5月31日

 使徒パウロはガラテヤ三・一四で「約束の御霊」を信仰によって受けるために「キリストは、私たちのためにのろわれたものとなって、私たちを律法ののろいから贖い出してくださいました」(同三・一三)と言っています。
 ご聖霊はまずイエス・キリスト様が受洗された時下りました(マタイ三・一六)。これは以後のイエスの働きのためでもありました。そしてヨハネはイエスが十字架で死に、復活を通して栄光を受けられた後、信者たちに御霊が下ることを言っています(ヨハネ七・三九)。即ち、「イエスを信じる者が後になってから受ける御霊」(同上)とは、ペンテコステの日に注がれる聖霊を指しています。事実五旬節の日、約束の御霊は祈っている信者たちの上に下ったのです(使徒二・一~四)。
 その御霊は現今も信じ祈り求め、悔い改める者達の上に注がれるのです(使徒二・三七~三九)。イエスの御霊は教会歴史の中で具体的にキリスト者の上に与えられてきたのです。主イエス再臨までの教会時代とは、聖霊の時代でもあって主の御霊が大いに働いておられる時代でもあります。聖霊を受け、異言を語り、また満たされ能力を頂いて益々現代の主の証人として用いられていこうではありませんか。
 「…父の約束を待ちなさい。…もう間もなく、あなたがたは聖霊のバプテスマを受けるからです。」(使徒一・四~五)。「ふたりが彼らの上に手を置くと、彼らは聖霊を受けた。」(使徒八・一七)。

5月30日

 初代原始キリスト教会は、聖霊降臨によって誕生しました。エルサレム市内のある家の屋上の間(アパールーム)に一二〇名ばかりのガリラヤ人(使徒二・七)たちが、五旬節(イスラエルの収穫祭、ギリシャ語でペンテコステ(使徒二〇・一六)=第五〇の意味)の日、懸命に祈っていました。「すると突然、天から、激しい風が吹いて来るような響きが起こり、彼らのいた家全体に響き渡った」(同二・二)のです。
 この時に彼らはいわゆる「異言」をまた「他国の言葉」を或いは異言の中に他国の言葉か混入していたものなど、御霊が語られるままに語り出したのでした(同二・三、四)。
 この瞬間、天上の主なる霊と地上の弟子達とが全く一つにつながれ、両者の有機的一体化が実現し、教会が創設、誕生していったのであります。昇天されたキリストは、地上の弟子達と絶縁したのではなく、こうした聖霊の傾注を通して、その連関を保っておられたのです。その連関は今日も私共キリスト者と続いており、その主の御霊が信じられ、御霊のある所、主の教会が存在するのであります。
 新約聖書、使徒の働きは最初の教会の出発を示しています。この文書は教会発展の歴史書ともいえます。さらにこの主の体なる教会から今日まで宣教の業が進められて来ましたし、なお、これからも続いてゆくのです。わたし達がその伝道の業の継承者です。

5月29日

 イエス・キリストの十字架は、彼の復活においてのみその威力を発揮します。
 十字架と復活を分離することはできません。キリストにおける贖罪のわざは下から見れば十字架であり、上より見れば復活であります。十字架も復活もキリスト教信仰の中核、一番の中心であります。両者は楕円形における二つの中心ではなく、一枚の紙や盾の表裏を貫く一本の矢、キリストの救いのわざにおける一つの行為であります。
 四つの福音書は色々な点において前後一致しない所、つじつまが合わない所もありますが、イエスの墓が空っぽである事、復活したイエスが弟子達に現れた事の二点は、各福音書とも共通しており、一致しています。福音書だけでなく使徒の働きも、弟子達の手紙も共に復活を大変重要視しています。
 けれども古来よりキリストの復活を認めたがらない人達は、弟子のうそ説、死体の盗去説、仮死説、種々の幻影説など諸説を主張しました。しかしこれらは聖書の証言する復活の記事とは何の関係もないのです。
 使徒パウロも第一コリント一五・三以下で、「私があなたがたに最もたいせつなこととして伝えたのは、私も受けたことであって、次のことです。キリストは、聖書の示すとおりに、私たちの罪のために死なれたこと、また、葬られたこと、また、聖書の示すとおりに、三日目によみがえられた」と証言しています。

5月28日

 聖書の神は、人間を含め天地万物を創造なさり、これを今日迄保持しておられる神です。生物たる人には命と息と万物を与え、人祖アダムとエバによってあらゆる民族を地球上に住まわせ、それぞれに時代を区分し、季節をも与え、国土を備え、居住地の境界線を引いて、生活の安定をも考えられました。これは神を求めさせる為でありました。
 しかし、人々はこうした真実の神を知らず、いや熱心に追い求めれば探し出すことが出来るのですが、それもしないで、やたら自らの神々を造って気休めの偶像信仰に終始していました。当時のアテネには三千に及ぶ宗教施設があり、加えて「知られない神々」にまで礼拝が捧げられていました。ここでパウロはアテネ市民の宗教心を正しい方向に向けさせようとしています(使徒一七・二二~三一)。
 「神はこれ迄の宗教的無知の時代をまた、それぞれが自分の道を歩むことを許し(使徒一四・一六)、見過ごしにされてきました。けれども今は、どこででも全ての人に悔い改めを命じておられます。神は一人のキリストを立て、この方を甦らせることによって、新時代を到来させ、全人類が救われる可能性を確立されたのです。そして主なる神は最終的に全世界を裁かれるのです。」
 以上がパウロのアテネ人に対するメッセージの要約ですが、これは現代に対する神の語りかけともいえます。参考、使徒一四・一五~一七。

