8月31日

 アブラハムの生涯については、創世記一一章二六節以下、一二章さらに二五章一〇節迄に記されていますのでぜひ繰り返しお読み頂きたいと思います。
 最初はアブラムといって、ウルの住人で異教徒でした。サライと結婚し、カナンに移住し神の召しを受け信仰によって主に従い(へブル一一・八)、行く先を知らないで出立します。が、遂にカナンを約束の地と示され(創世記一二・七)そこに入国します。その後ききんのためエジプトに移住しますが、裕福になって約束の地カナンへ帰国します。また甥のロトと別れねばなりませんが、捕虜となったロトを助けるアブラハムでした。メルキゼデクの祝福を受け、主より契約更新、息子の誕生の約束を頂いて、信じた結果、義と認められました。
 ソドムのためにとりなしの祈りをしますが、ソドムの滅びるのを見たのです。そして信仰によってロトを救い出します。その後一人子イサクを祭壇にささげよとの大きな試練を受けますが、主の山に備えあり、と信じてささげきった時に最後の勝利が体験できた人でもあります。彼の一生は一七五年でした。彼の特徴は、祈りの人、信仰の人、服従の人、裕福の中にも(創世記一三・一一)行き届いた配慮をする人でありました(同上二五・五~六)。

8月30日

 聖書の神のご性質は「全能」性ということであります。聖書冒頭にまずそれが示されています。「初めに、神が天と地を創造した」(創世記一・一)と。さらにアブラハムに対して「わたしは全能の神である」(同上一七・一)と、仰せられました。
 その後、イサク誕生を預言した「主に不可能なことがあろうか」(創世記一八・一四)にも表されています。イスラエル歴史四千年の記録である旧約聖書は、神の全能性を証しするものです。「万軍の主、イスラエルの全能者」(イザヤ一・二四)ともあります。
 新約時代に入り、イエスを産んだマリヤは男を知らずして、すなわち処女にてご聖霊によって身重になり、出産にこぎつけるお話。それは正に「神にとって不可能なことは一つもありません」(ルカ一・三七)を証明する奇跡の実記録です。そして神はさらにイエス・キリストを通して数々の奇跡、しるしをもって自らの大いなることを示されました。
 ヨハネ福音書には、七つの奇跡がしるされています。さらに十字架後、アリマタヤのヨセフの墓から見事にイエスは復活されています。この事はイエスを墓から甦らしめた創造主の全能性を記しているのです。
 パウロはエペソ書を通しその事実を告白しています。「神は、その全能の力をキリストのうちに働かせて、キリストを死者の中からよみがえらせ…」(エペソ一・二〇)と。想像を絶する偉大な神であります。

8月29日

 イエス・キリストはルカ一三章三節で、「そうではない。わたしはあなたがたに言います」と強意の否定語をまっさきに出し、ピラトの弾圧による犠牲者も、シロアムの塔の崩壊で死んだ人たちも、今ここにいる者たちと比べて罪が重かったなどという事は決してないと告げます(ルカ一三・一~五)。これがイエスの確信でありました。
 ある人たちはこれら二つの事件で死んだ者達は何か悪い事を行なったので、その報いとして死んだという因果応報的な考えをもっていたので、イエスはそうではない!と強く否定されたのです。むしろ、他人が蒙った災難を見て自分たちを彼らよりもましだと考えたり、あるいは彼らを気の毒がるような、その心こそ、実は神の裁きの対象となるのです。なぜならそこには自分は大丈夫だという自己保全を喜ぶ思いがあるからです。
 「あなたがたも悔い改めないなら、みな同じように滅びます。」(同五節)この言葉は、「あなたがたも彼らと同じ罪の状況にあります。だから悔い改めなさい」という、犠牲者たちといま生きている人々とを同じように考えての呼び掛けというより、原文から受ける印象はもっと強いものがあります。「むしろ、お前たちの悔い改めがなければ、全部同じように滅びるのです!」であります。主イエスは犠牲になった人たちが、一般の人間より罪が深かったとも、そうでないとも言っていません。彼はこの事件を他人ごとのように見ていません。

8月28日

 聖書の神、主なる神とはどのような神でしょうか。私たち人間が勝手気ままにその手で作った芸術作品のような、死んだ非人格的、非生命的存在ではありません。生きた生命脈打つ、人格ならぬ神格をもち給う全能者です。
 故に詩人ダビデはこの神をわが前において、叫び祈るのです。「私が呼ぶとき、答えてください」(詩篇四・一)と。そして彼は「私が呼ぶとき、主は聞いてくださる」(同三節)と告白し、この主によって始めて真実の喜びと平安が到来することを、証ししています。特にその喜びは「穀物と新しいぶどう酒が豊かにあるときにもまさっています」と表明しています(同七、八節)。
 人はどれ程に豊かなこの世の富を所有しようとも、それだけでは決して喜び得ないように、その人間性は本質的に、神によって造られていますから、この造物者、創造者なる聖書の神との出会いがなければ決して平安も真の喜びも沸き上がってこないのです。
 また創造主の中にのみ真の平静さが秘められているのです!ですから確信をもって、主に拠り頼んでいこうではありませんか(詩篇四・五)。詩人は八節で「平安のうちに私は身を横たえ、すぐ、眠りにつきます。主よ。あなただけが、私を安らかに住まわせてくださいます」と、どのような状態に在ったとしても、心配や恐れによって妨げられることのない眠りは、創造主によって与えられるものであることを告白しています。

