9月30日

 進化論は一九世紀の籠児であり、人間の無限の進歩を説く楽天思想は、なかなか魅力あるものであって、今なおこの思想を信じる者も少くありません。
 確かに人間の文化や生活様式などには多くの進化、進歩があったのかもしれません。けれども少なくとも人間の本質―道徳的本質―には少しの進歩も発展もなかったのです。この点においてはむしろ退歩であって、もし進化という言葉を許すならば、むしろ罪からの進化でなくて、罪への進化であります。これは戦争ひとつ取り七げても明白のように、時の経過と共に戦争は残忍なもの、悪魔的なものになって来ています。
 しかしそうは言っても人間の特に科学的知識の偉大な進歩はある意味で人間にこれまでに見なかった幸福を提供するに至っています。けれども反面において核兵器や、放射能のために、人類はいま滅亡の危機にさらされています。進化どころか、この面においては大いなる退歩ではないでしょうか。まさに野蛮人以上の野蛮人であります。
 ここにアダムとエバによってもたらされた人間の原罪の深刻さを思わしめられます。しかし、この原罪をゆるし、救うものこそ十字架と復活のイエスであります。「御子イエスの血はすべての罪から私たちをきよめます。」(ヨハネ第一の手紙一・七)「キリストは…ご自分の血によって…永遠の贖いを成し遂げられたのです」(ヘブル九・一一~一二)。

9月29日

 「ですから、私たちは勇気を失いません。たとい私たちの外なる人は衰えても、内なる人は日々新たにされています。」(第二コリント四・一六)。
 外なる人は衰えても、とは肉体・気力・根気などの衰えをさすのでしょう。パウロは同じ現実を違った表現でも述べています。土の器(第二コリント四・七)、死ぬべき肉体(同上一一節)、地上の幕屋(同上五・一)がこわれても、などです。この状況はクリスチャン、ノンクリスチャンの区別はないのです。平等に訪れる状況です。
 けれどもキリスト者はパウロと共に、聖書信仰、キリスト信仰に生きている故に、内なる人、内なる魂はいつも新鮮さを保持していけるというのです。この状態をパウロは更に「新しい人を着たのです。新しい人は、造り主のかたちに似せられてますます新しくされ、真の知識に至るのです」(コロサイ三・九~一〇)とも述べています。
 人は老いを避けることはできません。けれども、老いても年令に左右されず、いつも主の命令に従い、主の御霊によって新鮮さを保ち、新しい生命に生かされて老いとの戦いに勝利していくのです。旧約聖書にもアブラム七五才、モーセ八〇才、アロン八三才、カレブ八五才でみな新使命を帯びて再出発しています。壮年・熟年層のみなさん再び奮起してください。

9月28日

 神の国の用語はマルコ福音書に一四回、ルカ福音書に三二回出てきます。マタイ福音書では同じ意味ではありますが「天国」の語で三二回、神の国は四回用いられています。
 そのほかの呼び方でダビデの国、わが国、父の国、国などがあります。神の国は一切の人間的支配をこえた神自らの統治であって、人間文化からもり上がって達成される歴史的進歩の世界ではないのです。神よりの恵みとして与えられる彼岸的終末的世界でもあります。
 しかしながら、他面、神の国がキリスト再臨後に現われる終末性を帯びたものだけではなく、人間歴史の中にイエスを通じてすでに与えられている現在のものであることを、深く認識せねばなりません。ルカ一七・二〇~二一、マタイ一二・二八、一一・五、一二、一三・一六~一七などを見ると、イエスの到来においてサタンの力は砕かれ、「神の国」はすでに今ここに在ることが示されております。ですから、激しく攻め奪い取る程の熱意を示す者が、これを自分のものとしているのです(マタイ一一・一二)。
 真の神の御国は自然に与えられるものではなく、自ら懸命に求めていく情熱も大変必要であることが分かります。聖書を読むのも、お祈りするのも、教会の諸集会に参加するのも、みな何とかして神の国を獲得しようという欲求の現れにほかなりません。

9月27日

《主イエスはいやされる》
 「イエスは、さまざまの病気にかかっている多くの人をいやし、また多くの悪霊を追い出された。」(マルコ一・三四)。「こうして…その会堂に行って、福音を告げ知らせ、悪霊を追い出された。」(同上一・三九)。
 キリストは復活の主として現代も昔と変わらず生きて働いておられます。新約聖書には数多くの「いやし」の記事が記されています。そのような不思議なことが(イエスにとっては当り前の事ですが)今も私たちのうちに体験できることは有り難いことです。期待して祈り続けましょう。待ち望んでいきましょう。
 精神的に、肉体的に病んでいる人間の何と多いことでしょうか。その中には持病だと称してあきらめている人もいます。再度イエスに願って、健康にして頂こうではありませんか。健康も神の賜物、恵みです。主に不可能はない筈。主の憐れみを受けん為信仰を働かせ祈り、願っていきたいものです。主イエスは心と体のいやし主です。主に迫っていきましょう。
 家内ふさゑは、ニ〇代のまだクリスチャンになりたての頃に、東京・駒込の本部内で開かれた全国聖会の講師でアメリカからこられたマカリス夕ーという牧師さんに祈って頂いたところ、ただ一回のお祈りで「肝臓肥大」が全く癒され、主に感謝して出身の浜松教会(故、菊地隆之助師)に帰ってきたことが、忘れられない思い出として残っています。

