7月31日

 エペソ書一章一八節の「心の目」が御霊によって開かれると、神に召されてクリスチャンとなった私達は、第一に真実の希望がどんなものか、第二に受け継ぐ神の国がどのように栄光に富んだものであるか、第三に神の力強い活動によって働く力がいかに絶大なものか(同一九節)等について知ることができるというのです。
 まず希望(のぞみ)とはまだ現存しない良い事柄への、将来における実現への期待であります。世俗的には無数の望みがそれぞれにあります。しかしキリスト者の抱く望みとは、即ちキリストの再臨、神の国の到来、死人の甦り、永遠の命、神の義に与り、救いが完成される等、どこまでも天上的、彼岸的、信仰的、霊的世界に属することであります。
 そしてこうした種類の希望こそ真実の希望であつて、他は悲しいことに望みとは言っても一時的、はかない望みと言わねばなりません。私共はキリストご自身、「私たちの望み」(第一テモテ一・一)、「栄光の望み」(コロサイ一・二七)、「唯一、神と人との間の仲介者」(第一テモテ二・五)ですから、どのような困難、苦難にもめげず、希望を失わず明日にむかつて進みゆかねばなりません。希望の根拠はどこまでもわたし達人間側にあるのではなく、キリストそのお方にあり、「失望に終わることのない」(ローマ五・一~五)神側から提供されるものです。

7月30日

 本日まず天の神様に感謝したいことは、すべての罪、咎が赦されていることです。主の良くして下さった事の第一はこのことです。わたしたち罪深い者たちを「子よ。あなたの罪は赦されました」(マルコ二・五)と宣言してくださり、その上「神の子どもとされる特権」(ヨハネ一・一二)をも与えてくださったことに感謝いたしましょう。
 この事だけはクリスチャンであれば誰でもが感謝できる最大の項目です。この世で成功した人も、そうでない人も、勝ち組の人も負け組の人も、笑える人も悲しめる人も、老いも若きも、男も女も、主イエスの名を信じた人々には、「人の子(イエス・キリスト)にあって永遠のいのちを持つ」(ヨハネ三・一五)事が出来たのです。この一事が感謝の根拠であります。
 そうでなければ、「いつも喜んでいなさい。…すべての事に感謝しなさい」(第一テサロニケ五・一六、一八)と命令されても即座に受け入れがたいものがあります。けれどもキリスト者だけが所有する感謝の原理が、以上のように存在するのです。
 ですから、私たちはかつてのイスラエルの民のように過去に対する愚痴、現在に対しての不平不満(第一コリント一〇・一〇、ユダ一六節、ヤコブ五・九)、さらには、明日のための心配(マタイ六・三四)ではなく、「いつでも、すべてのことについて、私たちの主イエス・キリストの名によって父なる神に感謝しなさい」(エペソ五・二〇)であります。

7月29日

 クリスチャンの歓喜の源泉はどこにあるのでしょうか。言うまでもなく聖書の神、唯一の絶対者であって宇宙の創造主、愛と恵み、いつくしみに富み給う真の主なる神にあります。
 この神を信じたユダヤ四〇〇〇年の歴史の中で詩人たちはこのように歌いました。「私の神、王よ。私はあなたをあがめます。あなたの御名を世々限りなく、ほめたたえます。日ごとにあなたをほめたたえ、あなたの御名を世々限りなく賛美します」」(詩篇一四五・一~二)と。
 「全家族そろって神を信じたことを心から喜んだ」(使徒一六・三四)のは、パウロによって救われた一人の看守でした。真の信仰者の喜びはどこまでも信仰の喜び、回心の喜び、聖霊による喜び、キリストにある喜びです。
 一世紀初代キリスト教会は多くの弾圧と迫害を受けて、かえって成長して参りました。それは主イエスをかたく信じたキリスト者たちが、喜びと聖霊に満たされて生活し(使徒一三・五二、第一ぺテロ一・六~八)、伝道していったからでした。人生は喜びが無くては生きられません。でもその喜びの中身が大事です。すぐ消えてしまうようなこの世の宝だけでは、苦しみ、困難、戦いを乗り切ることが出来ません。
 さあ今朝も主イエス・キリストをしつかりと心の奥底で信じ受け入れ、この方から流れ出る永遠不滅の本当の喜びで勝利して参りましょう。

7月28日

 バプテスマ(洗礼者)のヨハネは、荒野に呼ばわる者の声としての役目を果たしていきました。「主の道をまっすぐにせよ」と預言者イザヤの言葉をそのまま取りついで民衆に叫んでいきました。彼は「声」に徹していこうと致します。誰が何と言おうと、ヨハネは、主の道を備えよ、まっすぐにせよ、主を迎える心準備をせよと、声を張り上げました(ヨハネ一・二三)。声は消えてもその言葉は残ります。
 最近日本語に訳されたドイツの女流詩人の詩に、「荒野の預言者」というのがあります。「引き返して来い!この道は破滅に続いている!お前たちが迷妄で、頑固であったとしても、このひとこと『人間』という言葉のために、聞く耳をもたぬはずはない。人間、その幸不幸は初めから、われわれの行為すべてに対しての、尺度であるはずではないか。引き返して来い!お前たちの人生は、お前たちが破壊し、そして破壊された者たちの加害者になる、そのためにあるのではなかった。引き返して来い!この道はすべての破滅に通じているのだ!」
 これが、荒野に呼ばわる者の声であります。声は消えても、その言葉は残り続けます。洗礼者ヨハネに人々は尋ねます。「あなたはどなたですか」と。「あなたはエリヤですか、あの預言者ですか」と。すると、「自分はキリストでも預言者でもなく、荒野で叫んでいる者の声です」と(ヨハネ一・一九~二三)。イエスのあかし人に徹しているのです。