8月27日

 すでにクリスチャンの方たちは探し、見いだし、ご自分のところに迎えいれて下さった愛の神に、心から感謝したいと思います。
 反対にまだ父であられる神に距離をおいておられる方たちは、ご自分が主イエスを通して救われねばならない者であることを認め、この物語にある弟息子のように「お父さん。私は天に対して罪を犯し…ました」(ルカ一五・一八)と悔い改めて、謙遜に主なる神のまえに頭を垂れてください。その時にこそ、天の父は大いに喜ばれ、またあなたも主に在ることの喜びを体験できるのです。失われた者に対する神の愛が、すでに、また今ここにイエスと共にあるのです。イエス・キリストによって失われた罪びとが取り戻される喜び。まさに「楽しんで喜ぶのは当然ではないか」(同一五・三二)の現実が、神の前に悔い改めるあなたの現実となるのです。
 けれどもこれを認めず喜びに対して嫉妬と怒りをもつてする兄息子のようないわゆる「正しい人」がいます。かれは悔い改めを必要と感じていない者です。けれどもイエスの関心は弟息子のような父のもとに謝って帰ろうという人にあるのです。父なる神に近寄るのか無関心をもって遠くに離れて立つのか。この父であられる神の前で燃え上がるような聖なる喜びを体験しようではありませんか。

8月26日

 詩篇八四篇には、「純粋な巡礼の歌」(キッテル)が記されています。詩人は遠い異国よりはるばると、神の都エルサレムを慕って巡礼者の群れに加わり、この歌を歌っています。万軍の神、主を求め、主の大庭を恋いしたっている心情は、四二篇あるいは四三篇の詩と一味相通じるものがあります。
 ここには「なんと幸いなことでしょう」の語句が、四、五、一二節の三ヶ所に記されています。すなわち、幸いな人とは神の家にすむ人のこと、換言すれば主なる神と交わる生活、主に祈る生活を持続している人、また、主を朝に夕に賛美する人を指しています。決してこの世の金銭、物質に左右されない信仰的、霊的幸せを示しています。
 第二に巡礼者には神の力、全能の主の力、今日的に言えば聖霊のお力が注がれているので、涙の谷、枯れた水なき谷を歩むような辛い日々を送るようなことがあっても、そこを主の力ではねのけて力から力へと進みゆく、泉の湧く場と変えられていく幸せが体験できるというのです。
 第三に主に信頼する人の幸せです。万軍の神が盾となって守ってくださる幸福です。一〇節以下には礼拝者の幸いが描写されています。本編は巡礼者の歌ですが、私たちもみな天国を目指して旅する巡礼者です。日夜キリストを目標としてひたすら求道の一路を進んでまいりましょう。

8月25日

 「私たちの国籍は天にあります」(ピリピ三・二〇)。わが志村教会の信仰の勇者、○○○○姉が天寿を全うして、静かに主のみもとに召されました。彼女が当教会に導かれ入信受洗したのは一九五四年(昭和二九)一一月下旬。以後四八年間の長き月日、主なる神、また教会と人々に仕え、本当によく伝道した姉妹でした。
 今からさかのぼる約二〇年間は老人ホームでの生活でしたが、院内で誰にでも気軽に声をかけて教会に人を誘う文字通り主の証人でした。老人ホーム伝道のきっかけを作ったのは○○姉でした。最初は三名からスタートし、多い時期には十数名が礼拝に出席されていました。牧師五〇代の頃でした。
 彼女は関東大震災、また第二次世界大戦中における東京大空襲の被害者の一人でもあり、さらに戦死でご子息二人を亡くされ、ご長男は終戦と共に外地から帰国しても栄養失調で入院、結核を併発して病死されるという数々の痛手も体験されました。しかし長年連れ添ったご主人を主に導き、クリスチャンとして天国にお送りできたことは幸いでした。
 「これらの人々はみな、信仰の人々として死にました。約束のものを手に入れることはありませんでしたが、はるかにそれを見て喜び迎え…ていたのです。」(ヘブル一一・一三)

8月24日

 天の神は、車を二台もっている人間を、全く車をもたない人間よりも、持っているという理由で高く見給うということは、絶対ありません。また逆にその人間がさらに普通の学位とか博士号を持っているからといって、とくに彼を愛し給うことはないと確信いたします。換言すれば、キリスト教の本質は、人間自身が作ったあらゆる差別というものを打ち壊して、等しく見ていきましょうということなのです。
 今回(一九九六年)のアトランタオリンピック会場には、黒人の人たちの住む町の近くにありながら、殆ど彼らの姿が見えないのはどういう事かと、新聞記者が疑問をなげかけていました。こうした現象は白人が黒人を差別していなければいいのですが、人間はすぐ他者より優位に立とうとして差別し排斥し、平等に扱おうとしない、またその視点に立てない弱さ、罪深さがあります。しかし人間世界には、いくら機会を均等にしても権利を平等にしてもまた、たとえ差別を撤廃したとしても各人の能力の違い、境遇における違いなどはどうすることもできません。
 けれどもこの違いを互いに認め合い、相違を越えて愛し合う力をイエスから吸収していかねばなりません。福音伝達の第一は、キリストが「へだてのない心で人間を見、救おうとしていて下さる」事を伝えるにあります。その気持ちで私達もまず人に対応していきましょう(ヤコブ二・一~九)。

