2月28日

 父なる神は人間の罪悪に対してさばく神でもありますが、主イエスによって赦す神でもあります。昔、イエスは中風の人に「子よ。あなたの罪は赦されました」と言われました(マルコ二・五)。また罪を悔い改める者を、父の愛をもって迎え入れる赦しの神なのです(ルカ一五・一~三二、一八・九~一四)。そして、キリスト(救い主)と告白されるイエスは、この世では「主(LORD)キュリオス」と呼ばれ、父なる神との関係においては神の子(SON OF GOD)と呼ばれました。
 いずれにしても新約聖書における神は、旧約の神信仰の基礎に堅く立ちながら、新しい強調点を示します。すなわちイエス・キリストの父なる神は(エペソ一・三)、「みこころのままに、私たちをイエス・キリストによってご自分の子にしようと、愛をもってあらかじめ定めて」(エペソ一・五)おられた神でもあります。けれどもイエスにおいて啓示される神は旧約と同じ神であり、旧約で約束されている救いの計画は新約において実現したのです。
 パウロの牧会書簡では、神は人間との関係では「救い主」であります(第一テモテ一・一、二・三、四・一〇。テトス一・三、二・一〇、三・四)。その救いは、キリストの十字架と復活とを通じて、神の賜物として与えられるので、キリストも同じく「救い主」とよばれています(第二テモテ一・一〇、テトス一・四、三・六)。

2月27日

 忍耐とは「待ち望むこと」です。「あなたこそ、私の救いの神、私は、あなたを一日中待ち望んでいるのです。」(詩篇二五・五)。忍耐の模範は、何といってもイエス・キリストであります(使徒八・三二、イザヤ五三・七、ヘブル一二・二~三、第二テサロニケ三・五、黙示録一・九)。その他初代教会時代の信徒たちの忍耐は、黙示録一・九、二・二、三、一九、三・一〇、一三・一〇、一四・一二に記されています。ところがさらに忘れてならないのは「神の忍耐」(ローマ二・四、三・二五)ということです。
 「昔、ノアの時代に、箱舟が造られていた間、神が忍耐して待っておられた」(第一ぺテロ三・二〇)とある神が「あなたがたに対して忍耐深くあられるのであって、ひとりでも滅びることを望まず、すべての人が悔い改めに進むことを望んでおられるのです」(第二ペテロ三・九)と聖書は語っています。もし神が忍耐して下さらなければ、すでに遥か以前に主はその手を振り上げて、この世を一掃しておられたに違いありません。地球が壊滅に至っていないのも神の罪人に対する寛容さの結果であり、人間の不義と犯行と不真実にも屈せず、主である神は憐れみをもって、罪人たる人間を救わんと忍耐しておられるからです。「私たちの主の忍耐は救いであると考えなさい」(第二ペテロ三・一五)。憐れみ深い神様が待っておられる間に、救いを一刻も早く受け入れようではありませんか。

2月26日

 アコールセインは、従うことを意味するギリシヤ語の動詞です。聖書は神の言葉として私たちに多くの戒め、警告、アドバイス、指示などを与えていてくれます。ですから神の声として素直に聴き従いたいものです。
 用法としては一般的に「指揮官や上官に従う兵士」について用いられます。キリスト者としては、総指揮官であられるイエスのご命令に主の兵卒として(第二テモテ二・三)忠実に従っていきたいものです。
 第二には主人に従ったり、仕えたりする奴隷に用いられています。私たちの仕えるご主人はもちろん創造主であり、御子イエスですからこの方にも言うまでもなく文句なしにハイと、けれどもむしろ喜びと感謝をもって服従いたしましょう(ヨハネ二一・一九)。
 第三には人の忠告や意見に従うことにも用いられています。クリスチャンとしてへり下って第三者の助言や指示などにも、主に従うように従いたいものです。
 第四に法律に従うことにも一般的に用いられています。神の国のおきては、やはりみ言葉の中にある訳ですから天国の市民権を求めるものとして、この国の法律(LAW)、権威にも従うことを誓いたいと思います(ローマ一三・一)。
 いずれにしても主の選びと召しに答え、主の声に聞き従っていくことは光栄であり、特権であり、喜び、祝福、救い、感謝であります。決して、あの金持ちの青年が主イエスに従うことを拒否したようなことがあってはなりません(マタイ一九・二一以下、ルカ一八・二二以下参照)。