7月27日

 キリスト教とは、イエス・キリストから出発し、彼の人格と教えとを根本基準とし、それら全てを信仰する諸形態全体を言います。
 主イエスは神ですが、人間の歴史の中にただ一回だけ、人の姿をとって生まれられ、自らを神の子として証ししていかれた方であります。イエスは受肉し人々の前に現れた時、信じる者と信じない者とが生じました。
 彼は自らが真実の神からつかわされた神の独り子であることを証明する為に、ヨハネ福音書では七つの奇跡を行なわれました。
 1、カナの婚宴にて(二・一~一一)。2、王室役人の息子の癒し(四・四六~五四)。3、ベテスダの池での男の癒し(五・一~九)。4、五千人給食のしるし(六・五~一四)。5、湖上歩行のイエス(六・一六~二一)。6、泥をもって盲人の目を癒す(九・一~一二)。7、死者ラザロの蘇り(一一・一~四六)。それでも一部のユダヤ人たちは不信仰な態度をとって、ついにはキリストを十字架にかけてしまったのです。何という人間の愚かさ、人間の無知、悲惨さでありましょうか。
 神の御独り子イエスにおいて始めて行うことのできた大いなる「しるし、奇跡」を見ながら、今日もなお大多数は不信の闇に閉じこめられています。私たちキリスト者一同、彼らの心の闇が取りのぞかれるよう熱心に祈り込まねばなりません。

7月26日

 中国の家の教会の牧師たちは夜に旅をし、昼間は説教や信者たちを教える働きをしていますが、彼らはキリスト教に敵対的な政府によって逮捕されることを覚悟の上で、教会を建て上げる為にいのちを捧げています。
 中国教会リサーチセンターによれば、同国には約七五〇〇万人の福音派クリスチャンが存在するといわれています。クリスチャンが家で集会を持つことは法律で禁じられています。それを実行した人達で捕らえられたリーダー、信徒たちは多くが拷問を受けています。中国の共産政府への忠誠を何としてでも告白させようと、煮えたぎった湯をかけられたりしています。多くの人々は刑務所に送られますが、そこでは食事も水も与えられず、電気ショックを受けることもあります。
 ところが、驚くべきことに、そのようなことがあっても人々は神の言葉を聞くために、あるいは他の信者との交わりに加わるために、家の集会にやってくるのです。こうして政治権力によって弾圧されようとも主の言葉はますます進展しているのです。無神論者たちは福音を嫌い拒絶し、挙句の果てが彼らを苛め抜くかもしれませんが、神の主権、キリストの王権は絶対に阻止できません。「牢につながれている人々を、自分も牢にいる気持ちで…思いやりなさい。」(ヘブル一三・三)。

7月25日

 キリストの教会をエクレーシアと呼び、新約聖書では一一二回引用されています(福音書ではマタイ一六・一八、一八・一七に引用されているだけで、使徒の働き以下の文書に多くあり)。ギリシャ語エクレーシアは、呼び出して集める=エカレオからきた語で、市民の公の目的で集まる集会をさし、「集会」(Assembly=アッセンブリー)と訳されています(使徒一九・三二、四一)。
 旧約聖書には「教会」の語は用いられていませんが、「集会」(申命記九・一〇)。「会衆」「集団」(第一列王記八・一四、六五、第二歴代誌一・五、七・八他)と訳されているヘブル語が、前記エクレーシアの同義語として用いられています。主としてイスラエルの宗教的会衆、集団をさしています。
 いずれにしても、かつてシモン・ペテロが、「あなたは、生ける神の御子キリストです」(マタイ一六・一六)と応答したときに、主イエスは、「わたしはこの岩の上にわたしの教会を建てます。ハデスの門もそれには打ち勝てません」(同一八節)と言われました。ペテロの発したこの信仰告白を所有する者たちによって、キリストを頭として成り立つているのが現代の教会です。こうしてイエスを信じる者たちがユダヤ教の中からも起こされ、五旬節の日(ペンテコステ)、エルサレム二階座敷でみなが一つ所に集まっていた時、あのすばらしい聖霊降臨があって初代教会は誕生し、今日に至っているのです(使徒一・四、二・一~四)。

7月24日

 平和とはふつう戦争の無い、無事泰平の社会状態を指します。しかし新約聖書ではマタイ一〇・三四、ルカ一四・三二、使徒二四・二、黙示録六・四などに限られ、他は旧約聖書のシャローム(平安)と同じ訳語でエイレーネ(平和)が用いられています。すなわちまず健康、無事を祈る日常の挨拶用語として扱われています。
 例えば主イエスが一二弟子派遣に際し、「その家に入るときには、平安を祈るあいさつをしなさい」(マタイ一〇・一二)と。また、イエス様は病人をいやした際に、「娘よ…安心して帰りなさい」(マルコ五・三四)と。そしてヨハネ一四・二七では、弟子達との最後の別れの時に、「わたしは、あなたがたに平安を残します。わたしは、あなたがたにわたしの平安を与えます」とも仰せられました。
 パウロも彼が諸教会に送ったすべての手紙の初めに、「恵みと平安があなたがたの上にありますように」と祈っています(ローマ一・七他)。けれどもこの平安はイエス・キリストのあがないの血によって与えられるものであります(ローマ五・一、エペソニ・一四~一七)。ですからキリスト者はキリストの平和に充たされ(コロサイ三・一五)、平和を追い求め(第一ぺテロ三・一一)、「地の上に、平和が、御心にかなう人々にあるように」(ルカ二・一四)と祈らねばなりません。