5月27日

 「わたしを信じるこの小さい者たちのひとりにでも…」(マタイ一八・六)
 弟子たちの間に誰が天国で一番偉いかという天国の先陣争いが起きていた時、主イエスは、それは幼子のような人ですと教えられました。
 マタイ一八章一~四節は、心をいれかえて幼子のようになるべきこと。五~六節は幼子に仕えること。七~九節は幼子と関連して罪の問題。一〇節は幼子を神は見守っておられること。一一~一四節は迷える一匹の羊の例えが記されている一連の幼子(小さき者)に関する連続説教と言えましょう。特に一〇節をとりあげれば幼子、小さい者、信仰の弱い者を見下げてつまずかせるようなことがあってはならないのです。主イエスは、当時のユダヤ人の間で一般にも信じられていた天のみ使いたちの守護を引用することによって、父なる神の小さい者たちへの特別の愛と憐れみを示されたのであります。
 高慢な偉い者たちでなく、見下げられるような小さいものたちを、神は特別に顧みて下さるのです。それは丁度天使たちが父なる神をいつも見ているようにです。また、小さい彼らには格別に神の期待の目が注がれていることを忘れてはなりません。彼らにかけられた将来への天の期待を思うとき、彼らは決して小さくないのです。彼らの存在価値を大いに認めねばなりません。

5月26日

 宗教とは何ですか。世に宗教の定義は複雑多義に亘っていますが、しかし、原始末開の原始宗教から、仏教やヒンズー教・イスラム教のほか幾百幾千、現代の種々雑多な諸宗教に至るまで、その程度の高低深浅のいかんにかかわらず、全ての宗教の中核を貫く最大公約数的なものは、何等かの姿における神と人間との関係であります。
 世界に幾百千万の宗教と人間の数ほどの偶像や神々のあることは、人間がどのようにして神を尋ね求めたかということの証拠を示すものに他なりません。それらは全て「人から神へ」という姿をとります。このように宗教とは人間が神を求める工夫であり、工作であります。
 そういう観点でいえば、聖書の宗教は宗教ではありません。福音というべきであります。なぜなら旧、新約を通しての聖書の宗教は、逆に、神が人を尋ね求める様子を見ることができるからです。イエスは天の栄光の座を捨てて、人間の姿でイスラエルの地に生まれられたのです。異教が人から神への図式をたどるのに対し、聖書宗教、真実のキリスト教は神から人へ、という姿をとるのです。異教が上昇のエロースだとすれば、聖書の宗教は下降のアガペー(神の愛)といわねばなりません。
 「人の子(イエス・キリスト)は、失われた人を捜して救うために来たのです。」(ルカ一九・一〇)。

5月25日

 ヨハネ福音書第一章一四節に、「私たちはこの方の栄光を見た」とありますが、この方とはイエス・キリストを指します。ヨハネは一節からことば(ロゴス)として、また、光としてのイエスが受肉したことを論述し、引き続き、その方の栄光を見た、すなわち「父のみもとから来られたひとり子としての栄光である」(同節)とあかししています。
 ヨハネは、私たちのうちに宿ったところの栄光を見た、という時、旧約の幕屋を思い起こします。「そのとき、雲は会見の天幕をおおい、主の栄光が幕屋に満ちた。モーセは会見の天幕に入ることができなかった。雲がその上にとどまり、主の栄光が幕屋に満ちていたからである。」(出エジプト四〇・三四~三五)同じように「ことば」(ヨハネ一・一)、ロゴスであるイエスがこの地上に出現した時、野宿で夜番をしながら羊の群れを見守っていた羊飼いたちは(ルカ二・八)、主の栄光をみて、ひどく恐れました。主の栄光は、神の威光、臨在をあらわすとすれば、キリスト再臨の際の臨在感は私たちに大きな恐れを与えるものと思われます。
 冒頭のひとり子としての栄光とは何でしょうか。イエスの奇跡とみるもの(ヨハネ二・一一…公生涯最初のカナの結婚式における奇跡)、或いは十字架また昇天と理解するもの、変貌(マタイ一七・一以下)の際における栄光を強調するものなど、いろいろです。

5月24日

 「きょう、救いがこの家に来ました。」(ルカ一九・九)主イエスの救いは「今日」、「今」です。もちろん明日もあさってにも与えられるものですが、考えてみれば人のいのちは、明日は分からないのです。朝には紅顔の美少年も、夕べには死すこともあります。だとすれば生命ある今日、今このチャンスを見失ってはなりません。また次の機会がある、と思うのは間違っています。
 「一期一会」(いちごいちえ)という言葉がありますが、この語は、井伊直弼(なおすけ)=一八六〇年没が「茶湯一会集」の著書で使った語と言われています。お茶の会は、例えば何度も同じ客と交会(こうえ)しますが、次の会に再び会う事ができるかどうか不明であれば、会った時が最後の別れの時となる故に全てに真剣であれという意味です。
 キリストは言われました。「愚か者。おまえのたましいは、今夜おまえから取り去られる。そうしたら、おまえが用意した物は、いったいだれのものになるのか。」(ルカ一二・二〇)どん欲を戒められた時も人の命のはかなさを言われました。
 人は物だ、金だ、財産だ、地位だ、名誉だと言って優先順位を誤って、第一に求むべき物を求めようとしていません。私たち人間は本来的には失われたもの、即ち、共にいるべき神と一緒の場所にいない者たちであります。その見失われた存在の人間を、神は見出だして救わんと今日ここにおいでくださって救いを与えようとしておられます。

