4月30日

 【お祈りをもう少し熱心、真剣に】
 「絶えず祈りなさい。」(第一テサロニケ五・一七)
 お祈りを主なる神様に、主イエス・キリストのお名前で捧げる時に私たちは以下の状態から解放されます。一、自己本位でわがままな自分からの解放、二、不平不満家の自分からの解放、三、気分的にいつも不安定な状態からの解放、その他色々数え上げられるでしょうが、本当に祈ることの利益は数え上げればきりがありません。
 まず第一に今迄自分のことしか考えられなかった人が少しでも他者の為に祈れるようになる、つまり執りなしの祈りが捧げられます。
 第二に祈ると喜び、感謝が溢れて参ります。
 第三に安心、平安、安定した気持ちにすぐ回復できます。
 第四に聖書のお話を毎集会ごと聞いたり、又個人でも読んでいるうちに、この世の中を見つめる目が変わってきます。即ち視野が広がって人生観、社会観が変わってきます。
 そして祈りの中で現在の自分が本当に何を最優先させねばならないかも分かってきます。ご聖霊が教えてくださいます。様々な知恵も与えられて聖霊の賢さが与えられるのです。
 西ドイツのダルムシュタット市郊外にあるマリヤ姉妹団の創始者バジレア・シュリンク女史は、祈って信じて待つ、そしてみ言葉への服従によって、全能者より多くを与えられていることを証しされています。とにかく祈りましょう。さらなる日本リバイバルの為にも。

4月29日

 旧約の時代も現代も形こそ異なれ人間悪は全地にはびこっています。
 預言者ミカ(BC七三〇~七〇〇年)の活躍した時代にも一般大衆は、刻んだ像を拝み(ミカ一・七)、神の怒りを引き起こしていきました。北イスラエルも南ユダもその状況は同じでした(同上一・五)。また悪徳地主たちは他人の土地、家々をも欲しがり、寝床の上で悪い計略を考え、それらをゆすりとろうとする有様でした(同上二・一~二)。
 そうかと思うと指導者、首領、権威ある者たちも、善を憎み、悪を愛し殺りく行為を平然と実行していったのです(同上三・一~三)。また偽預言者は彼らに食料を持ってくる者には、平和がありますようにと祝福しますが、何も持参しない者には戦争が起きると言って脅かすとは、全く選民イスラエルの名を汚すものでありました。
 また形式的な表向きだけの正義からは程遠い心のこもっていない幾種、幾千の雄羊が献げられていったのです。けれども主なる神は絶対にそうした形骸化した献げ物を喜ばれるはずはありませんでした。主が求められたのは、ただ公義を行い、誠実を愛し、へりくだって、神とともに歩むことであったのです(同上六・六~八)。
 遂に彼らは神のさばきを招いてアッシリヤの軍隊の侵入によって痛めつけられ、さばかれていったのです(同上一・六~七、二・三~五、五・一〇~一五、六・一三~一六)。

4月27日

 アブラハム夫妻に仕えていた女奴隷ハガルはエジプトの女性でありました。彼女の女主人サライは子供がいなかったので、当時の習慣にならってハガルによって子供を得ようとしました。ところがハガルは子を宿すと高ぶり、女主人を見下げ、軽蔑するようになりました(創世記一六・四~五)するとサライの嫉妬のまじったいじめが始まり、遂にハガルはサライの元から逃げました。彼女の環境はこれまでと異なって荒野であり、生きてゆく道を見失って途方にくれていたのです。その時主なる神はこの女奴隷を憐れみ、天使を通して語りかけ給いました。荒野の泉のほとりで彼女は主なる神に出会ったのです。
 人生途上における彼女の失敗と敗退、破れと惨めさ、悩みと困窮、そんな中にあってハガルは神の声を聞き、新たな勇気と希望を持ってわが子イシュマエルを出産しました(創世記一六・一五)。この時彼女は自分に語りかけられた主の名を「エル・ロイ」即ち、ご覧になる方(新改訳)、顧みられる神(新共同訳)、見ていられる方(口語訳)と呼んだのです(同上一三節)。ハガルは神より子孫繁栄の約束も与えられたのです(同一六・一〇)。
 人生の荒野でゆき悩み、途方に暮れるその時にいつもそばにいて奴隷女をも助けて下さった主なる神に、今日も信仰の目を注いで勝利の前進を続けたいものであります。