8月23日

 「一日一五分の祈りがその人を変える」すなわち、五分聖書を読み、五分祈り、五分黙想します。必ず不思議なことにあなたの生活に変化が起こります。
 まだの方は実行してみて下さい。一日の一五分を惜しむ人は霊的、信仰的にも大損を致します。どんなに忙しくてもまず神の前に静まる一五分を惜しんではなりません。この良き習慣がつくまで頑張りましょう。いわゆるディボーション(礼拝・黙想)の時をもつ信者に敗北の信者はいません。
 以下は瀬尾要造という牧師の言葉です。「力は孤独の内に伸びて参ります。そしてみ言葉と祈りと黙想を通して出来上がっていく品性は、どのような賜物よりも重要です。そして、それは永続的な感化、影響をもたらせます」と。
 「ここの(ベレヤ)ユダヤ人は、テサロニケにいる者たちよりも良い人たちで、非常に熱心にみことばを聞き、はたしてそのとおりかどうかと毎日聖書を調べた。」(使徒の働き一七・一一)「主のことばは、とこしえに変わることがない」(第一ぺテロ一・二五)「聖書はすべて、神の霊感によるもので、教えと戒めと矯正と義の訓練とのために有益です。」(第二テモテ三・一六)「救いのかぶとをかぶり、また御霊の与える剣である、神のことばを受け取りなさい。」(エペソ六・一七)

8月22日

 今日は礼拝出席に当っての心がけについて三点だけ記したいと思います。
 第一に、礼拝に遅れないように。遅れる事が平気で、しかも習慣にならないよう気をつけたいものです。けれども、遅れた事で失望しないように。
 第二に、新来会者への配慮ということ。席までの案内、聖書、聖歌、週報、伝道用印刷物などの手渡し、さしつかえない限りでお名前、住所など書き残して頂く。なるべく同性同志で並んで着席し、聖書など開いてあげる親切配慮。
 また、主に在る愛の心と笑顔で応接してほしいのです。なお、礼拝後の会話は主の恵みと祝福を証しします。お相手のプライバシーに立ち入って色々質問しない事は常識。もし悩みなど打ち明けられた場合は、牧師に連絡します。また、自分なりに聖書を開いて慰め、励まし、祈りなどしてほしいと思います。議論しない、雑談に流れない、みことばによる個人伝道。
 第三に、礼拝参加の際の服装は、止むをえない場合を除いて普段着ではなく、できれば持てる物の最高のものの着用。とにかく一枚着替えて、かといって華美にならず、見栄をはらず清潔なものの着用。なぜなら、最高の主なる神の前にでるのですから。主に対してあまりなれなれしい態度ではなく、一種の畏怖の念をもつて礼拝を受けることは、大変重要であります。

8月21日

 本年は(一九九五年)敗戦記念日より数えて五〇年目の節目の年でもあります。空襲による大火災によって多くの大都市は焼け野原と化しました。以来営々と日本人は働き、努力し今日の繁栄を築きあげました。しかし、そこにおごり、高ぶりはなかったのか。自己過信はどうでしたか。神など無くとも、いや例え存在するとしてもこれに頼らなくとも自分の手で大丈夫一人立ってゆけるという錯覚、思い違いはありませんでしたか。
 主なる神は関西・阪神・淡路地方を揺さぶって、日本民族、日本国家よ、汝ら自らのごう慢を悔い改めて我に帰れ、と叫んでおられます。この度の大阪府、兵庫県を含む阪神淡路地震による被災者、犠牲者の方々に対するご冥福とまた一日も早い日常生活への復帰を祈ると同時に、今回の火災を伴う大災害が、単に天災、人災の結果だと簡単に片づけてはなりません。明確に聖書の神の「あなたがたも悔い改めないなら、みな同じように滅びます」(ルカ一三・三、五)という警告の声として受けとめねばなりません。
 もちろん六千人を上廻る死者の方々の全てが滅びたなどと失礼にも断言はできませんが、残された 私たちはみ言葉に従って主のみ前に悔い改めあるのみです。「人は神を恐れなければならない」(伝道者の書三・一四)と記されています。宇宙の創造者、まことの神の前に畏れおののいて悔い改めるならば、再び立ち上がらせて下さるでありましょう。

8月20日

 霊的教訓として、エゼキエルがみた幻は、一切の生物の生息を許さない塩分濃厚の死海に、神殿から流れる水が注ぎ込まれると、その水は良くなつてこの川が流れゆく所はどこででもそこに群がるあらゆる生物は生き、非常に多くの魚がいるようになる。さらにすべてのものが生きる(エゼキエル四七・八~九)という賢くべき奇跡的な記事が記されています。
 しかしこれは非現実的なことではなくて、今の時代にも起こりうる神の御霊による大変化であります。死んでいると同様の人間が神の生ける水の川によって、真に霊的に生きるようになる現実が存在いたします。人は創造者なる生ける神と主なるイエス・キリストと直結する迄は生きているとは名のみで、真実は死んでいると同様の者であります。けれども御霊の水を飲む者は神と共に永遠に生きる者とされるのです。主イエスは「わたしが与える水を飲む者はだれでも、決して渇くことがありません。わたしが与える水は、その人のうちで泉となり、永遠のいのちへの水がわき出ます」(ヨハネ四・一四)と言われました。
 エゼキエルは前に枯れた骨を復活させるという預言をしましたが(エゼキエル三七章)、それと匹敵する預言です。創世記二・一〇のエデンの園から流れ出る川、黙示録二二章の川の描写も又、地を潤し、癒すすばらしい記事です。主の御霊による霊的変化という主の約束を信じて進みたいものです。