2月25日

 一九七〇年にカナダのある科学者が「今後五〇年間に人類は絶滅するかも知れない」と言った事が伝えられました。信仰の有無にかかわらず、人類一般は以前にも増して切実に終末の危機感を覚えています。終末の徴についてはマルコ一三・三~一三にも記述されています。終末についての弟子の質問は、神殿崩壊と強く結びついていますが、しかし又イエスの再来にまつわる事象に重点が置かれている事に注目しなけれぱなりません。
 彼らの質問もはっきりと「あなたの来られる時や世の終わりには、どんな前兆があるのでしょう。」(マタイ二四・三)と尋ねています。弟子達の質問に対し、第一は一般的前兆であって、偽メシヤの出現、戦争の開始とその噂、各地での飢餓や地震(四~八節)、第二は信仰者に直接ふりかかる災難で外からの離脱者、裏切り者、偽預言者の出現、相互不信と信仰の衰退です(九~一二節)。以上の言葉使い、表現の仕方にはダニエル二・二八、イザヤ一九・二、第二歴代誌一五・六が引用されます。第一と第二に共通するのは、冷静さと忍耐をもって「惑わされないように」(マルコ一三・五)という事です。いずれにしてもイエス・キリスト再臨の近い現代、「目をさまし、注意して」生活したいものです(マルコ一三・三三)。現代教会員にも当てはまる警告文として、信仰をもって真剣に受けとめてゆきましょう。

2月24日

 敗北と失敗を何度も経験した後、国政の場に登場したアブラハム・リンカーンを紹介致しましょう。
 彼の最初の政治的つまずきは、イリノイ州議会の議席を得ようとして落選したことでした。この落選による負置を返済するのに、二〇年近く要したのです。次に彼は結婚しようとしていた女性を亡くしました。後日別の婦人と結婚しましたが、彼女は「彼について離れないとげ(刺)」となりました。
 けれどもリンカーンの、同胞と主なる神に仕える意志は固く、下院議員になろうと立候補しましたがこれまたダメでした。三回目は上院議員になろうとしましたが政敵に負けてしまいました。
 これだけ失敗すれば大ていの人は勇気を失ってしまうでしょう。でも彼は違いました。より高い目標をめざして前進したのです。一八五六年にも上院議員をめざしてダグラス氏に敗北しました。友人たちはビジネスの世界に入るようすすめました。けれども遂にアメリカ合衆国第一六代大統領(一八六一~六五)として当選し、南北戦争下、奴隷解放のため活躍したのでした。今日彼の名前を知らない人は殆んどいない程です。
 私たちもどのような試練の中にも主イエス・キリスト様のあがないの恵みを、即ち、罪の赦しを大感謝してすべての事に勝ち得て余りある幸いなクリスチャン生活を続行して参りましょう(ローマ八・三七)。

2月23日

 主イエスは「わたしの時はまだ来ていません」(ヨハネ二・四)と言われました。それは受難の為のエルサレム入都の時が来ていない。という事は、定められた十字架上の死と栄光を受ける時がまだ来ていない。繰り返せば、十字架と復活による神の栄光の現れの時が、或いは、救いの計画がイエスによって実現、成就される時がまだきていないと、言われたのです。その時までイエスご自身は神の子であることに徹して教えとわざの遂行に集中されます。
 そして、この時は普通一般の時「ホーラ」ではなく、父なる神が定められた十字架にかかる時「カイロス」がまだ来ていないと言われたのです。主イエスは決して勝手気侭に行動なさいませんでした。十字架、復活にも全て正しい時、適切な時、絶好な時があったのです。
 伝道者の書三・一にも、「すべての営みには時がある」と記されている通りです。イエスといえども行動すべき時は、神の手中にあるとして自分の好みや判断で動かれませんでした。この仮庵(かりいお)の祭りの時が受難の時ではありませんでした。主はどこ迄も従順に神の御旨のうちを歩まれました。私たちにも、戦い、前進するすべてに時があり、あるいは退き、静まるに時があります。祈り深く主の御旨の中を適切に行動してゆきたいものです。グッドチャンスを生かしてゆきたいものです。

2月22日

 キリスト教真理の内容、中身は福音の中に示されています。パウロは旧約の律法の真理というユダヤ教の表現を「福音の真理」(ガラテヤ二・五、一四)または「真理のことば」(コロサイ一・五、エペソ一・一三、第二テモテ二・一五)という表現に置き換えています。
 その真理を悟る為には悔い改めなければなりません(第二テモテ二・二五)。また人は信仰によって福音の真理を受け入れますが、真理を愛さない人は救われない(第二テサロニケ二・一〇)。故に、クリスチャンとは真理(アレセイア)を 受け入れ、真理を愛し、真理を知っている(第一テモテ四・三)人のことであります。
 真理は、おおいを取り払って事実をあらわにする、という意味をもっています。このことは「真理を明らかにし」(第二コリント四・二)に見られます。そして、その真理とは、キリストを指し(ヨハネ一四・六)キリストへの信仰の事に外なりません。ペテロとヤコブの手紙では信仰者は真理の言葉、神の言葉によって新しい命に生まれ変わった者とされています(ヤコブ一・一八、第一ぺテロ一・二三)。
 従って一端歩み出したこの真理の道から迷い出ることなく(ヤコブ五・一九)主の再臨に備えて、真理に堅く立っていなければなりません(第二ペテロ一・一二)。いずれにしても神はすべての人が救われて、真理を知るようになるのを望んでおられるのです(第一テモテ二・四)。