4月26日

 キリストの復活が伝えられた日の午後です。エルサレムから一〇キロ余り離れたエマオという村に向かって歩いて行く二人の旅人がいました。信仰者は旅人ですが決して孤独のさすらい人ではなく、復活のキリストと共に同行二人の巡礼の旅と言えます(ルカ二四・一三~三二)。
 「エマオのキリスト」については、画家レンブラント(一七世紀)の他にカラバッジオ(一六世紀)パウロ・G・ドレ(一九世紀)、力ール・ブロック(一九世紀)等が、題名を異にして立派に描いています。ドレを除く他の三人に共通する絵画は、食卓に座っているイエスが弟子達にパンを裂いている、またはこれを渡している構図であります。
 なぜこの場面を彼らは絵にしたのでしようか。多分この時に彼ら弟子たちの心の目が開かれ、イエスだと分かった大事な瞬間だったからでありましょう。一一キロメートル(ルカ二四・一三)もイエスと共に話ながら歩いて来たにもかかわらず、弟子達にはその方が復活のイエスだと分かりませんでした。それがパンを裂きこれを彼らに渡した時に分かったと言うのです(ルカニ四・三〇~三一)。正にご聖霊のお働きでありましょう。
 私達はどんな時、どんな場合にイエスだと分かったのでしょうか。いよいよ心の目が開かれてイエスと一緒に歩みたいものです。

4月25日

 わたしたちの信仰の歩みは神のみ国、天国に入る目的をもっています。ただこの地上生活だけを視野に入れているのではなく、どこまでも約束の地、神の安息の地に入ることを目標に置いて励んでい ます。しかし、時折残念なことにかつてのイスラエル民族の例にもみられますように、入り損う人たちが出てくるということです。
 故にヘブル書の記者は、四章一節で「入れないようなことのないように」と注意を呼びかけています。昔のイスラエルが入れなかったのは何故でしようか。神のみ言葉を聞こうとしなかった。いや聞いたけれども信仰的に聞きませんでした。信仰と結びつけて聞かなかったのです(同上四・二)。という事は心がとても頑固であった訳です。ですから詩篇九五・七~八を引用して「きょう、もし御声を聞くならば、あなたがたの心をかたくなにしてはならない」と注意しているわけです。
 わたしたちも、先人の失敗を繰り返さない為にも、主の約束された平安と安息の地、天国に入るため、心柔らかくして主のみ言葉は神のみ声として聞いていきたいと思います。一一節には、「力を尽くして努め」ともあります。神の安息を得るために今日というこの時を大事にして、礼拝で、また個人的ディボーションなどをとおして真剣にみ声を聞くように、励みたいと思います。

4月24日

 キリスト教会は第一世紀の聖霊降臨の日に誕生し、それ以来教会は多くの戦いの中成長、拡大されて参りました。遂に二〇世紀に入り私共のアッセンブリー教団がアメリカに生まれ、その聖霊の波は日本にまで波及し、一九四九(昭二四)年四月二九日、日本アッセンブリーズ・オブ・ゴッド教団が発足したのです。その創立当初の教会数はわずか一三、教職は宣教師を含め二五名でした。それが五十五年を経過した今(二〇〇四年)、教会・伝道所の数は約二百二十、日本人教職三八〇名、宣教師三一名、正会員数九七五九名、求道者は五五五五名にまで主なる神は進展させて下さいました。半世紀の中での成長の記録であります。
 しかし韓国などと較べたら誠に低い成長振りと言わねばなりません。ですから、さらに聖なる希望をもって日本リバイバルを祈り続ける必要があります。日本の信仰復興とは、まずあなたの教会のリバイバルを或いは、あなたの家族の救いの実現を意味します。成就すると信じて熱心に祈り続けましょう。そのために教会の祈祷会に参加しましょう。ひとりでももちろん祈れますが、みんなで祈るのも中々たのしいものです。熱心に祈ると不思議に力が勇気が希望がわいてきます。信仰が前向きになります。不満は解消され、愚痴は吹っ飛び、リバイバルへの確信がもてるのです。

4月23日

 今日(二〇〇〇年四月二三日)は復活祭、主キリストの復活を祝う日曜日、主日です。キリストの復活はキリスト教会の中心をなすものです。もし十字架のイエスが信じられていても復活のイエスが信じられていなければ、中途半端な信仰で終わってしまいます。イエスの十字架と復活は紙の両面のように、不可分離の関係にあります。
 イエスは人間の罪の代価を払うためカルバリ山上で死なれました。しかし死で終わるイエスでなく生前「三日目によみがえらなければならないこと」(マタイ一六・二一)を弟子たちに示し、なお「わたしは、よみがえりです。いのちです。わたしを信じる者は、死んでも生きるのです」(ヨハネ一一・二五)と約束し、自らのお力で墓の入り口の大きな石の扉を打ち破って、見事によみがえられたのです。そして遂に死に打ち勝ち、人間を死の闇の恐怖から解放して下さいました。そればかりか永遠の命を付与し、国籍を天にもつようにして下さるすばらしい、限りなく恵みに富んだ神のみ子、イエス・キリストです。
 さて苦闘の中にもどんなに楽しい良い人生を送ったという方々も、死後、永遠に神と交わる天の御国凱旋の希望がなければ、その人生は誠に空しいものと言わねばなりません。「神は…イエス・キリストが死者の中からよみがえられたことによって、私たちを新しく生まれさせて、生ける望みを持つようにしてくださいました。」(第一ペテロ一・三)。ハレルヤ。

