・キリストだけを語っていきましょう。

12月3日

 キリストの母マリヤは信仰篤き女性でありました。「ほんとうに、私は主のはしためです。どうぞ、あなたのおことばどおりこの身になりますように」(ルカ一・三八)と天使に答えました。ご聖霊によって妊娠した彼女は多くの誤解と世間の白眼視の中で、よく耐えて遂にメシヤたる主イエスを出産し、母となりました。
 けれどもシメオンが言ったように「剣があなたの心さえも刺し貫くでしょう」(ルカ二・三五)の言葉がそのまま十字架上で成就しました。出産直後にエジプトへ夫と共に逃亡しなければならなかった母マリヤ。公生涯三年半のわが子イエスを見守るマリヤは決して楽なものではありませんでした。常にイエスは、律法学者、パリサイ人達からつけ狙われて危険な立場に立っていたからです。
 けれども彼女はみ言葉を聞いて実行した女であり、さんびする母マリヤ(ルカ一・四六)であり、祈る母(使徒一・一四)でもありました。御子イエスを産むため用いられたマリヤは、反面若きわが子を十字架上で失わねばならない悲しみの母でもありました。でもやはり彼女は祝福された母(ルカ一・四二)であったことに間違いはありません。
 人類最初の母エバは(創世記三・二〇)神の命令に背いて罪を犯し死に至る存在となりました。その子孫であるイエスの母マリヤも、また救われねばならない罪人の一人であることを知りましょう。

12月2日

 バプテスマのヨハネの父、ザカリヤは主なる神を賛美しつつ今始まろうとしている新しい救い主イエスの時代の到来を告げようとしています。イスラエルの神は決して怒り、裁き、のろう神ではなく、ご自分の民を心から愛し、これに目を留め顧みて、贖い救い給う憐れみ深い神であることを彼はほめたたえております。
 贖う(あがなう)とは神のみ子主イエス・キリスト様が犠牲になって、私たち罪ある人間の罪が赦されることを意味します。赦罪されることは救われること、救われるとは敵なる悪魔から救い出されること、全て私たちを「憎む者の手からの救い」(詩篇一〇六・一〇、ルカ一・七一、七四、七五)解放されることです。「敵」からの解放は元来政治的意味合いをもっていたのでしょうが、すなわちローマ帝国からの救い、解放でしょうが、ルカは、「罪の赦しによる救い」(ルカ一・七七)がイエスの到来によって成就することを告白します。
 そしてこれらの約束は、アブラハム、ダビデにもすでに語られ、約束されたことの成就であって長年、神がご計画されていたことであります。誠にこれはわたしたちの神の深い憐れみによることを心より感謝しようではありませんか。そしてこの救いと解放とは現代において救われた私たちが「生涯のすべての日に、きよく、正しく、恐れなく、主の御前に仕える」(ルカ一・七四、七五)クリスチャン生活を送ることだというのです。

12月1日

 あなたは新約聖書マタイ福音書(ふくいんしょ)の第一頁を開いてカタカナの名前がズラリと並んでいるのを見て、面倒くさい、飛ばして読みましょう、と思ったことがおありだと思います。しかし、これはイエス・キリストが旧約聖書の預言通りアブラハムの子孫から生まれたことを示しているイエス様の系図で非常に大切なものです。即ち、キリストは人間としてもこのような系図をもっておられる方で木の又から生まれたのでなく、竹から生まれた日本の童話のかぐや姫のような者でもなく、桃から生まれた桃太郎のような作り話のような方でもないことを示しています。
 換言すれば歴史上確かにこの地上に存在した人の子イエスをこのマタイの系図は現しております。
 かつルカ福音書の系図(三・二三~三八)を見ても分かるように、ここにはアダムからイエスまで七七人の名前が記されています。アダムからアブラハムまで二一人、イサクからダビデまで一四人、ナタンからサラテルまで二一人、ゾロバベルからイエスまで二一人です。こうしてイエスが真実の神の御子、救い主、メシヤであることをも示しています。またイエス・キリストは偶然か、あるいは突然生まれたのではなく長い神のご計画の中で、人類を救済する神のご意志の中で、時が満ちた一番よい時にお生まれになったのです。ですからこの歴史的救済者イエスを固く信じていこうではありませんか。