7月23日

 「七転び八起き」の言葉の意味は、何度失敗しても屈することなく立ち向かい、立ち上がれば必ず完遂できるという、励ましの言葉です。箴言二四・一六にも、「正しい者は七たび倒れても、また起き上がる」とあります。
 一八七一年シカゴの大火によって、多くの建物が灰に帰し、多くの人々が財産を失いました。そういう中でひるまない倉庫業者がいました。大火の翌朝、彼は焼け跡を掘り返して手頃な鉄と板切れを見つけ、それで看板を作り、「全てはなくなった。しかし、生命と希望があります。我々は明朝から仕事を始めます」と書きました。何という勇気のある発言でしょうか。
 アメリカのある病院に元アフリカ宣教師だった方が小児麻痺(ポリオ)にかかり帰国して、遂に車椅子の生活を送っていました。しかし、違うところは努力によって医者として大病院を車椅子で回診して廻るという点でした。人生の苦難、試練に直面しても、祈りと信仰と自らの努力で再び立ち上がつて前進することです。
 田原米子さんは、高校生時代に東京・新宿駅で飛び込み自殺を図って、両足と片手を完全に切断、残りの片手の指が三本のみとなってしまいました。しかし病室伝道によって救われ、クリスチャンとなった彼女の人生はイエスを喜ぶ人生へと一八〇度変えられました。御霊によるさらなる前進を!

7月22日

 「為ん方(せんかた)つくれども希望(のぞみ)を失はず」<文語訳>、「途方にくれていますが、行きづまることはありません」<新改訳>、「途方に暮れても失望せず」<新共同訳>(第二コリント四・八)。
 牧師として教育者として活躍されたミッションスクール桜美林学園創設者、清水安三先生(一九八八年、九八歳で召天す)は、日本人最初の宣教師として夫人と共に中国に渡り約三〇年、その間災害児童収容所や中国人女子教育のために、北京の朝陽門外に崇貞学園を創設しました(一九二一年)。さらに日本軍の戦火から北京城下を守って聖者と敬われたほどでした。
 戦後無一文で引き上げたものの教育への志篤く、現在地(東京都町田市)に桜美林学園をたてられたのでした。先生が行く先々祈りから幻へ、幻から主のみ業へと前進することができたのは、実に上記の聖句によったと言うことです。
 さてパウロは、自分自身恐ろしい窮地に追い込まれているなかで冒頭のことばを吐露しています。相次ぐ激しい戦いでちょうど兵士が、戦場に倒され、まさに瀕死の状態ですが、でも勇士は死なない、滅びない。むしろ希望を放棄することなく前進するのが、クリスチャンだと告白しています。どのような激しい試練、困難、戦いの中にあっても主なる神への望みを決して失うことなく、益々聖霊に満たされて進みましょう。

7月21日

 水のバプテスマとは何でしょうか。清めの儀式です。清めとは何ですか。罪から清められることです。罪から清められるとどうなるか。救われて神の子となるのです。ですから水のバプテスマは古い罪人の自分に別れを告げる葬りの儀式であり、かつイエスの子、神の子として新しく蘇った復活の儀式とも言えるのです。
 洗礼はキリストの時代、初代教会時代には全身を水に浸して行いました。その伝統を現在まで引き継いでいます。キリストもヨハネから洗礼を受けて、後に続く信者達に模範を示されました。
 「そのころ、イエスはガリラヤのナザレから来られ、ヨルダン川で、ヨハネからバプテスマをお受けになった。そして、水の中から上がられると、すぐそのとき、天が裂けて御霊が鳩のように自分の上に下られるのを、ご覧になった。」(マルコ一・九、一〇)イエスは水の中に入り、身を沈められたので、水の中から上がることが可能となりました。このように水の中に入って洗礼を受けるのを「浸礼」と言います(使徒八・三八、三九)。
 洗礼を受ける際に必要な事は、第一にキリストの贖罪と復活を信じることと、第二に自分自身がキリストと共に罪に死んで、義とせられ、清められ、霊的に復活したことを認めることであります。キリストの復活という歴史的客観的事実を信じると共に、彼と共に死し、彼と共に復活したことを主体的に実験することが水のバプテスマであります。

7月20日

 詩篇第一篇は詩篇全体の序言として、多分エズラが付け加えたものであろうと言われています。ここには神の律法を学ぶ正しい者の受ける祝福と、不敬度な者の不幸な運命とが記されています。
 最初の言葉は山上の説教の初めのように、「幸いなことよ」で始まっています。幸いであれとは、創造者である神が全人間に抱いておられる願いであります。しかしながらどのような人がこの詩にある幸福を満喫できるのでしょうか。それを示しているのが本篇です。すなわち、罪に遠ざかり神の言葉に聞き従い、その教えを喜びとする人だと言うのです。
 聖書の神は森羅万象をお造りになった御方、今も生きて居られる本当の神様、このかたは、わたしたちがヨハネの第三の手紙二節にあるように「たましいに幸いを得ているようにすべての点でも幸いを得、また健康であるように」と、願っておられます。
 だとすれば、いよいよ私たちは聖書に親しみ、御言葉の実行に励み、毎日これを黙想して恵みを味わいたいと願います。本篇にある悪者、罪人とは、真の神様を敬うことをしない不信仰者をさしており、彼らとキリスト者の生活はこの世で共にしていますが、しかし、彼らの風習に染まらず、非聖書的なことには断固反対して妥協せず、襲い来る世の勢力に巻き込まれることのないように、私たちは日夜主のみことばに親しんでいく者であります。