4月22日

 仮庵の祭(ヨハネ七・二~五二)は一〇月か一一月に行われたので、にぎやかな収穫感謝の時でもありました。兄弟たちに対してのイエスの返事は、前に母に対してした返事と似ています(ヨハネ二・四)。人々の前に現れる時はまだです。イエスはご自分の死と栄化とを暗示しておられます。
 彼らは世の精神(自分を立派にみせる事)と相通じていますので、いつでも自由に祭に行ける。けれどもイエスは、真理をあかしして、世の根本的な悪の性質を暴露し、世を敵に回してしまわれたので、いつ殺されるかわからない事になってしまいました。ですから「わたしの時はまだ来ていません」(ヨハネ七・六)、「わたしはこの祭りには行きません。わたしの時がまだ満ちていないからです」(同上七・八)といって、イエスの兄弟たちのエルサレムへの上京への促しに対し一時は断られました。
 けれどもついにイエスも祭に行かれます。けれども、「内密に上って行かれた」(同上七・一〇)のは、自分の命を狙って殺そうとしている者たちを避けるためでもありました。つまり自らの力をどうだと言わんばかりに公に現すためでなく、ひたすら十字架への道を歩んでいく、全人類の救いのために。そのためには犬死にしてはならない、十字架以前に暗殺されてはならない、と思われたのです。それほどイエスは十字架につく時、タイミングを重要視されていたのです。

4月21日

 「あなたは神様の御心、み旨に従って生活していますか」とお尋ねしますと、多くの方が「主のみ心がわかりません」と答えられます。長い間教会に通いながら信仰生活をしてきたのに、どうして神のみ心を見分けるのが難しいのでしょう。
 それは毎日神に出会い、神様の声を伺い、知り、聞くというような訓練がなされていない結果ではないでしょうか。神のみ言、聖霊を通して神様の御旨を知ろう、又、聖霊の細きみ声を聞いて祈りのうちに主に従う決断をする、といった毎日のいわゆるディボーションタイムがもたれていますと、何をするのが主のみ心かが分かります。
 そのためにご聖霊に自らを明け渡し、私に今日必要な具体的な知恵と導き、ささやきを待ち望む訳です。こうして毎日主なる神様と出会う時をディボーションタイムといいます。最初は習慣がつく迄多少戦いはありますが、一ヶ月間まずご聖霊の力を頂いて努力してみましょう。
 さらに士師記六・三六・四〇の記事のようにギデオンは、「私の手でイスラエルを救おうとされるなら」(同上三六節)羊の毛の上にだけ露を降らせてください、 云々と条件つきで神のみ旨を伺った例もあります。目に見えるかたち、外からのしるし、環境の変化などを通じて主のみ心を知る場合もあります。

4月20日

 伝道とはクリスチャンが聖書の福音を告げ知らせ、主なるキリストを信じるように説くことです。
 この活動は伝道的説教や個人伝道など様々な方法を含めて、個人的なものであったり、或いは公的なものであったり致します。一般に伝道は教会の第一義的な責任であって継続的に、また、ある組織 もってなされることが多いのです。
 一九世紀から二〇世紀において広く用いられた方法は、よく計画された伝道大会であります。けれども近年においては日々の職場での、あるいは家庭、近隣でのかかわりの中で個人伝道による立証という手段が一層大きく用いられるようになっています。
 個人伝道は主イエス・キリストに結びつけるために一対一、個人対個人の接触を意味します。すべてのキリスト者は生計を立てる手段を持っているのですが、同時に主の恵みに生かされている事実を立証しつつ、いつも生活していくのです。
 キリスト者が職場あるいは近所で、また友人知人関係で生じる何気ない接触を、証しの機会と変えてゆく時こそ、伝道の時といえましょう。しかし当然のことながらご聖霊のお助けは絶対必要であります。サマリヤの女との対話の中で伝道なさった主イエスの模範に見習いましょう(ヨハネ四・四~二六)。

4月19日

 「しかしふたりの目はさえぎられていて」(ルカニ四・一六)。このさえぎると言う言葉は、固くつかむ、しっかり捕らえる、或いは強制するという意味の動詞です。イエスの十字架の出来事を経験した弟子たち二人は、そのいまわしさから一刻も早く逃れようと、エマオヘの道を急ぎます。道すがら、自分たちがメシヤだと期待して従ったイエスが、事もあろうに十字架の死という悲惨な死を遂げたことを悲しみつつ語っていました。
 その時復活の主「イエスご自身が近づいて、彼らとともに道を歩」かれたのです(ルカニ四・一五)。しかし、悲しみと失意に心を閉ざしていた弟子たちの目は「さえぎられ」、復活の主を認めることができませんでした。何故でしょうか。弟子たちの心は空っぽになった墓だけに集中していた、捕えられていたからであります。即ち、過ぎ去ったことにこだわり、強くそこから一歩も出ようとしない姿勢にありました。ですからそこに誰が立っているかがよく分かりません。
 どうして屍がなくなったのか。どうして墓が空になったのか。その事で胸は一杯でありました。それがさえぎりとなって、ここにイエスが立っておられることを全く認められなかつたのであります。私たちも過去にこだわり、うしろ向きに生きる事のないように十分注意したいものです。信仰をもって生きておられるイエスを捕えましょう。