5月23日

 見えない(盲)、聞こえない(聾)、しゃべれない(唖)といった三重苦の中で一時は自殺さえも図ったヘレン・ケラー女史は一八八〇年に生まれ、召天したのは一九六八年六月一日でした。女史は世界中を駆け廻り多くの障害をもつ人々にキリストにある希望と光を提供して参りました。それのみか障害者福祉の制定の為にも働きました。日本でも、一九四八(昭二三)年八月の二度目の来日講演がきっかけで、その後一九四九(昭二四)年一二月、「身体障害者福祉法」が制定されたのです。
 かつて女史は、あなたは本当に幸福ですか、と尋ねられた時、「ええ、本当に幸福です。もし私が幸福でなかったなら、今までの私の人生は全て失敗でした。人々は私を見て同情します。が、それは私の中に私が喜んで住んでいる黄金の部屋があることを知らないからです」と答えました。
 その部屋とは、「私の行く手を照らす強力な照明灯であるキリスト信仰です」と女史は言っています。その信仰は幼時より読んでいた聖書によるものです。当然ながらその聖書は点字のものですが、その点字の凹凸(おうとつ)をこすりとってしまうほど懸命に読んだ結果の信仰だったのです。あらゆる苦しみをのり越えさせる偉大な力、キリストの愛による救いをあなたも聖書からご自分のものとしませんか(マタイ五・一~一一)。

5月22日

 ペンテコステとは第五〇の意味で、五旬節(祭)と訳されています。過越節(祭)から五十日目に守られた祭りで(レビ二三・一五~二一)、新約では聖霊降臨の日として重要な意味を持つようになりました。
 キリストのご復活、甦りから五十日目、ご聖霊は降臨されました。そして二階座敷で祈っていたあの一二〇名ほどの兄弟たちは(使徒一・一五)、キリスト教会の初穂として神の前に捧げられました。
 聖霊降臨はいわば超自然の電信であって、キリストが父なる神の右に座した通知でありました(使徒二・三三)。そしてこの聖霊降臨によって一つの新しい時代がスタートしました。キリスト降誕・誕生が恵みの時代の幕開けであったように、ペンテコステの日、御霊がこられ、祈る初代教会の人々を通して、聖霊様が著しくお働きになる新時代の到来が告げられたのであります。
 すなわち、キリスト教会がここに呱々の産声をあげ、すばらしいキリストによる恵みの時代が訪れたのです。そしてこの御霊によって伝道の業は益々力強く進展してゆくのであります。聖霊臨在のキリスト教会を通じて人々は救われ、この時代も聖霊の力を受けて地の涯迄、主の証人と造り変えられていくのです。

5月21日

 人には誰でも将来に対する願望・計画・目標があります。しかし、ヤコブ書四・一五の御言葉の如く、「主のみこころなら」という一点を重要視しなければなりません。
 信じた通りに、思い願ったように、考え計画したそのままが、確かに実現する場合もあります。しかしその時はきっと主の御心にかなった故でありましょう。だからと言っていつもそのようになるとは限りません。祈っても願ってもびくともしない厚い壁のある事も現実です。
 けれどもここで大切なことは自我を押し通すことではなくて、主なる神に自己の人生を全て委ね、まかせることであります。この願いを聞いて貰わねば自らの人生はないといった、逆に不信仰が募るような祈りは駄目ですね。
 ヤコブ書では神から、教会から離れて商売を行おうとする者に対しての警告文があります。どこ迄も主の御意志が働き、主のお許しがあれば成功もし、うまく結果が出るに違いありません。どこ迄も何事も主の御名前が上がる為であり、主の御気持ちに合致すればの話であります。祈り願いつつも、あく迄も主の御旨に従ってゆける信仰が欲しいものであります。誇り高ぶる人間、創造主の神様のお力など借りなくても独自でやっていけると錯覚している人に対する警告文でもあります。

5月20日

 ヘブル書七・二七、九・七、一二、二六、二八、一〇・一〇には、「ただ一度」という言葉がでてきます。これらの箇所でのこの語の示唆するところは、キリストの贖いの効果が、永遠性、永続性のものであって、二度と繰り返す必要の無いことです。キリストがこの地上に来られたのも、全人類の罪を担い、これを取り除くため十字架上で死ぬためでした。しかし、その行為はただ一回でよかったのです。何回も繰り返すことは不要であるほどに、完全、完璧に私たちの罪を取り除いてくださったのです。
 ヘブル書記者の言うキリストの降誕と十字架での受苦と死とは、人間歴史上、今からさかのぼる約二千年前に「ただ一度」起こった事実なのです。旧約のイスラエルの祭司たちは、自分の血ではない動物の血を捧げるために、聖所に何回も入って罪の赦しの儀式を繰り返さねばなりませんでした。
 しかし、イエス自身によるいけにえは本物のいけにえであって、永遠の効果があり、繰り返しの必要はまったく無いということを、改めて認識し信じる必要があります。もしこれが普通の人間の死であれば、そこに特別な意義を考えませんが、けれども預言者に勝り、祭司に勝り、天使に勝るイエスが神のご性質をもってこの世に誕生し、ただ一度貴い血潮を流してくださったのは、私たちの救いのため、それは実に神の愛によることでした。

