11月30日

 イエスが「わたしは、天から下って来た生けるパンです」(ヨハネ六・五一)と言われたのでユダヤ人たちはつぶやいて言いました。「あれはヨセフの子で、われわれはその父も母も知っている、そのイエスではないか。どうしていま彼は『わたしは天から下って来た』と言うのか。」(同四二節)こうしてユダヤ人たちは互いにつぶやきキリストにつまずきました。
 それは、イエスが、救い主とか神の子とか言っても、何だ普通の人ではないか、と言うのです。イエス・キリストは、「わたしはいのちのパンです」と言いました(ヨハネ六・三五、四八)。それはパンの奇跡においてびっくりしている人々に、もっと大切なパンがあることを教えるためでした。あのサマリヤの女に井戸の水を通して、永遠に渇くことのない生命の水を教えたのと同じです。イエスは地上のものを通して、神の国の真理を教えようとなさいます。人々のつまずきはそのイエスが当たり前の人にすぎないと言うことにありました。
 現代の「エホバの証人」の多くある間違いの中で最も重大なのは、イエス・キリストの神であることを否定する教えです。すなわち、イエスは、エホバによって最初に造られた者、従って神ではない、神の代弁者であり神より低い地位にあると主張しています。もちろんこの教えは聖書にないものです。イエスこそ神(ヨハネ一・一)なのです。

11月29日

 聖書は全人類に対し、特にクリスチャンに対して「待ち受けている人たちのようでありなさい。…人の子は、思いがけない時に来るのですから」(ルカ一二・三六、四〇)と再臨の主イエスを待望する姿勢をとっておれ、警告しています。信仰者は、イエス・キリストの栄光の出現を待ち望んでいる者たちです(テトス二・一三、第一ぺテロ四・一三、マルコ一三・二六)。そして終わりの日に神は「私たちの卑しいからだを、ご自身の栄光のからだと同じ姿に変えてくださるのです。」(ピリピ三・二一)このような終末的待望の生活こそキリスト者の特徴ある生き方と言わねばなりません。
 わたしたち信仰者はいわば「待ち望む民」であります。主の再びのお出でを待ちこがれつつ、この世にあって真剣に主の証し人として進む者です。それがたとい苦難の中にあっても「今の時のいろいろの苦しみは、将来私たちに啓示されようとしている栄光に比べれば、取るに足りないもの」(ローマ八・一八)と告白しつつ、神のみ国においての栄光の保証を確信しながら、終末への期待を持ちつつ、とにかく今か今かと待ちながら天国にむかって行く旅人であります。これらの再臨の主への待望、永遠の生命への期待、聖霊の内住の祈願は、いずれもキリストの受肉の事実によって裏書きされているのです。目をさまして主のご命令に正しく従いつつ、主の再臨を待ちましょう。

11月28日

 世紀はA.D.(ラテン語 Anno Domini=主の年の略)が示すようにキリストの降誕をもって紀元としたのです。これは五三五年ローマの僧院長ディオニシウス・エレシグウス(A.D.五〇〇~五四四)が復活表を作る際にキリスト降誕から起算したものに始まります。しかし実際には六年の誤差があると言われます(新聖書大辞典、九三頁…キリスト新聞社)。
 聖書にはキリスト降誕の日付は記されていません。だからと言ってクリスマスを祝う風習は退けたくありません。その日が確定されなくてもイエスの誕生だけは忘れてはならないからです。降誕日を一二月二五日とする最古の記録は、アンテオケの主教テオフィマス(一七一~一八三)のものですが、これを偽作とする者も多いようです。初期キリスト教徒たちは信仰上の潔癖から、異教徒の狂そう的な祭りとキリスト教の神聖な祝いとが混同されるのを嫌って祝賀はしなかったようです。降誕の日付の確実な文献はドイツの史家、モムゼン(一八一七~一九〇三)によって初めて発表された三五四年のローマ教会の史家の筆になるものです。それまでは教会によってクリスマスはまちまちの日付で行われていました。グレゴリウス(A.D.三二九~三八九)は「クリスマスは俗悪でなくもっと謹厳な態度でお祝いすべきだ」と戒め、飲食、娯楽なども度を過さないようにと、さとしたと言われています。

11月27日

 ヨハネ福音書一・一~一八の序文は、特に神学的序文と名付けられ、もっとも短いイエス伝と呼ばれる九節から一二節を内に含みつつ、この福音書がイエス ・キリストの生涯を、どのような視点から描こうとしているかを、あらかじめ示す為に重要な序文であります。それは丁度交響曲の主題が主旋律を前奏部分で明らかにし、以下の楽章において多様な変奏(バリエーション)を加えて組み立ててゆくのに似ています。
 そしてその主題は、ことばは神であった(一節)、ことばは肉体となって、私たちの間に宿られた(一四節)、それが父の懐にいますひとり子である神イエスであり、このかたが神を示された(一八節)という三段論法によって明確にされています。
 つまり、ことば=神、ことば=イエス、よってイエス=神という三段論法なのです。イエスは地上生涯においては神のひとり子であると同時に、「神」そのものとしてのご性質をもって活動されました。復活のイエスに対し、トマスは「私の主、私の神」と言っています(同二〇・二八)。そして、「すべてのもの(万物)は、この方によって造られた(成った)」 (同一・三)と、著者ヨハネは告げています。すなわち万物は、イエス・キリストにおいて示されている神によって創造されたのです。すなわち、イエスが万物の創造にも父なる神と共に関わっているというのです。