4月18日

 復活後の主イエスはデドモと呼ばれていたトマス(ヨハネ一一・一六、一四・五、二〇・二四、二八)の前に現れなさいました。しかし彼は復活の主とは直ぐには信じられませんでした。なぜでしょうか?イエスがこられた時、他の弟子たちと一緒にいなかったからだとヨハネ二〇・二四はその理由を説明しています。
 他の弟子たちは懸命に「(御復活の)主にお目にかかった」と説明しても一人トマスは釘あと、槍あとの傷口に自分の手をさし入れてみなければ信じられないと、不信の気持ちを訴えるのでした。
 もし彼が他の弟子たちと「一緒にいたら」どうであったでしょうか。きっと彼も皆と同じように栄光の主イエスに出会い驚きの中にも、信じられたのではないでしょうか。
 みんなと一緒、特に同信の友と一緒にいる時、私達は刺激と励ましを受けてその気になれる事も十分考えられます。時に孤独を愛することはあってもいいのですが、いつも単独、孤独を愛する者であってはなりません。私達は交わりの存在だからです。主に在る兄弟姉妹と共に進みゆくものでありたいと願います。特に人がその一生を終える時の最高の過ごし方は、最後まで自分の親しい者と共にいる事ではないでしょうか。交わりの無い中で一人頑張るのではなく、誰かと手を握れる関係を作っておきたいものです。

4月17日

 私たちクリスチャンの価値基準はどこまでも「聖書」一冊です。ところが異端の統一原理講論第一章創造原理には「絶対的な価値の基準である神」という表現が出てきますが、しかし進むにつれてそれは「天のお父様(文鮮明)のみ旨」が絶対の基準ですという概念にすりかえられます。「原理の基準では…」と繰り返し言われ、一般常識や倫理とはまったく異質の、統一教会独自の価値観を植え付けていくのです。また、原理に対して疑問を抱いたり批判的になることは「心霊の基準が低い(下がった)」とされ、決してそうした気持ちを持たないよう逆に鼓舞されるように仕向けられるのです。統一教会の教えや、やり方に対して冷静客観的に判断することを許さ耐い、舞台装置の一つとなっています。誠に恐ろしい事であります。
 私たち正統的プロテスタント教会の全ての行動判断の基準にまずもってくるものは、神の言葉「バイブル」であります。これを正しく解釈して、聖書の神はどう仰せられているか、神の御旨を正しく捉えていくのであります。
 決して似て非なる偽キリスト教にだまされてはなりません。「聖書の預言(神の言葉)はみな、人の私的解釈を施してはならない、ということです。なぜなら、預言(神の言葉)は決して人間の意志によってもたらされたのではなく、聖霊に動かされた人たちが、神からのことばを語ったのだからです。」(第二ペテロ一・二〇~二一)

4月16日

 信者は神の僕です。主人より特別の使命、任務を委ねられた者達です。故に彼らはこの任務を遂行するまでは死んではなりません。いやその時までは死なないのです。リビングストンは言いました。「私達の天職が終わるまでは不滅であろう」と。
 この一句はキリスト者の確信でもあります。クリスチャンに与えられた天職とはいう迄もなく福音の使者として、主を伝え、主を証ししてゆく事にあります。この伝道の一事を果たす迄は私達を主は死なせないのです。また、ローマ書一〇・一のパウロのことばの様に、「私が心の望みとし、また彼らのために神に願い求めているのは、彼らの救われることです」と終生祈りこんでいくことです。
 しかしこの為の御用が終われば死んでゆくのです。私達は今いたずらに死を恐れる事はありません。「土地をふさいでいる」(ルカ一三・七)生涯を主は送らせなさいません。主の為にある私共の人生です。主のお役に立たない長寿は祈るべきではありません。既に主に栄光を帰さない自己の安心立命のみに腐心する者、まして主の道を伝え、証しする事をしない者は、あなたの地上の役目は終了せり、と言って主は私共の命を取り給うのではないかとも思われます。
 しもべは主人の用を完遂し終わればそれで大満足であり、死んでもよいのです。主に従いましょう。例えその道が多くの人が歩まない細き道でありましょうとも…。

4月15日

 この世の中には昔も今も自らの体の一部にいわゆる障害(この単語を使用する事自体に批判がある時代ではありますが使わせて頂く)をおもちの方々は少なくありません。その原因についてキリスト在世当時、弟子達はイエスに尋ねました。罪の結果そうなったのかと。その答えは有名な「神のわざがこの人に現れるため」(ヨハネ九・三)の一言でありました。ではその神のみわざ、神の栄光が現れるためとはどのようなことでしょうか。
 即ち、その障害故に常人では到底味わえぬどん底の苦痛の結果、遂には自殺まで考えざるをえない所まで追いつめられた人間が、イエス・キリストとの出会いを契機として救われ、絶望から希望へと、悲しみは喜びへと、呪いと不満は感謝の祈りへと大転換していったことを指すのです。更には積極的に他者に対し、自ら身をのり出して実際的に何の助けの手を差し伸べられないとしても、ただ一つ「祈り」の手段をもって執り成しの祈りの勇者となり、あるいは、さらに伝道者となって福音を伝えて神と人に仕えていくことなどが、主の栄光を現すことになるわけです。