9月26日

 テキコ(幸運の意味)。アジア人でパウロの忠実な弟子のひとり。パウロの第三回伝道旅行の際、トロピモと共にパウロに先立ってマケドニアからトロアスに向かい、使徒たち一行の到着を待っていた同労者(使徒二〇・四、コロサイ四・七)。
 彼はアジア地方の教会と不断の交わりを持つていた主の忠実な働き人で、コロサイ人への手紙の持参者オネシモと共に、ローマで獄につながれていたであろうパウロの動静について報告をもたらした人物です(コロサイ四・七)。エペソ六・二一~二二にもこれとほとんど同一の記事が見られます。しかし、ここにはテキコが単独でエペソ人への手紙の持参者であったことが示されています。パウロはまたクレテにいるテトスのもとにテキコを送ろうとしました(テトス三・一二)。けれども予定を変更してエペソに派遣した(第二テモテ四・一二)のです。
 いずれにしてもテキコは上記五ヶ所にしかその名前が登場していませんが、彼はパウロに対してと同時にキリストの教会に対しても「忠実な奉仕者」であったことが記されています(エペソ六・二一)。無名の隠れた奉仕者、働き人、谷間に咲く百合の花のような人物。こうした忠実な同労者、奉仕者があってパウロの伝道は押し進められていったのです。
 志村教会にも多くのこうした現代のテキコに相当する隠れた忠実な奉仕者たちが立てられていることを感謝します。

9月25日

 エゼキエル三八章と三九章にマゴグの地の「ゴグ」という人物の名前が登場しています。一体このゴグとは誰か。
 その人物像にたいして色々な説があるので紹介いたします。(1)BC四世紀のアレキサンダー大王説。(2)ローマ人という説。(3)北からのゴート族という説。(4)小アジア西部にあった国でリュディアの王ギゲス(BC七世紀)ガグとも呼ばれ、アマルナ土板ではガガイアとも呼ばれている説。(5)擬人化されたバビロン説。(6)黒海やコーカサス地方にいた蛮族の王(正確な名前は不明)。非常に恐れられていた軍隊。(7)ヘブル語辞書の著者ゲゼニウス(一七八六~一八四二)は、ゴグは(ヘブル語ではロシュ)はロシヤ、メセクはモスクワ、トバルはトボロスクだと解釈していますが、現代の神学者クレイギなどはこうした解釈が流行しているが、それらは預言者の真意を探り当てたものではなく、むしろ現代の心のゆがみを現すものとして危険視し、退けています。
 預言者の中心的使信は、神が人間歴史を支配しておられること、又、神はご自身の聖なることを顕示する方であることを伝えることにありました。ゴグはいずれにしても終末時における神に敵対する悪の勢力であることには間違いありません。なお、黙示録二〇・七~八の記事の母胎となっているものが、エゼキエル三八章、三九章です。

9月24日

 使徒の働き第四章に登場しているペテロとヨハネは聖霊に満たされて説教していました。ところが指導者層の長老、学者、大祭司たちは彼らが無学な普通の人であることを知って驚いた(同上一三節)のです。
 ペテロは御霊によって確信をもって語ったのです。「この方以外には、だれによっても救いはありません」(同上一二節)と。伝道の業は確かに正しい知識を持って語らねばなりませんが、必ずしもこの世の学問、学識がなければ語れない、といったものではありません。救われた確信と聖書に基づいた知識と知恵が与えられていれば〇Kなのです。
 福音宣教はどこ迄もイエスの救い、神の御独り子キリストにおける永遠の命であることを示せば良いのではありませんか。聖書から脱線して見当違いの事を語らなければ誰でもイエスの素晴らしさを伝えられるのです。とにかくイエス・キリストだけをもっと大胆に語ろうではありませんか。物事を恐れずして前向きにキリストを伝えていこうではありませんか。
 聖書全般についてあれこれ語るまえに、まずイエス・キリスト様について特にマタイ、マルコ、ルカ、ヨハネの四つの福音書からお話をして、個人伝道に打ち込みたいと思います。なお、少しむずかしく言えばイエスの神性、人の子性、贖罪性(メシヤ性)、無罪性、祭司性、王権性、永遠性などにも及んでいければ幸いと思います。