11月26日

 マタイ一〇・一六には十二弟子派遣に際して、イエスの訓示が記されてあります。ガリラヤ湖畔の愚直な漁師たちを伝道に這わすことは、ちょうど羊を狼の中に送り出すようなものでした。正直一辺倒の彼ら、学問もなく、権力も、何の後楯も無い彼ら、特に無抵抗主義を教えられている彼ら、もちろん戦うなんらの武器もない彼ら、それは温順な羊そっくりでありました。しかし、これに反して世の人たち、殊に学者、パリサイ人たちの悪だくみ、権力、横暴さは正に狼でありました(ヨハネ一〇・一二、使徒二〇・二九)。
 羊である彼らはどのようにして、この狼のような連中と戦うのでしょうか。イエスは教えていわれました。「蛇のようにさとく、鳩のようにすなおでありなさい」(マタイ一〇・一六)と。この世は現代でも悪賢い、だまそうとするサタンのような心をもった者たちが少なくないのです。ですから、つまらない事でだまさ れないように賢く、利口に、よく注意して福音を説き、そしてなお愛の実践をなしてゆかねばなりません。
 キリストの福音は必ずしも人々に歓迎されるとは限りません。大衆の多くは「自分につごうの良いことを言ってもらうために、気ままな願いをもって、次々に教師たちを自分たちのために寄せ集め、真理から耳をそむけ、空想話にそれて行くような」(第二テモテ四・三~四)危険性があります。十分注意したいと思います。

11月25日

 旧約聖書のメルキゼデク(創世記一四・一八と詩篇一一〇・四)に等しい大祭司イエス・キリスト(へブル五・一〇)がどんなに優れて輝かしい方であるかを見てみます。
 一、始めがなく終わりがなく、永遠に続く方(同六・二〇、七・三、一七、二一、二四)。
 二、ご自分によって神に近づく人々を、完全に救うことがおできになる方(同七・二五)
 三、彼らのために、いつもとりなしをしておられる方(同二五節)
 四、きよく、悪も汚れもなく、罪人から離れ、また、天よりも高くされた方(同二六節)
 五、自分の罪のために(旧約の大祭司のように)いけにえをささげることの不要な方(同二七節)
 六、天の大能者の右に着座された方(同八・一)
 七、ご自分の血によってただ一度、まことの聖所にはいり、永遠の贖いを成し遂げられた方(同九・一二)
 八、私たちの良心をきよめて死んだ行いから離れさせ、生ける神に仕える者としてくださった方(同一四節)
 九、召された私たちが永遠の資産の約束を受ける事ができるようにしてくださった方(同一五節)
 一〇、今の世の終わりに、ご自身をいけにえとして(人間の)罪を取り除くために来られた方(同二六節)
 十一、多くの人の罪を負うためにご自身をささげられた方(同二八節)
 十二、キリストを待ち望んでいる人々の救いのために再臨される方(同二八節)

11月24日

 「義人は信仰によって生きる」(ローマ一・一七)。
 ここでの義人とは、イエスを信じて救われ正しいと認められたクリスチャンを指しています。新共同訳聖書では、「正しい者は信仰によって生きる」とあります。ローマ書は、人間はどのようにしたら救われるか、という大きな問題を取り扱っています。パウロははっきりと「信仰による義」ということを述べています。そこで彼は同書四章を通じてアブラハムの例をあげて、「アブラハムは神を信じた。それが、彼の義と認められた」(三節)と、説明しています。ただ信じただけなのです。何か律法にかなう良い行いをしたとかいうのではありません。「もし、彼が行いによって義とされたのであれば、誇ってもよいが、神の前ではそれはできません。」(二節)不信心な者を義とされる方を信じる人は、働きがなくても、その信仰が義と認められるのです(五節)。そしてさらに義とされるとは、単に正しい者と認められた(義認)というだけではなく、神との交わりが回復することも意味します。アダム・エバによって失われた神との関係が、イエス・キリストを信じることによって関係の回復が与えられる訳です。全く無関係だった者がすばらしい主なる神様とまた子なる救い主イエスと交流をもたせて頂けるとは何という特権でしょうか。ますます信仰 から信仰へと進んで参りましょう。