4月14日

 「神は、そのような無知の時代を見過ごしておられましたが、今は、どこででもすべての人に悔い改めを命じておられます。」(使徒一七・三〇)
 人間は悔い改めることによってのみ、神の裁きを迎える準備ができます。すなわち「神は、お立てになったひとりの人により義をもってこの世界をさばくため、日を決めておられるからです。そして、その方を死者の中からよみがえらせることによって、このことの確証をすべての人にお与えになった」(使徒一七・三一)からです。歴史はこの裁きに向かって進んでいますが、その到来が遅いように思えるのは、神が「ひとりでも滅びることを望まず、すべての人が悔い改めに進むことを望んでおられ」(第二ペテロ三・九)、忍耐深く待っていて下さるからです。
 けれどもこのような神の忍耐を考えず、「人々は、その手のわざを悔い改めないで…偶像を拝み続け、その殺人や、魔術や、不品行や、盗みを悔い改めなかった」(黙示録九・二〇、二一)のです。彼らは神の御名に対してけがしごとを言い、悔い改めて神をあがめることをしませんでした(黙示録一六・九)。しかし未信者ばかりでなくクリスチャンも悔い改めなければみな滅びるのです(ルカ一三・三、五)。でも自分が悔い改めた後は、未信の人たちに対して「この曲がった時代から救われなさい」(使徒二・四〇)と叫びたいものです。

4月13日

 自分自身の状況がどんなに悲惨に見えても有りのままを受け入れ、失望・絶望することなく、むしろその深刻な状態を主イエス・キリストを信じることによって、喜ぶことさえ出来るようになったらどんなにその人の人生は自由で、大らかなものとなるでしょう。
 水泳の飛込み事故で手足が完全にマヒし、不屈の闘病生活の末、奇跡的に画家として社会復帰したジョニー・エレクソンという女性は「知恵があるということは、なぜ、神はこんな事をするのかと神を疑うことではない。私は今や神が全てを取り計らっていることをごく自然な気持ちで感じられようになった。それは盲目的になったり、禁欲的になつて受け入れるということではなく、神の存在を知り、それを信じきることが私の道だと分かるということなのだ」と語っております。
 「神を愛する人々、すなわち、神のご計画に従って召された人々のためには、神がすべてのことを働かせて益としてくださることを、私たちは知っています」(ローマ八・二八)とパウロのように告白して勝利の人生を歩んで下さるよう願います。とにかく全ての不幸の現実を感謝と受けとめられる迄になりたいものです。さてそのようになるにはまず自分を造られた方、すなわち創造主がおられ、彼はわたしをこよなく愛しているゆえに、救い主イエス・キリストを賜ったことを確信して頂きたいと思います。

4月12日

 復活の主イエスは、まず泣き悲しむ女性たちの傍に、それからユダヤ人を恐れて室内にいる弟子たちの所に、さらに疑うトマス個人の前にそれぞれ現れて下さいました。これらの後もう一度ご自分を弟子たちに現されたのは、ペテロたちが漁に出て一晩中労しましたが、何も取れなかった夜明けの湖畔の岸でした。
 主イエスは収穫のない彼らに舟の右側に網を下ろすよう命令されます。弟子たちはイエスとは知らず従ったとき、おびただしい魚が取れたために、始めてそこに立っているのが、復活の主であることに気づきます。
 私たちもすぐそばにイエスがおられるにもかかわらず、何か起きるとすぐに驚きあわてふためいて大騒ぎ致します。でも心配しないようにしたいと思います。不漁、不作、失敗、ダメな時こそ主イエスは憐れみのみ手を差しのべて下さるからです。「信じない者にならないで、信じる者になりなさい」(ヨハネ二〇・二七)とは復活の主の言葉です。豪華客船タイタニック号が北大西洋航路のカナダ沖で氷山と衝突して遭難、沈没したのは一九一二年四月中旬のことでした。この時賛美歌三二〇番「主よみもとに近づかん」を歌って海の藻屑と消えていった乗客約二二〇〇人のうち、約一五〇〇人は主イエスへの信仰を抱いて天国に旅立って行った人たちでした。