9月23日

 BC七六〇年頃、ナザレ北東約六キロの地、ガテ出身の預言者アミタイの子、ヨナという人物がいました(第二列王記一四・二五)。
 彼はある時、主の声を聞いていました。大きな町二ネベに行き神の言葉を語れと。けれども彼はどうしたことか、その町の民が救われることを嫌い神の命令に背き、逃げました。遠くスペイン、タルシシュの地まで。だが全てを知り給う神はその不従順の態度を悔い改めさせ、反省させんと暴風を起こされました。ヨナは恐怖の状況の原因が自らにあることを悟って、自分を海の中に投じるよう命じます。 嵐はやんだ。結果、船員の異邦人たちは主なる神を礼拝するに至りました(ヨナ書一章)。
 逃亡者ヨナは気がついてみれば大きな魚の腹の中。その暗闇の中で祈るヨナの姿をヨナ書二章にみます。一難去ってまた一難の哀れな男ですが、さすがヘブル人、主を礼拝していた人物だけに祈ることを知っていました。ここでの彼の祈りの特徴は、主は答えて下さった、聞いて下さった、引きあげて下さった、救いは主のものだと、告白して勝利を先取りしている点。  神に向かい神に祈ったヨナは第三章で神の命令に従う、神と共に歩むヨナと変えられているのです。そして遂に第四章でとうごま(ひょうたんの一種)の木の体験を通じて大いなる神の愛を察知したヨナです。彼の人生絵巻の中に創造者である神の本質を知ることができます。

9月22日

 主イエスが期待する働き人とは。
 一、主イエスと同じ心を持つ人。「群衆を見て、羊飼いのない羊のように弱り果てて倒れている彼らをかわいそうに思われた。」(マタイ九・三六)イエスのように、この憐れみの心は、伝道に従事する者が持たねばならない大切なスピリットです。憐れみとは、単なる同情のことではなく「腹わた」から出た言葉で、人々の苦しみ、悩みがイエスの内臓まで届いたという深い意味を表現している語です。よく断腸の思いという言葉も使いますが、まさに腹わたが断ち切られる程の思いで、イエスは群衆を憐れまれたのです。参照聖句、エレミヤ四・一九。
 二、主イエスと同じ幻に生きる人。「イエスはガリラヤ全土を巡って、会堂で教え、御国の福音を宣べ伝え…」(マタイ四・二三、九・三五)あるいは、あらゆるわずらいを直されました。あちこちに伝道して参りましょう。
 三、祈りの賜物を活用する人。ある教会は伝道熱心で有名でした。その秘訣を問うと、牧師は「うちの教会には特別なボイラー室があるのです。ですから熱く燃えるのです」と言って一つの部屋をそっと開けると、皆が聖霊に満たされて熱心に祈っていたのです。外に出かける前にまず心を合わせて祈ろうではありませんか。そしてあらゆる面で主のご期待にそえる働き人になりたいと思います。

9月21日

《リバイバルとは何か》
 「キリスト教用語としては、「宗教復興、信仰復興」の意味。神の恵みと力とが特に著しくあらわれ、信徒を鼓舞激励し、不信仰な人々が信仰に導き入れられ、回心の経験を与えられ、また信仰から離れていた者も、再び信仰に立ち帰らされるような状態を指す。」(キリスト教大事典、一一三五頁)
 「信仰が比較的沈滞している状態から、活力を増してくるのを見るなら、また、キリス卜者であると公言している者が義務に対して今まで以上に忠実になり、人々がこの世から出て新たに教会に加わりそれによって教会の力が増大するのを見るなら、その状態はためらうことなく信仰のリバイバルと呼んで良い状態である。」(ウィリアム・B・スプレーグ)
 「神への従順への新しい開始にほかならない。回心した罪人の場合のように最初の一歩は、深く悔い改め、心を砕かれ、へりくだりと罪の放棄とをもって神のみ前にちりのようになることである。」(チャールズ・G・フィニー)
 「厳密に言えば衰退した状態においてであるが、すでに生きているものを鼓舞することを意味する。それは主として、教会全般および個々人としてのキリスト者に関するものである。リバイバルは神の至高なる恩籠によるものである。」(ジョーゼフ・J・ケンプ)
 「神はリバイバルにおいてご自身の民をおとずれ、彼らを回復し鼓舞し開放し、ご自身の全き祝福に導かれる。結果として福音宣教をもたらす。」(スティーブン・オルフ)

9月20日

 キリストは教会のかしらであり、教会はその体です。キリストは「教会のためにご自身をささげられた」(エペソ五・二五)のです。即ち、キリスト教会が世の中の異教の教会と違うところは、神の御子イエスが教会の頭であり、土台であること、そして十字架の犠牲を払っていて下さる一点です。
 キリスト教会が愛の教会と呼ばれるのは、単に信者同志が互いに仲良くしているからそのように呼ぶのではなく、まずキリストが私たちをこよなく愛してくださる故に、すなわちカルバリの丘の十字架上で貴い血を流して下さったからなのです。
 換言すれば神の愛・十字架愛を基礎、土台としてその上に建てられているエクレーシア、教会がキリスト教会といえます。そしてこの教会から私たちは、生きる力、生きる目的、生きる原理原則を与えられて正しく前進できるのです。そしてこのキリストの教会において主を礼拝し、み言葉を聞き、共に生きる信者、求道者方と神を賛美し、交わり、奉仕してキリストに喜ばれる者となって参ります。
 新約聖書エペソ書は、教会論を展開しています。主の教会はどのようなものか、どうあるべきかなどを教えていてくれます。いずれにしてもキリストは万事を全面的に満たす、そして完成成就することができる方なのです。充満(プレローマ)させて下さるこの方に全てをゆだねて勝利して参りましよう。