11月23日

 聖書では信者を羊、神または御子イエスを羊飼いに例えていることから、ルカ一二・三二の
小さな群れとは羊の群れのことで、信者をこれになぞらえたのです。「小さな群れよ。恐れることはない。あなたがたの父は、喜んであなたがたに御国をお与えになるからです。」この箇所では彼の微力な少数の弟子を指しています。ユダヤ人の中からイエスに帰依した少数の者たちが、周囲の者から迫害されるのを力付けた言葉です。
 「何をそんなに恐れているのか」というのです。この後半は、理由です。あなたたちの父上(神)は天のみ国をあなた達にあげようとされているのだから、確かにそう思っておられるのだから恐れることはないといわれます。
 イエスを信じる者たちが、たとえこの世でどんなに身分が低く小さい者であろうとも、神のみ国、天国をいただくことは定まっている事実で、ただそれを頂く時がいつかということだけが問題です。だから安心せよ、びくびくするな、恐れるなと励まして下さるのです。主なる神は弱小な者を選び、これを愛し、これを守り給うのです。「主があなたがたを恋い慕って、あなたがたを選ばれたのは、あなたがたがどの民よりも数が多かったからではない。」(申命記七・七)故に、大牧者である主イエスにすべてをまかせ、ゆだね、大いなる安心をもって主の弟子としての歩みに拍車をかけて参りましょう。

11月22日

 主イエスは弟子たちに仕え合う、愛し合うことに対し身をもって模範を示されました。栄光の王者が「夕食の席から立ち上がって、上着を脱ぎ、手ぬぐいを取って腰にまとわれた。それから、たらいに水を入れ、弟子たちの足を洗って、腰にまとっておられる手ぬぐいで、ふき始められた」(ヨハネ一三・四~五)のです。そして「わたしがあなたがたにしたとおりに、あなたがたもするように、わたしはあなたがたに模範を示したのです」(同一五節)と言い、さらに一七節で「それを行うときに、あなたがたは祝福されるのです」とも仰せられています。イエス・キリストはこの洗足の時だけではなく全生涯において、わたしたちに、神から来る本当の「生き方」とはどういうものかをお示しになりました。
 なかなか実行できにくい部分はありますがあきらめず、主のお手本通りの生活に徹する方向に進みたいと思います。「わたしのくびきは負いやすく、わたしの荷は軽い」とイエスは、マタイ一一・三〇で語られています。その為にまず祈りに祈って聖霊に満たされていかねばなりません。犠牲を惜しまないスピリット(精神)をたえずもち続けたいものです。人のためにというよりは、主イエス様の足を洗うつもりで、他者のために立ち上がり、手拭、水、たらいの如く、相手のための必要物かつ、必要事を考え捧げ仕えたいものです。主よ!実行させてください。

11月21日

 ヨシュア記は主なる神と人との関係について以下の三点で光を与えています。
 (イ)神の忠実。イスラエルは約束の地の入手を神から約束されていました。一時、この神の目的は彼らの不服従の罪の故に挫折したかのように見えました。しかし主のご計画はカナン征服において達成、成就したのです。その経過を物語っています。
 (ロ)神の聖。これが土着民、先住部族に対する神のさばきのうちに見られます。アモリ人の不義はその極に達したので、神はイスラエルを用いてこれを罰せられました。しかし神の聖は、他をさばく為に用いられる者もまた、清くなければならないという主張に明確に認められます。神はたびたびこれを聖戦であると言われています。
 (ハ)神の救い。ヨシュアという名は「主は救い」の意味をもち、すべての名にまさる名、「イエス」のへブル語読みです。従って、ヨシュアをイエスのひな型ととり、ヨシュア記は、キリストにある私たちの勝利の生活を描いていると見て何らさしつかえありません。またヨルダン渡河は、主が私たちを、祝福が充満せる生活に導き入れて下さることを象徴しているものともとれます。「こういうわけで、神の安息に入るための約束はまだ残っているのですから、あなたがたのうちのひとりでも、万が一にもこれに入れないようなことのないように、私たちは恐れる心を持とうではありませんか。」(ヘブル四・一)

11月20日

 「どんな貪欲にも注意して、よく警戒しなさい。」(ルカ一二・一五)さらに続く金持ちの例話(一六~二一節)は財の豊かさへの警告です。物の豊かさによって神を忘れないようにということです。むしろ「自分の宝は、天にたくわえなさい」(マタイ六・二〇)、そして自らの将来に備えなさい、ということでありましょう。
 人は誰でも豊かさを求めるのに懸命です。けれども物やお金の豊かさだけに安心し切って、永遠の天国への備えを忘れ、怠っているとしたらまことに大きな損をしたことになります。ともすると人は貧欲になります。地上に財を蓄えて安心立命を図ります。それももちろん必要なことです。しかしそれ以上に重要な事は、神を忘れず、神と共に歩み、永遠の命をわがものとすることではありませんか。死後の世界に備えることでしょう。
 ところが多くの人々は金持ち、豊作、もっと大きな倉を建てることに貧欲になって、一生を過ごそうとします。けれども「愚か者。おまえのたましいは、今夜おまえから取り去られる」(ルカ一二・二〇)と主は警告なさる。自分のことしか考えない者、自分の豊かさのみに心奪われている者に対しての警告です。「神の国とその義とをまず第一に求めなさい。」(マタイ六・三三)私たちクリスチャンはなおも、神の国、神の教会、神のためになる収穫をめざして、御霊に満たされ力強く前進してゆきたいものです。