5月19日

 イエス・キリストの天からこの地上への派遣理由が、イザヤ六一章一節以下を引用してのルカ四章一八~一九節に記述されております。
 即ち、貧しい人々(ルカ六・二〇、七・二二、一四・一三、二一など)に吉報をもたらすため、すなわち福音を伝えるため。第二に捕虜の赦免、すなわち捕われている人(第二テモテ二・二六)を悪魔から、罪の束縛から解放し、全ての罪を許すために。第三に、主イエスが見えない、主なる神が分からない者たちの霊の目、心の目が開かれる為に、視力回復のために(マタイ二〇・三三)。第四に、サタン、悪魔に圧迫され虐待されている人々をその手から自由にするために、圧制を受けている人々を解放するために、すなわちキリストによる救い、神の救い、終末の救いが達成するために、総称して「主の恵みの年」を告げるためにイエスはお生まれになりました。そして、これらすべては現代のわたしたちに語られているわけです。
 主の恵みの年(ルカ四章一九節)とは、旧約時代、ヨベルの年に宣言された解放、自由になる年(レビ二五・一〇)を言っています。今日ここでそれがイエスにおいて実現したことを示しています。平凡な日常生活の今日という日にイエス・キリストの救いは、自分のものとなるのです。

5月18日

 主なる神はヨエル預言(ヨエル二・二八~三二)の成就として聖霊の大傾注を初代教会に与え給いました。イエスの母マリヤ達、一二〇名程が集まって祈っていました(使徒一・一四)。五旬節の日になってまた皆が一つ所に集まっていました(同二・一)。そこに突然、異言の伴う御霊のバプテスマが注がれ、人々は御霊が話させてくださるとおりに他国のことばで語りだしたのです(同二・一)。
 けれどもこの現象は当時のただ一回的な出来事ではなく、現在も「賜物として聖霊を受ける」(使徒二・三八)ことができるものであります。「この約束は…主がお召しになる人々に与えられているからです」(同二・三九)とありますように。
 そののちサマリヤの人々が(同八・一四~一七)、またカイザリヤの異邦人にも(同一〇・四四~四七)さらにはエペソでも(同一九・一~七)「聖霊が彼らに臨まれ、彼らは異言を語ったり、預言をしたりした」のです。日本アッセンブリーズ・オブ・ゴッド教団は、この新約聖書、使徒の働きにしるされている記事をそのまま信じて、異言の伴う聖霊のバプテスマを求めて祈って実体験していく教団です。
 さあ現代に生きるクリスチャンも異言の伴う聖霊のバプテスマを頂いて、御霊の能力に押し出され、終末の時代に生きる主の証し人として力強く前進していきたいものですね。

5月17日

 二一世紀の時代に日本という国でキリスト者として生きるようになっている者たち。聖書の言葉を唯一の真理と信じて宣教の愚かさに徹しようとしている私たち。けれども実際に私たちが日毎の体験として見聞きするのは「キリストの主権」などとは全く関係がないように動いているこの世の中であります。ひとり立ちした科学・技術の独裁、コンピューターによる管理、およそ真実などというものを期待することも出来ないような世俗世界の流れ、貪欲な経済システム等の姿です。
 こうした中で「イエスこそ復活の主です」ということは、真に空しく響き渡る声のようにも思われます。しかし私たちは自己否定に徹して洗礼者ヨハネのように「燃えて輝くともしび」(ヨハネ五・三五)としてひたすら「あかし」を為してゆきたいものです。
 けれども、私たち以上に父なる神も主イエスについて証をされているのです(同五・三七)。又、イエスが行っておられた業そのものが(同五・三六)さらに、聖書(旧約聖書)(同五・三九)が、すなわち預言も歴史も教訓もみなキリストについて証しています。マタイ福音書中にある「聖書が成就するため」(マタイ五・一七等)の言葉に注目したいと思います。聖書によってキリストを知るために、私達は聖書を読み、信じ、受け入れるのです。
 このように復活のイエスの証しは、ヨハネが、父なる神ご自身が、イエスのわざが、旧約聖書が証言していますが、現代の私たちも証ししていかねばなりません。