2月21日

 最近(一九九九年)は高度情報通信社会(メディア社会)、とか電脳空間(サイバースペース)時代などと言われ、コンピュータはもう小学校でも導入される時代に入っています。インターネットを開く、Eメールを送るなどと言っても、こうした言葉にもなじみが薄い面もあるかもしれません。けれども会社、企業、お役所など様々な部分社会にはコンピュータはもう必然的なものです。
 ホームぺージを開いて教会諸集会のプロパガンダ(宣伝、広告)がすでにあちこちでなされて、それなりの効果が報告されており、まさに変革の時代に突入しています。こうした社会の働きに注目しつつも、私たちは一人一人の魂と向き合ってイエスが個々人を大切にしていかれた姿に見習って、個人伝道を習得してゆかねばなりません。自転車が自動車となり、はがき、手紙がコンピュータに進歩してはいますが、文明の利器があるからと言って必ずしも人々が大
量に救われてくる訳ではありません。結局は「祈り」と「我と汝」という対話による個人伝道を重要視せねばなりません。
 とにかく人間は人格対人格の触れ合いの中で存在するものです。人に接していって始めて魂を獲得できると信じます。パソコンによるインターネット、ホームぺージその他あの方法この方法も重要ですが、まず恐れず人と向き合って主にある対話を始めてゆきたいものです(ヨハネ四・三~二六)。

2月20日

 忍耐(ヒュポモネー)は旧約聖書では「待ち望む」ことです(詩篇二五・三、五。イザヤ四〇・三一)。新約聖書の中でも高尚な語の一つです。
 新約聖書では、(一)艱難と結合して(ローマ五・三、第二コリント六・四、第二テサロニケ一・四)、(二)信仰と結合して(ヤコブ一・三)、(三)希望と結合して(ローマ五・三、一五・四~五)、(四)喜びと結合して(コロサイ一・一一~一二)用いられました。(五)一番多いのは永遠の栄光やいのちと結合しているもので、用例は多過ぎて全部は引用できないほどです(ルカ二一・一九、ローマ二・七、ヘブル一〇・三六、一二・一、第二テモテ二・一〇、一二、ヤコブ一・一二、五・一一)。
 主にある忍耐は、座って頭を垂れ、一風が過ぎ去るまで受動的にただじーっと耐えるのが忍耐ではありません。キリスト信仰を持って、明日への夜明けを待つ輝く希望の伴った忍耐です。旧約聖書のヨブも絶望の情況下で、パウロもまた逆境の只中で、初代教会時代のクリスチャンたちもみな、苦痛の彼方にある希望と喜びに満ちあふれつつ耐えていきました。あきらめ、沈黙、つぶやきと他者への嫉妬心そして悲哀感の中ではなく、讃美と歌声とキリストにある希望の中で私たちもまた耐えていこうではありませんか(使徒一六・二四~二五)。そして日本の伝道も忍耐の一字をもってさらに続行して参りましょう。

2月19日

 「この方(キリスト)以外には、だれによっても救いはありません。」(使徒四・一二)
 この度の(一九九三年三月)イスラエル旅行中、エルサレム市内のある小さなパン製造中のお店に立ち寄りました。髭をはやした人もいましたが、たくましい男性数人がパン粉を練り、炉で懸命にたくさんのパンを次から次へと焼いていました。ふとある片隅を見るとコンクリートの床の上にゴザを敷いて、一人の男性が決められた祈りの時間がきたのでしょうか、イスラムのお祈りを捧げているではありませんか。善きました!作業時間中です。しかし、そのような行為が許される社会なのです。
 「嘆きの壁」横の洞窟の中ではユダヤ教の人たちがこれ又熱心にトーラー(律法の書)を読んでいました。エジプト、カイロ市内は完全にイスラム社会ですから、日本に多くの神社、仏閣が建てられているように、モスク(寺院の塔に月のマークが必ずあります)がここかしこに建てられています。世界は広い。ユダヤ教社会あり、イスラム教社会あり、東南アジアにはわが国と同じ仏教的社会ありです。
 日本国内でも宗教は多様性を帯びています。そうした中で日本のキリスト者は例え少数派(人口の一%)であれ、冒頭の聖句の確信にしっかり立って忍耐をもってひたすらイエス・キリストの福音を伝えていきましょう。そして異教国日本にも主のリバイバルの時の訪れを確信したいと思います。