4月11日

 エペソ人への手紙三・一四~二一までのパウロの壮大かつ深遠な「祈り」に触れていると、彼のいる場所が「獄舎」であることを忘れさせる程であります。なぜなら獄中に幽閉されている時、人間を襲う危機は、絶望感、孤独感、不安と恐怖、猜疑心など精神的閉鎖状況の救いようのない点だからであります。この時思考は極端に鈍化し次元の低い欲求のとりこになるのが普通だからです。
 しかしここにはそうした影が少しも見られないのは、彼がエペソの人々に対して祈った祈りをそのまま生きていたからに他なりません。彼の内なる人の強さ、そうさせるべく彼に働きかけている永遠者の強力な働きかけ、父なる神の無尽蔵の富、彼自身に宿り続けるイエス・キリストのアガペー愛の広さ、長さ、深さ、そしてその充満などが、彼をして明るく生かしめていったのではないでしょうか。
 現代の空前の魂のうつろと荒廃の時代に神の充満(プレローマ)の祈りは、空虚と荒廃の打開と克服への道しるべとなっています。非常に急いで書きながら何と深い内容の祈りに結晶していることでしょうか。「教会により、またキリスト・イエスにより、栄光が、世々にわたって、(父なる神に)とこしえまでありますように。アーメン」(エペソ三・二一)と祈るだけであります。

4月10日

 教会成長をどれほど考えていても現状は変わりません。現状維持ほど楽なことはありません。現状維持型は一見温かく、問題が少ないように見え、気楽でもあります。犠牲がいりません。しかし、ともすると気ままな信仰生活に落ちていく危険性があります。しかも活気もなく、勝利感もありません。危機感も緊張感も責任意識も薄らいで参ります。自分だけ満足している自己中心型の信仰になって参ります。これでは幾らかけ声だけで教会成長を唱えていても、一向に現実は変わっていきません。そこで成長を願う故に、今少しあなたなりに伝道、証の犠牲を払われませんか。
 例えば(1)電話をかけ安否を問い、人々を礼拝にまた家庭集会・セルチャーチに誘う。(2)ハガキ、手紙、パソコンのEメール、ホームページなどで主の恵みを語る。(3)キリスト教の印刷物を発送する。(4)日曜礼拝出席の約束を取り付けて自動車(マイカー)で送迎する。(5)説教テープを送る。(6)たまにはお食事に招待して心を割って話し、聖書を語る。(7)日曜礼拝の午後は定期的に一人の方を訪問するなど、無数の伝道チャンスを捕えて、とにかく宣教第一でご聖霊に満たされ前進下さい。涙の種蒔き(詩篇一二六・五)といったら大げさでしょうか。とにかく犠牲を払っていく時、教会成長は主が助けて下さいます。

4月9日

 「アーメン」というのは、旧約のヘブル語で「それは確かである」「確かにそうであれ」「まことに、本当に」という意味の言葉。これは本当だと事柄の真理性を保証する言葉です。
 これを主イエスは二つ重ねて(ヨハネ福音書では二五回)用いておられます。ということはこれから話すことは特筆大書すべき重大な真理であり、これは絶対に本当なのだという風に、特に強調する趣旨で使われました(ヨハネ一・五一、三・三、五、一一、五・一九、二四、二五、六・二六、三二、四七、五三、八・三四、五一、五八、一〇・一、七、一二・二四。一三・一六、二〇、二一、三八、一四・一二、一六・二〇、二三、二一・一八)。
 初代教会では次の三通りに用いました。・礼拝で唱和される典礼的用語として(第一コリント一四・一六)教会の公のさんび、頌栄、祈り、祝祷、手紙などの結びの言葉として(ローマ一・二五、九・五、一一・三六、一五・三三、一六・二七他)。
 アーメンの本質は、神の約束の成就についてのゆるぎない確信、承認であることから、キリストご自身が「アーメンである方」(黙示録三・一四)と呼ばれました・クリスチャンはいつもお祈りの最後に「アーメン」を必ず言います。それは今わたしが祈った祈りは、わたしの心からの祈り、真実を込めての祈りですの意味を含んだ結語でもあります。

4月8日

 教会ではキリストの地上生涯最後のエルサレム入場の日、すなわち「棕櫚の日曜日」(パームサンデー)から始まる一週間を、全人類の救い主イエス・キリストが十字架にかけられた金曜日(受苦日=グッドフライデー)を含む受難週(パッションウィーク)として守っています。
 キリストの受難については、旧新約聖書を通して明らかにされていますが(イザヤ五〇・六、五三・五)、特に使徒の働きにおけるペテロの説教の中で明言されています。「神は、すべての預言者たちの口を通して、キリストの受難をあらかじめ語っておられたことを、このように実現されました。」(使徒三・一八)
 さらに福音書記者ルカは使徒一・三で「イエスは苦しみを受けた後…」とも記しています。でも弟子たちはメシヤとしても主イエスの苦難の意味を、主が復活するまでは完全に理解していませんでした(マタイ一六・二一~二八、マルコ九・三一、三二、ルカ九・四三~四五、一八・三一~三四)。従って主イエスのエルサレム入城(しゅろの主日)から始まる一週間の重要性についても、余り大切に考えていなかったように考えられます。
 現代の私たちは歴史の舞台に登場され、間違いなく贖罪のため十字架上にあげられたイエスの苦痛の意味を充分かみしめるキリスト教徒でありたいと思います。いのちの大恩人イエスの十字架を喜んで担う者となりましょう。