9月19日

 米国のある刑務所に野獣と呼ばれていた囚人がいました。彼は自分が気に入らないと監守であろうと、同じ囚人であろうとすぐ殴ってしまう、暴れん坊でした。
 ところがある宣教師から「獄中からの賛美」という本をもらいました。彼はその当時独房に入れられ、やけになっていよいよ口汚く大声を挙げていました。しかし、この本を読んで変わり始めました。最初は「全てに感謝しろだって?バカバカしい。だが神様とやら、このコンクリートの壁にもこの暗闇にも感謝するぜ。ハハハ…そこのゴキプリも感謝だなぁ。ハハハ…」などと言っていました。
 ある日、「私はお前を愛しています」と言うイエス様の夢を見ました。そこから彼の態度は一変し、やがて獄中から出て来た時の彼の顔は別人のように輝いていたのです。彼は監守を抱きしめ、悔い改めて涙で主を証ししたのです。
 主への感謝と賛美は明日への前進の力です。主を崇め主を賛美しましょう。「ハレルヤ。主に新しい歌を歌え。聖徒の集まりで主への賛美を。」(詩篇一四九・一)。「いつも主にあって喜びなさい。もう一度言います。喜びなさい。」(ピリピ四・四)。
 「牢につながれている人々を、自分も牢にいる気持ちで思いやり、また、自分も肉体を持っているのですから、苦しめられている人々を思いやりなさい。」(ヘブル一三・三)。

9月18日

 聖書的キリスト教とは何か。それは主イエス・キリストを信じ、聖書全体が伝える神観、キリスト観をもつキリスト教です。 三位一体の教理なども、全く聖書から聞いて初めて与えられた神観なのです。哲学者プラトンやアリストテレスの教えが少しでも入ったならば三位一体の真理は得られませんでした。
 同じように、キリスト論についても、三二五年のニケア会議において「ホモウーシオス」か「ホモイウーシオス」か、ギリシャ語の文字イオタ(ι)一文字をめぐって厳密なミクロの戦いだったのです。それはどちらがより聖書的かの論争で「ホモウーシオス」に確定しました。即ち父なる神は、子であるイエスと同類でないが、しかしその本質において同質であると決定したのです。
 その後、五世紀に制定された「アタナシオス信条」の中で、次のようにまとめられています。「我らが一つなる神を三位において、三位を一体において礼拝することである。しかも位格を混同することなく、本質を分離することなく」と。
 三位一体を否定するユニテリアンというグループの影響を受けたかつての大正時代の日本作家、国木田独歩、北村透谷、島崎藤村なども一度は洗礼を受けながら、残念にも信仰を捨てるのです。正しい聖書観、神観、キリスト観等を身につけて現代の異端、ものみの塔、統一協会、モルモン教などに対決してゆかねばなりません。

9月17日

 かってパウロはアテネを去ってコリントで一年半伝道した折、アクラ、プリスキラという夫婦と出会いました。両者は天幕作りの同業者であったことが知り合うきっかけでした。そして一緒に住んで仕事をしていました(使徒一八・一~四、二六)。この夫妻とはパウロは終生変わらない信仰者、伝道者としての主にある交わりを持つようになりました(使徒一八・一八、二六、ローマ一六・三、第一コリント一六・一九、第二テモテ四・一九)。
 しかし、この出会いに主なる神様の不思議な摂理と厳かさを覚えます。私達の教会におけるお互いの出会いもまた本当に考えてみれば、偶然のようでありますが、神様の御手が互いの中にのべられて、教会の兄弟姉妹として連なっているのです。そしてこの教会に仕えること、すなわちその使命に生きること、その為に召されて信徒とされていることに深い神のご計画の実現を思います。
 アクラ夫妻は迫害のためイタリヤから逃れてきた天幕造りの職人で、前記のように彼らはパウロと同居して彼を助けました。のちにはパウロとエペソに一緒に旅立つ迄に信仰が成長して参りました。その秘訣はパウロから御言葉の真理を学び続けたからでした。コリントの宣教・伝道は結局このような神によって召し出だされた信仰に満ち溢れた夫婦との出会いから始まったのです。

9月16日

 先週初め(二〇〇一年九月一一日)、テロ事件としてはこれまでにない程の大規模な破壊がアメリカの二ューヨークとワシントンに同時発生しました。全世界の誰もが驚きました。すでに数千人の犠牲者がでています。平和が乱されたのです。二〇世紀は特に戦争の世紀だったとも言われていますが、二一世紀もこのような形で平和への挑戦行為が勃発しました。アメリカは報復攻撃を準備しています。また新たな戦争が開始されるのでしょうか。
 こうした危機的な時代にあって、わたしたちは例え小さな祈りであってもやはり主イエスの御名で「平和」を祈らねばなりません。主イエス・キリストの父なる神は平和の神です(ローマ一五・三三、一六・二〇、第二コリント一三・一一、ピリピ四・九)。
 米国が敵意、対立、憎しみ、仕返し、攻撃、復讐ではなく、キリストにある赦しと愛、平和と共存、共生の精神を持って進みいくように祈らねばなりません。米国クリスチャンたちの間からこの時にこそ、聖書の赦しのスピリットに立って、平和主義が叫ばれ、平和運動が推し進められなければならないと思います。剣を取る者は剣で滅びるからです(マタイ二六・五二)。
 私たちは、私たちの主イエス・キリストによって神との平和をもっている(ローマ五・一)のですから、個人間においても常に平和に役立つことと、お互いの霊的成長に役立つことを追い求めていきたいものです(ローマ一四・一七~一九)。