11月19日

 宗教とは人間が神を求める工夫であり、工作であり、常に人間から神へという姿を示しています。しかし旧新約を通しての聖書の宗教は、逆に神が人を尋ね求める下降の図式を表しています。
 全聖書は、これ全て神が人を尋ね求めている姿を示しています。まず神側から罪の中にうめき悲しみ、絶えず争い、ねたみ、怒り、時には殺人に迄至る愚かな人間を、神は追い求め、これを救おうとしておられるのです。ルカ福音書一五章のいなくなった羊(三~七節)、失われた銀貨(八~十節)、いなくなった放蕩息子の 例え話にこの事が明らかにされています。
 ですからこの世の宗教が宗教なら聖書の宗教は宗教ではありません。それは宗教以外のものであり宗教以上のものです。聖書はこれを「福音=ふくいん」と呼んでいます。
 福音とは、もとは一般的によい知らせを意味する語で、子どもが生まれた知らせや戦いに勝った知らせなど、聞く者に喜びを与えるような知らせに関して、用いられました。
 聖書ではもっぱら新約において使われており、イエス・キリストによる神の愛を啓示しています。神の愛は罪人を助け、救おうとします。純粋な差別なき愛であり、無代価で与えられるものです。この愛によって救われたクリスチャンは、又自ら他者の為に祈り、他者の為にいのちさえも捨てる方向へと進んでいくようになるのです。

11月18日

 祈りは信じて求めることです(マタイ二一・二二。ヤコブ一・六。ヘブル一一・六。ローマ四・二〇~二一)。祈りにおいて最も大切な、基本的なことは信仰をもって祈ることです。主はいちじくの木が枯れた出来事を通して、祈りにおいて、信じること、つまり信仰が大切であることを教えられました。
 「まことに、あなたがたに告げます。もし、あなたがたが、信仰を持ち、疑うことがなければ、いちじくの木になされたようなことができるだけでなく、たとい、この山に向かって、『動いて、海に入れ』と言っても、そのとおりになります。あなたがたが信じて祈り求めるものなら、何でも与えられます。」(マタイニ一・二一~二二)
 祈るとき信仰が必要です。マシュー・へンリーは「信仰がたましいで、祈りはからだです。ともにどの奉仕のためにも、完全な人を作り上げる」と述べ、信仰と祈りの密接な関係を説明しています。そして「信仰が正しければ、祈りを引き起こす。そしてもし祈りが信仰からほとばしらなければ、正しくない」とつけ加えています。
 信仰に基づく祈りを、神は拒まれることなく、必ず答えられるというのが主の約束です。信じて求めるものは、何でも与えられると確信いたしましょう。ただし、「神のみこころにかなう願い」(第一ヨハネ五・一四)であることは言うまでもありません。

11月17日

 「…セムとヤペテは着物を取って、自分たちふたりの肩に掛け、うしろ向きに歩いて行って、父の裸をおおった。彼らは顔をそむけて、父の裸を見なかった。」(創世記九・二三)
 現代はともすると人の欠点や短所、弱さ、失敗を覆うどころか暴(ばく)露し、それを責め立て、面白がり、はやし立てる傾向が強い時代ではないでしょうか。
 聖書の中にノアの三人の息子の物語がでてきます。ノアは立派な信仰者でした。その信仰のゆえに神のみ告げを受けて箱舟を造り、神のさばきを逃れた人です。しかし、どんな偉大な人物にも落度はあるものです。晩年のノアは、こともあろうにぶどう酒に酔っ払って裸で天幕のなかで寝てしまいました。いわばぶざまな格好をさらけだしてしまったのです。それを知ったセムとヤペテの二人の息子は、父親の醜態を見ないようにうしろ向きに進んで、毛布で覆ったのでした。すなわち、その父の失敗を補い、繕 (つくろ)うようにしていったのです。決してそのエラーをあげつらうような事をしませんでした。
 「(愛は)すべてをがまんし、」(新改訳)=「愛はおおよそ事包み」(文語訳、明治三八年発行)コリント人への手紙第一、一三・七の言葉のように対処したいものです。イエスはその血によるなだめの供え物としてご自分を公に捧げられました(ローマ三・二五)。この「なだめ」の意味は覆う(おおう)です。イエスも私たちの罪を覆い赦して下さるのです。

11月16日

 祝福を求めて、子供たちをイエスのもとへ連れて来た人々を、制止する弟子たちを戒めて、イエスは子供たちを抱き上げ祝福します。「子どもたちを、わたしのところに来させなさい。止めてはいけません。神の国は、このような者たちのものです。…そしてイエスは子どもたちを抱き、彼らの上に手を置いて祝福された。」(マルコ一〇・一三~一六)。ここに子供たちへのイエスの愛を示す姿があります。
 当時は婦人と共に子供は軽視されていました。マルコ九・三六にも、イエスは子供を腕に抱き寄せてお話しておられます。主イエスは弟子たちが親子を叱った時、それはキリストの活動の邪鹿になる理由からか、女、子供を蔑視したところからなのかは分りませんが、大変憤って言われました。  子供の接近を止めるな。神の国はこのような者たちのものだと。さらに言葉を続けて、子供のような純真さ、無心、無邪気さをもって神の国を受け入れる者でなければ、決してそこに入ることはできないと……。
 イエスは子供たちをも宣教活動の中心をなす終末論的救いの約束の中にいれておられます。 そして子供たちをモデル、模範として会衆に実物教育をしておられます。現代のわたしたちも子供の徹底した親への信頼性をもって主を受け入れていきたいものです。