7月19日

 贖罪者イエス・キリストには「罪は別に何も見つかりません」(ルカ二三・一四)、「死罪にあたることは何一つしていません」「死に当たる罪は、何も見つかりません」(同一五、二二節)というのが本当です。ヘブル書の著者も四・一五で、「私たちの大祭司(イエス)は…罪は犯されませんでした」と明言しています。ペテロ第一の手紙三・一八では「正しい方が悪い人々の身代わりとなった」と記しています。
 無罪の主イエスは当時のユダヤ人の不信仰と嫉妬、誤解の故に死刑と宣告され、十字架につけられてしまいました。しかし、この十字架死こそ我々人間の罪を赦し、清めるための神がとり給うた一大手段であったのです。
 前記ペテロ書ははっきりと「罪のために死なれました」と言っています。自分の罪のためではない。他者つまり不信仰の人間の罪のためであります。ヘブル書も、「罪を取り除くために、来られた」(ヘブル九・二六)、「多くの人の罪を負うために」、「人々の救いのために来られるのです」(同二八節)と伝えています。
 無罪者イエスが、十字架に付けろとわめき叫ぶ民衆の声に押されて、赦されることもなく死んでゆかれました。「その声が勝った」(ルカ二三・二三)のです。けれども敗北に見えた主イエスの十字架は、実は神の栄光を現わされる勝利の事柄だったのです(ヨハネ一二・二三、一七・一、四他)。

7月18日

 ジョン・カルヴァン(中世宗教改革者、一五〇九~六四)は言いました。「キリスト教の重要徳目は第一にも第二にも第三にも『謙遜』です」と。人には誰しも系図自慢、自画自賛、うぬぼれ、肩で風を切る(得意絶頂で誇る様子を言う)所があります。ですから聖書は「謙遜でありなさい」(第一ぺテロ三・八)と教えます。パウロも自己放棄、支配欲の放棄を目指して祈り、努力しました。
 使徒二〇・一九ではミレトでのお別れの際に、「私は謙遜の限りを尽くし」と証ししています。モーセも民数記一二・三によれば謙遜な器でした。詩篇一三一篇によるダビデの告白にも教えられます。「主よ。私の心は誇らず、私の目は高ぶりません。…まことに私は、自分のたましいを和らげ、静めました。乳離れした子が母親の前にいるように、私のたましいは乳離れした子のように私の前におります」(一~二節)。
 所が、ウジヤ王は自分が勢力的に強くなると、彼の心は高ぶり、不信の罪を犯して、遂に身に滅びを招いたのです(第二歴代誌二六章一六節)。また、ヒゼキャ王も臨終の際、助けられて長命を許されるや、心高ぶらせ失敗しております(同上三二章二五節)。私たちも要注意。謙遜は、神への服従と自己の抑制、自制心から神と人に仕えようとさせます。わがまま勝手な気持ちではなかなか謙遜にはなれません。なお、高ぶりを砕かれていきたいものです。

7月17日

 信徒の皆さん、もしもあなたのなさることに主の栄光と祝福が現されるとしたら、神の御国の成長のために何をされようとしますか。エペソ三・二〇の御言葉には「私たちの願うところ、思うところのすべてを越えて豊かに施すことのできる方」が私たちの神様だと約束されております。何という素晴らしいことでしょう。
 故に、聖書には「この神様に願いなさい」というメッセージが、繰り返し記されています。要するに、私たちが願うところだけでなく、私たちの思い、考え、計画しているところにまで行き届いて、祝福し、応えて下さるというのです。諸兄姉の今年後半の短期ビジョンは何でしょうか。又、この二、三年の内に達成したい信仰的ビジョンは?或いは一〇年先迄の夢、幻はいかがでしょうか。
 神様はどの位までおできになるのだろうか、という事よりも、「私はどの位まで主に願い、期待しているのだろうか」という点を重要視したいと思います。人智を遥かに越えた神様に大胆に、しかも具体的に願い求めていきましょう。つまり教会という囲いの外にいる迷える羊を、囲いの中に何頭連れてこようかと言うビジョンです。イエスの宣教命令のように、外に出かけていくことに致しましょう。御霊に満たされ、喜び勇んで失われた魂と大いに接触して証し、伝道して栄光を主に帰し目標達成を喜びましょう。