9月15日

 ヘブル書第三章一~六にはイエス・キリストがモーセに優る理由を記しています。まず、モーセは家の一部分として家に属しているのに対し、キリストは家の建築士であること。第二にモーセは家の中にいる僕ですがキリストは御子として家の上にあつて治める方であるということです。
 著者はまずこの世界を神の家、また神の家族と考えています。この「家」には、建物、また神の家族の人々という二重の意味があります。ギリシャ語のオイコスにこの二重の意味があって、世界は神の家であると同時に神の家族なのです。
 著者は四節で神が世界の創造主であると宣言し、そしてこの「家」すなわち世界を治めるのはキリストだと六節で語ります。ところがモーセは、神の家の一部に過ぎません。この家の「しもべ」(同上五節)なのです。治める者と、仕える者との差異は明らかです。モーセは神によって造られた人間、そして神によって創造された世界、その家の中で働く一家族、一要員にすぎません。けれどもイエスは神のひとり子として忠実に神の家を治められるのです。
 たしかに忠実さにおいてはモーセもイエス様も同じでした(同上二~六節)。けれども冒頭の二つの事柄でモーセとキリス卜を比較する時に、明らかにイエス・キリストの優越性がわかるのです。

9月14日

 ルカ一五章には、パリサイ人および律法学者たちの批判的つぶやきに対してなされたイエスによる三つの例え話が並置されています。三~七節の<失われた羊の回復>、八~一〇節の<失われた銀貨の発見>、一一~三二節の<失われた息子の帰還>です。主題は喪失と回復と言ってよいでしょう。ここには失われた者に対する神の愛が、すでに、今ここにある喜びといっしょに示されています。イエス・キリストによって失われた罪人が取り戻される喜び。まさに「楽しんで喜ぶのは当然」(三二節)である現実が二一世紀の今日にも存在しているのです。
 けれどもこれを認めることができない自称義人がいるわけです。皮肉をもって言えば、彼らは医師を必要としない健康な人ともいえます。しかし、主イエスが来られたのは、そのような人を招くためではなく、罪人である病人を招く為でした(ルカ五・三一、三二)。そのような人たちがイエスの話を聞こうとして集まってきました。その彼らに例え話でご自分の意図を伝えようとされました。すなわち、神の前に失われている悔い改めを必要としている罪人を探しだして救い、天に喜びを、また、み使いにも喜びをあたえようというものです。一人の人間が救われるということは、それほどに楽しい、うれしい、喜びの大祝宴を開いて祝う事柄なのです(ルカ一五・二四節)。

9月13日

 《日々生命(いのち)新しくされて》
 老年は一般的に言って冬の情景に似て、全体に暗いものがあります。旧約の伝道者の書一二・一では、「わざわいの日が来ないうちに、また『何の喜びもない』と言う年月が近づく前に」と老齢を描写しています。確かに体力は衰え、髪は白くなり、足腰は弱くなりという訳で、一日の夕暮を思わせる淋しい状況であります。
 けれどもクリスチャン老人は、「外なる人は衰えても、内なる人は日々新たにされています」(第二コリント四・一六)のでそんなことで弱音を吐いておれません。なぜなら使命、任務が与えられているからです。祈ります、伝道します、証しします、お世話されるだけではなく、お世話もします、賛美します、また出来る仕事は積極的にしますなど、すべきことは山程あるのです。
 もちろん聖書は老眼鏡をかけつつも、懸命に読み味わってゆかねばなりません。喜んで負うべき重荷と十字架とは、年老いたとは言え減量されていません。故に、若いねーと言われつつ美しくクリスチャンは年老いてゆくのです。重荷も使命も働きもなくなればもう人生の終着点を迎えるより他ありません。日々ご聖霊によって「いのち」新しくされ、活き活きと笑顔をもって歩み、老いの暗いイメージを吹き飛ばして明るく進んでいこうではありませんか。

9月12日

 アメリカ・ミズーリー州スミストンという人口わずか五〇〇人ばかりの小さな教会(定員一五〇席)に、一九九六年からご聖霊が顕著に働き始め、今やアメリカ国内のみならず、海外からもスミストンという本当に名も知れ渡っていなかった田舎の村の教会に、人々が押しかけているのです。
 リバイバル集会が始まる前から玄関先には列が作られており暑い炎天下信者さんたちが忍耐強く並んでいました。従来からの礼拝堂の講壇には大きなテレビが置かれ、隣接の増築した三〇〇人位入る第二チャーチも一杯でした。集会一時間前から冷房のよく効いている会堂の中に入ってすでに賛美したり、祈ったりしている姿が目につきました。こうしてアメリカとしては小さな教会にかれこれ四年になろうとしていますが、この無名のチャーチに人々が集まるようになったというのです。
 原因はというと特別考えられず、ただもうご聖霊の働きというより他ないようです。もちろん牧師夫妻はじめわずかな信者たちで一生懸命に、教会成長とリバイバルを「祈り続けていた」のですが、それがここにきて一度に爆発した感がある訳です。
 日本の教会のリバイバルも決して単なる夢、幻ではなく、実現するもの、祈りはかなえられると確信して進もうではありませんか。しかし、そこにはなお継続的な祈りが必要であることを覚えましょう。ハレルヤ!