11月15日

 祈りは一面においては真に孤独なものです。ただひとり神のみ前に立ってなす事が多いのです。祈ることによって、初めて私共は「ひとり神のみ前に立つ」ということを学ぶのです。しかし、他方祈りは一人祈る時にも、他者を思い起こさないわけには参りません。
 パウロの手紙の中にも(第一テサロ二ケ一・二~三、ローマ九・一以下)、また旧約聖書にもアブラハムが(創世記一八・二二~三三)、モーセが(出エジプト一七・八~一三)、ネヘミヤが(ネヘミヤ一・四~一一)、アモスが(アモス七・一~六)、その他全ての神の聖徒たちは他者の為に特に信仰の仲間たちのためにも祈っていきました。こうした他者のための祈りを「とりなしの祈り」と呼びます。教会がする祈りの中で最も大切にされてきたもののひとつです。もちろん主イエス様も、ヘブル書七・二五によれば「キリストはいつも生きていて、彼らのために、とりなしをしておられ」ますし、さらに 「御霊ご自身が、言いようもない深いうめきによって、私たちのためにとりなして」(ローマ八・二六)いてくださいます。この祈りが信者各位に熱心になされている限り必ずや、日本に、地域社会に、教会内に、各個々人にリバイバルが起き、熱き愛の思いがさらに湧き上がることでしよう。教会堂に大勢集まっている時だけの祈りではなく、わたし一人のとりなしの祈りが、どれ程に重要であるかを深く認識しましょう。

11月14日

 パウロはコロサイ書とエペソ書で、神の奥義が(コロサイニ・二)実現しつつあること、それは教会を通して救いをもたらす「キリストの奥義」(コロサイ四・一二、エペソ三・四)であることを示しています。この奥義は、世々隠されていた奥義(エペソ三・九、コロサイ一・二六)であり、「福音の奥義」(エペソ六・一九)とも呼ばれました。またこの奥義とは「神がみ子においてあらかじめお立てになったご計画」(エペソ一・九)のことで、「天にあるものも地にあるものも、いっさいのものが、キリストにあって一つに集められること」(エペソ一・一〇)でした。
 さらには、「この奥義とは、あなたがたの中におられるキリスト、栄光の望みのこと」(コロサイ一・二七)でもあります。「キリストは肉において現われ、霊において義と宣言され、御使いたちに見られ、諸国民の間に宣べ伝えられ、世界中で信じられ、栄光のうちに上げられた」(第一テモテ三・一六)方で、このことは偉大な「敬度の奥義」(同上)なのです。そしてこの奥義、ミュステーリオンはイエスによって啓示された「神の国」を指しているとも言えます。パウロはこの奥義を実現した神のご計画を知らせ、宣べ伝えるつとめに召されたのです。なお奥義、秘儀は、神に関係している事柄について用いられ、その特質は、この世の人には隠れていて知る事ができない事と、それを知る為には神の側からの啓示が必要であることです。

11月13日

 イエス様は、旧約の大祭司制度がなし得なかったことを成就されました。それは、わたしたちを主なる神に近づかせることでありました。ではどうしてそれを成就したのでありましょうか。逆にこの両者を近づかせない、さえぎる原因は何でありましょうか。それは二つあります。
 第一は恐怖心です。人が神を恐れている間は、神のもとでくつろぐことは出来ません。日本の諺にも「さわらぬ神にたたりなし」とあります。この言葉は、日本人の神観念の中にひそんでいる恐怖感を表しています。ところがイエスがこの世に誕生なさった目的は、父なる神の無限の愛を示すためでありました。その愛を知った時に人間の恐怖はとり去られます。神は私たちを罰するのでなく、両手を広げて迎え入れようとしておられます。そして私たちが神に帰ることこそが、神の唯一の願いなのです。
 第二は罪です。イエスは十字架の上で人間の罪をつぐなうためにご自分によって完全な犠牲をささげられました(ヘブル九・二六~二八)。ですから罪責感に怯えることなく今やそのことへの恐怖は消え去り、罪は克服され、神への道がすべての人に向かって開かれたのです。「(キリストは)ご自分によって神に近づく人々を、完全に救うことがおできになります。」(ヘブル七・二五)ハレルヤ。

11月12日

 イエス・キリストは、想像的空想、仮定の人物ではありません。又、単に人のように見えたのでもなく、彼は明確に人の子として聖霊によって処女マリヤから、へロデ王の時代にユダヤの地べツレへムで生まれられたのです(マタイ一・一八以下、二・一)。そして両親の下で成長し、強くなり、知恵に満ち、十二歳の時にはエルサレムの都に上られました(ルカ二・四〇~四二)。
 その後三十歳にして公生涯に入り、人々に教え、共に飲食し、時には空腹にもなられ(マルコ一一・一二)疲れて(ヨハネ四・六)眠り(ルカ八・二三)給うたのです。
 また祈り、病人の手を取り(マルコ一・三一)悪霊を追い出し(マルコ一・三四)エルサレムの都の為に泣き(ルカ一九・四一)ラザロのために涙を流し(ヨハネ一一・三五)ゲッセマネでは恐れもだえ、悲しみ苦闘されたのです。最期には遂に人類の贖罪の為、自らむち打たれ(マルコ一五・一五)いばらの冠をかぶせられ、わき腹をやりで突き刺され(ヨハネ一九・三四)死なれたのです。歴史と時間の中に人として生きられたイエスを否定する者ではなく、この方を神の御ひとり子、全人類の罪からの贖い主として受け入れるものとなりたいものです。なお、クリスチャンが十字架を教会や家に飾りつけるのは、自分に対する「神の愛」を覚え感謝するためで、決して拝む為ではありません。