2月18日

 主イエス・キリストはルカ九・五七以下で主に従っていくに際しての心備えを説いておられます。第一の人には、自分には枕する所もない位の厳しい生活を強いられることもあるが、それでもよいか、それでもついてきますか(同五八節)と問うておられ、第二の人には、向こうからの申し出はないけれども、イエスご自身から「私についてきなさい」と命令され、かつ相手の言い分を訂正しつつ、「あなたは出て行って、神の国を言い広めなさい」(同六〇節)と今後の使命、任務を与えておられ、第三の人には、やはり従うのなら今すぐ、ぐずぐずせず直ちに従うのが弟子としてのあるべき姿だ(同六二節)といわれています。
 私たちも従うのは従うのだが、イエスの一言葉には素直にすぐハイと言えず、いろいろ理由づけしてのばしのばしにしてからようやく従うという面はないのか反省したいものです。
 優先順位第一は何といっても神の言葉、主イエスのご命令に対してであります。神の御国の宣教行為はクリスチャンにしかできないこと、他の世俗のことは未信者にでも出来ること。この区別をはっきりさせてただひたすらに主に従い続けていきたいものであります。
 しかしながら私たちがイエスに従うのは、決して自分の自由意思に反して無理矢理従うのではなく、どこまでも神の御子に対し畏敬と信頼と納得とをもって、喜んで即座に従うものであります。

2月17日

 プロテスタント福音派の特にペンテコステ、カリスマ派から起こってきた現代の聖霊運動は「霊の戦い」や「カの伝道」「聖霊の第三の波」 などといった言葉で呼ばれています。こうした聖霊運動の主体はご聖霊様であることはいうまでもありません。聖霊に対してなぜ「様」をつけるかといえば、ご聖霊は生きて働いておられる第三位格(ペルソナ)をもっておられる神様その方の霊を指しているからです。旧約聖書においてヘブル語で聖霊をルーアハといいますが『風、気、息』を意味し、人間の内に吹き込まれた命の息を指します。最近のテレビの映像では陰陽師と称する神主の服装をした人物が悪霊払いをしているシーンを映し出しています。まさに悪霊のかしらが悪霊を追い出しているものです。
 今や不況下の中でともすると不安と混迷を覚えつつ一般大衆はもがき苦しんでいるといっても過言ではありません。こうした時代状況のもと私たちは真実、まことの神を礼拝し、この唯一聖い霊をもち給う十字架と復活の主イエス・キリストに守られていることを心より感謝いたしましょう。
 偶像礼拝者たち(お金も物質に対しても)を何としても悪霊悪鬼から私たちが主イエスの御名によって解放せねばなりません。ご聖霊にゆだね信じ、祈り、宣言しましょう。「主イエスの名によって命じる、サタンよ、退け」と。

2月16日

 「私は、あなたがたのために受ける苦しみを喜びとしています。そして、キリストのからだのために、私の身をもって、『キリストの苦しみの欠けたところ』を満たしているのです。キリストのからだとは、教会のことです。」(コロサイ一・二四)
 上記の二重かっこの中の言葉は、私たちを贖うために受けられたキリストの肉体的苦しみが不十分であったというのではありません。なぜなら贖いの苦しみは、キリストが十字架上で死なれた時点で完結したからです(ヘブル一〇・一四)。
 ではその意味するところは何でしょうか。すなわち、教会メンバーの苦しみがまだ不十分ですから、パウロは自らその苦しみを獄中で受けて喜んでいる、と言っているのです。キリストの為に受ける苦しみがまだ私なりに足りないので、その欠けたる所を満たしていると告白しているのです。このようにこの世に住むキリスト者は多くの苦しみを通って、成熟した大人になり、「キリストの満ち満ちた身たけにまで達する」のです(エペソ四・一三)。
 初代教会の弟子たちのように私たちも主のために、教会進展のために苦しみつつも、なお、「喜びと聖霊に満たされた」(使徒一三・五二)状況でありたいと思います。信仰生活は、ただ楽しい面ばかりではなく、当然ながらクリスチャンである故の辛さ、苦しさも味わいますが、感謝なのです。

2月15日

 世の中に金儲けに成功する方法とか自分の家を手に入れる方法とか入学試験に合格する方法とかいうハウツーものの本が一杯出ています。でも天国に入る方法という題名の本はまだ私は見ていません。しかし、キリスト教の聖書こそ、その中でもヨハネの福音書一四章六節のお言葉の中に天国に入る方法が、その道が示されています。
 イエスご自身「わたしは道です」と仰せられました。道を歩いていくと目的地にたどりつきます。道であるイエスに従ってゆくと必ず永遠の神の御国、天国にたどりつきます。それがイエスの約束でもあります。ですからこの世に何が起きようとも心を騒がせることなく、ただ父なる神のみ元に帰られて今はご聖霊をもって導き給う主イエス様の同行者として、この真理の道、天国への道、永遠の命ヘの道をひたすらコツコツと歩み続けたいと思います。
 疑うことなく主イエスを信頼して「わたしが道であり、真理であり、いのちなのです」(ヨハネ一四・六)という声に聞き従って尚も、クリスチャン生活を続けて参りましょう。このお方以外に神のみ国、真実 の神のもとに連れていって下さる方はないのです。イエスが父なる神のもとに行く唯一の道なのです。
 しかし、多くの人たちは神に至る道はキリスト教だけではないと主張しますが、私はこのお方だけを信じて毎日これからもお従いしたいと願っています。イエスはここでも神的な自己宣言「わたしは…である」の形をもって答えておられます。