8月19日

 「弟子たちの間に、自分たちの中で、だれが一番偉いかという議論が持ち上がった。」(ルカ九・四六)キリスト者の交わりも、ともすると、いつでも必ずと言ってよいほど、互いに観察し、批判し、品定めをし始めることが多いのではないでしょうか。「偉い」「大きい」「立派」「成功している」か、そうでないかなど互いが比較して、優越感か劣等感かあるいは、あきらめの境地に入るかのいずれかでありましょう。  比較することによって『議論が始まった』のです。これは交わりを破壊するのに十分であります。ですから、初めからこのような危険な敵に注意して、これを拒絶することが、いずれのキリスト者の交わりにとっても、ある意味でそれは生死をかけた重要なこととなるのです。そこのところでぐずぐずしていてはいけません。なぜなら、他人と出会う最初の瞬間から、人間は他人に対して自分が優位に立とうとするからです。
 すなわち比較しあうことが自然発生的に生じているということです。ということは、人間がイエス以外に目を向けている間は、どこまでいつても優越感や劣等感から完全に解放されることはないからです。ですから、相違は比較し相競うべきものではなくて、認め合い、尊重し、徳を高め合うべきもの(ローマ一五・二)というレベルで、交わりの破壊要素を取り除いていきたいものです。

8月18日

 初代原始キリスト教時代、ペテロとヨハネが午後三時の祈りの時間に宮に上っていった時のお話(使徒三・一)。ペテロは生まれつき足のきかない男に対して「ナザレのイエス・キリストの名によって、歩きなさい」と言って奇跡を起こしています(使徒三・六~八)。
 現代においてもそのような奇跡は確かにあちこちで起きています。わたし長屋も若い頃ひどい蓄膿症がただ一回の牧師先生のお祈りで癒された経験を持っています。このように不可能と思えることが現実となった時、私たちは奇跡と呼んでいます。けれどもこの肉体的な癒しは必ずしも一〇〇%起きる訳ではありません。ある人はいやされ、他方ではいやされないままで病苦を背負って生きて行かねばなりません。
 祈っても願っても癒されず、いわゆる身体障害者手帳を持参している人々は、 世に何万とおられる訳です。しかし、ここで 一番大切なことは、表面、外側の状況がどのようであれ、聖書の神をわが内に受容する時、また違った意味で奇跡が起きるのです。その人は罪赦され、新生する。即ち神の子とされるという奇跡が生じます。神を信じるということは、歩けなかった人が歩けるようになった事だけではなく、例え肉体的不自由が除去されなくとも、主イエスにあって力強く生きていくという積極性が与えられることも、また主にある大きな奇跡の恵みといわねばなりません(ピリピ四・一三)。

8月17日

 とある日の夕刊に掲載された亡命兵士のインタビューで、水害で食料の配給が中断された為、腹が減って我慢できず亡命を決意したと報じていました。人間誰しも日ごとの食物がなければ生きていけません。昔、主なる神はイスラエル民族を荒野で四〇年間も、生活の面倒を見られました(出エジプト一六章、ネヘミヤ九・二一~二五)。そのように天の神は、「私は、乏しいことがありません」(詩篇二三・一)と告白させて下さる方でもあります。
 けれども人間はこの愛と憐れみ深い神、全知全能の神が信じ切れないで不安・心配ばかりしています。故に明日のことを心配するのは止めなさいとも主イエスは仰せられました(マタイ六・三一)。そして、日毎の糧を今日も与え給え、と祈りなさいとも教えて下さっています(マタイ六・一一)。
 しかしながら単に食物のみならず、生活上の全ての必要性があれば、マタイ七・七では「求めなさい。そうすれば与えられます」とも約束下さっています。「祈る」手段がクリスチャンに与えられていることはなんと幸いなことでしょうか。神に、キリストに大胆に「ください」と祈ろうではありませんか。「ください」と言うことは乞食根性のようで嫌だという人もいるかもしれませんが、神はむしろわが子が何もねだらない事のほうを淋しく思い、遠慮ばかりしている子を心配なさるのです。二人の盲人のように「主よ。私たちをあわれんでください」と叫びましょう(マタイ二〇・二九~三四)。