11月11日

 ある精神科医の調査によりますと、人が思い煩うことの四〇%は絶対起こり得ないこと、三〇%はどうすることも出来ない過去の出来事、一二%は人から受けた批判(それも、ほとんど事実無根の話ばかり)、一〇%は自分の健康のこと(心配すればするほど健康状態が悪くなるのだが)、八%は実際 に直面する可能性のある問題だそうです。何というエネルギーの無駄づかいでしょうか。
 「だから、あすのための心配は無用です。あすのことはあすが心配します。労苦はその日その日に、十分あります。」(マタイ六・三四)
 ここで、主イエス・キリストは、あすのことを神に委ねて、その日その日を精一杯生きる生き方を教えておられます。あすは神のものであり、私たちはあす、起きるかもしれないことを心配してはなりません。あすの問題を今日に持
ち込んではなりません。あすの事は主なる神様がすべて支配しておられます。あすのことを心配するよりも私たちは今与えられている今日という日を精一杯生きるべきだと教えられます。
 あすは神のものです。ですから、あすの問題を今日に持ち込もうとする時、実際には神のものを盗もうとしていることになります。とにかくイエス・キリストを全く信頼して大船に乗った気持ちで今日の仕事に全力投入いたしましょう。

11月10日

 わたしたちが霊的に成長していくためには、どうしてもキリスト様がわたしたちの心に住んで下さらなければなりません。ところでイエスはいつ、どのようにして、わたしたちの内に住んで下さるのでしょうか。それは私たちが信仰によってイエスを心の中に受け入れた時です。そのために当然ながら人は自らの心の扉を開かねばなりません。この心のドアーを開くのが信仰なのです。「心」と訳されている言葉は、知、情、意の全人格の座としての心をあらわしております。ですからイエスが私たちのこころの王座を占めて下さるとき、その感情は清められ、知性は啓発され、意志は制御されます。ところが私たちが内住の御霊に頼ることなく、神を意識する事無くただ自分だけで何かをしようとすれば、必ず失敗します。それは生まれながらの古い人は神の栄光よりも自分の得になることを、優先させようとするからです。
 けれどもイエスの御霊が住んでくださり私たちの全人格を支配して、強め、かつ清めてくださればわたしたちは勝利であり、信仰的にも成長してまいります。
 「見よ。わたしは、戸の外に立ってたたく。だれでも、わたし(イエス・キリスト)の声を聞いて戸をあけるなら、わたしは、彼のところに入って、彼とともに食事をし、彼もわたしとともに食事をする。」(黙示録三・二〇)。

11日9日

(黙示録における七つの幸い)
 第一に、御言葉を朗読する人とこれに心を留める人々です(一・三)。この世には心に留めねばならないことは無数にあり、関心をもたねばならないことも多くあります。しかし神の啓示のお言葉を第一にして人生の真の幸せをつかみましょう。
 第二に、主イエス様を信じて天国に召される人たちです。すなわち、「主にあって死ぬ死者は幸いである。」(一四・一三)。この世ではどんなに不幸に見える人々も主を信じて召天後、神のみ国を相続する人こそ、真の幸せ者といわねばなりません。
 第三に、神様が裁きのために主イエスを再びこの世に遣わし給う大いなる日の為に霊的、信仰的備えをしている人は幸いだということです。即ち、裸で歩く恥を見られない人は幸いです(一六・一五)。
 第四は、小羊(キリスト)の婚宴に招かれた者は幸いです(一九・九)。
 第五は、第一の復活にあずかる者のことです(二〇・六)。彼らは祝福された者だけでなく聖徒という名にふさわしい人たちです。
 第六は、キリスト様の再臨が切迫しているのでこの書に記してある言葉を堅く守るものは幸いというのです(二二・七)。
 最後の七つ目は、天国の門を通って神の都に入れる者は幸い(二二・一四)というのです。