7月16日

 人間は誰しも失敗します。失敗のない人間はいません。アブラハム、モーセ、サウル、ダビデ、ソロモン、ヨシヤ王など皆失敗し、神の警告、怒り、審判を招いています。
 アブラムはエジプトでパロにうそをついて失敗し(創世記一二・一〇~二〇)、モーセは岩に「命じて」水を出すよう神に言われましたが、うかつにも杖で岩を二度「打った」ので、遂に約束の地カナンに入れませんでした(民数記二〇・七~一二)。
 サウル王はアマレクとの戦いにおいて そのすべてのものを聖絶することを命ぜられながら、従いませんでした。その結果、王国の分裂の原因を作ったのです(第一サムエル一五・一~三五)。ヒゼキヤは心高ぶらせた故に神のみ怒りが彼の上に下りました(第二歴代誌三二・二五)。
 名君ヨシヤ王でも失敗しています。エジプト王ネコの声は神の御口から出た声であったので(第二歴代三五・二二)これに聞かねばなりませんでした。しかし、聞かないで戦いを押し進めたため傷を負い戦死したのです。新約のペテロは、イエスを知らないと言って自己防衛本能丸出しで失敗しています(マタイ二六・七四)。
 人間歴史はまさに神の前における失敗史であります。しかし、神は彼らを赦し、ある時は再び立ち上がらせ用い給うのです。私たちもキリストの血によって赦されて、めげず恐れず立ち上がり前進せねばなりません。再起しましょう。

7月15日

 イザヤ五五・一では、飢え渇いているすべての人に対して、「水を求めて出て来い。金のない者も」と、いわゆるただで恵みを受けよ、救いに与るようにと預言者は訴えています。新共同訳では、「渇きを覚えている者は皆、水のところに来るがよい。銀を持たない者も来るがよい」と訳されています。いずれにしても水の源は「主なる神」であり、この恵みの時代の主人公イエス・キリストであることはいうまでもありません。イエスは大声で言われました。「だれでも渇いているなら、わたしのもとに来て飲みなさい。わたしを信じる者は、聖書が言っているとおりに、その人の心の奥底から、生ける水の川が流れ出るようになる」(ヨハネ七・三七~三八)と。
 夏です。のどが渇いて水を飲みます。しかし、少したつとまた渇いてすぐに冷たい水を求めます。この連続の中で一日が過ぎていきます。人生において人々はお金だ、物だ、快楽だ、楽しみだなどといって様々なものに飢え、渇いて求め続けますが、本当の満足もなくいつも何かしら欲求不満の中で生活しているのが現状です。生けるイエス・キリストから、救いの泉を飲んでいるクリスチャンはなんと幸いでありましょうか。「わたしが与える水を飲む者はだれでも、決して渇くことがありません」(ヨハネ四・一四)。感謝してこの救い主にいよいよ従っていこうではありませんか。

7月14日

 志村キリスト教会は一九四九(昭二四)年六月に志村の地に伝道を開始しました。そして五年後の一九五四年(昭二九)六月、舟渡(ふなど)の現在地に第一回の献堂式をあげて以来、二〇〇四年六月で早や満五十年の歳月が流れました。その間一回の休みもなく礼拝会並びに祈祷会など毎週守り続けて来る事ができました。そして多くの信徒が生み出され、その信仰生活が養われてきましたし、又現在も主のご薫陶を受け、養われていることは感謝であります。
 しかしながら、教会は自己保存的でなく益々他者に向かって、当然の事ながら主の恵みを証しし伝達してゆかねばなりません。伝道・宣教こそ主の教会に課せられた、大いなる使命であり義務だからです。又特権でもあります。キリストも仰せられました。「どうしても神の国の福音を宣べ伝えなければなりません。わたしは、そのために遣わされたのですから」(ルカ四 ・四三)。
 そしてその伝道方法ですが、ある牧師先生から「心と心の伝道~ネームレス運動」(豊留真澄著)の本の紹介とその内容についてのご講義を伺いました。なるほどとうなずいた伝道法は、一)末信者のところへ出て行く。二)イエス・キリストのみを語る。三)明け渡しをうながすでありました。実践、実行しなければなりません。とにかく祖国救霊のためまず祈りからスタートです。

7月13日

 謙遜を身につけましょう。謙遜の反対は、高慢、高ぶり、思い上がりです。ですから自分の罪を自覚し、高ぶった思いを捨て、低きにつく心で進みたいものです。ヘロデ・アグリッパ一世は虫にかまれて死に(使徒一二・二三)、ネブカデネザル王は悲惨な生活を余儀なくされ(ダニエル四章)、明けの明星たる天使ルシファーは、神の王座を狙って天から追放されたのです(イザヤ一四・一二)。
 謙遜のモデルはもちろん主イエス・キリスト様です。十字架の生涯を全うされ、生前弟子たちの足を洗って、私たちに愛と謙遜をも教えられました(ヨハネ一三章)。聖書は謙遜を教えています(エペソ四・二、ピリピニ・三、ローマ一二・三、コロサイ三・一二、第一ぺテロ三・八)。
 旧約のモーセは謙遜な人でした(民数記一二・三)。ルカ一〇・三九のマリヤは謙遜に主のみ言葉に傾聴し、同一五・一三~二一の放蕩息子も謙遜になって父親の元に立ち返り祝福を得ました。箴言二二・四には「謙遜…の報いは、富と誉れといのちである」、とあります。また、ルカ一八・九~一四の取税人は目を天にあげようともせず神に謝罪し、そしてパリサイ人に勝って高くされています。第二列王記五・一一~一四のナアマン将軍は、一度は怒り国に帰ろうとしましたが、謙遜になって神の預言者の命令通りにしたところ、病はいやされました。
 自分は神に全く服従できない者だからこそ、神の憐れみを乞わねばならないという低い心で主に仕えましよう。「実るほど頭の下がる稲穂かな」。