9月11日

 「何の為に生まれてきたのか」「なぜ生きて行かねばならないのか」人間はこうした問題に一度は思い悩むものです。聖書は明確に人生の意義、目標を示しているのです。
 けれども一高の秀才、藤村操が聖書を信じる事もなく一九〇三年(明治三六)六月、日光華厳の滝で「巌頭の感」を残し滝に飛びこんで自殺した時には世に大きな衝撃を与えました。その時の有名な辞世の句。「悠々たるかな天壊、凌々たるかな古今、われ五尺の小躯(しょうく)をもって、この大を計らんとす。ホレーショの哲学、何のオーソリティ(権威)に価するものぞ、万有の真相一言にして尽くす(悉す)、いわく〝不可解〟。われこの恨みを抱いて煩悶終に(遂に)死を決するに至る。既に巌頭に立つに及んで胸中何等の不安あるなし。始めて知る。大いなる悲観は、大いなる楽観に一致するを」と。
 最近の日本では年間三万人以上の自殺者が出ているのは、人生の行先に光が見えない、希望が持てない心の闇、虚無感に囚われているからだと思われます。イエス・キリストは「わたしは、世の光です。わたしに従う者は、決してやみの中を歩むことがなく、いのちの光を持つのです」(ヨハネ八・一二)と仰せられ、今日もキリストは光として私達の心の中に輝いて下さいます。まだ暑さは残っていますがこの初秋の良い季節にキリスト様を受け入れ信じ、希望を天国において力強く前進しようではありませんか。

9月10日

 詩篇七一篇は老いたる者の祈りです。作者は「神なる主よ。あなたは、私の若いころからの私の望み、私の信頼の的です」(五節)と告白しています。そして危機の中で「年老いた時も、私を見放さないでください。私の力の衰え果てたとき、私を見捨てないでください」(九節)とも叫んでいます。信仰を持って生涯を貫いた一老人の祈りです。
 信仰者は危機の中にあって、まず一節から三節で「助けてください」「救ってください」と祈っています。年齢に関係なくヤーウェなる神を信じるものでも人生には様々な形で「危機」は訪れます。ましてや老いたるものにとって年齢を重ねてゆくことは、体力の減退を意味します。また気力も徐々に失せてゆくなど、社会生活に夕暮れ時を実感ぜざるを得ません。そんな中に将来への希望も失い、生き甲斐ももてずして、心に動揺を覚えて自らの手で生命を絶とうという誘惑にかられることも無いとはいえないでありましょう。一七節から二十節では、若い頃から受けた神の恵みが、未来への希望の根拠となる言葉を吐いています。「私を再び生き返らせ、地の深みから、再び私を引き上げてくださいます」(二〇節)と。
 旧約の詩人は幸いに創造者なるまことの神を信じていました。故に彼は「私の口には一日中、あなたの賛美と、あなたの光栄が満ちています」(八節)と勝利しています。このような真実の信仰を持って人生の危機を何度も乗り越えてゆきたいものです。

9月9日

 パウロ、シルワノ、テモテ達は激しい苦闘の中で(第一テサロニケ二・二)、力と聖霊と強い確信とによって(同一・五)、大胆に神の福音を語ることが出来ました。ピリピでは迫害を受け投獄せられ肉体的、精神的にも多くの苦痛を味わいました。さらに、はずかしめさえも受けました(同二・二)。それでもへこたれることなくテサロニケの教会を生み出すまで、懸命に福音を宣べ伝えました(同二・九)。
 またテサロニケの信者は信者で、多くの苦しみの中で聖霊による喜びを持ってパウロ達の語るみ言葉を神の言葉として受け入れ、使徒たちと主イエス様に見習う者となりました(同一・六、二・一三)。それだけではなく信仰の働き、愛の労苦、主イエス・キリストへの望みの忍耐に輝いて、すべての信者の模範にまでなっていきました(同一・三、七)。
 これら全ての誉れある姿勢こそイエスの福音、神のみ言葉の影響力であります。み言葉を語る者も受け入れ信じ、実生活にとり入れていく信者たちも、ともに神のみ言葉、福音の力によって全く変えられ、どのような苦しみ、戦いにも充分耐えていくことができました。私たちもますます主により頼み、神のみ言に力づけられて影響力あるクリスチャンになっていこうではありませんか。
 主イエスを信じること、福音を信じ受け入れることは本当にすばらしいことです。新しい方々も恐れず迷わず喜んで我が心にイエス様を迎え入れてください。