11月8日

 天の神様は私達が楽しい心と幸福な顔をもって人生に対処することを望んでおられます。まず幸福であることは私達自身の益となります。箴言の著者は一七章二二節でこう言っています。口語訳「心の楽しみは良い薬である、たましいの憂いは骨を枯らす。」・新改訳「陽気な心は健康を良くし、陰気な心は骨を枯らす。」・現代訳「心に喜びがあれば健やかになり、心に憂いがあれば病気になる」・新共同訳「喜びを抱く心はからだを養うが/霊が沈みこんでいると骨まで枯れる。」と……。
 人生ともすると深刻なことが多すぎて笑ってばかりおられませんが、それでも、ニコニコしている人に接すると心がなごみ、ホッとします。よく笑う人が長生きする事は医学上の常識です。心の底から笑うと肺が拡大されて、大変体にいいそうです。主イエス様によって幸福な顔で互いに挨拶を交わそうではありませんか。そのたびに私達は最高の良薬を服用していることになり、また、自分の寿命を延ばしているのです。
 ある本の中にアメリカの一新聞社の宣伝記事がのっていました。「いつまでも若々しくいたい方は教会の聖歌隊へどうぞ。歌う方の頬(ほお)はいつまでも輝かしく、しわもできにくいのです」と。さあ賛美し人生を主にあって楽しく生きてまいりましょう。「ハレルヤ。神の聖所で、神をほめたたえよ。御力の大空で、神をほめたたえよ。」(詩篇一五〇・一)。

11月7日

 二〇世紀初頭のお話。あるアメリカの有名な伝道者がヨーロッパ伝道旅行を大成功のうちに終えて、ニューヨークに帰りました。きっとたくさんのクリスチャン達が港まで迎えにきてくれていると期待してタラップを降りかけると、やはり大勢の人達が手を振ったり、大きな声で叫んだりしているではありませんか。ブラスバンドの奏楽も聞こえています。
 伝道者は予想以上の出迎え風景に感動しましたが、次第にこの人達が自分を迎えにきたのではないことに気づきました。それはたまたま同じ船にのつていたルーズベルト元大統領を迎える為のものだったのでした。では自分の町の信者達は駅前で出迎えてくれるだろうと思っていると、同じように大勢の人達がいましたがそれも大統領を迎える為と知った時、彼は一人淋しく自分の家に向いました。
 暗くなりかけた町の中を歩きながら「主よ、これは余りにも不公平ではありませんか、狩猟旅行者の大統領のためには盛大な出迎えがありますのに、神の御用のために遠くまで行った者には一人の出迎えの者もいないのはどうした事か」と泣きながら祈っていると、ご聖霊の声が心に響きました。「我が子よ、あなたはまだ自分の故郷に帰ってはいない」と。
 私たちの故郷は天国です。この世にあっては自らを誰も出迎えに出てくれなくとも、天の故郷に帰った時、主なる神様からのねぎらいの言葉が十分かけられる事を信じて戦い進み行きたい(ヘブル一一・一三~一六)ものです。

11月6日

 エゼキエルに主の言葉がありました。「人の子よ。わたしはあなたをイスラエルの家の見張り人とした。あなたは、わたしの口からことばを聞くとき、わたしに代わって彼らに警告を与えよ。」(エゼキエル三・一七)
 見張り人の役目は、町の城壁の上の見張り所に立って、いつも周囲に注意を払い、外敵の襲来があればいち早く町の住民に知らせる事です。主がエゼキエルを見張り人とされたということは、彼に霊的な意味でそのような役目を与えられたということです。
 つまり主が御言葉によって民の霊的危機を告げられたならば、主に代わって民に警告するという役目でありました。これこそ預言者の一番大事な任務であったのです。霊的見張り人である預言者の責任は重く大きいのです。それは民が生きるか死ぬかの運命がかかっているからです。ですから、見張り人即ち預言者がその役目を怠った場合には、その責任が追求されなければなりません。ですから預言者は神の命令されたとおりに言わなければなりません。その義務を果たさなければなりません。もし警告を与えなければその血の責任をあなたに問うと同書三章十八節で仰せられます。しかし見張り人が警告してもその人が聞かなければその本人が滅びることは致し方ないのです。彼らが聞かなければその罪のために死ぬが、あなたは救われる(同三・一九)と記されています。

11月5日

 聖書の証言するイエス・キリストは、真の人であって神、真の神であって人であります。この事が「言は肉体となった」という事の意味と内容です。所がキリストの人性に対して最初に異論を唱え、否定したものはグノーシス主義者たちでした。
 彼らは肉体を悪とし、霊魂を善とするギリシャ的二元論の下に立っていました。故に、肉体が悪である以上、キリストが肉体をとるはずがない。キリストの肉体は実体ではなく仮現であって、ただ人の目にそう見えたに過ぎないと彼らは主張しました。紀元一世紀後半から四世紀迄ふえ広がった異端思想です。これに反論して書かれたのがヨハネ福音書とヨハネ第一書です。
 二世紀半ばこのキリスト仮現説を唱えて活動した者にマルキオンという人物がいました。彼によれば、キリストは神によって造られた物で、キリストの肉体は本当の肉体でないと主張したのです。改革者カルビンは、綱要の中でこの異端者マルキオンの名を挙げ、大変厳しい言葉で彼に反撃を加えているのです。
 現代では、「エホバの証人」を名乗る団体がイエス・キリストの神性を否定しています。彼らは、「イエスは神の子であるにすぎず、神ではない。神と同等ではない」といいます。大いに警戒しなければなりません。