7月12日

 聖霊のリバイバルがアメリカ全土に広がり、ペンテコステ信仰とその体験に立つ約三〇〇名の同志が一九一四年あちこちからアーカンソー州ホッ卜スプリングズに集まり、一二日間にわたる総会の中でアッセンブリーズ・オブ・ゴッド教団が誕生(教団創立五〇年史二三四頁参照)。その席上、ペンテコステ信仰に立つ教職の養成と海外宣教という二大使命に総力を結集していくことが可決され、理事者が選び出されました。
 その後の約一世紀に亘るアッセンブリーズ・オブ・ゴッド教団の働きは全世界に及んでおり、ここ日本でも大正の初期から何人かの宣教師が来日し、各所で伝道活動を展開していましたが、第二次世界大戦を境に、日本人教師に働きをまかせてそれぞれ自国へ引き揚げなければならなくなりました。しかし、終戦後、廃墟の中で集会が再開されると共に、主なる神は乾いた土地に対する慈雨のように、聖霊の傾注を始められました。そして一九四七年(昭和二二)頃は、かつてのペンテコステの体験をした人々の交わりが再開されるようになりました。
 教団の教職養成機関の中央聖書神学校(東京都豊島区駒込三・一五・二〇)は二〇〇四年で五六三名の卒業生を輩出し、その半数強が現役で活躍しています。さらに祈って教職も信徒も一つとなって御霊に満たされ前進し、教会形成に打ちこみましょう。

7月11日

 祈りの生活と御霊による生活とは、互いに密接な関係で結ばれています。このことは主イエスの生活にはっきりと表われています。
 イエスが洗礼を受けられた時、天が開けて神の御霊が鳩のように下ったのは、彼が神に祈られた時でした。父なる神は子なるイエスに聖霊を注いで、すべき仕事をさせようとされました。御霊の力が無ければキリストでも人間的には何一つできませんでした。故に上からの能力が与えられました。
 しかし、ここにはイエスの祈りがありました(ルカ三・二一)。その他、ルカ五・一六、六・一二、九・一八、二八、一一・一、二二・四一、四四などにイエスの祈りの模範があります。ヘブル書五・七には「大きな叫び声と涙とをもって祈りと願いをささげ」とあります。キリスト御自身でも祈られたのです。まして私たちクリスチャンが祈らずに生活できましょうか。
 祈る時に、御霊は注がれ、又御霊による力が、確信が、勇気・大胆さが、希望が、感謝、喜びがいよいよ注入されてゆくのです。まず、主なる神のみ前にひざまずきましょう。声ならぬ声、うめきをもって祈ろうではありませんか。
 「御霊も同じようにして、弱い私たちを助けてくださいます。私たちは、どのように祈ったらよいかわからないのですが、御霊ご自身が、言いようもない深いうめきによって、私たちのためにとりなしてくださいます」(ローマ八・二六)。

7月10日

 聖書は、イエス・キリストによる救いを、私たちに提供しようと教えている書物です。それはイエスご自身が「あなたがたは、聖書の中に永遠のいのちがあると思うので、聖書を調べています。その聖書が、わたしについて証言しているのです」(ヨハネ五・三九)と言われているとおりです。
 聖書はどこまでも救い主、イエス・キリストに焦点を絞って記しているもので、政治、経済、芸術、科学などの専門書でないことは明らかです。そのイエスは全人類の「救い」について最大の関心を持っておられる故に、天の栄光の座を捨ててこの世に受肉、誕生され、最後は十字架、復活、昇天を通して自ら神の愛を示されました。
 つまりテモテ第二の手紙三章一五節にあるように、「聖書はあなたに知恵を与えてキリスト・イエスに対する信仰による救いを受けさせることができる」ものです。さらに、「聖書はすべて、神の霊感によるもので(ということは真の聖書著者は聖霊ご自身ということ)、教えと戒めと矯正と義の訓練とのために有益」(同三・一六)な書物ということです。
 このすばらしいバイブルを一億二千七百万人(二〇〇二年現在)の日本人にお渡しするために印刷、発刊、贈呈の働きを行っているのが日本国際ギデオン協会です。志村キリスト教会はこの協会の働きのため、ラリー献金に毎年協力させて頂いているものです。

7月9日

 《人を顧み給う神》
 詩人ダビデは詩篇八篇において、宇宙の広がりの中に反映されている神の力を賛美すると共に、いかに自分自身が取るに足らない者であるかに気づかしめられています。そしてこうした弱小な存在に対しても神は顧み祝福を与え、さらに栄光と誉れとを注ぎたもうと、すばらしい主なる神を誉め称えています。
 五節で「ただ少しく人を神よりも低く造って」(口語訳)とありますが、低く造るとは神のように完全ではないが、神に似せて造られた(創世記一・二六)というのです。人はどんなにこの地上にあって偉大であろうとも神ではない。両者の間には越えることのできない深い溝があって分離されています。しかし、人は神に近いのです。虫けらにも等しい(イザヤ四一・一四)人間にも、主はこれを祝福して動物には与えられない「光栄と尊厳」とを与えていてくださいます。そのことに感謝して益々主を賛美して行こうではありませんか。
 この世に生まれつき体に障害を持って生まれた方であっても、健常者の方であっても、主なる神の前には何の区別もなく、みな貴い存在である事には変わりはありません。神の形に似せて造られたもの(創世記一・二七)である故に尊い事を覚え神の御名をさんび致しましよう。