4月7日

 イエス・キリスト様は復活後四〇日間弟子たちを始め、多くの人々の前に現れて自らが確かに十字架にかけられ、苦しみを受けて墓から甦ったメシヤであることをお示しになりました。これらのことは四つの福音書の最後の部分に、歴史の事実として記録されています。ですから実際に自らの目で見たマタイ、マルコ、ルカ、ヨハネだけではなく、イエスの直接の弟子たちも、或いはイエス昇天後、霊的にイエスに出会ったパウロたちも、皆イエスの十字架と復活を証言して参りました。
 霊的と言えば現在の私たちも主イエスを肉眼で見ては居ませんが、また見ることはできませんが、聖書に記されている復活の主を「信じて」、確かにイエス様は私の全存在の中で生きて助け、守り、導いていて下さっていることを実感しています。信仰によってイエス・キリスト様と一つにされております。感謝です。
 ですから私たちは自らの体験から自信をもって「主イエスはよみがえられました」と証言することができます。キリストは現在、天に着座し、代わりに聖霊を送って、聖霊を通して慰め、励まし、教え、導き、助けなど、様々な働きをもって私共とつながりを持っていて下さる救い主です。この方をもっともっと未信の人々に紹介していこうではありませんか。
 「私たちの父祖たちの神は、あなたがたが十字架にかけて殺したイエスを、よみがえらせたのです。…私たちはそのことの証人です。」(使徒五・三〇、三二)

4月6日

 「弟子=ディサイプル=Disciple」は[師]に対応する語で、旧約にはイザヤ八・一六に一回登場します。新約聖書には二六九回、福音書と使徒の働きに限定されて用いられています。その中、ごく少数の個所では「ヨハネの弟子」(マタイ一一・二、マルコ二・一八)、「パリサイ人の弟子」(マタイ二二・一六、マルコ二・一八)という語もありますが、大部分それは「イエスの弟子」であります。
 彼らは身も心も主イエスの人格に結びつき、その使命達成のために従って行った者でした。けれどもイエスの直弟子一二人(マルコ三・一三~一九)だけが弟子という訳ではなくて、イエスを信じ、イエスの感化、教育、訓練を受けようとする者は皆イエスの弟子でした(ヨハネ六・六〇~六六、ルカ六・一二~一三、使徒六・一)。なお、イエスは弟子としては何か知的に特別すぐれた者を召したのではなく、むしろいやしい者、罪人、取税人たちを召したまいました。
 今日でも、キリストのことばを受け入れ、従おうとする者、即ちキリストの言葉にとどまっている者は誰でも「主の弟子」なのです。「弟子」という考え方の中には、人格的な献身(口先だけでなく)、証し人、しもべという三要素が含まれています。また、使徒の働きでは、イエスをメシヤと告白する全ての人びと即ちクリスチャンを弟子(「兄弟」「信徒」と同義語)としています。

4月5日

 救世軍創立者のブース大将が見たという夢のお話。キリストが釘つけられた十字架の目の前に自分が立たされています。その苦しみを見るに忍びない、何とかしてお助けしたいと思うのですが、夢の事とて足が進みません。いらいらしている時、一人の小柄な男がはしごを担いで十字架に行き、それを上がっていったので、あぁ良かった、救いに行った人がいたと思ったら、その男はやにわに腰から金鎚をとって、釘が抜けないように、さらに打ち込んだというのです。そして振り向いてニヤリと笑ったその男の顔を見たら、それが自分の顔だったという事です。
 何とも耐えられない夢ですが、これが私達の現実と言っても過言ではないでしょう。十字架上のイエスのご苦難は、それが神の御旨としてもまことに申し訳ない気持ちで心も引き裂かれる思いです。やはり十字架は私の罪の結果だとすれば、主よ、お許し下さい、あなたを十字架にかけたのはこの私でございますと、打ち砕かれて赦しを乞いましょう。受難週に当たっていよいよへりくだって主の前にひれ伏したいと思います。更に、私たちの古い生れつきのままの人間性を十字架につけて参りましょう(ローマ六・六)。又、誇るなら十字架のイエスのみを誇りましょう(ガラテヤ六・一四)。そして十字架のキリストを宣べ伝えましょう(第一コリント一・二三)。