5月16日

 牧師とは何か。キリスト教の教会では、信徒の指導、監督をする職の人。牧羊者すなわち羊飼いの意味から、教会を羊の群れにたとえて、信徒や求道者、関係者へ魂の配慮を中心に仕える人を意味します。聖書によれば、牧師の使命と職務は、(1)教会を治め、みことばを教える。換言すれば監督、教育、伝道の使命です(第一テモテ五・一七、第二テモテ四・二~五)。(2)群れを牧すること。牧会監督を意味します。(使徒二〇・二八)。(3)信徒を整えて奉仕の働きをさせ、キリストの教会を建て上げることです。
 換言すれば、教会形成(組織、管理、運営等を含む)の責任です(エペソ四・一一~一六、第一テモテ三・一~七、第一コリント四・一~二)。そして牧会職の起源と牧会者の任命は、主なる神によります。伝道者、牧師はキリストご自身によって立てられました(エペソ四・一一)。また「聖霊は…神の教会を牧させるために、あなたがた(長老たち)を…お立てになった」(使徒二〇・二八)とあります。ここにはいわゆる「神の召命」と教会を通しての「主の任命」についてしるされていると言えます。
 なお、「牧する」こととは、一)弱った者を強める、二)病気の者をいやし力づける、三)傷ついた者を包む、四)迷い出た者を連れ戻す、五)失われた者を探す(エゼキエル三四・一~六)ことと言えます。

5月15日

 現代の青少年は、目立った非行歴や前科もないのに、利害関係のない見知らない者に対し、自分の心の中にある満たされない空虚感を満たす為に、恐ろしい犯罪に至る場合があります。今日の豊かな社会にある数多くの問題の一つに、空虚な自己を埋めるために何か悪いことを犯そうとする病理的体質・性質をどのように処理・解決するかということがあります。
 「空虚」という事は旧約のソロモンも伝道者の書で告白し、かつその真実の解答を一二章一三節で与えているように、「結局のところ…神を恐れよ。神の命令を守れ」という一点につきることであります。新約的に言えば、「神の国とその義とをまず第一に求め」(マタイ六・三三)、神と、キリストと出会い、「信仰によって救われ」(エペソ二・八)、「イエスの平安」(ヨハネ一四・二七)を所有し、「どんな境遇にあっても満ち足りること」(ピリピ四・一一)を体験することによってのみ、罪深き病理性を克服し、勝利の人生を営むことが可能となることを確信いたします。
 青少年のみならずあらゆる階層の人びとが真実の神に出会い、救いを得るまでは自己の空虚を何物によっても埋めることは不可能であります。もし他の何か(サムシング)によって得たと思ってもそれは偽りであることに気づかねばなりません。

5月14日

 M・H・リーファー(ギャレット神学校教授)の言葉。
 「日本に参りましてからもう三ヶ月になりますが、私は日本の教会が、例えば東洋のフィリピンの教会やアメリカの教会とは大変違っている点に気づいております。しかし人間としてどこにあっても変わらない不安も希望も、色々な試みということも共通しているということは疑い得ません。
 これから幾つかの問題を申し上げる訳ですが、第一の問題は、教会内における伝道といいますか、それについて考えてみようと思います。私たちは本当に人々を教会に連れてこよう、キリスト者にしようという熱意をもっているだろうかということです。伝道についての議論がよその国に較べてかまびすしいのですが、反対にほんとうに人々を主のもとに漁ろうという決意をもっているだろうかということはそういうことを口にして議論し合うということではなくて、本当に心の底から、人々を主のもとに導いてくる意志があるかどうかということでございます。」
 不完全な人間の集まりですから例えキリスト教会といえ、問題がない教会はありません。でも主の臨在の前に、神の御言葉の中に養われていくならば、自ら何を為すべきかがご聖霊によって教えられ、実行に移されていくものと信じます。伝道も本当にやる気でさらにこれからもこの一事に取り組んでまいりましょう(ルカ一四・二三)。

5月13日

 「だれでも渇いているなら、わたしのもとに来て飲みなさい。わたしを信じる者は、聖書が言っているとおりに、その人の心の奥底から、生ける水の川が流れ出るようになる。」(ヨハネ七・三七~三八)
 キリストは言われました。「わたしのもとにきて飲め」と。人の渇きはイエス・キリスト以外では満たされないことを意味します。イエスの御霊を受け、イエスの御霊に充満される時、本当に心から満足し喜ぶことができます。復活の主イエスを信じ、この方に触れてこの方のいのちに与る時、清き神の生命が私たちの体内を駆けめぐると言っていいでしょう。聖霊による新生命は人に革命を与えます。そして聖霊が川のように流れ出る、すなわち絶望は希望に、不平、不満足は感謝に、悲嘆は喜びに、反抗、抵抗は従順に、争いけんかは平和に、消極性は積極性にと、変えられてまいります。
 さらに生活のあらゆる面で汚れは日々赦され、清められて、主のみ霊が溢れ出て信仰と祈りの中でさわやかな人生を送ることができます。「だれでも」です。人間ならだれでもイエスに近づきイエスを信じるだけで、イエスの御霊に満たされて渇きはいやされるのです。主イエスを信じましょう。なお旧約では、聖なる都エルサレムの神殿から湧き水が、すなわち「生ける水」(口語訳)が流れるとあります(ゼカリヤ一四・八、エゼキエル四七・一)。

