11月15日

 祈りは一面においては真に孤独なものです。ただひとり神のみ前に立ってなす事が多いのです。祈ることによって、初めて私共は「ひとり神のみ前に立つ」ということを学ぶのです。しかし、他方祈りは一人祈る時にも、他者を思い起こさないわけには参りません。
 パウロの手紙の中にも(第一テサロ二ケ一・二~三、ローマ九・一以下)、また旧約聖書にもアブラハムが(創世記一八・二二~三三)、モーセが(出エジプト一七・八~一三)、ネヘミヤが(ネヘミヤ一・四~一一)、アモスが(アモス七・一~六)、その他全ての神の聖徒たちは他者の為に特に信仰の仲間たちのためにも祈っていきました。こうした他者のための祈りを「とりなしの祈り」と呼びます。教会がする祈りの中で最も大切にされてきたもののひとつです。もちろん主イエス様も、ヘブル書七・二五によれば「キリストはいつも生きていて、彼らのために、とりなしをしておられ」ますし、さらに 「御霊ご自身が、言いようもない深いうめきによって、私たちのためにとりなして」(ローマ八・二六)いてくださいます。この祈りが信者各位に熱心になされている限り必ずや、日本に、地域社会に、教会内に、各個々人にリバイバルが起き、熱き愛の思いがさらに湧き上がることでしよう。教会堂に大勢集まっている時だけの祈りではなく、わたし一人のとりなしの祈りが、どれ程に重要であるかを深く認識しましょう。