8月16日

 平和という神の賜物は、信頼に満ちた祈りによって、また地上に平和を打ちたてようとする人間の努力を必要といたします。旧約聖書、士師記の時代は罪によって失われた平和を回復する為に、神が解放者を出現させた時代であります。預言者たちが待望していた平和は遂にイエス・キリストによって実現しました。人間の罪が敗北し、潔められ、平和の主イエスを信じる時、真の平和が到来するからです。
 とは言え、主が終わりの日に再臨するまでは真の平和は完全には実現せず、依然として未来に待つべきものでありましょう。今日の世界各地における国家内、部族間の紛争を見てもよくわかります。けれども私たちは平和をあきらめてはなりません。「義の実を結ばせる種は、平和をつくる人によって平和のうちに蒔かれ」るからです(ヤコブ三・一八)。
 ルカ二・一四はイエスの誕生に際して、天使が「地の上に、平和が、御心にかなう人々にあるように」と告げています。ヨハネ福音書一四・二七で、イエスはご自分の平安(エイレーネ=平和)を与えるとの約束の言葉を残しておられます。パウロはエペソ二・一四~一七、コロサイ一・二〇以下でキリストに在る平和を語っています。私たちも平和を実現する人となりましょう。そして平和はまず神との和解に根ざしていることを上記の聖句から学びましょう。

8月15日

 広島の原爆資料館には、そこを訪問した国内・国外の著名人の色紙が、最終コースの廊下に少なからず飾られています。その中にマザー・テレサのものがあります。彼女の書いたものに訳がつけられています。「広島に多大の苦痛をもたらした恐るべき罪悪が、二度と起こらないよう互いに祈り、愛と祈りの行為が平和の行為であることを忘れないようにしましょう。」昭和五九年一一月二三日 マザー・テレサ。
 一九八四年の西暦が元号に翻訳しなおしてあるのも日本的ですが、この訳は実は原文の前半部分が訳出されていないところも非キリスト教国らしいと、ある著名な牧師が指摘されています。すなわちマザー・テレサは「神が私たち一人一人を愛したように、私たちも互いに愛し合いましょう。そうすればここ広島に起こったような悲惨なことは起こりません。云々」という語が全く翻訳されていないと、同師は小さな怒りに燃えて著述されています。確かに肝心要めの聖書の言葉は省かれていく日本の精神風土です。
 国家間における真の平和も互いに愛するところから築かれていくのですから、キリストの人類愛に根ざさせねばなりません。神の愛、イエスをこの地上にまで賜った主の愛に立って特に政治家は行動を起こさねばなりません。テレサが「神がわれらを愛したように」と発言している所がカットされているのは残念でなりません。

8月14日

 昔は神経衰弱と言いましたが、この頃はノイローゼと言います。考え過ぎに原因があるように思います。考えなさ過ぎるのも困ったことですが、思うことも過ぎるとダメです。結局、考えなくてもいい時に、本当は日々の与えられた労働に打ち込まなくてはならない時に迄、余計な思いの虜(とりこ)になってしまう所にも原因があるのではないでしょうか。考えずにすむことなら、考えないでそのままにしておく、どうしても必要に迫られて考えざるを得ない時だけ考える、そのようにしたらいかがでしょう。
 将棋を指す時、「下手の考え、休むに似たり」という言葉を使います。人生途上いくら考えてもどうしょうもない時には主イエスに寄り頼むより外に手段はないのです。イエスは申されました。「だから、あすのための心配は無用です」と(マタイ六・三四)。主イエスは、私どもの天の父はわたしたち各自、何が必要であるかをご存じだというのです。主に知られている自分であることを覚えて、考え過ぎないよう、全てを聖書の神にゆだねて進みましょう。
 「きょうあっても、あすは炉に投げ込まれる野の草さえ、神はこれほどに装ってくださるのだから、ましてあなたがたに、よくしてくださらないわけがありましょうか。信仰の薄い人たち。そういうわけだから、何を食べるか、何を飲むか、何を着るか、などと言って心配するのはやめなさい。」(マタイ六・三〇~三一)

8月13日

 旧約聖書時代のイスラエルでは他の諸国家と同じように王制国家となった時、王やリーダーたちをチェックするものとして、預言者が立てられたことは実に注目すベきことでありました。預言者は、「あなたの口の代わりとなり」(出エジプト四・一六)とあるように、神に代わって語る者でした。
 イスラエル国家は当時の世界における二大勢力、つまり南西にエジプト、東方にはアッスリヤ、バビロン、ペルシャといった大国の谷間に位置していました。結果東西の大勢力の狭間にあって両方から狙われていました。
 こうした時にあってイスラエルの王たちには定見なく、全くの日和見主義的で一方の大国と結んで、他方の大国に対抗しようとしました。それ故に絶えず戦争に巻き込まれ、攻撃を受けることしばしばで、社会状況はいつも不安定でありました。こうした王たち、リーダーによる日和見主義的な政策が行われる中で、イスラエルの預言者は、神による絶対中立と平和とを強く訴えてゆきました。「正義は国を高め、罪は国民(くにたみ)をはずかしめる」(箴言一四・三四)と。
 私たちも歴史の主である神との正しい関係に生きること、神への全面的信頼と服従を真剣に訴えてゆきたいものだと思います。聖書の真理が政治の世界に適用されるようにも祈らねばなりません。