5月12日

 母の日の起源。それはキリスト教会から起こった事でした。アメリカバージニア州のウェブスターの町に二六年間日曜学校教師を勤めたジャービス夫人がいました。ある日曜日、出エジプト二〇・一二の「あなたの父と母を敬え」の聖書の御言葉を生徒達に与えたあと、母への感謝の気持ちを表す方法を子供達に尋ねたところ、この質問を覚えていた夫人の娘、アンナがジャービス夫人の死後、その追悼会の時に一箱のカーネーションを贈って母の愛に対する感謝を表したのがきっかけでした。その後、一九〇八年アメリカ議会で五月第二日曜日を法律で祝日と定めたのです。
 このようにして「母の日」は教会から起こったのです。しかしながら母への感謝の気持ちは年に一度だけでなく、毎日が母の日だという気持ちで過したいものです。宗教改革者、マルチン・ルターは、「両親は家庭における規律と秩序を維持するための神の代表者である。従って神は両親をご自分の次の位に置かれた。故に、愛するだけでなく、尊敬しなければならない」と言っています。
 もし母のいない人たちは家族一人ひとりに感謝と尊敬の念をもって接するということではないでしょうか。又、母の心を喜ばせ、母の愛に報いることは、物やお金によるのでなく、むしろ精神的に安心を与えることとも思われます。

5月11日

 旧約聖書、第一列王記三章一六節以下にのっている事件です。二人の遊女が一つ家に住んでいて共に子を産んだのですが、乙の遊女はその子を眠っている間に、ふとした事で誤って死なせたので、その死んだ子をひそかに甲の遊女の子ととり替え、生きている子が自分の子ですといって争いました。この事件の判決の為にソロモンは神から頂いた知恵をもって、みごとに裁いて本当の母親の手元に乳児を渡すのです。
 ここで学ぶ点は、真実の母親は我が子がさばきの段階で半分に切られるのは忍びがたく、相手の遊女に渡そうとします。本当の母親の愛の美しさという事と、その反面における今一人の遊女の真二つにして分ける事を主張する、というこの残酷性の両面をみる事であります。
 母親とは言え人間の心の中には、我が子さえも時と場合によっては捨てる、殺す、虐待する、といったような醜い罪人の一面性も秘めている事実を認めねばなりません。最近のことだけではないでしょうが、幼時を含め子どもへの虐待事件がマスコミを賑わしています。この点を清め、真人間として下さるのがキリストの愛なのです。
 キリストの愛はいつでも、どこでも誰でも平等に純粋、真実に愛することのできる愛であります。人間愛、とりわけ母性愛に勝る素晴しい神の愛、キリスト愛を自分のものとして他者をも愛していこうではありませんか。

5月10日

 「さて、人は、その妻の名をエバと呼んだ。それは、彼女がすべて生きているものの母であったからである。」(創世記三・二〇)「あなたの父と母を敬え。」(出エジプト二〇・一二)「あなたの母の教えを捨ててはならない。」(箴言一・八、六・二〇)「愚かな子は母の悲しみである。」(同一〇・一)「愚かな者はその母をさげすむ。」(同一五・二〇)「母を追い出す者は、恥を見、はずかしめを受ける子である。」(同一九・二六)「あなたの年老いた母をさげすんではならない。」(同二三・二二)「自分の父母の物を盗んで、『私は罪を犯していない』と言う者は、滅びをもたらす者の仲間である。」(同二八・二四)「むちと叱責とは知恵を与える。わがままにさせた子は、母に恥を見させる。」(同二九・一五)「母から受けた戒めのことば。」(同三一・一)
 アメリカ合衆国第一六代目の大統領となったリンカーン(一八〇九年~一八六五年)は貧しい開拓者の子供として生まれました。彼の母はナンシーといって田舎にはめずらしい美人であったそうです。リンカーンは二人目の子供として生まれましたが、母ナンシーは彼が九才の時悲しくも風土病の為、三六才の若さで亡くなりました。この時ナンシーが子供二人に云い残した言葉は、「金持ちになるよりも、偉い人になるよりも、聖書を読むことの好きな人になって下さい」でありました。母ナンシーはいつも聖書の話を聞かせていたのです。

5月9日

 今日(一九九三年五月九日)は母の日。母のおられる方はぜひ何らかの形で感謝の意を表して頂きたいと思います。何といっても母胎にいる時からお世話になってきた恩人だからであります。母のイメージと言えば、献身的、暖かさ、優しさ(第一テサロニケ二・七)、信頼できるなどでありましょうか。
 我が子のためならばマタイ二〇・二〇登場のゼベダイの子らの母でさえも、わが子たちを右大臣、左大臣にならせてほしいと、お願いする程であります。また母は我が身を削ってでもわが子の為に尽くします。その他、暖かいハートをもって、優しい態度をもって懸命に母としての責務を全うしようと努力していくのですね。
 しかし、この世には母の立場に立たない独身女性もおられるわけです。けれども主なる神は、両者共に救いあげて、それこそ人の母以上の大きな愛、憐れみ、慈しみをもって臨んでいて下さいます。有り難いことです。
 母船、航空母艦が、依り所となるものの代表格であるように、聖書の神は全き信頼のおけるお方です。なお、キリスト者である母たちよ。あなたは信仰の母、賢母、慈母と造り変えられているのですから、とりわけあなたの老母を大事にし、母としての責任も全うして頂きたいものであります。