2月14日

 主なる神は祝福を与えるために時と場所をまた人を備え用いられます。モーセなしに出エジプトは考えらませんし、ダビデなしにはイスラエル統一王国の成立も有りえません。
 ナオミとルツが何も考えないうちに、主なる神はボアズを、彼女たちの祝福のために備えておられました。彼はエリメレクの部族の中でも「有力者」すなわち金持ちであったのです。はからずもルツは、この有力者ボアズの畑に導かれ落穂拾いをすることになります。はじめての両者の出会いの中に神の摂理・導きを見なければなりません。天の神は貧しい二人の女性に助け手を準備して、彼女たちを困難の中から助けだしてくださいます。
 忠実に主のみ旨にそって生活していけば、神は私たちをほっておかれません。必ずや良き方向へと歩み進ませて下さいます。
 飢謹、帰郷、夫と息子たちとの死別、嫁との生き別れを覚悟したナオミだったのですが、優しい嫁ルツによって苦しむ(マラ)姑ナオミの境遇は次第に幸いな舞台へと変わっていくのでした。苦難の中にも失望、落胆することなく、ひたすら主を仰ぎ見、信仰の歩みを続けていくとき、奇蹟的な出会いが与えられます。ボアズは、か弱言一人の女性を救うために準備された、助け手であったことを再度強調したいと思います。あなたの行く手にもすでに神が備えたもう必要のすベてが存在することを確信しましょう。

2月13日

 「クムラン文書」について。一九四七年イスラエル死海西岸のクムラン洞穴中で、タアミレ族の一少年が偶然に古代の巻物を収めた「かめ」を見付けました。これこそ二十世紀最大の驚くべき聖書学的、考古学的発見でした。続いてその後一帯の十一の洞窟から出土された文献の総称で死海文書、死海写本とも言われます。ヘブライ大学の故E・スーケニック教授はその中の巻物の一部が本物の古写本であることを認めました。
 当時すでに、ツレヘム市の商人の手に売り渡されていましたので、長く困難な交渉の末、教授は「イザヤ書」「感謝の書」「光の子と闇の子の戦いの書」の完全な三巻を買い取りました。他の四巻、ハバクク書注解、宗規要覧、外典創世記、第二イザヤ書は一人の大司教によってアメリカに送られましたが、一九五四年イスラエルに買い戻す事ができました。現在これら永久保管所としてエルサレム市内に死海写本館(書物の神殿)が立派に建っています。なお、他の巻物の数千に及ぶ断片も発見され、ここに収められています。これらはエッセネ派が秘蔵していた文書の一部と考えられています。
 クムランは死海写本発見以前には全くかえりみられない土地でした。ここにBC一五〇年~AD六八年迄エッセネ派共同体の集落がありました。彼らはここで祈りと、瞑想に打ち込み、救世主の到来を待ち望んでいたのです。

2日12日

<祈祷会を盛んにしましょう>
 初代教会は祈り会から始まりました。使徒の働きの第一章を読んで下さい。共に集まり、共に祈る時、ご聖霊は運河を流れる奔流の様に、とうとうと私達を恵みに浸します。神のみ言葉と御霊に満たされ養われる時、私達の血管に命が走り、キリストの為、主の体なる教会の為、惜しみなく働く者とされます。
 使徒行伝は祈祷会を実施して祈る所から出発し、大胆に福音を伝える者を生み出してゆきました。祈祷会が盛んな教会は、伝道活動も盛んな教会です、とよく言われます。ある牧師は「祈祷会は教会の柱だと考える」と書いておられます。長い間教会生活をしていても、共に祈る事の喜び、醍醐味(だいごみ)を経験しないで過ぎていく方があるとしたら、それは大変残念な事です。いちど思い切って定例祈祷会に出席してみませんか。すばらしい主なる神の臨在体験にあずかり、身も心も文字通りリフレッシュされるでしょう。
 もしどうしても毎週の祈祷会出席が無理ならば、日曜日午後の時間を仲間と一緒に賛美し、聖書を読み、熱心な祈りの時としたらいかがでしょう。礼拝説教を聞いただけで終わらず、その意味内容を再度思い起しながら、祈祷課題に従って祈りましょう。また、自由に祈りましょう。聖霊に満たされて。ハレルヤ。

2月11日

 AD六九年から一五五年頃まで生きたスミルナ(現在のトルコ西部)の主教、使徒教父でもあったポリカープ(Polycarp)は、二世紀中頃の小アジアにおける指導的人物で、ことに東方教会に大きな足跡を残しました。彼は八六歳で殉教死をとげました。その様子は彼の死後書かれた「ポリカープ殉教記」で知ることが出来ると言われています。彼はその殉教記からもうかがえるように、すでに現在の新約聖書の多くを所有していたということです。また正統信仰の堅固な擁護者でもあり、多くの異教徒を改宗させ、マルキオンなどの異端に対して大いに反論、反対致しました。
 ポリカープは異教の祭りの時に捕らえられ、審問されて背教を迫られましたが、それを断固としてこばみ、むしろ彼は「聖書の主なる神は良いことを私にたくさんして下さった。どうしてその方にわたしが背を向けられましょうか」と言って、堂々と火刑に処せられていったと教会史は伝えています。このように主の弟子ポリカープは最後まで、条件をつけず完全に主に従って参りました。
 主のご命令に、主のみ言葉に、また主なる神とその独り子イエス・キリスト様の御旨に打算、計算、保身術をのりこえて徹底服従して最後の勝利を得て参りましょう。そして、その従う精神は強制されてではなく、喜んで自発的に従うものでなければなりません。「見よ。聞き従うことは、いけにえにまさり…」(第一サムエル記一五・二二)