8月12日

 八月六日は広島に、八月九日は長崎に原爆が投下された日です。原子爆弾投下の結果は実に悲惨そのもの、地獄絵図でした。広島の平和記念公園の原爆死没者慰霊碑には、「安らかにおねむり下さい。あやまちは繰りかえしません」と石に刻まれています。再び絶対にこのような核兵器使用がゆるされることがあってはなりません。
 さてここで全人類が原爆以上に恐れなければならないのは「神の怒り」です。神は愛と憐れみの神ですからどんな悪いことをしても、そのまま「ああいいよ、許してあげるよ」とおっしゃらない。罪悪のうちでも特に主イエス様を信じない、不信仰の罪は大いに悔い改めねばなりません。
 主なる神も、イエス・キリストにも全く聞こうとしない、日本人九九%の人々に下る神の怒り、「御子を信じる者は永遠のいのちを持つが、御子に聞き従わない者は、いのちを見ることがなく、神の怒りがその上にとどまる」(ヨハネ三・三六)から、だれも逃れることはできません。神の真理をはばんでいる人々に対して「神の怒り」が天から啓示されている(ローマ一・一八)のですから、人々は主なる神に立ち返らねばなりません。人間の怒りは罪ゆえの怒りですが、神の怒りは聖なる怒りであり、その罪に向けられた神の怒りは、むしろ人間に対する激しい愛から出ているのです(申命記六・一五)。

8月11日

 イエスはナタナエルに言われました。「あなたは、それよりもさらに大きなことを見ることになります。…天が開けて、神の御使いたちが人の子の上を上り下りするのを…。」(ヨハネ一・五〇、五一)
 これは何を意味しているのでしょう?イエスはナタナエルがいちじくの木の下にいるのをすでに彼に出会う前から知り、見ておられたという、全知全能、予見性を持ったお方でした。けれどもそれ位で驚いてはなりません、もっと偉大なことをあなたは見ると言われた、「さらに大きなこと、偉大なこと」とは何でしょう。
 それは創世記二八・一〇~一九の物語のように、天使たちがイエスの上を上下する、すなわちキリスト様は天と地をつなぐ者、罪ある世と聖なる神のみ国を連結する役目をになう者ということを、旧約の故事を用いて言われたのです。わざわざ「まことに、まことに、アーメン、アーメン」と大切なことを語る時に使用することばで言われた内容のことです。
 イエスは地上においでになって、神に背く人間を天国に連れていく役目を担って行かれました。それをヤコブが見た夢のお話を背景として象徴的に語られました。イエス様を通して私たちは天国に行けるのです。イエス様がおられるところがベテル(神の家の意)なのです。旧約のヤコブがいったように「こここそ神の家にほかならない。ここは天の門だ」(創世記二八・一七)なのです。

8月10日

 常識(一般の人が共通して持っている知識、理解力、判断力)の通じない世界が我々の聖書の世界にはあります。常識では絶対に認められない考え、説明できない事件が聖書の中には数多くのせられています。ですから、ある人は非科学的と称して聖書を退ける者と、反対にそうした正に全能の神でなければできない不思議な奇蹟の記事故に、これを受容していく者と二通りの面があると思われます。
 悪霊問題も常識では考えられない問題ではあります。けれども悠長なことはいっておられません。世界的なオカルトの氾濫(はんらん)によって、子供も大人も多く影響を受けているからです。オカルト(超自然的な妖術、呪術、交霊術、占星、予言書などの総称)を通して働く悪霊の影響を受けたものは、聖書の言葉を拒否するようになります。その心の中に御言葉が根をおろさなくなります。こうした悪霊の働きによるオカルト的な行為は、キリスト者たるもの断固として拒絶し、追放していかねばなりません。
 悪霊は確かに存在します。それだけに聖霊のみ力で制圧していかねばなりません。イエスご在世の時代にガリラヤ湖畔のカペナウムで伝道しておられたある日の夕方、人々は病人や悪霊につかれたものをみなイエスのもとに連れてきました。ところが彼は多くの人をお癒しになり、また多くの悪霊を追い出されました(マルコ一・三二、三四)。

8月9日

 マルコ福音書九・三六~三七でイエスは子供を抱き上げて、「だれでも、このような幼子たちのひとりを、わたしの名のゆえに受け入れるならば、わたしを受け入れるのです。また、だれでも、わたしを受け入れるならば、わたしを受け入れるのではなく、わたしを遣わされた方を受け入れるのです」と言っています。
 祝福を求めて子供達をイエスの元に連れてきた人々を制止する弟子達を戒めて、イエスは同書一〇・一六では子供達を抱き上げ祝福しておられます。ここに子供達へのイエスの愛が示されています。一五節では子供を模範とすることを教えておられます。
 当時のユダヤでは幼児から一二歳までをパイディオン(子供)と言いました。古代世界では子供は軽んじられました。子供は律法に無知であったからという理由もありました。しかしイエスは弱い者、小さい者をこそかばい、助け、愛してゆかれました。
 子供は全く他者に依存しなければ生きてゆけません。人間もすべて同じで全能の神に守って頂かねば自分ひとりで生存できると考えるのは大きな誤解、錯覚です。中世ルネッサンス以後、科学主義優先の時代に突入して以来多数の人はまことの神を放棄してしまいました。けれども残された少数の人たちは、抱き上げ、祝福してくださるイエスのところへ近づいて、神の恵みにあずかっているのです。主に信頼して参りましよう。