7月8日

 夏は、確かに神の恵みの時です。「暑い暑い」と言っている時、西瓜やメロンやぶどうなど、特に水分の豊かな果物が多いことを見ても、神様がいかに細心の注意を払って、人の必要を顧みてくださるか、その愛の細かさを教えられ、感謝せずにはいられません。
 ところで人生の艱難や試練の苦闘は、炎熱に照りつけられる人生の夏にもたとえられるのですが、人生の夏においても神様は、人の不平やつぶやきを聞きながしながら黙々として最善の祝福を備えておいでになるのです。
 「自分は何のために生まれてきたのか」、「なぜ病気のまま生きていかねばならないのか」と、人生の苦闘に打ちひしがれておられる方もこの世には少なくないでしょう。けれども、その苦闘の間に、福音に接し、光と喜びの生涯に移され、後に病気も癒されかつ神学校に献身し伝道者にまで成り、埼玉県川越市で伝道、牧会されましたが今は、安らかに天国へ召された清水裕子師(二〇〇二年一二月一一日召天)。彼女は当志村教会から(松崎実也牧師時代に)献身された方。師は「苦しみにあったことは、わたしに良い事です。これによってわたしはあなたのおきてを学ぶことができました」(詩篇一一九・七一、口語訳)と言われました。
 人生の夏の酷暑は、また神の恵みの時です。私たちも、どのような苦難や逆境の中にも、神の愛を見上げて、神に感謝することを学ばせて頂きましよう。

7月7日

 人間の祈りはまず自分、私、個人の事が多いものです。けれども主の祈りは「神の国とその義とをまず第一に求めなさい」(マタイ六・三三)です。これは真の神が神として崇められ、讃美されますように、ということです。この地はアダム、エバ以来暴虐に満ち、殺し合いがなされ、異教の神々が祭られ、拝まれ、真の神は排除され、人の心はますます悪におちてゆくのです。
 この頃、「オヤジ狩り」と称する無分別な若者による暴行、強奪が流行しているとマスコミは報じています(一九九六年)。本当に真の神様のご支配はどこへいってしまったかと思われる無法ぶりです。こうしたサタンが猛威を振るっている世の中であればこそ、神のみ「国」(ギリシャ原語バシレイア)を、また神のご「支配、統治」(同バシレイア)を、速やかに来らせ給えと、祈らざるを得ません。「だから、こう祈りなさい。『天にいます私たちの父よ。御名があがめられますように。御国が来ますように。みこころが天で行われるように地でも行われますように。』」(マタイ六・九~一〇)。
 主イエスは伝道を開始された時、「時が満ち、神の国は近くなった」(マルコ一・一五)と言われ、また、「もう神の国はあなたがたのところに来ているのです」(マタイ一二・二八)とも言われました。その意味では、イエス・キリストにより彼を信じる者の心の中に、神の国、神の支配、統治はすでに到来している事を確信して堂々の人生を送りたいものです。

7月6日

 《イエスの苦闘…人々のために》
 キリストも人の子でありました。故に「今わたしの心は騒いでいる。何と言おうか。『父よ。この時からわたしをお救いください』」(ヨハネ一二・二七)とゲッセマネの園で十字架におかかりになる前に祈り、言われました。
 無理もないこと。一般的に言って、誰が好きこのんで他人の犠牲になれましょうか。しかし言葉を続けて「わたしはまさにこの時のために来たのだ。父よ、御名の栄光を現してください」(新共同訳)とも言われています。さすがです。一粒の麦として死にゆくことも、まず父なる神のことを念頭においておられます。そして父なる神のご意思に従うキリストの十字架ヘの道が示されていると同時に、天国への「栄光の帰還」を信じる「栄光の人の子」イエスがヨハネによって告げられています。
 次に雷のような天からの声が大きく聞こえた時も、「この声が聞こえたのは、わたしのためにではなくて、あなたがたのためにです」(ヨハネ一二・三〇)と言いつつ、自分がどんな死に方で死のうとしているのかを示そうとして発言されています。
 我々人間はとかく自分のことしか考えない。自分が優先順位第一なのに、キリストはそうではありませんでした。天の主なる神のため、罪深い人間を救うためが、常に思いの第一でありました。再度主イエスに見習いたいと思います。

7月5日

 主イエスはいわれました。「もしわたしだけが自分のことを証言するのなら、わたしの証言は真実ではありません。わたしについて証言する方がほかにあるのです」(ヨハネ五ー・三一~三二)と。そしてヨハネが真理なるイエスについて証言したと(同三三節)。さらにはご自分がなさった「わざ=奇跡」が神のみ子であることを語っていると(同三六節)。さらには父なる神ご自身が(同三七節)、最後に聖書(旧約聖書)が(同三九節)主イエスについて証言しているといわれました。
 なぜこんなに繰り返し証言者を語られるのでしよう。即ち彼らユダヤ人たちが不信仰だったからです。この現状は今の日本も変わりありません。国民の九九%が主イエスを信じていません。信じようともしません。この不信仰の現実、この冷たい現実の中に聖書の証言があります。私たちは、イエスこそ真理の神であり、又、神から派遣された真の救い主であること、永遠の生命の提供者であることを、大胆になお証言して参りましょう。ヨハネのように燃えて輝くともしびとなりましょう。
 バプテスマのヨハネは歴史上の人物ですが、また一人の、イエスのメシヤ(救い主)である事の証言者でもあるわけです。彼の証言句を以下に記します。ヨハネ一・五以下と一九以下、特に一九~二八、二九~三四、三五~三六、そして三・二二以下など。