2月10日

 主イエス・キリストは、「私たちのために」(ローマ五・八)、「人間の罪のため」(第一コリント一五・三)、赦しのため、あがないの為に、十字架で身代わりの死を遂げて下さいました。このことは歴史上の一大事実であります。このキリストの贖罪死をのぞいてキリスト教は存在しないのです。
 ヘブル一・三「おのれ自らによりて、私たちの罪の浄めをなし」(永井契約聖書)て下さいました。この恵みの故に今日のキリスト者があります。「キリストは神の御姿である方なのに、神のあり方を捨てられないとは考えず、ご自分を無にして、仕える者の姿をとり、人間と同じようになられました。人としての性質をもって現れ、自分を卑しくし、死にまで従い、実に十字架の死にまでも従われました。」(ピリピニ・六~八)
 その後、御子イエスは、大能者たる神の右に座しておられます。天の栄光の座についておられる生ける神の御子です。人の子として生まれ、全人類の罪の清めの業を終えて後、葬られましたが、三日目に墓から復活し、天に昇り、今は「高きところにおはす威光の右手に座し給えり」(永井契約聖書)という方でもあります。このキリストは、威光、尊厳を保っておられる方で、聖霊を注ぎ給う方でもあります(使徒二・三三)。

2月9日

 クリスチャンに与えられている希望(第二テサロニケ二・一六)は「失望に終わることがありません。」(ローマ五・五)
 第一に天に蓄えられている資産を受け継ぐようにして下さったことに対するもの(第一ぺテロ一・四、コロサイ一・五)。
 第二に体のあがなわれること、即ち栄光の体に復活する事、変えられること(ローマ八・二三、第一コリント一五・五~五四、第一テサロニケ四・一六)。
 第三に主の再臨まで生き残っているとしたら、雲の中に一挙に引き上げられ、空中で主と会うことが出来る望み(第一テサロニケ四・一七)。
 第四に永遠のいのちの望み(ヨハネ三・一六、テトス一・二、三・七)。
 第五に神の義にあずかる(ガラテヤ五・五)。
 第六に神の栄光にあずかる(ローマ五・二、八・一七、第二コリント三・一八)。
 第七に神の子とされる(ローマ八・二三)。
 第八に滅びからの解放と神の栄光の自由の中に入れること(ローマ八・二一)。
 第九に救いの完成(第一テサロニケ五・八~一〇、第一ペテロ一・五)。
 第十に先に世を去った兄弟たちと再会できる(第一テサロニケ四・一三~一八)などです。
 そしてこれらの希望は教会が共有しているものでもあります。「約束された方は真実な方ですから、私たちは動揺しないで、しっかりと希望を告白しようではありませんか。」(ヘブル一〇・二三)そしてキリストは、ご自分につく者たちが共に栄光を見るようにと、祈られました(ヨハネ一七・二四)。

2月8日

 「キリストはいつも生きていて、彼らのために、とりなしをしておられるからです。」(ヘブル七・二五)「御霊ご自身が、言いようもない深いうめきによって、私たちのためにとりなしてくださいます。」(ローマ八・二六)
 諸兄姉よ、自分を見ないで永遠の大祭司イエス・キリスト様を見ようではありませんか。
 生涯躁うつで悩んだルターは、しばしば悪魔を見てそれと戦ったと言われます。悪魔にインキ瓶を投げつけたというのは、決して作り話ではないでしょう。彼は「神の力を知るだけでは足りない。サタンの力を知らなくてはなりません。そして私たち人間は、そのサタンの力に弱いことをも知らなくてはなりません。それだからこそ、私たちは必死にキリストとその福音により頼むのです」と言っています。
 キリストは常にこうした病み、悩める人間の救いのために、御霊と共に父なる神に向かってとりなしていて下さるのです。私たちも仲介役、仲保者としての役目を今日に担っています。クリスチャンは誰でも一般大衆のために、とりなしてゆきたいものです。
 かつてのアブラハムが(創世記一八・二〇以下)、モーセが(出エジプト三二・一一以下)アモスが(アモス七・一~六)、パウロが祈ったように(ローマ一〇・一)。すなわちこの民を滅ぼさずこの民を悔い改めに導き給えと、祈っていく現代の祭司でありたいと願います。そして悪魔に勝利していきたいものであります。