4月4日

 四月(APRIL)という言葉は、ラテン語の「開く」という意味の動詞からきていると言われます。なぜならすべてのつぼみとすべての花は、今や開かんとし、私達は花の季節の門口に立っているからです。友よ、もしあなたがまだ主イエスによって救われていないのなら、この万物が目ざめる季節にあなたの心が開かれて、主イエス・キリストを受け入れることができますように。咲いている花はすべて「今は神の国を第一に求むべき時です」と告げているのです(マタイ六・三三)。今は恵みの時でもあります。神の恵みに逆らうようなことをしてはなりません。あなたの心に聖なる願いの花を咲かせましょう。
 私が満二十歳の思春期にクリスチャンとして選ばれ召されたのは幸いでした。故にそれ以後半世紀、日毎に主をたたえ、感謝しているのです。私は、今、あなたがキリストの救いを受けられますようにと願います。特に若者たちよ、青春時代にこそキリストをわが最良の友とされることを祈ります。血気盛んな若人よ、あなたをこの地上に生み出されたお方を発見して下さい。若い時は二度とないのだから自分の好きなように面白おかしく楽しく過ごそうではないか、ではなく、「あなたの若い日に、あなたの創造者を覚えよ」(伝道者の書一二・一)と聖書にあるように、この主なる神にあって成功あるすばらしい道を切り開いていって下さい。神の祝福を祈ります。

4月3日

 今日私どもの間において必要なものは信仰の復活です。個人信仰の復活であります。個人個人の信仰が燃えていれば伝道の進展は見られ、教会は大いに活性化されてゆくでありましょう。
 復活後の主イエスは、ユダヤ人を恐れて戸を閉じてふるえている弟子たちに、「平安があなたがたにあるように。父がわたしを遣わしたように、わたしもあなたがたを遣わします」といって、彼らに息を吹きかけて更に言われました。「聖霊を受けなさい」と(ヨハネ二〇・二一~二二)。その後ペンテコステの日、彼らは文字通り聖霊を受け、宣教、伝道、証の力を頂きました。
 信仰復活、リバイバルされた人たちの中でも特に、漁に行くと言って失望落胆していたペテロ(ヨハネ二一・三)などは、原始キリスト教会を設立していく大立役者として、主に大いに用いられて参りました。使徒の働き三章一~一〇の「美しの門」の前に運ばれてきた生まれつき足のきかない男が、ペテロの一声によって直ちに癒された記事など読むと胸がわくわくいたします。
 世紀末の今日、私どもの信仰も復活され、大胆にこの闇の世の中に切り込んで行きたいものです。世の人々は霊的に枯れ、死んでいます。彼等の霊がよみがえらされ、「イエスは主なり」との告白に至るまで、遣わされたものの使命を全うしていきたいものです。

4月2日

 クリスチャンは誰でもキリストのご愛を伝えたいと願っています。その為にまず伝道したい方のお名前を頭に刻みこんで、懸命に祈りはじめねばなりません。教会にお誘いする前にとにかく祈りましょう。信じて、忍耐をもって主に叫び求めましょう。決してあの人は駄目だろう、などと自分の推測、判断で名前をカットしないようにしたいものです。なぜなら神様に不可能は無いからです。全能者なる神に全てを委ねて、教会にお導きしたい方のため、朝に、夕に感謝と喜びに満たされて祈り続けましょう。ご聖霊は働いてくださいます。そして、み霊に示された時お誘いの声をかけてみましょう。
 「少しも疑わずに、信じて願いなさい。」(ヤコブ一・六)
 さて救世軍の山室軍平は、「救わんがために救われてある」と語ったそうです。お互いにわたしのような者が救われたのだから、あの祈っている方が救われないはずはない、とイエスを信じて与えられた、注入された救いの恵みを分かち与えていくのが伝道であります。福音の恵みをひとりで占領せず、お相手にも提供していく心からの愛がほしいものです。主の恵みを流していく水道管のように主に用いられる一本のパイプになろうではありませんか。人を根本的に変えられるのは、もちろん神でありご聖霊の働きですが、しかしわたしたちが何もしなくていいのではありません。祈り伝える努力も必要です。

4月1日

 イエス・キリストは幻影でもなければ、単に人のように見えた幽霊のような方でもありませんでした。ダビデの子孫として「女から」すなわち処女マリヤから生まれた(ガラテヤ四・四、マタイ一・二一)、歴史上の「ひとりの人」で(ローマ五・一五)、私たちと少しも違わないこの地上に生存した方なのです。ですから私たちと同じように成長し(ルカ二・四〇、五二)、人々と共に飲食し、ある時には空腹を覚え(マルコ一一・一二)、疲れ(ヨハネ四・六)、眠り(ルカ八・二三)、涙を流し(ヨハネ一一・三五)、怒り、嘆き(マルコ三・五)、悲しみ(マルコ一四・三三、三四)、いつくしみ(マルコ一〇・二一)、愛し(ヨハネ一一・三)、祈り(マルコ一・三五、マルコ一四・三五)、最後は十字架につけられた(マタイ二七・三五)間違いなく受肉された方であります。
 ただ私たち人間と違うところは、色々と試みられましたが少しも負けず、罪に陥ることはなく、罪とは全く無関係という点であります(ヘブル四・一五)。この神の独り子イエスは、人としては私たちと少しの違いもありません。ですからイエスは幻影でもなく、架空の想像的人物でもなければ、神話の中の一人物でも無いのです。イエス・キリストはどこまでも歴史と時間の中に生きた純然たる一人の「人間」として、しかも全人類の救い主としてこの世に存在されたのです。