7月4日

 主なる神はご自分の像に人を創造され、しかも男と女とに造られた時言われました。「生めよ。ふえよ。地を満たせ」(創世記一・二八)と。この言葉は祝福の言葉です。その後の人間も罪を犯し神の審判を受ける訳ですが、創世記九・一を見るとそこでも主は「ノアと、その息子たちを祝福して、彼らに仰せられた」とあります。
 更にアブラハムの時代になっても神は彼をして「祝福の基」、「祝福の源」となるように定められました(同一二・二)。そして今日、神の祝福はただ信じる信仰によってアブラハムが祝福を受けたと同じように、現今に生きる私達にも分け与えられている事を感謝しなければなりません。しかもその祝福は単に世俗的、地上的な事柄にとどまらず、むしろ「天にあるすべての霊的祝福をもって」(エペソ一・三)なのであります。
 換言すれば、罪の赦しの祝福、主の前で祈り、賛美できる祝福、聖書の世界に生きることのできる祝福、主なる神とキリストの体なる教会に仕えることのできる祝福であります。
 いずれにしても、聖書の神は「祝福の神」、「祝福の父」です。この神が送って下さった主イエス・キリストによって救いの喜びが与えられました。祝福の神は、無闇やたらに罰したり、審いたり、怒ったりはしません。むしろ祝福を本質とする神は、ご自分が造られた世界とそこに生きる私たちをキリストによって祝福されるのです。

7月3日

 バプテスマは、ギリシャ語で「浸水する」という意味の動詞からきた名詞であります。この行為は、原始キリスト教会成立以来、教会においてキリスト教徒になる「証印」として(第二コリント一・二二、エペソ一・一三、四・三〇)行われてきた礼典であります。水に体を浸し、身体を洗うことが、清めあるいは新生という宗教的意味を持つという事例は、古今東西に珍しくありません。
 キリスト教会のバプテスマの起源として、一般的には旧約聖書及び古代東方における事例が考えられますが、直接の先がけをなしたのは、クムラン教団のもと、洗礼者ヨハネのほどこしたバプテスマです(マルコ一・九~一一、マタイ三・一三~一七、ルカ三・二一~二二)。
 これはイエス自身が受けられたものとして、一層重要です。しかしイエスご自身はバプテスマを授けられませんでした。授けるのは弟子たちでした (ヨハネ四・ 二)。イエスは復活後、使徒たちに対し、あらためてバブテスマ授与を命じ、また福音宣教を命じられました(マタイ二八・一九、マルコ一六・一五)。このヨハネが洗礼者と呼ばれたことは、彼がバプテスマをその宗教活動の中心にしていたからです。
 現代のキリスト教会が洗礼式を行うのは、こうした歴史的な伝統とキリストのご命令に従っているのです。初代教会では家族も受洗したとあります(使徒一六・一五、三三)。

7月2日

 一般的に恵みとは、豊富にあること、たくさん持っていること、施しを受ける、才能・チャンスが与えられること、と辞書にありました。私たちクリスチャンは、これ以外に神の恵みをうけている者です。
 恵みは旧/新約を貫いている神の働きかけであり、罪ある人間への赦しであることはまた、「福音」の全内容を現しています。「罪の赦し」こそキリストによる神の恵みの第一を示すものです。
 この用語は新約聖書では一五六回も使われています。中でもローマ書では二四回。パウロは主イエスから賜った、「神の恵みの福音」と使徒二〇・二四でのべています。福音(ゴスペル)こそ神の恵みを内包しています。キリストの十字架と復活こそ、私たちを救い、真に生かすものです。
 しかも、この神の恵みの福音は、罪人である人間全てに、洋の東西を問わず老若男女誰にでも提供されています。「キリストの恵み」は、すなわち「すべての人を救う神の恵み」(テトス二・一一)でもあります。
 この恵みを、神は「信じる者」には平等に誰にも与えられます。しかも無償です。故に「恵み」なのです。神の選び、召し(ローマ九・二四)、罪の赦し、新生、義認、和解、聖別、神の子、契約の血(マルコ一四・二四)、永遠の生命、御国の相続、栄化、復活など、すべてが一方的に神から与えられると言うことは何という恵みでありましょうか。

7月1日

 福音書におけるイエス最後の言葉が「あなたは、わたしに従いなさい」(ヨハネ二一・二二)との服従への招きであることは意味深いものがあります。弟子に対する最初の言葉もこの招きでありました(マタイ四・一九)。服従はイエス・キリストそのものヘの服従であり、それが目標であるのは当然であります。
 ペテロの原始教会における特徴は、服従への恵みと服従の証そのものでありました。復活のイエスはペテロに対し「あなたは」と語られました。
 服従は、実に十字架への道であり、自分の十字架を負うことでありました。服従への集中であります。「主よ。この人はどうですか」(ヨハネ二一・二一)と問うた時に、主イエスは「あなたは、わたしに従いなさい」でありました。わたしたちの十字架の道は、すでに主ご自身が私たちに代わって負い給うたものでありますから、それは苦難の道であっても、逆にそれは喜びであり、祝福でもあるわけです。キリストの生命は、私たちのために惜しむことなく犠牲とされました。この高価な恵みが、服従の招きにおいて指し示されているのです。
 果たして私たちの教会が、この信仰と服従の担い手となっているでありましょうか。信仰とは服従することでもあります。ペテロはイエスの服従の招きに従っていきました。神のことばを聞くとは、聞いてそれに従うことを意味します。