2月7日

 嫁としゅうとめの関係は洋の東西を問わず、昔も今も大変難しいものがあります。しかし旧約のルツ記を一読する時に、誠に救われた思いが致します。なぜなら、そこには憎しみ、争いではなく、服従、愛の交流を見ることができるからです。
 ルツ記内のナオミの夫エリメレクも、嫁ルツの夫も相前後して両者とも死亡しました。こうしてしゅうとめナオミも嫁ルツ二人とも人生最愛の連れ合いを失い悲嘆にくれるのです。
 それで地中海沿いのモアブの地からナオミは単身ユダの地べツレヘムへ帰郷しようとします。その時、一人の嫁オルパ(彼女も夫に先立たれた)は泣きつつ別れを惜しみ去って行ったのですが、もう片方の嫁ルツは離れようとしません。どこまでもしゅうとめのナオミと行動を共にするという、心美しい女性でした。常識的に言えば相別れてそれぞれの自分の人生の選択をしてもよいのに、一人ルツはナオミと共に行くというこの決心。
 二人の息子と杖とも柱とも頼るべき夫にも先立たれた(ルツ一・五)傷心のしゅうとめと、これからも一緒にいて労苦を分かち合い、少しでもしゅうとめの助けと慰めになればといった暖かい心のもち主。まことに殺伐たる世の中における一服の清涼剤。それ以上に神の愛が分かる物語です。またボアズがルツを買い戻したことは、新約においてのキリストの贖いを表していると言えます。

2月6日

 「喜び」は御霊の実の一つです。この喜びの性質は肉的、快楽的、世俗的、本能的、感覚的な喜びというよりは、福音における喜びであります。すなわち罪を許された喜びです。
 マルコ二章の中風の男も、ヨハネ八章の姦淫の女も、使徒三章の美しの門前に座っていた乞食も、ルカ二三章の十字架上の強盗もみな罪を赦された人物達であります。その他ザアカイも盲人バルテマイも、とにかく彼らは自らの罪、咎(とが)、汚れ、不信仰の罪を赦して頂いて大喜びであります。なぜ大喜びができるのでしょうか。それは、罪赦されると自分の名前が天に記録されるからであります。これが最大の喜びです(ルカ一〇・二〇)。
 イエスご在世当時、七〇人が喜んで勝利の伝道報告をイエスにいたしました(ルカ一〇・一七以下)。すると彼は言いました。「だがしかし、悪霊どもがあなたがたに服従するからといって、喜んではなりません」と注意をうながし、続いて「ただあなたがたの名が天に書きしるされていることを喜びなさい」と。真実な福音の喜び、永遠不滅の喜び、しかも信じる者には誰にでも与えられる喜びをもってまことの喜びとするように言われました。しかめっ面や悲観的表情で毎日を送ってはなりません。パウロのように逆境の中でも讃美を歌いつつ、祈り、喜んで主の証人らしく、堂々と胸をはって進みましょう!(ピリピ四・四)キリストと共に聖霊に満たされ喜び溢れて参りましょう(ルカ一〇二一)。

2月5日

 マタイ二五・三一~四六には全ての民族を裁く主イエス・キリストが語られています。即ち、羊飼いが羊と山羊を選別するように、人の子イエスによる全ての民族の選別と王による裁きであります。けれどもその裁きと選別の基準になるのが「無償の愛の行為」であります。報いも御礼も賞讃も求めない愛は極めて美しいものです。しかしこの神の愛にも似た真実の愛をもって、自分を愛するように自分の隣人を愛する事ができるのか、どうかですが、否という場合が多いのではないでしょうか。
 私共の本来的にもっている愛は、好きな者だけを愛します。自己中心的愛なのです。嫌いな人には決して「食べる物を与え、飲ませ、宿を貸し、着る物を与え、病人を見舞い、尋ねる」事等しないのです。それができるのはどこ迄も自分と気の合った人、自分にプラスになる人だけであります。けれども、それではいけません。
 何とかキリストの愛に満たされ、ご聖霊のお助けを借りてこのエゴを克服勝利して、何人をも平等に愛せられるクリスチャンに変身させて頂かねばなりません。祈って愛の力を与えられましょう。「神はご自分の愛を地上に徹底させるために母をつくられた」と、一神学者が言いましたが、確かに母性愛は神からの賜物です。母の愛は無私の愛、打算を乗り越えた愛です。そのような愛の心が誰にも与えられたいものです。