9月8日

 主の祈りの第五は過去に犯した罪の赦しに関するもので(マタイ六・一二)、続く第六の祈りは再び新しい罪を犯すことのないように、試みに合わせないで下さいと祈る必要性を教えています(同一三節)。
 私たちキリスト者といえども弱い存在。原語「パイラスモス」は試みとか誘惑という二つの意味をもつ語。キリスト様と違って人間はありとあらゆる誘惑に負けやすい者達。金銭に弱い、性欲に弱い、様々な苦しみに弱い。すぐに悲鳴を上げ、果ては死にたくなる。
 サタンは試みる者(マタイ四・三)として姿、形を変えて私たちに迫ってきます。誘惑者として接近してきます。何とかしてキリストから引き離そうとします。甘い声をもって、恐ろしい声をもって。時には油断させ、気づいた時には教会からも聖書からも、一切キリスト教的なものに無縁になっていたということさえ起きます。
 しかしながら人が誘惑にあった時、神によって誘惑されたと言ってはいけません(ヤコブ一・一三)。神は人を誘惑されたり、人を倒れさせようとしてつまずきの石をその前に置かれることは決してありません。誘惑するのは悪魔です。また自分の欲に引かれて誘惑されるのです。いずれにしてもパイラスモス(試み、誘惑)に無力なだけ、真剣に祈って主に全面的にお頼りしてゆきたいものです。ただ時折、主である神は愛するわが子を訓練、鍛錬するために試練に合わせなさる事は皆無ではありません(ヤコブ一・二)。

9月7日

 キリストは目印として光っていて下さいます。灯台が岬の突端で光っているように。また、高層ビルの屋上であるいは大煙突の頂点で、ライトがよく点滅しているように。飛行場の滑走路両側でやはり光が等間隔で灯っているように。全て衝突の危険を知らせ、対象物の存在位置を認識させるものとして必要な光であります。
 キリストはご自分の所に人々が来て救われるようにと、自ら目印たらんとしてこの世に現れて光り続けて下さっています。隠れておいでになるのではありません。ヨハネ一・五では、「光はやみの中に輝いている」としるされています。この光は当然ながらイエス・キリストであります。ところがこの世の「暗闇は光を理解しなかった」(五節、新共同訳)のです。この状況は二一世紀の現在も厳然と続いているのです。
 しかし選ばれてクリスチャンとされた私たちはこの光のキリストに従っていく時、私たちは決して闇の中、罪人の道を、また、永遠への滅びの道程を歩むことがなく、むしろ命の源、光の源であるキリスト御自身をもつことができるのです。人生不可解ではありません。何のために生まれ、何のために生きているのか、その目的は光であるキリストに従う時、明白になります。クリスチャンは世において、主イエスを紹介します。目印として生きる者でもあります。

9月6日

 「神の全能の力の働きによって私たち信じる者に働く神のすぐれた力がどのように偉大なものであるかを、あなたがたが知ることができますように」(エペソ一・一九)とパウロは祈っています。私たちも日常生活の中でその全能なる神の素晴らしさを少しでも体験させて頂き、主を証しするものでありたいものです。
 主イエス・キリストが神の全能に対していかに強い深い信頼をその生涯を通じて持っておられたかということは、福音書のどの断片をとっても証しする事ができます。たとえばマタイ六・二五以下で「何を食べるか、何を飲むか、何を着るか、などと言って心配するのはやめなさい。こういうものはみな、異邦人が切に求めているものなのです。しかし、あなたがたの天の父は、それがみなあなたがたに必要であることを知っておられます。…だから、あすのための心配は無用です」と語られています。
 繰り返しますが、神の全能の力を旧・新約聖書全体、とりわけキリストの真理の光において見ていく必要があります。教会最古の信条たる使徒信条において、「天地の創造者」は「全能の父」であるとありますが、「子」なるキリストに対して「父」であると同時に、私たち人間にとっても父なる神なのです。わたしたちの父が全能であられるということは何という頼もしいことでありましょうか。益々力強く信頼していきたいものです。

9月5日

 このたび六名の方々が水の洗礼を受け(一九九三年)、新生活へのスタートを切られました。おめでとうございます。どこの誰よりも天の主なる神が喜んで居られます。
 しかし今後の信仰生活の過程で様々な誘惑や困難に出会うでしょう。その時、自分が受洗の恵みにあずかっている事をいつも想起して、その非常時を乗り越えていって頂きたいと思います。自分の力だけで気張り、踏ん張って進むのでなく、いつも単純に主の前に祈りかつ主を信じ頼って、また感謝しつつ前進致しましょう。私共の生活はご聖霊が保証下さって居ます。救いの福音を聞き、キリストを信じた結果、約束された聖霊の証印を押されているクリスチャンは、神の国を継ぐ者達です。
 「私たちは御国を受け継ぐ者ともなりました。みこころによりご計画のままをみな行う方の目的に従って、私たちはあらかじめこのように定められていたのです。」(エペソ一・一一)
 この御国の相続の保証として、聖霊を各自に賜わっている訳です。ですから、少しの不安、心配もなく、神の子の自覚を益々深めて、備えられ、与えられた信仰生活は、必ず主の御霊によって守られ、持続されてゆく事を確信してください。聖徒達よ、約束の聖霊のバプテスマを次段階に受けて頂きたいと願います。