11月4日

 アダムはエデンの園で神とともにいるとき、彼の中に罪意識はありませんでした。しかし神から離れて、神のご命令「善悪の知識の木からは取って食べてはならない。それを取って食べるとき、あなたは必ず死ぬ」(創世記二・一七)に従わなかった時、彼の中に罪意識が生じました。神との係わり合いから離れたとき、人は肉にとどまり、その結果パウロが書き並べたように、「不品行、汚れ、好色、偶像礼拝、魔術、敵意、争い、そねみ、憤り、党派心、分裂、分派、ねたみ、酩酊、遊興」(ガラテヤ五・一九~二一)、その他私たちが通常罪といっているものが、心の問題として現れてきます。しかし、私たちが神との係わりの中にいるとき、それは、人との係わりの中で、「愛、喜び、平安、寛容、親切、善意、誠実、柔和、自制」などの結果(実)として現れてきます(同五・二二、二三)。
 神との係わり、人と人との係わりの源泉は愛です。愛は神からのすばらしいプレゼントです。また、自分が愛され、愛される存在であることを教えて下さったのは主イエス・キリストです。このことを実際に行なっていく人の集まりが教会ではないでしょうか。そこには基本的な信頼関係があって、人々が親密で、喜び、悲しみ、痛みなど人間の生の全領域の問題を互いに分かち合える場所とならねばなりません。その中にイエス・キリストが共にいて下さって皆を支えてくださるのです。何と言う恵みでありましょうか。

11月3日

 『神とゴッドはどう違うか』(鹿嶋春平太著)というタイトルの本が一九九七年二月に新潮選書から出版されました。その帯には「キリスト教を日本ほど誤解した国はありませんでした」と書かれています。著者は「西欧のゴッドをわれわれは『神』と訳してきました。けれども両者の意味は桁違いにずれていました。我々は科学の移入に忙しく、そのことにはほとんど意を注がずに今日まできました。けれどもその差は実に人間観、社会観、文化、風俗までにわたって、東西の驚くべきギャップの源となっています。それはまた、我が国の教会をやせ衰えさせ、あるいは国家を、国際社会の孤児にもしつつあります。本書でその実情を示しましたが、遅きに失したでしょうか。手遅れではないことを祈ります」と言っています。
 そして聖書の神を「創造主」と書くべきことを色々な角度から述べ、「創造主あり」の世界観を持たねばならないことの重要性を訴えています。
 日本人の考える神は汎神論の神、即ち太陽、月、星、大木、岩石、狐、狸、わに、象、山川草木など何でも神様にしてしまうのです。創造神ではないのです。祖先の死んだ人物も神様。これでは日本は救われません。大いに創造主なる聖書の神を広めていきたいのです。聖書こそ真実な神、創造者なる神を発見できる唯一の書です。但し、信じなければ発見不可能ではありますが……。

11月2日

 神の力のご性質を調べてみましょう。
 (一)神の力は天地創造において現されています(創世記一・一、エレミヤ五一・一五)
 (二)神の力はキリストの復活において働く力です(エペソ一・一九~二〇、使徒二・二四、三・一五)。
 (三)神の力は信じる者に救いを得させる力として働きます(ローマ一・一六)。
 (四)神の力は伝道において力があります(エペソ三・七、コロサイ一・二九、使徒一六・五)。そしてその力は測り知れません(第二コリント四・七)。
 (五)神の力は教会の中に働きます。教会は神の力によって建てられ、保たれます(エペソ四・一六)。
 (六)神の力は私たちの中に働きます(詩篇一八・三二、四六・一、ハバクク三・一九、エペソ三・二〇、ピリピ四・一三、使徒一・八)。そして神が物事を完成してくださいます(エペソ一・一一、三・二〇、ピリピ二・一三)
 (七)神の力は神の言葉を通して働きます(第一テサロニケ二・一三、ヘブル四・一二)
 (八)神の力はキリスト者の弱さの中に働きます(第二コリント一二・九)。
 (九)神の力は主を待ち望む者の中に働きます(イザヤ四〇・三一)

11月1日

 パウロの祈りは父なる神にささげられています。パウロが神を「父」と呼んでその父性について述べています。
 一、神はイエスの父です(エペソ一・三、一七、六・二三)。キリスト教の神観は、神がイエスと同様な神であり、イエスがそうであられたように寛大で愛情に満ち、憐れみに富んだお方だということです。父のイメージは何となく厳格さが先立ちますが、ただ厳しい、恐い、近づきがたい存在ではありません。
 二、神は私たちがほめたたえるべき父です。賛美される神です(同一・六、一二、一四)。
 三、神は栄光の父(同一・一二、一四)であり、力をもって信徒の内なる人(イエス・キリストへの信仰)を強くしてくださる方です(同三・一六)。
 四、父なる神に感謝しなさい(同五・二〇)とあるように、信者たちから感謝を受けられる神です。
 五、父なる神は私たちがみもとに近づくことのできる神です。(同二・一八、三・一二)。しかし昔ユダヤ人が神殿で礼拝をする際、至聖所は神の住まう所であり、大祭司だけが一年に一回、贖罪の日にのみ入ることが許される場所でありました。このようにいわば神に至る道は閉ざされていたのです。しかし今はイエスにあって大胆に確信をもって近づくことができるのです(同三・一二)。
 福音書では、天の父は公平な神、完全な神(マタイ五・四五、四八)です。