8月8日

 「生きがい」を失って自殺する人の数が毎年日本では三万人前後と報道されています。生きがいとは、「生きているだけの値打ち、生きている幸せ、利益」と辞書にあります。ところがこれら一切を失った人たちは生存理由を新たに発見できない限り、自らを悲劇の主人公に追いやらねばなりません。阪神・淡路大震災においても、また二〇〇四年一〇月二三日に発生した新潟・中越大震災でも多くの方々が、生きがいでもあり、張り合いとしていた大切な数々のものを 一瞬にして失い、壊されて号泣、失望、時に絶望のなかに佇(たた)ずんでおられる方々の姿を見ました。
 震天動地の出来事にまさに言葉なしであります。前途はただ暗闇、世の中が真っ暗になった体験、深い谷底に突き落とされた思い、人生設計が完全に壊された中での当惑と混乱、先への不安と恐れのために、ヤケ酒、投げやりな気持ちに陥り、空虚感からついに自死、自殺さえもふと考えられた人もあったに違いありません。実際にそれを実行してしまった方々の数を幾ら数えても致し方ありません。
 けれども主イエス・キリストは「すべて、疲れた人、重荷を負っている人は、わたしのところに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます」(マタイ一一・二八)と言われています。ここに新たな生きがい、生きる張り合いを見出して再出発されん事を祈ります。

8月7日

 ルカ一六章一九節以下に死後の世界の一端が描写されています。この物語の意味するところは、神の審判が存在すること。その審判によってこの世の不平等は解決されること。故にこの人生の日々を真の神を信じて生きること。来世における神の報いを信じて、悔い改めつつ生きることなどが教えられています。
 私たちの回りにはラザロのような「全身おできの貧しい人」、金持ちの門前で寝ていて、犬もやってきて彼のおできをなめていた(同二〇~二一節)というような乞食同然の人もいないではありません。しかしこの貧乏人に象徴される不平等感を味わっている人たちは大勢いる訳です。けれども神様はやがて公平に裁いて、今泣いている人たちの涙を、必ずやさしく拭き取って下さる時がくることを信じて耐えてゆかねばなりません。全てをご存じの神はこの不公平、矛盾など一切の帳尻を合わせなさいます。終末の救いの完成を信じて信仰生活に拍車をかけて参りましょう。
 ここで方向を変えて冒頭引照聖句の物語の「ラザロと金持ち」の話は、実は金持ち、富める人たちに向けられているもので今、現在ここで神の御言葉に対して傾聴すべきことを訴えているのです。富める国のアルバート・シュヴァイツァーは、聖書に聴従し医師となって、貧しいアフリカを助けようと密林奥深く入っていきました。

8月6日

 今年も広島・長崎原爆投下記念日が訪れようとしています。この時、キリスト者としていよいよ平和を作り出してゆく努力をせねばなりません。
 平和を作る者は、第一に平和な性質の者でなければなりません。挑戦的、闘争的性質ではなく、温和、柔和、寛容的性質を養い、いよいよ熱心に「私は平和を──」(詩篇一二〇・七)と平和への意向を固めたいと願います。
 第二に平和な語らいを好む者でありたいと思います。物騒な破壊的なことを語るのでなく、できる限り平和の提言に耳を傾け、それを人々に知らせなければなりません。建設的、建徳的な平和を思う会話に同調し、むしろこの世の憎しみ、争い、分裂、仲たがいの「破れを繕(つくろ)う者」(イザヤ五八・一二)とならねばなりません。そのために神との和解がまず必要です(エペソニ・一六)。
 平和を作る人々が幸い(マタイ五・九)とされるのは、その人々は平和を築く事で喜びを分かち合い、また人々の目を平和へと向けさせるからです。また真の意味で人々に仕える満足を味わう事になるからであります。使徒パウロはエペソニ・一四~一八「キリストこそ私たちの平和であり、二つのものを一つにし…」と言って平和の基礎、土台がどこから、誰からくるかを述べています。人間のうちに潜んでいる恨み、憎しみ、敵意という根源的なものが砕かれない限り、真の平和は訪れません。

8月5日

 「無用の長物、夏の火鉢と冬の扇で間の抜けたものだ」という意味の、夏炉冬扇(かろとうせん)という語が、中国・王充の〈論衡〉にあるそうですが、私たちクリスチャンも、あっても役に立たない無用の長物とならないよう気をつけねばなりません。そのためには箴言二五・一三にあるように、夏の暑い日に冷たい雪をもたらすような気持ちの良さを主人たるイエス様に感じさせる、有益なクリスチャン(第二テモテ二・二一)になるよう努力したいものです。
 私たちは神からこの世につかわされていく使者、メッセンジャーです。ですから忠実であらねばなりません。忠実ということは遣わす主人のいうことをよく聞いてまじめに、正直に誠意をもってまごころから従い、使信すなわちメッセージを伝えていく者のことです。私たちは和解の福音を忠実に相手にもたらしていく使者です。
 このような信者たちを主イエス様は、心地よくちょうど暑い日に山からとってきた雪を混じえた水のように涼しさを感じる使者として、受けとめて下さるという訳です。同じく箴言六・八にあるように、「夏のうちに食物を確保し、刈り入れ時に食糧を集める」勤勉な聖徒として、元気なうちに、若いうちに、壮年のうちに懸命に働いて、老後に備えまた、主の再臨に備えて参りましょう。