5月8日

 使徒の働き二章四節には、「すると、みなが聖霊に満たされ、御霊が話させてくださるとおりに、他国のことばで話しだした。」マルコ一六章一七節には、「信じる人々には次のようなしるしが伴います。すなわち、わたしの名によって悪霊を追い出し、新しいことばを語り…」。パウロは、第一コリント一四・五で、「私はあなたがたがみな異言を話すことを望んでいます」とあります。また同章一八節では、「私は、あなたがたのだれよりも多くの異言を話すことを神に感謝しています」とも記述されています。
 あなたも聖書どおりにこうした異言を語るという体験、経験をお持ちになりませんか。知性の限界を超えて祈ることが可能となって参ります。もし、もう祈ることが何もなくなってしまった、知性からの言葉が途絶えた時も、私たちは異言を語ることにより、神と交流をもつことができるのです。第一コリント一四・二でパウロは続けて、「異言を話す者は、人に話すのではなく、神に話すのです」といっています。
 祈り求めてこうした異言の伴う聖霊のバプテスマを体験されることを願います。使徒の働き一〇・四四以下と一九・一以下にも異言を語った事例がのっています。初代教会時代の一回かぎりの体験ではなく、祈り待ち望むものには、賜物として必ず与えられるすばらしい体験です。

5月7日

 旧新約聖書内に見る母親像の一端を紹介致します。
 エバは全て生きている者の最初の母となった(創世記一二・二〇)のですが、彼女は主なる神の前に罪を犯し失敗した者。サラは(創世記二一章)老齢にして神を信じた母。同じ章に登場するハガルは我が子の為に号泣する母。サムソンの母、マノア(士師一三章)はサムエルの母ハンナと同じく不妊の胎が開かれた女性、そして後者はその為に激しく心のうちで泣き、祈って母親となった者。第一列王記二・一三以下のソロモンの母バテ・シェバは王座にある我が子から尊敬をもって迎えられる母でした。
 新約では、イエスの母マリヤは(マタイ一・一八、二・一一、一三~二一、ルカニ・一~二〇、ルカ一・四六~五五)主に用いられた人、主に何もかもゆだねた人、婚約者ヨセフを信じた人。彼女はさらにエジプトに退避を迫られて苦しみも深く経験した人としても有名です。ヨハネの母マリヤは(使徒一二・一二)、家庭開放をして大勢の人たちと礼拝を共にする信仰の母。テモテの母ユニケも同じく祖母ロイスの信仰を継承したすばらしい霊的な女性。ルカ七・一一~一七における、ナインの町の未亡人は一人息子を失って泣いていますが、主イエスに蘇生させて頂いて大いなる喜びを体験した女性でした。悪い母親としてはヘロデヤ(マルコ六・一四~二九)がいます。

5月6日

 「さて、祭り(仮庵=かりいお)の終わりの大いなる日に、イエスは立って、大声で言われた。『だれでも渇いているなら、わたしのもとに来て飲みなさい。』」(ヨハネ七・三七)
 これはイエスを信じる者たちが、受けようとしている御霊のことを言ったのです。もちろんその源は、イエス・キリストであります。しかし、イエス・キリストを信じる者は、聖霊を受けるばかりでなく、自分の腹から聖霊があふれ出て、人にも与えることができるほどなのです。聖霊は、神からだけではなく、もちろんイエス・キリストを通してですが、あなたの腹からも出てくるのです。しかもここには、「だれでも」とあります。例外なくあなたもです。あなたの腹から(内部から)も聖霊が川となって流れ出てくるのです。
 ただ一つの条件があります。「渇いているなら」です。単にお金がある人ではありません。力がある人でもありません。よい行いをしている人でもありません。たといどんなに満ち足りていても、渇くことがあります。つまり霊的に渇くのです。別な言葉で言えば、慰め、喜び、力に乏しく渇いている人であります。
 イエス・キリストは、そういう人に「だれでも渇いているなら、わたしのもとに来て飲みなさい。わたしを信じる者は、聖書が言っているとおりに、その人の心の奥底から、生ける水の川が流れ出るようになる」(ヨハネ七・三七~三八)と言われました。

5月5日

 今朝の礼拝説教箇所、ヨハネ八章一二節~二〇節は、(イ)世の光としてのイエスの自己証言(一二節)、(ロ)パリサイ人たちの攻撃に触発されたイエスの自己証言の有効性の主張(一三、一四、一七、一八節)、(ハ)イエスのさばき(一五、一六節)という三つの主題を内容として成り立っています。しかしながらそれらを一貫して福音書記者がアピールしようとしている主題である、主イエスが父なる神との完全な連帯の中にあるということを、このテキストから読みとってゆきたいものです。
 また、キリストは、わたしをほかにしては、自分自身を真に光として主張しうるものは存在せず、この光のみが他の全ての滅びゆく相対的な見せかけの光に対して、永遠性、絶対性をもつ光だと、その唯一性をも強烈に主張しておられるのです。
 これに反対するパリサイ人は「あなたの証言は真実ではありません」(一三節)といいますと、イエスは「わたしについて証言する方がほかにあるのです」(ヨハネ五・三二)と言い、ヨハネが(同五・三三)、イエスのわざが(同五・三六)、父である神ご自身が(五・三七)イエスの神性の真実を証言していると言明されています。
 現代に生きる私たちも光であるイエスに従って、光の中を正々堂々と主が「世の光」であることの証言者として歩んでいきましょう。