9月4日

 イスラエルの王、ヨアシュは三回矢を射て止めてしまったので、エリシャは、五回、六回と射るべきであったと怒りました(第二列王記一三・一九)。私たちは祈りの矢を主に向かって放ち続け、リバイバルを勝ちとっていきたいと願います。何度祈っても答えられないと、つい祈ることをストップしてしまいがちです。主は必ずこの異教国日本をも霊的に作り変えて、多くの人々をクリスチャンにして下さいます。信じて疑わずとにかく祈り続けましょう。
 貧しい中米グァテマラにあるモロンガでは、人口一万八千人の九〇パートセントが生まれ変わったクリスチャンとなり、地の産物までが普通の三倍、しかもおいしいものが収穫されているそうです。ネパールでは一九九一年から福音の門が開かれ、わずか八年で二〇万人のクリスチャンが生まれました。タイのバンコク希望教会はこの一七年間に、全国三八六市に七〇〇の教会を誕生させています。驚くべき数字です。さらに二〇一〇年までに八万七千のすべての町々に教会を作っていこうとビジョンに輝いています。
 主の降誕二千年の来年までに、今世紀最後の年AD二〇〇〇年にはぜひ当教会も会堂が満杯になるよう期待と信仰をもって人々をお連れしたいものです。まず何回も祈り続けましょう。

9月3日

 <牧師夫人を尊敬し、愛し、祈ってください>
 牧師と結婚し、夫と子供に仕え、それ以上に信徒一同に仕えている牧師夫人を決して噂の種にして、悪く言いふらさないようにしていただきたいのです。悪口をいう時、サタンの思う壺にはまっていることになります。彼女も牧師と共に神によって召され、油注がれている存在。神の権威を認めるのなら当然聖霊の油注がれた夫人伝道者の立場をも認め、むしろ祈り尊ばねばなりません。
 サタンはいつの時代も内部混乱、同士打ちを計画します。そうではありません。未信者はもちろん、信者すなわち小羊たちの為に心血注いで祈り、心配し、身が細る程に労している者の為に、欠点をあばき、落ち度を指摘して自己満足しておられましようか。
 家内はある時、二時間に亘ってある方の悩みを電話でお聞きしたことがありました。聞くという事も中々大変なことです。神と人に仕える者として当然の重荷かもしれませんが、主のお助けと信徒方の祈りの応援があって出来る務めでもあります。教会の母として、霊的、信仰的母として忍耐の限りを尽くしてなお前進している牧師夫人のために、もっと祈り、愛し、尊び、仕えて頂きたいと願います。それがひいてはあなた自身の祝福に連なり又、教会リバイバル・日本リバイバルに大きく影響していくことを実験、体験して頂きたいと思います。
 「私のためにも祈ってください。」(エペソ六・一九)

9月2日

 パウロは非キリスト者がクリスチャンになったことを、「新しく造られた者」といっています(第二コリント五・一七~一八)。これはイエスを信じて救われたもの、 罪を赦された者、新生した者を指しています。キリスト様を抜きにして自分の努力によって新しくなったものではありません。どんな人間もキリストを謙遜に受けいれるなら、キリストと強いきずなで結び合わされ、色々な祝福にあずかることができるのです(ローマ五・一~五)。
 キリストにある者が、どうして〈新しく造られた者〉と、言うのでしょうか。生来のままですと、私たちはキリスト様とはなんのつながりもない訳です。これでは創造主の恵みは頂けません。しかし、ただ信じたというだけで、その人は新創造されたのです。ここにはどこまでもイエスの十字架上での犠牲が基礎、土台となっているのです。
 キリスト者といえども、外見はノン・クリスチャンの人たちと何も変わりません。けれども中身が変わったのです。いや変えて頂いたのです。キリスト様がわがうちに住んで下さるようになったのです。逆に言えば、私たちがキリストのうちにあるように造り変えられたのです。今やイエス・ キリストとは不可分離の関係が生じたのです。なんと言う素晴らしいことでしょう。とにもかくにも、ここにはキリストによる新創造が、神による一新が賜物として与えられました。宝の民とされたのです。

9月1日

 ヘブル書四・一には神の安息に入れないような事のないように注意しようと、記されています。そのために神をおそれる心を持とうではありませんか、とも勧められています。しかし、クリスチャンのもつ恐れは、仕事から逃避させるものではなく、また活動を停止させる麻痺状態をつくり出すものでもありません。この恐れはクリスチャンの持つあらゆる力を結集し、真に価値あるものを得ようとの努力を生み出すものです(バークレー)。
 現代の私たちにもやがて訪れる永遠の神の安息の地、天国に入る約束が与えられているのですから、不信仰を起こして入り損なうことのない様にしたいものです。万が一にもこれに入れない様なことのないようにと、一節で注意をよびかけています。
 さて、言葉というものは、どんなに尊く価値があっても、それを聞く人が信仰によって受けいれなければ何の役にもたちません。「その聞いたみことばも、彼らには益になりませんでした。」(ヘブル四・二)聞き方にもいろいろあります。無関心、批判的、懐疑的、軽蔑的、興味のない聞き方などです。大切なのは熱心に信仰的態度を示して聞く事です。神の安息の約束の言葉は、人間がそれに命をかけ、それによって全生活が支配されるべきものであります。今日神のみ声を聞いたら、(聖書の言葉を通して)心をかたくなにせず、従順に信じて神の安息に入りたいものです(同上三・一五)。