8月4日

 私達は決して一人ではなく、神様がついていて下さるといいますが、しかし、この言い方は真実の半分だけをさしています。なぜなら、常に人もついているからです。しかし、神様は決して遠い、高い所におられるのではなく、今ここに、私達との関わり合いの中においでになる、つまり私共の人間関係の中にも存在なさるという事を思う時、いかに私達互いの交わりが大切かを思わされます。
 教会とは、神に出会いまた人にも出会う所、とある人がいいましたがその通りです。この両者との出会いを、大事にしてゆきたいものだと思います。クリスチャンは、決して人間嫌いになってはいけません。もし教会の中で人との交わりが不得手で充分なされていない方がありましたら、周囲の人たちはどのようにしたらその方とうまく関係、交渉、交わりがもてるかを、充分配慮して頂きたいと思います。
 ご老人たちばかりでなく、この世にありながらほっておかれている人達にもあなたを、私を通して主は近づこうとされている事を考えて、主に在る人間関係を大事にしてゆきたいものです。神はこの世にイエスを送り、人としてのイエスを通じて自らの存在をも明らかになさっておられ、そして何よりも人々と交わり、接触しようとキリストを送って下さったのです(ヨハネ四・七~一五)。

8月3日

 主イエス・キリストはルカ一二・一三以下で、財産のある者には貪欲に注意せよ、その人のいのちは財産にあるのではないからと、警告を促し、財産のない者には、心配するな、気をもむな(同二九節)とやはりさとしておられます。
 所でクリスチャンでも無闇に心配ばかりしている人がいるとしたら、その原因がどこにあるかを考えて欲しいと思います。やはりこの世の異邦人(不信仰者)達のようなキリストに対する信頼のなさからきているものではないでしょうか。二二節で主は「心配したりするのはやめなさい」と言っておられます。
 所が人は様々なことに思いをかけめぐらせて心配します。遂にノイローゼ、神経症にまで陥ります。主イエスは、「小さな群れよ。恐れることはない」(同三二節)と明言しておられます。烏(からす)を養い、ゆりの花を育てなさる神は、信者たちをどうして放っておかれることがありましょうか。「何はともあれ、あなたがたは、神の国を求めなさい」(同三一節)であります。
 続いて「そうすれば、これらの物は、それに加えて与えられます」というのが聖書の神の御約束であります。それにしてもこの世の心配で永遠を見失ってはなりません。神の御国を思い平安な日々を送りたいものです。思い悩んだからと言って、いのち=寿命=をわずかでも延ばす事は人間の力ではできないのですから(ルカ一二・二五)

8月2日

 この戦い多い世において主の平安を得、勇敢でよく勝利の前進をしたいと願うとすれば、ヨハネ一三章から一七章の主イエスの最後の訣別説教をよく読んで、信じ、従おうとする姿勢を取るべきであります。自分の力のみを過信してはなりません。すでに十字架と復活によって勝利をし、今は私たちのために執り成して下さるお方、イエス・キリストに全てを委ねて、この方の力をお借りする謙遜さがなければなりません。ヨハネ福音書の中だけでも七つのしるし(奇跡)をイエスは、生前行われました。そうしてご自分の栄光を現わし、父(パテル)の栄光も現しておられます。
 旧約のイザヤも神のメッセージを告げています。「恐れるな。わたしはあなたとともにいる。たじろぐな。わたしがあなたの神だから。わたしはあなたを強め、あなたを助け、わたしの義の右の手で、あなたを守る。」(イザヤ四一・一〇)虫けらのようなヤコブ、イスラエルもやはり全知全能の神に信頼しなければ、国家として成り立ってゆきませんでした。
 日本国家も今日の困難に立ち向かうのに政治家のみに全てをまかせるのでなく、日本国民の一人としてまず主なる神に国家の救いと平安を祈らねばなりません。主は全能の神です。祈る国民が存在する国家を決して早々と滅ぼすことはされないでしょう。私たちが愛する祖国を平安と祝福に充たしたまえ、とさらに祈っていきましょう。

8月1日

 信仰の勇者、故○○○○姉は、当志村教会で一九五四年(昭和二九年)受洗以来、二〇〇三年(平成五年)死去、召天されるまでの満四九年間、忠実に信徒としての責務を果たし、九八歳六ケ月の生涯を終えて眠るように、堂々と主の元に帰天されました。同姉は関東大震災にあい、また、第二次大戦中をはじめ戦後の食糧難の中、五人の子供さんを養うためにも、当時の方々は大体誰もが体験したことでもありますが大変なご苦労をされました。
 終戦後は二〇歳にも成長された素敵な娘さんと同時にご主人にも先立たれ、一時は悲嘆に暮れる毎日でした。そんな時期に聖書の福音にふれ、主イエス・キリストによって救われ、神の平安を得られました。同姉は信仰の人、祈りの人、忍耐の人、伝道の人でした。徹底して創造主また癒し主、イエスを信じて少々の病気では医者や薬に頼らない方で、生涯健康に恵まれた姉妹でした。
 家族の救いのために絶えず祈り、口から出る言葉は“主イエスを信じて救われましょう”、“志村教会の礼拝に出席してください”でした。結果、ご二男が奥様共々クリスチャンになられたことは幸いです。愚痴をこぼさず黙々とみ言葉に従っていかれた老姉妹は老人ホームでも、よく人を誘っておられました。故人の愛唱聖句は、ヨハネ三・一六、ローマ五・一~五でした。
 「白髪は老人の尊厳」(新共同訳)、「老人の美しさはそのしらがである」(口語訳)、「年寄りの飾りはそのしらが」(新改訳)箴言二〇・二九。