5月4日

 「エホバの証人」(ものみの塔聖書冊子協会)という異端の教団ができたのは約百年前の事です。創始者はアメリカ、ペンシルバニア州生れのラッセルという小間物商人でした。
 彼は一八五二年に生れ、子供の頃両親が属していた長老派の教会に通い、聖書教育を受けましたが、後に組合派の教会に行くようになりました。しかし、結局教会で教わった「永遠の刑罰」を恐れるあまり、教会を出て一八才の時(一八七〇年の初期)に、上記同州のピッツバーグ市で自分の聖書研究グループを発足させました。この研究会が現在の「エホバの証人」の元となった訳です。
 ラッセルは独自の聖書解釈によって作りあげた教理、すなわち、キリストは神ではない、キリストは体をもって復活した者ではない、又、地獄の存在を否定し、三位一体論は間違いで、エホバなる唯一の神があるのみと主張し続け、こうしたおよそ聖書に書き記されていないことを勝手に言い広めていったのです。
 キリスト教界から派生した異端としての主な団体は、このほかにモルモン教(末日聖徒イエス・キリスト教会)、クリスチャン・サイエンス、世界基督教統一神霊協会などがあります。
 第二ペテロ一・二〇には、「聖書の預言はすべて、自分勝手に解釈すべきでない」(口語訳)とあります。こうした団体に充分注意しましょう。

5月3日

 イエス・キリストの証(あかし)は、人々に伝えられる為に福音の宣教(マタイ二四・一四)という具体的なかたちをとります。使徒とは、福音を全世界に伝えるためにイエスの証人として立てられた者のことであります(使徒一・八)。彼らは、ヨハネの洗礼からイエスの昇天に至るまでの間に起こった諸般の出来事について、特にイエスの主権を確立した復活について、人々の前で公のあかしをしなければなりませんでした。「神はナザレ人イエスによって、あなたがたの間で力あるわざと不思議としるしを行われ…この方のあかしをされた」(使徒二・二二)からです。
 今やこれら使徒たちのあかしを受け入れた現代のクリスチャンは、自分の中にイエスのあかしそのものを持つことになります。このイエスのあかし(黙示録一二・一七)は換言すれば新しい時代における預言でもあります(黙示録一九・一〇)。
 ですから、私たちも「地の果てにまで」(使徒一・八)出て行って福音をあかししなければなりません。聖霊の力に満たされ、助けられながらです。さあ、勇気をもって大胆に主イエスを語りましょう。あかししましょう。証しはクリスチャンにとっては、神への感謝の表明であり、また自らの信仰成長の秘訣であり、兄弟姉妹と主の恵みを分かち合うことでもあります。もちろん信徒(クリスチャン)にもできるすばらしい伝道手段であります。

5月2日

 五千人を養う五つのパンと二匹の魚の奇蹟は、四福音書が共に記録している唯一の奇蹟であります(マタイ一四・一五~二一、マルコ六・三〇~四四、ルカ九・一〇~一七、ヨハネ六・一~一四)。従ってこれがいかに強烈な印象を与え、重要な意味をもつ出来事であったかがわかります。
 この奇蹟と次の湖上歩行の奇蹟により、ついに弟子たちは「確かにあなたは神の子です」(マタイ一四・三三)と告白することになるのです。この奇蹟はまた、神がかつて荒野でイスラエルの民をマナでもって養われたこと(出エジプト一六・四~三六、民数記一一・四~九)や、預言者エリシャによって、大麦のパン二〇個と一袋の新穀をもって百人を養い、しかも彼らが食べて残したという奇蹟(第二列王記四・四二~四四)にも類します。驚くべき出来事であります。
 しかもこの五餅二魚の奇蹟は、律法と預言の成就としてこられた方によって行われたのであります。またイエスはこの奇蹟を通して、メシヤとしてその民に与えようとしているのは物質的祝福だけでなく、霊的なものであることを示そうとされましたが、弟子たちはすぐにはそれに気がつかなかった(マタイ一六・九以下、マルコ八・一七~二一)のです。

5月1日

 「冷蔵庫、電気なければただの箱」以前こんな言葉が流行しました。電気という動力源があって初めて冷蔵庫も本来の目的が達成されます。クリスチャンも「聖霊」という力の源がないと、キリスト者としての生活が成り立ってゆきません。単なる一般の人となんら変らない者で一生を終わってしまいます。「クリスチャン、聖霊なければただの人」にすぎません。しかし、聖霊の力におおわれ、バプタイズ(baptize)されますと一変し、ただの人どころか主に用いられる価値あるすばらしい存在となるのです(使徒四・一三)。
 金力、腕力、学力、知力、権力、美力など様々な「力」もこの世にはありますが、聖霊の力だけはクリスチャン占有の神からの賜物です。有難いではありませんか。
 このみ霊の力をこのたびの全国大聖会(一九九三年)で頂いてお帰り下さい。不参加の方も日々、初代教会にみられる力と愛と聖めのご聖霊に満たされ、益々主なる神のご用に役立つ者(第二テモテニ・二〇~二一)と変えられていって下さい。終末の時代、聖い神の御霊、主イエスの能力の霊に溢れ、喜びをもって前進いたしましょう。
 初代教会、使徒行伝時代も恐るべき聖霊の力、ペンテコステの力を頂いて敢然とこの世に福音宣教のため散らばって参りました。ダメ意識ではなく、私を強くしてくださる方(ピリピ四・一三)によって、どんなことでもできると、確信して前進いたしましょう。