2月4日

 主イエスの弟子になるには、必ずしも何か秀れた人間である必要はありません。この師弟関係は知識の伝受だけによって成立するものではなく、またこの事が最初に行われるものでもありません。
 主イエスは先ず、「わたしに従ってきなさい」という命令を発しておられますが、この従うという動詞は、福音書ではいつもイエス自身に対する文字通り「服従」を意味していました(マタイ八・一九~二二)。イエスに従うとは過去と絶縁することであり、特に真の弟子となるためには完全に縁を切る必要があります。イエスに従うとは、救い主である彼の生き方を真似して自分の行動を彼のそれに合わせ、彼の教えに耳を傾けることにほかなりません(マルコ八・三四~三五、一〇・二一、四二~四五、ヨハネ一二・二六)。
 ユダヤの弟子は、律法を習得し終われば師を離れて自分で教えることが出来たのですが、イエスの弟子はこれと違い、教義ではなく人格そのものに結ばれており、父母以上に深い関係をもつようになった師から離れることはできませんでした(マタイ一〇・三七、ルカ一四・二五~二六)。ですから、イエスの弟子は師と運命を共にします。すなわち、師であるイエスの十字架をにない、彼の杯を飲み、遂には彼からみ国を受けることになっているのです(マタイ一九・二八~二九、ルカ二二・二八~三〇)。けれども、広い意味で全てのクリスチャンが弟子として彼に従っていきたいものです。

2月3日

 ヨシュアの子ギデオンは敵のミデヤン人を恐れ、隠れて酒ぶねの中で小麦を打っていました(士師記六・一二)。そこにみ使いを通し神からの声がかかりました。「勇士よ。主があなたといっしょにおられる。」続いて「あなたのその力で行き、イスラエルをミデヤン人の手から救え。わたしがあなたを遣わすのではないか。」(同一四節)という召命の声、派遣命令でありました。
 しかしギデオンも、モーセ(出エジプト三・一一)やイザヤ(イザヤ六・五)、エレミヤ(エレミヤ一・六)と同じように「ああ、主よ。私にどのようにしてイスラエルを救うことができましょう。ご存じのように、私の分団はマナセのうちで最も弱く、私は父の家で一番若いのです。」(士師記六・一五)という理由を以て懸命に断るのです。これが共通した人間の普通とる態度でありましょう。私は一体何者か、私はくちびるの汚れた者、私は若い者、私は弱い者、私は口が重い者、など様々な理由をもって、できませんと告白してしまいます。
 しかし主なる神は前記のように「あなたのその力で行け」と言われます。今、私たちがもっているその力でいいのだとおっしゃる全能の神様。そして「私があなたを遣わす」とも断言されます。ということは主がこれからの全ての保証人という事でもあります。「私は、私を強くしてくださる方によって、どんなことでもできるのです。」(ピリピ四・一三)

2月2日

 主イエス・キリストは今も生きていて私たちの必要を知っていてくださいます。イエスはご在世当時五つのパンと二匹の魚の奇跡をもって五千人の人々を満腹させ給いました(ヨハネ六・四~一四)。主はこの時代もキリストに従う者、信じる者を飢えさせない、生活困窮者とはし給わない方、必要なものは供給し給う真実な方です。そのお方が自己紹介の言葉として「私がパンです」と言われました。
 日本流に言えば御飯です。御飯は主食で無くてはならないもの。故に、パンとしての役割を担っていてくださるイエスは、私たち人間にとって、ぜひぜひ存在して頂かねばならない必要なお方です。本質的には主イエスによって私どもは養われ、いのちをつないでゆくことができるからです。
 イエスはパンそのものです。主イエスは、私を食べなさい。即ち、信じなさい、受け入れなさいと呼び掛けておられます。パンをくださると共にパンそのものである主イエス様。私たちはこのお方を信じて導かれ、守られ、祝福され、そして生かされてゆきたいものです。このパンを食べて益々満腹感をもって人生豊かにされてまいります。主イエスは、神のパン、いのちのパン、生けるパンです(ヨハネ六・三三、四八、五一)。そしてこの方は、死を超えて生き抜く復活の生命、永遠のいのちを与えてくださるのです(同上六・四七、五一)。

2月1日

 「善を行うのに飽いてはいけません。失望せずにいれば、時期が来て、刈り取ることになります。」(ガラテヤ六・九)
 教会の使命は福音伝達、伝道、宣教にあります。しかしこの一事は善事であります。この善事にたずさわることに飽くなとパウロは申します。なかなか人々が救われて参りませんと、もう止めようかという誘惑に駆られるものです。でも失望せずコツコツと日本伝道に従事していくとき、必ずや主は実を刈り取らせてくださるでありましょう。ただ時期を待つ、収穫の時を待つ必要が生じるわけです。
 明治のキリシタン禁制の高札がおろされて(一八七三年=明治六年)一世紀以上が経過しました。かつての古代ローマにキリスト教が根をおろすまでに三世紀を要しました。ひたすら結果、効果だけを計算することなく、時が来れば主の約束の如く喜びの声をもって束をたずさえて帰ってくる(詩篇一二六・六)ことを確信して、ひたすら善事に励もうではありませんか。善を為すに結果を考えず、結果は主にのみお任せして、善事をなすのが私たちの義務であり、特権であり名誉であることを自覚して、これからもさらに信仰をもって前進したいものです。「私が心の望みとし、また彼らのために神に願い求めているのは、彼らの救われることです。」(ローマ一〇・一)